1『落ちこぼれ』
「保健室の住人というのは、あくまで病弱な者に対して用いる総称で、怪我の絶えない者を指し示す言葉ではないはずなのだけれどね」
扉を開けた少年の顔を見ると、養護教諭の柳川美里は皮肉げに呟いた。中性的な美貌の彼女は、セミショートの髪を撫でつけて不機嫌を隠しもしない。
それに少年はバツが悪そうに視線をそらすことで答える。
真面目そうな少年だ。黒髪が少し長めな程度で、瞳の色も髪と同じ色。ただし表情は意識的にそうしているような、わざとらしい無表情。時折痛みに顔をしかめて、足を引きずりながら部屋の中へと入った。
「今回は、どういう経緯での怪我かな? 訓練着だし、大まかには分かるけれど」
「模擬戦ですよ。足に直撃したんです」
「つまり、いつも通りということか」
少年が前の椅子に座るのを待ってから問うた美里は、自分の予想とズレのない返答にため息をついた。
「そもそも、いくら怪我が絶えないといっても、入学してから二週間で勝ち取れるようなものでもないはずだがね」
「……何の話ですか?」
「保健室の住人の話だよ。これだけ早いと何かの陰謀を疑いたくもなるが……」
「そもそもそんな呼び名、勝ち取ってません」
「ああ、確かにそうだった。キミが勝ち取ったのは、別のあだ名だ」
「そう、ですね」
別のあだ名。それは大多数にとって――もちろん少年にとっても――とても歓迎できるものではない。いわゆる蔑称だ。
しかし、少年は沈痛な思いこそにじませたものの、大きくは動揺しない。
「あえて切り込むような発言をしたつもりなのだけれど、存外動じないのだね」
「……別に。俺がそう呼ばれてるのは、俺に原因がありますから」
「だから受け入れている、と。まあ気にしすぎて精神疾患にでも罹られたらたまったものではないから、悪いことではないかな。好ましいかは置いておくにしても」
興味がなさそうに言い切ったころには、美里は少年の足を診察を終えている。白衣の袖を捲り、わずかに腫れた患部に手をかざすと、
「
詠唱。紡ぎ出された言霊が、魔力光を発する魔術陣が出現させた。生み出される光の粒子が、癒しの力をまとって浸透していく。
炎症を起こしていた部分は次第にその熱を奪われ、気がつけば元通りとなった少年の足がそこに鎮座していた。
「終わったよ」
「ありがとうございました」
「礼はいらないよ。仕事だからね。もっと体を大事にしたまえと、それだけ言っておこう。次に来た時は、さすがの私も不機嫌を禁じえない」
「……努力はしますよ」
腰を浮かせて保健室を後にしようとする少年を、美里はさらに呼び止めて、
「それと、キミは友人がいないのか?」
「はい?」
「いやなに、足を怪我したのなら、肩を貸してもらうなりして来るのが当然のはずなのにね。キミは足を引きずって一人で来た。それが気になっただけさ。より正確に言うのであれば、気に食わないわけだが」
「あの、何がですか?」
「怪我が悪化するリスクを回避しようとしないことだよ。無論、キミを放置した教師の方が罪は重いけれどね。悪化したらどうする」
「その時は先生に治してもらいますよ」
「言っておくが、私は怪我人が嫌いだ。避けられたはずの怪我をする者は特にね。肝に銘じておきたまえ」
「……はい」
答える少年の瞳は、美里を見ていない。自分のつま先を見るような角度を維持したまま、椅子から離れて扉に手をかけた。
開いて、廊下へと出る寸前。
「――あと、最後にもう一つだけ」
背中に声をかけられて、度々呼び止められることに辟易したように首だけで振り返る少年。
美里は椅子に腰掛けたまま、ジッと少年を見据え、声から皮肉げな色を消すと、
「あまり自分の中で感情を溜め込み過ぎるのも、体に毒だよ」
「っ……」
反射的に詰まらせた息は、唇を噛んで誤魔化す。
そうして無理やり、表情から動揺を消すと、少年は軽く会釈をした。
「失礼します」
保健室の扉が乱暴に閉められ、その反動で跳ねた扉はしっかりとは閉まらない。だが少年はその事に気がつく様子もなく、廊下を足早に歩く音が響いた。
聞き届ける白衣の麗人は心底面倒臭そうに息を吐く。
「扉くらい、ちゃんと閉めて行ってもらいたいものだね」
大儀そうに立ち上がり、美里は扉を閉めた。
* * *
第一訓練場。
東京魔術学園の敷地内にある、そのオンボロの体育館は、第二、第三と同様に、生徒の自主学習にと放課後は開放される。
だが、築五〇年という古さゆえか、陰になっていて寒いという要因も手伝って、第一訓練場は人気がない。放課後にまで実技の訓練を行おうとする魔術学園学生は第二、第三へと流れ込む。
だから、誰にも見られず一人で訓練するには、これ以上ない条件が揃っていた。
「――
目を閉じ意識を右手に集中。組み上げる魔術の具体的な完成形を思い描き、掌に術式を完成させる。それと並行して体内の魔力を活性化。流れを促進化した一部を抽出し、掌に集中させる。そのまま放出するのではなく、あらかじめ完成させておいた術式を破壊しないよう流し込んだ。
魔術を行使する工程を、平均の二倍の時間をかけて行った丁寧な運用。にもかかわらず、魔術陣から生み出された火は、ほんの一瞬だけしか存在してくれない。
ほんのわずかに周囲を照らし出すと、弱々しく揺らめいて、込める魔力とは裏腹にしぼんで消えた。
「くそ……」
呟いた黒髪の少年――菖蒲あやめ響は、保健室で見せていた落ち着いた様子を取り払って、憤りもあらわに眉をしかめていた。
陽も傾き始めた放課後。
電灯を点けるには早く、かといって電灯なしでは薄暗い、そんな中途半端な明るさの第一訓練場で、響は保健室を訪れた頃と変わらない訓練着のまま立っている。
不本意そうに細められた瞳は、前へ突き出すようにかざされた自身の右腕へ。その手を白くなるほどに強く握りしめ、響は歯ぎしりした。
一〇年前の大災害で、魔術師の、魔獣の恐怖から人々を護るその背中に憧れて。決して屈することのない立ち姿に憧れて。
そうして響が、猛勉強の末、かねてから希望していた東京魔術学園に進学することが決まったのは中学三年の冬。
春休み、期待に胸をふくらませる日々は、もどかしいほどに遅かった。
だから二カ月前、学園の制服を着て初めて正門をくぐった時の感慨は忘れられない。
――これから、魔術師になるための勉強が始まる。
――夢へと近づいて行く。
――そして、ついには叶えてみせる。
そう誓い、期待と決意を胸に響の新生活は幕を開け。
入学から二カ月で現実を知った。
己の無才という現実を。
「くそ……っ」
再びかざした掌に、集めた魔力は結果を出さない。想定以上の火力でもって高い火柱を上げると、先と同じように、次の瞬間には消えてしまう。
初歩中の初歩である元素の生成すらままならない。
入学から二カ月といえども、響の心に焦りの影を落とすには充分すぎる進歩のなさだ。事実、始めは同レベルだったクラスメイトも、今ははるか前方。スタート地点には響だけが取り残されている。
そんな体たらくだったからだろう。
”落ちこぼれ”という呼び名――蔑称を勝ち取るのに、そう長い時間はかからなかった。
そして周囲の響に対する視線が厳しくなったのも、”落ちこぼれ”と呼ばれ始めた頃からだ。
蔑称は瞬く間に広まり、誰もが響を見下して馬鹿にした。
その呼び名で公然と呼ばれることは不快だ。
嘲笑の瞳で見下されることは苦痛だ。
無才を馬鹿にされることにはたまらなく悔しい。
そんな現状を打開するための努力は惜しんでいない。
毎日放課後になると響はここに来て、疲労で足元がおぼつかなくなるまで鍛錬を続けた。
何度も何度も繰り返し同じことを練習して、辛いと感じてもやめるという選択肢はなかった。
そうしてまさに今も、続けている。
それなのに――。
「なんで……」
三度目の魔術行使も、あっけなく失敗する。ライターの火よりもなお小さい光が、魔術陣から出現しただけ。もはや、消えてしまったことにも最初は気がつかない。
人の何倍も努力しているのに、その実力はほとんど伸びない。
まったく伸びていないわけではない。だが、周りと比べてしまえば足取りは遅々たるものだった。
明らかに他より劣っていて。ますます”落ちこぼれ”という蔑称が自分にふさわしいものだと実感してしまう。まったく進まないのではなく、ほんの少しずつだけ進めてしまうからこそ、余計にみじめだ。
それだけでなく、もしかしたらと。
――自分は夢にまで出てくるほど憧れた魔術師に、なることはできないのかもしれない。
「……っ!」
不意に沸き起こった嫌な考えを、かぶりを振って脇に追いやると、響は今度こそと意気込んで、魔力を注ぐ。
悔しかった。
初めての模擬戦で、響をあっさりと下し高笑いする対戦相手。明らかに自分の方が努力しているのに、結果を出すのはいつも他の誰か。
悔しかった。
熱心に質問し、少しでも差を縮めようと苦心する響を、親切に教え導くふりをしながら瞳から嘲りの色が消えない講師。
悔しかった。
そんな自分の努力が知られれば、努力してその程度と蔑み嗤うクラスメイト。挙句には、努力しても無駄だと、諦めることを強要してくる。
たった二カ月の間に、響はこれでもかというほどに努力をして、それらすべては無に帰した。
誰一人として同情する者はいない。誰一人として認めてくれる者がいない。存在そのものを否定されるような苦痛に、どうして耐えられるというのか。
悔しかった。悔しかった。悔しくてたまらなかった。
――そして、そこまでしてもどうにもならない自分自身が、ひどく情けなかった。
四度目の魔術行使は、今日行ったものの中でも最悪だった。
今度は火すら生成することはかなわず、途中で途切れた魔術陣が余分に魔力を吸い上げる。
幸い暴発まではしなかったものの、ただ魔力を失っただけの結果は、失敗の中でも最大級のものだ。
「なんで――っ!」
どうして自分だけできないのか。
目尻に涙をにじませ、響はやり場のない感情を吐き捨てる。
しかしその慟哭は、木造のオンボロ訓練場に空しく響くだけだ。
拳を握り締めようと、歯を食いしばろうと、誰も。響の言葉に答えるものなど、誰一人としているわけがない。
それが分かっているから、響は自分の気持ちを必死に鎮めようとし、
「――集中が切れてるから、かしらね」
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