6『紋章に魅入られた者』

「ぅわっぷっ!?」




「キュルッ!?」




 はては使い魔にだまされたのか。という疑念は、隣で同じように水をかぶったらしいキュルリンの声から一瞬で払拭。


 では一体、誰がこんな子供だましのいたずらを――。




「ちょっと先生! 扉の紋章の魔力切ってなかったんですか!?」




「ついうっかり、忘れていたわ」




 水をかぶって前が見えない響の耳に、ここ一週間で聞きなれた声と、初めて聞く声が入ってきた。


 目をこすり水をぬぐって正面を見る。




 廊下と同じく薄暗い部屋。本来なら教室二つ分の広さがあるはずのそこは、所狭しと並べられた長机に、積み上げられた大量の紙で狭いとすら感じられる。


 そんな本来の広さと真逆の印象を与える部屋の、他より大きく空いたスペース。小さなテーブルと、いくつかの椅子が並んだそこで、腰を浮かせて心配そうにこちらを見るのは奏。


 それともう一人。悪い目つきの下に隈のある、やせ過ぎの、黒いローブをまとった女性がいる。長い黒髪は無造作に伸ばされ、気だるげに薄められた目は半眼。発する雰囲気は陰鬱でちょうど扉の外に漏れ出していたものと同じ。”魔女”という呼び名がこれほど似合う人物を響は知らない。




 その魔女は、大儀そうにため息をついて背もたれに寄りかかると、




「……まあ、ひっかかった方が悪いってことでいいんじゃないかしら」




「よくないですよ! 私、切っておいてくださいって言ったじゃないですか!」




「別にここは私の部屋なのだし、切ろうが切るまいが私の勝手だと思うのだけれど」




「私が頼んだ時はちゃんと頷いてましたよね!?」




「気のせいね」




「事実を捻じ曲げないでください!」




 責める奏を、ローブの女性はマイペースに受け流す。


 一切反省の色が見えない女性を、奏も諦めることにしたのか、対話を打ち切ると響のもとに駆け寄って、




「あれっ、キュルリンも濡れてる!? あ、でも水の滴るキュルリン、ちょっと可愛い……。写真、写真」




「あの、先輩。状況が全く飲み込めないんですけど」




 不機嫌そうに黙りこくるキュルリンを発見して、その愛らしさを優先。懐から携帯を取り出すと連写し始める奏に、響は恨みがましい視線を投げかけた。




「えっと、ちょっと待って。こっちの角度から撮ったら……」




「先輩も大概マイペースですよね」




 ついでに色々抜けていて、スパルタで、なおかつ学園最強。文字面と違って、人としては、印象の良くない出会いを差し引いても好感が持てる部類に入るが、頭から水をかぶった、状況の一切を理解できていない弟子を放置するのはいかがなものか。




 しばらく状況の一切が見えない状態で放置されていると、奏は写真を撮ることに満足したようだ。響に向き直り手を差し出して、




火よignis




 温かな炎を生成、響にかざして濡れた制服を乾かしにかかる。




「ごめんなさいね。私が確認してなかったから」




「あの、確認って?」




「扉の紋章のこと。この部屋って、許可された人以外が入ると、水の元素が生成される仕組みになってるの。不用意に踏み込むと、今の菖蒲くんみたいになるのよ。他にも、部屋のあちこちにある紋章から刀剣が生成されて、侵入者をめった刺しにしたりするらしいわよ?」




「ここ学校ですよね?」




 明らかに過剰防衛。殺傷沙汰の罠の存在を知り、響は身を震わせずにはいられない。少なくとも、学校にある施設にそんなものを設置するのはまずいだろう。




 それはそれとしても、




「ていうか、紋章ってなんですか?」




 先ほどから繰り返されている「紋章」という単語に、響は心当たりがない。


 その質問の答えは、奏ではなく、その後ろ――ローブの女性から返ってきた。




「”紋章術”のことよ。知ってるでしょう? マイナーだとか、地味だとか、ほとんど役に立たないとかさんざん言われてる悲劇の魔術学問よ」




「ああ、紋章術……」




 それなら響も知っている。


 そもそも魔術は、魔術陣を生成し、そこに魔力を流し込むというプロセスを経て完成されるものだ。


 だが紋章術では、魔術陣を描く過程を外部で行う。魔術陣とその性質の似通ったインクを用い、何らかの物体に術式を記すのだ。


 これによって、魔術を使う際にわざわざ術式を一から組み立てる工程は省かれ、ただ魔力を注ぐことだけで魔術を使用することができるようになる。




 それだけ聞けば、マイナーで地味、役にたたないといった評価は不適切に思われるが、今はそれよりも気になることがある。




「なんで部屋にそんな危険な紋章を?」




「勝手に自分の部屋に入られるのは嫌でしょう?」




「だからってめった刺しっていうのは……」




「本当は扉の紋章も水じゃなくて槍か岩だったのだけれどね」




「…………」




 なにがそこまで殺意を掻き立てるのだろうか。


 思いとどまって水にしてくれたことに感謝しつつ、そもそも水すら仕掛けるなよという発想に至る。


 狂気を感じて押し黙る響に代わり、響など真似できないほど長時間のあいだ火を維持し続ける奏は、首だけ振り返った。




「槍か岩のままだったら、先生と私との取引もなかったことにしますけどね」




「それが困るから妥協したのだけれど。佐倉さんの提示した条件がなければ、私もわざわざ好き好んで人と接する時間を増やそうだなんて思わなかったもの」




「厭世家なのはいいですけど、もうちょっと柔らかい方が私も苦労しなくて済んだんですけどね。先生」




 奏の言葉に、ローブの女性は鼻を鳴らして答える。


 ――と、今の会話の中に、いくつか気になる単語が含まれていたことに気がついた。響は、とりあえずその中から最も優先されるべきことを選んで、




「あの、先生って……?」




 思い返せば今の会話よりも前にローブの女性がそう呼ばれていた気がする。


 口に出した問いに、奏は「あ」と小さく声を上げた。




「そういえば、紹介してなかった。一年生なら知ってるはずもないし……。ていうか、選択しなかったら知る機会自体ないわよね」




「私は授業以外にここから出ることはないもの。知ってる方がおかしいというものよ」




「なんでちょっと偉そうなんですか。確かに先生ではありますけど」




 言いつつ、奏は響に、ローブの女性を手のひらで指し示した。




「この人は長津田春花。――この魔術学園で、紋章術の講師をしている人よ」






 * * *






 紋章術は前述の通り、あらかじめ魔術陣を描いておくことで、魔力の供給だけで魔術を発動させる手段である。


 魔術において、魔力を術式に流し込むのはさほど難しい作業ではない。術の難易度にもよるが、基本的に必要な量を、一定のペースで流し込めばそれでいい。


 であれば、紋章さえ用意できれば、どんな高難易度の魔術だろうと使うことができるようになる。


 一から魔術を習う必要はなくなり、紋章の描かれたもの――例えば呪符のようなもの――を大量生産すれば、魔獣盗伐がより簡略化される。




 現在から二〇年前ではあるが、そういった理論がうたわれ、一時期だけ紋章術の研究は飛躍的に進歩した。そして進歩することにより生まれた新たな発見は、魔術研究者を紋章術に駆り立てた仮説を打ち砕いた。




 ――魔力には、人それぞれの型がある。




 紋章にいくら魔力を流し込もうと、魔力の型が紋章と同一ではない場合、魔術は発動することがないのだ。


 それが血液型のように、型の数が少ないものであれば、まだ救いはあった。だが、魔力の型は血液型というよりも指紋であった。誰一人として同一の物はなく、ゆえに、汎用性のある紋章の製造は不可能。それが結論だった。




 さらに紋章術の特性は、追い打ちをかける。


 そも、一つの紋章を描こうにも、魔力の型は多少の応用は利いても類推が利かない。自然、その魔術を扱う際に発生する魔術陣を、写真や映像に納めて視覚的に記録しておくことが必要になってくる。




 紋章を描くには、そもそもの術者本人が、その魔術を扱えなければならないのだ。


 汎用的な運用は望めなくとも、類推さえできれば自分の使えない魔術を扱える。


 そんな幻想はあっさりと砕かれ、現在では紋章術は、学ぶ意味のないものとして不遇な扱いを受けている。




「――紋章術に傾倒する人は、一人残らずこの現状を憂いているのよ」




 ここ二〇年の歴史の最後を、春花はそう締めくくった。 




 結局、七不思議のすべては完全に眉唾なものだと明らかになったプレハブの一室。




 濡れた制服を乾かし終えた響は、今は小さいテーブルを挟んで春花と向かい合っている。だが講師から漂ってくる圧力は尋常なものではない。


 不機嫌そうに細められた目は、隈との相乗効果で余計に目つきが悪く見え、黒々とした髪は陰鬱な雰囲気を増大させていた。厭世家という奏の語も、悲しいかな説得力がある。むしろ世間の方から離れていく勢いだ。




 そんな春花に、響は恐る恐る唇を震わせる。




「でも、実際に戦闘では使い物にならないって聞きますけど……」




「あ?」




「なんでもないです、すみません」




 悪いと思っていた目つきがより険しくなり、響は命の危険を感じ取って即座に前言を撤回。頭を下げた。


 その響の反応が気に食わないのか、春花はハッと鼻を鳴らして、




「あなたも、分かっていないようね。確かに戦闘で扱う恩恵は少ない。それは認めるわ。それでも役立たずってわけじゃあないの。そもそも訓練場に常設されてる魔術結界は、紋章術によるものだというのに、それを無視して勝手な意見を言う連中が多くて嫌になるわ。そうでなくても紋章術は、使い方さえ工夫すればいくらでも役に立つというのに……! 私の部屋のトラップがいい例よ。術者がその場にいないのに魔術的な防衛機能が働くのよ?」




「………は、はあ」




「それに見なさい、この美しい円を。その中に精緻されたいくつもの文字を。読み解けば分かるのだけれどね、ここには一つも無駄なんてないのよ。どれもあるべくしてある。完成された美しさが滲み出ているの。分かるでしょう?」




「すみません、紋章術ってまだ習ったことないんでよくは……」




「この美しさが分からない? 聞き捨てならないわね。いい? 例えばこの部分は魔力循環経路。魔術の型の影響を最も強く受ける部分よ。これがこの元素生成管に達すると、その術が五元素のうちどれに当てはまるのかが決定される。この場合は火ね。そしてこっちが発射を意味していて……」




「わ、分かりました! 分かりましたから! 急にそんなに言われても覚えきれませんよ!」




 紙束に埋まっていた紋章を取り出すと、それを突きつけ、ありえないほどの近距離で解説を始めた春花。


 妙齢の女性にそうされれば、もっと違う感情が沸き上がりそうなものだが、響が感じたのは恐怖だった。


 それは目つきの悪さや発する雰囲気によるものだけではない。一番の理由は狂気だ。




 長津田春花は、紋章術に魅入られている――。




 響が説明を中断させてから、手に持っていた紋章に顔を埋めているから間違いない。「フフヒ……フヒヒヒヒヒヒ……」という、恍惚とした声も漏れだしてきた。


 響の第六感が全力で告げている。




 この講師はやばい、と。

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