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当時の盛り上がりは、それはそれは異常なものだったと聞く。彼女の歌声が刻まれた音盤は飛ぶように売れ、店頭に並べば数分と待たず人波に攫われてしまった。何時間も並んで買えなかったファン達が、店の前で泣き崩れる映像はあまりに衝撃的で、昭和の名シーンを謳った映像集では必ず取り上げられる一幕だ。また彼女の髪型は世の女性の憧れとなり、ヘアーサロンや美容室、さらには床屋にまで新聞の切り抜きを持って押しかける女性たちが現れるようになった。この髪型はのちに「ワンレグ」という言葉に集約されることになるのだが、大挙を成して店に押し寄せる女性たちの対応に追われた理容業界は「ワンレグお断り」の貼り紙をするまで追い込まれた。
しかし、華々しい青春を謳歌した彼女も晩年には、自らが代表を務めるNPO法人と政府官僚との汚職が発覚し、法人は無期限解散、本人に直接の関与はないとして保釈されたが、芸能界引退は免れず晩節を汚すこととなった。
それから五年後、彼女は咽喉がんを患い、闘病生活も虚しく帰らぬ人となった。
その清須みどりに今から会いに行く。
「本当に着いていかなくていいんだな」
加藤が私の震える背中にそう訊ねる。
「ええ。大丈夫です」
「清須みどりは一筋縄じゃいかないぞ。死んで十年以上にもなんのに、まだこの世に化けて出てきてるくらいだ」
「それでも、この場所に手掛かりはあるはずです」
「ここに浪川美織がいる、と?」
私は『浪川』と彫られた木製の表札の前に震える足を両手で押さえる。
「いるかどうかは分かりません。でも、初めに来る場所ならここだと思ったんです。彼女と彼女に初めて会ったこの場所に」
私は奥歯を噛み締める。
実を言えば、清須みどりの霊を視たのはラジオ局が初めてではない。私は以前にも彼女の姿をこの目で捉えていた(と、今ならそう思える)。彼女と初めて顔を合わせたこの浪川宅で、私はふと障子の間から金色の仏壇を見た。その時はこの家のお手伝いさんに戸を閉められ、はっきりと見えなかったが、確かに生と死の変化に気づいていない清須みどりの姿を見た。
何かの見間違いかと思った。事前に仕入れた情報で、彼女があの名歌手の孫にあたる人物だということは知っていた。ふと彼女が亡くなったのは虚報で本当はこうして静かに余生を楽しんでいるのではないかという考えもよぎった。しかし、それは仏壇の遺影を見て馬鹿げた考えだということに気づいた。
だが、私は彼女を深く突き止めようとしなかった。浪川美織というじゃじゃ馬を抱えて、私は日々の仕事に忙殺された。亡くなった者に固執する時間はなかった。今は目の前の原石を輝かせることが自分の責務だと、そんなまやかしのことなどは記憶の端に
「そうか、ならさっさと行ってこいよ。俺はその辺にいるから何かあれば連絡してこい」
「…行ってきます」
私はその料亭のような石畳を歩いていき、内門までゆっくりと足を進める。
インターホンをぐっと押し込む。リンゴーン、というベルの音が響くと足音が近寄ってくる。この反応の速さはこの家のお手伝いさんだろうか、ゆっくりとした規則的な足取り。すぐ近くまで迫って、いま正に門を開けようとしたところに―――。
「アンタ、私に用事があるんだろ」
横脇の庭からその女性は姿を現した。鷹を思わせる鋭い目つきに、うなじに沿って短く纏められた白髪はワシを想起させる。老いた人間とは思えないすらりとした体つき、その躯体の曲線にフィットした小ぶりな顔、芸能人の気品をまとったその女性は間違いなく、「清須みどり」だった。
「こっち来な」
門を開けてくれたお手伝いさんがキョロキョロと周囲を確認する姿を後ろ目に、私は彼女に手を引っ張られていく。
彼女が連れてきてくれたのは、石製の灯篭と木製の小橋がこけた池の水面に映える、つつましくも美しい日本庭園だった。錦鯉がぽちゃんと跳ねると、波紋がゆらゆらと広がり、静寂が二人を包み込む。
「あ、あの―――」
「そこ、座りな」
清須みどりは縁側に腰を下ろすと、指先で促す。
「も、申し遅れました!私、光陵プロダクションの―――」
「知ってるよ。孫がお世話になってるね」
心臓が跳ねる。
孫、とは浪川美織のことだ。彼女が何を知っているか分からないが、すでにこの世にいない人間をお世話しているなんて言われて、気分がいいはずもない。
「は、はい…」
「どうだい、あの子は逸品だろう」
「その、そうですね…」
「あの子には私の血が流れてる。芸能に生きる人間としての血筋がね」
「おっしゃる通りです」
「だけど、それを生かすも殺すもアンタ次第だよ」
思わず肩が動く。
彼女は知らない。浪川美織が死んでしまったことに。それはそうだ。彼女が亡くなったのはつい先刻のことで、もちろん知る由もない。霊間コミュニケーションなどという非科学的なものがあるのかどうか加藤に聞いておけば良かったと思うが、彼女の反応を見る限りその辺りは私たちの実世界と同じと考えていいようだ。
「――――――」
彼女の鷹目が私を睨んでいた。
彼女は本当に知らないのか?私を試しているんじゃないか?そう考えれば不審な点はある。先ほど門前で「私に会いに来たんだろ」と彼女は言った。なぜ私がここに来た理由が彼女に分かった?なぜ亡者の自分を訪れる者がいると思った?なぜ亡者の自分と話せる人間だと分かった?
「アンタ――――――」
「は、はい…!」
「私のファンだね?」
「……はい?」
「たまにいるんだよ。自分の生まれてなかった時代の歌手に惚れる人間ってやつがさ、アンタもそうなんだろ。見ず知らずのノスタルジーに恋しちまってんだい、そうなんだろ。そんなに汗ぐっちょりにして……、緊張するのも分かるけどね。アンタはいまあの清須みどりの前にいるんだから」
清須みどりは冷笑する。私の額の冷汗にその顔が映る。
彼女の壮大な勘違いはさておき、この人は間違いなく美織の祖母だ。私はふと彼女に美織を重ねていた。
「アンタ前に来た時、私を戸の隙間から見たろ。仕事柄、人の熱視線には敏感なのさ」
「そ、そうだったんですか…」
「それからラジオ局…、あの時は私も散歩中でね。何か私に気づいた様子だったからね、少し気分は悪かったよ。夜な夜な夢枕にでも出てやろうかとも考えたけど、生憎アンタの頭上で毎夜ナイトショーをしてやる義理はないからね」
「すみません…」
「それにしても、死んだ私に会いに来るなんて酔狂な野郎じゃないかい」
寂しい口調。その一瞬だけ彼女が、ただの老婆に見えた。
「ご自分が既に亡くなっていることは、ご承知なんですね」
「当たり前だろう。あんな立派な仏壇まで繕ってもらって、…これは秘密だがね、皇居の隣に私のお墓だって立ってる。ここまでされて、『死』を自覚しない人間はいないさ」
「癌でお亡くなりになったんですよね」
「そうさ、誰も来ない病床で一人。闘病生活も初めのうちは、身内や芸能の関係者が毎日のように押し寄せてた。ファンからの手紙も病室から溢れた。でもね、病状が悪化して手の施しようがないと知るや否やみいんな離れていった。私でもう一度一儲けしようと考えていた制作会社や出版社、それから遺言を残せば今度は身内がね―――――」
病に伏せ、寝込む彼女。朽ちた巨像から骨の髄までしゃぶり尽くすように、獣や虫が付いては一斉に離れていく、そんな光景を思わせる。
「でも、あの子だけは違ったんだよ」
「あの子?」
「美織さ」
清須みどりは庭池の錦鯉をぼうっと眺める。
「美織はね、私の黄金期なんて何も知らない。きっと私の映像なんて一つも見たことがなかったんだろうね、私を一つも特別扱いしなかった。あの子の前だけ、私は普通のおばあちゃんになれたのさ。でも私が亡くなる前、夥しい数の関係者が押し寄せて『清須みどり』の存在に気づいちまったのさ、それから私の魅力に憑りつかれちまったように昔の映像や自著を漁って私に近づこうとした。それは異常なものだったね、毎日のように病床に通い詰めて私から芸能人の素養を得ようとしてた」
佐伯は生唾を飲み込む。美織の芸能人に対する執着の源泉はここだったのか。
「でも、あの子はね、私にとって生前最後の熱狂的なファンだった。だからこの子に私の全てを託そうと思ったんだ。私が死んでも『清須みどり』はここにいる、と世間に知らしめたかったんだね。でもあの子は賢い子だ。そんな私の我儘なんてお見通しで、結局は私をオマージュしながら自分の道を確立していったのさ。だからこそ、あの子が気に入った。最後に、私の夢を聞いてもらえないかと言ってしまったのさ」
「言ってしまった?」
視線を落とす清須みどり。
「ああ、それがあの子を今も縛り続けてる。私も罪なことをしてしまったと、今でも悔やんでるよ」
「もしかして清須さんが今もこうして現世にいるのは…」
「そうさ。私は愛孫が心配で仕方ないのさ」
彼女は溜息をつく。それを餌と勘違いするように、錦鯉が水面でパクパクと口を開ける。
「その彼女を縛るあなたの夢とは、何なんですか?」
「そんなこと聞いてどうするんだい。アンタもあの子とその夢を追っかけるのかい?タレントの我儘に一介のマネージャーが奔走するのかい、泣かせてくれるじゃないか……でも、やめときな」
「どうしてです?私は彼女のために尽力してきました、それはきっとこれからもです!」
私は彼女が亡き人間だということ一瞬忘れて口走る。
「アンタ…、旦那を見てるみたいだね。私の旦那もそうやって私に着いてきた、でもねあの人も禍根を残してこの世を去ったのさ。同じ道を辿ることになるよ」
「それでも!私が彼女の為にやってきた全てを無駄にはさせません!最後まで、この世界で夢を見させてあげたいんです。それが彼女の傍らに立つ私の役目なんです!」
清須みどりは長い溜息をついた。
彼女の足跡を辿るためにも、その『夢』が確かな手掛かりになると直感した。彼女の口からそれを聞くまでは引き下がれない。握りしめた拳がぎりぎりと音を立てる。
「アンタは本当に美織のマネージャーなんだね」
立ち上がる清須みどり。その足取りは重く、しかし一歩一歩とある場所へと向かう。それは一本松の足元。雑草の生い茂るその場所に膝を曲げて腰を下ろす。
「この植物の名前を知ってるかい」
私もその後を追って、目をしかめる。
「すみません。植物には明るくないもので」
「これはね、『ドクダミ』って言うのさ」
「『ドクダミ』?」
「古くから漢方として使われている植物でね、匂いは独特だがお茶にすると美容にいいなんて言われてる。生薬としても重宝されて、
確かにその『雑草』は頼りなくしなった茎に、絵にかいたような葉っぱが付いていて、こんな風に屈んでみなければ、きっと一度も目に留めることはなかっただろう。
「そんな誰も知らない植物を題材に描いた映画『ドクダミを摘んで』―――――、もちろんアンタも名前くらいは知ってるだろう」
当たり前だ。映画通でない私でも知っている。日本が世界に誇る奇才、荒橋幸道監督の『ドクダミを摘んで』は日本映画の起源にして頂点に立つ名作だ。まだ『映画』という言葉も確立していなかった時分、トーマス・エジソンによって発明されたキネトスコープを用いて日本初の映画を撮ったのがこの作品だ。
「見たことは?」
「お恥ずかしながらオリジナルは…」
旬の役者を使ったリメイク版なら何度か見たことがある。
しかし、白黒の原版は見たことがない。リメイク版は脚色が濃く、実際の内容とはかけ離れていると同僚の映画通に聞いたことがある。
「そうさね…、もう百年も前の作品だからね。原版を見たことのある人の方が少ないだろうね」
「ですが、今も色褪せない名作だと思います」
私は作品のあらすじを自分の微かな記憶から紐解いていく。
ある農村に、父を兵役で亡くした母娘がいた。幼い娘を育てようと、母は必死に働いた。しかし、元々虚弱体質だった母は程なくして病に倒れる。日に日に病状が悪化する母に村の医者もすっかり諦めていた。母は自分では娘を養っていけぬと娘の引き取り手を探し始める。幸運にも身内の紹介で地元に根を張る豪農の家に引き取ってもらうことになった。母を一人茅葺屋根の家に置いて娘は裕福な暮らしを始めた。
日を追って血の気が無くなっていく母のもとに、ある日娘が姿を現す。娘は今にも泣きそうな顔で「このドクダミを食べてください」と、薬用にすりつぶしたドクダミを彼女に差し出した。娘が去った後、母はそのすりつぶしたドクダミをしばらく見つめ、それを食すのを躊躇う。なぜなら彼女の耳には「ドクダミ」ではなく「
数日後、母は衰弱死する。娘は母を生かしたいと薬を渡し、母は娘に殺されると毒を飲んだ。だが、「ドクダミ」は薬にも毒にもならなかった。
そんな救われない話だ。
「しかし、その『ドクダミを摘んで』とあなたの夢とどう関係が?」
「あの作品にインスパイアされたドキュメントドラマがあるだろう?むしろ、私たちにとってはあっちの番組の方がよく知られてるだろう」
そうだ。『ドクダミ』と聞いて私たちが真っ先に思い浮かべるのは悲しいかな、原版の『ドクダミを摘んで』ではなく、同名のドキュメント番組だ。生前の他愛ない思い違いで悲劇の幕を閉じた著名人を取り上げる、この国で知らない人はいない有名な番組である。毎年年末に一度放送されるこの番組は、年を越す我々に来年も力強く生きようと活力を与えてくれる。
「私はね、あの番組に出演したかったんだよ」
出演?その言葉には違和感がある。
あの番組は全カットVTRで、ずっとナレーションが入っているだけだ。
「その、出演って」
「なんだい、分かるだろ?その番組で私を取り上げて欲しかったんだ。あの番組で語られる著名人は名を聞いて震えあがる人物ばかりだ。私もそこに名前を刻みたかったのさ」
「ですがあの番組で取り上げられている人物はみな故人で―――」
「だから私は悲劇的な死を迎えたかった」
「そんな……。そ、それでは、あなたはそのために病に…」
「アンタねえ、バカ言ってんじゃないよ。みずから病んでたまるかい、お生憎様、私の体はそう脆くないんでね。誰に煙たがられても意地でも生ききってやったんだよ」
「……」
「私はね、失敗したんだよ。どおこにでもいる婆さんと同じく、病魔に負けちまったのさ。誰からも相手にされなくなって、失意のうちに―――よくある話さね。だから、私の意思を継いでほしいと思ってしまったのかも知れないね」
清須みどりはドクダミの葉を一枚ちぎると、それを池の水面に向かって投げた。クルクルと回転する葉、ゆっくりと回るそれを見ていると時間の流れも遅くなったように感じる。
「あの子は、こんな衰弱した老婆の最後の夢を叶えたいと芸能界に入ったんだね。自分自身が清須みどりとなって、この世で悲劇的な結末を閉じるために―――」
鳥肌が立った。もしかして彼女は望んで、あのような死に方を選んだのではないか。よりドラマティックに映るように、悲劇的な自決を選んだというのか。いや、それはありえない。彼女の首がなくなっていたのは、彼女自身の力でどうにかできる問題ではない。誰かがやったことには間違いない。いや、誰かにやらせたんだ。花弁をもがれた哀れな花を演出するために。そうだ、協力者がいたんだ。その時、彼女の夢を叶えようと、もう一人の人物が彼女の首をとったんだ。
あの部屋にいて、彼女の夢を叶えたいと望んで、彼女の為に尽力できる人物が。なんだよ。オマエダ。こんな時に。オマエガヤッタンダ。変なことを。オマエガヤッタンダ。違うんだよ。オマエダ。私じゃない。オマエダ―――。
―――佐伯、私、辞めるから。
―――はあい?なにを言ってるんでう?
―――酔っ払ったあなたに今こんなことを言うのは卑怯かもしれないけど、私は今日を以て芸能界を引退する。
―――えいやいや、どうしたんです?あなたの成功は約束されたも同然なんですよ?明日から昼の帯番組の生出演も決まっています。あの番組ですよ?正直、これはもう売れたと言っていいでしょう!
―――今回みたいなやり方で売れていくというなら、全く御免だわ。
―――でも、売れっ子にしてほしいと言ったのはあなたでしょう。
―――それでも、私は辞める。今回のことがなくても辞めるつもりでいたの。
―――あなたの憧れる芸能人に近づけるんですよ?本物の!芸能人に!
―――辞める。
―――こ……めが。
―――何?
―――この小娘があっっ!!!お前みたいな脳のない人間に!厳しい芸能界を歩いて行けると思ったんですか!ちょっと現実が違うくらいで、へこたれやがって!芸能界なめんな!地面這いずってでも、首根っこ掴まれても起き上がるくらいじゃないと生きていけないんだよ!
―――佐伯、酔っ払い過ぎよ。
―――そうやって、いつも飄々としてればいいと思ってんだろ!誰かが場を諫めてくれると思ってんだろ。ふざけんな!その役を誰が買ってると思ってるんだ!私だよ、私なんだよ!いつも振り回されて振り回されて振り回されて……、その結果が引退だあ?お遊びも大概にしてくれ!
―――お遊びじゃないわ。
―――お遊び気分だから、軽々しく引退なんて口にできるんですよ!
―――違う。私は命を賭して芸能界を引退するの。これ見て。
―――ああ?あ、それ、ノコギリ……、どこからそんなものを……。
―――持ってきてたのよ、あのキャリーに入れて。
―――それをどうするつもり…。
―――どうって。こんなに切れ味のいい刃を、人に向ける以外使い道がないでしょう。数時間後、ここには死体が転がる。芸能界の酸いも甘いも知った人間の、この世に未練を残した人間の、感情のすれ違いから自ら毒を飲む人間の、悲劇的な死を迎えた姿を人々に届けるの。この体にはきっと様々な歴史が詰まっているんでしょうね。
―――待ってください!その手を止めてください。何をしてるんです?
―――さあ、ね。私はただ夢を叶えたいだけよ。
―――夢?それがあなたの夢ですか?芸能界で売れるためじゃないんですか?ファッションブランドを立ち上げたいんじゃないですか?
―――あなたは結局、私たちの内面を見てないのよ。
―――私の至らない部分は直します。今すぐ、その、首筋に当てた刃を…、その手を放してください。
―――何で?あなたは私の夢を応援してくれるんでしょ?叶えてくれるんでしょ?あなたの言う通り、脳のない人間だからこうしてるんじゃない。
―――そんなの、あなたらしくない。それはあなたのようなハレの舞台に立つ人間がやっていい事ではないんですよ。
―――じゃあ、佐伯がやってくれる?
私ははっきりと思い出した。あの夜、彼女と話したことを。
美織は一泊二日にしては大きすぎるキャリーを持っていた。それは温泉街で療養するためだと思っていた。しかし、実際には違った。彼女はその中に、凶器を隠し持っていたのだ。「引退する」と言われて頭に血の上った私に、正常な判断ができるはずもなかった。彼女の狙いはそこだったのかもしれない。私は不意に刃に映った自分の狂った顔にたじろいでしまって、それから、それから彼女に言われるがままになっていた。
じゃあ、佐伯がやってくれる?
私はそのあと彼女の首に手を―――――掛けたのか。
あの夜の会話、その全てを思い出した。
「…あ、ああ、ああああ」
壊れたロボットのように口が閉まらない。
清須みどりはそんな私を見て、悲しそうな表情をした。
「アンタ、本当は私のファンじゃないんだろう?分かるよ、さっきはね、ちょっとからかってみたかったのさ。本当は、本……当は……」
水面に映らない自分の影を映す清須みどり。
「本当は、美織に何かあったんだろう……」
すっと瞳を閉じると、涙が流れているように見える。
「あの子はね、いつも一生懸命なんだ。夢に向かって精一杯走ってたんだ。
佐伯さん、どうか許しておくれ……」
彼女は佐伯の影をじっと見つめて、それからグッと目頭を押さえた。
それから嗚咽交じりに、こう言った。
「あの子は何かあると決まって行く場所があるのさ。今はもう引退した古い電波塔だがね、赤上の局スタジオの近くにある。あの子はきっとそこに、いるよ」
一陣の荒涼とした風が吹くと、ドクダミの葉が揺れる。
葉音に隠れて、彼女の姿も消えた。
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