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なぜ私はこんなところに
花弁の無くなってしまった花を前に私はがっくりと膝を落とす。状況がさっぱり分からない。記憶を辿れど辿れど見えるのは今この両眼が捉える景色だけだ。自分の手が鮮血に染まっている。眩暈を起こしそうなほど真っ赤なその色は、これが現実ではないとかぶりを振る私に現実を突きつける。横たわっている花に生気はない。体内を巡っていた血潮が溢れ出し、すっかりくたくたになってしまっている。根から茎からあらゆる生が取り除かれ、象徴である花弁に至っては無残にちぎり取られている。
もう一度思い出してみよう。なぜ私がこんな現場に立ち会っているのか。シングルベッドに、小さい画面のテレビ、膝下ほどの丈の冷蔵庫……、ここはどうやらホテルの一室らしい。サッシ付の窓はしっかりと密閉されており、反対側に位置する木目調の玄関ドアにも鍵が掛かっているのが分かる。誰がどう見ても明らかな密室、そしてこの室内にいるのは私こと人間と、正体不明の遺体こと元人間だ。この一片を切り出した小説、映画、アニメ、ミュージカル、どれにおいても私はこの人間を殺した愚者に映るだろう。
私は殺人など犯していない、そう断言をしたいができない。この一室に入る前後の記憶が全く飛んでいるからだ。私が殺してしまったのかもしれないし、そうでないかもしれない。そしてこの遺体が誰なのかも分からなければ、既に分かっているのかもしれない。この状況を説明できるはずの、生きているはずの私に説明が付かないのだ。どうしようもない。
ただ一つ、記憶がなくても分かることがある。
この首のない彼女は間違いなく亡くなっているということだ。
「うっ、くっ……」
瞳に涙を滲ませながら、声を吐き出す。不安と緊張で圧縮されぺしゃんこになった肺に空気が入る。肺がきしむ。痛い。しばらく活動を忘れていたらしい体内の呼吸器がぎこちなく動き始めた。
声にならない声ではあったが、ようやく酸素の回り始めた頭で事態の収拾にかかる。
まずは
夜明けの朝日が差し込む室内で、昨夜までの出来事を必死に追憶する。
アズサと美織が出演したチャリティーイベントは無事に終わり、番組一日目の見どころは大盛況に終わった。この日、最も視聴者の関心を寄せたのは佐々木智乃を始めとする大物タレントでもなければ、今を時めく売れっ子タレントでもない。光陵プロダクションのバーター枠として呼ばれた、浪川美織だった。彼女が罰ゲームとしてロウをかぶったシーンは番組最高の瞬間視聴率を叩き出し、ネット上では
しかし、それが「賛」であるか「否」であるかは関係ない。名前を売りたいタレントにとって自分が多くの人間の関心の的になるという結果さえすれば、過程は大きな要因ではない。現にその日の夜は彼女へのオファーが絶えず、向こう数か月は休む間もなくなった。
彼女はこれで売れっ子の一人となったのだ。
売れっ子にしてほしい、という彼女の願いを私は叶えた。彼女がどのような過程を思い描いていたかは分からないが、自分の憧れで生きていけるほど芸能界は甘くない。芸能界だけじゃない、知識も実力もない若者が社会に出て自分の夢を叶えるなんてそんな甘い話はない。だから私がその一助となった。これがその結果だ。
「……」
ふとテレビ台に目を遣る。ビールの空き缶が無造作に置かれていた。この部屋の主のものだろうか、いや、あれは私が飲んだものだ。私の好きな銘柄、そしてプルタブがなくなっている。私はいつも飲み終わった後、空き缶のプルタブを折る癖がある。確かにあれは私が飲んだものだ。
一日目の収録が終わった後、ドームの近くにあるホテルに泊まった。二日目の収録に向けてアズサと美織の三人でミーティングをし、その後、番組の関係者らと飲みに出掛けた。明けた二日目の収録も無事に終わり、25時間に及ぶ特大番組は終幕を迎えた。それから都内の本会場で番組完走の打ち上げがあるというので、私たち三人は都内に戻ろうと準備を始めた―――その時だった。
―――もう一泊する。
美織の一言だった。それまで収録時以外は重く口を閉ざしていた彼女が口をついた一言だった。聞けばこの土地に来るのは初めてで、有名な温泉街のあるこの場所で療養したいのだと言う。一泊二日にしては大きいキャリーバッグを持ってきていたので、初めからそのつもりだったのかもしれない。また明日から忙しくなることを考えれば、彼女の望みももっともだと二つ返事で承諾した。
———佐伯も来て。
彼女は続けて私にそう言った。いくらマネージャーとは言え、タレントのプライベートに立ち入ることはできない。私は彼女の真意が読み取れず、怪訝な表情をした。彼女は一言「いいから」と鋭い目で睨みを利かせた。アズサは少し不安そうな顔をしていたが、私は静かに頷き、彼女を事務所の運転手さんに任せ都内まで送ってもらった。
もう一泊する旨をフロントに伝え、温泉街へとタクシーで向かう。400年続くという旅館の名湯に入れてもらい、そのまま温泉街を練り歩いて地元の名産品に舌鼓を打った。その時、火照った体にお酒を入れてしまったせいだろう。それから……、それから、どうしたのだろう。非常に記憶が曖昧になっている。
ただその酩酊の記憶の中にも薄らと覚えていることがある。
ホテルらしい一室で美織と二人で話を交わした記憶だ。
その一室はきっとここなのだろう。
前日に泊まった部屋から変わっていないので部屋番号は1314———私は卓上の鍵に彫られた番号を確認する。
「1314……」
間違いない。この部屋は美織の部屋だ。
つまり、この首なしの遺体は―――――。
「……うくっ、ぐふっ……うっ、……はあ、はあ」
胃液が込み上げる。動悸が激しくなり、息切れする。とっさに洗面所へと向かい、その勢いで蛇口をひねる。私は激しくせき込み、流水に頭を突っ込む。手で顔を洗うと、水が赤く染まった。とにかく全てを洗い流したいと私は数分そのまま顔を両の手で擦り続けた。
あの遺体が若い女性のものであることはすぐに分かった。
そして私の傍らにいる若い女性など限られていることも分かっていた。
そこまで分かっていて……いや、そこまで分かっていたからこそ、回り道をして確かめたかった。
あの花弁の無くなった花は、首の無くなった彼女は……浪川美織だ。
*
「……出ねえな」
「どうしたの?カトさん」
「いや、佐伯のやつが電話に出なくてな。あいつ…もしかして、まだ寝てんのか?」
「今日だって仕事って言ってたじゃない、あの人に限ってそんなことないでしょ」
「それもそうだが、昨日はあの後も飲んでたみたいだからな……ちと心配はするな」
「あら、珍しい」
加藤は携帯電話をポケットに戻す。智乃はタクシーの運転手にキャリーケースを渡し、後部座席に座る。加藤もそれに続いてその大きな体を屈めながらタクシーに入り込む。
「俺らと飲んでた時でもかなりの量飲んでたろ、あいつ」
「そうね」
昨夜、加藤と智乃は収録が終わった後、その足でそのまま温泉街へと向かっていた。佐々木智乃は業界でも有名な温泉通で、その手の仕事も少なくない。何度も足を運んでいる場所ではあるが、仕事で来ることが多いため、たまにはゆっくり羽を休めたかった。そこでいつも厚意にしてくれる加藤を誘って、束の間の療養を楽しむ…はずだった。
奇遇にも同じく温泉街を巡るタレントとマネージャーに出会ってしまったのだ。それは智乃にとって一番顔を合わせたくない相手―――浪川美織と、そのマネージャーの佐伯だった。
それから加藤と佐伯が半ば強引にせっかくなら四人で飲もう、と近くの居酒屋へと智乃と美織を連れ立った。
「これから忙しくなるのが余程嬉しかったんだろうな」
「そうね」
智乃は短く言い突っぱねる。
「なんだお前、悔しいのか?」
「く、悔しいなんて言ってないじゃない」
「顔が言ってんだよ」
「あの、カトさん……」
「そりゃアイツにロウを被せたのはお前みたいなもんだしな。司会のお前ならあの場で別の芸人に被らせることもできた、でも、それはしなかった」
「……」
「本気でアイツを陥れてやろうとしたんだろ。まさかこんな結果になるとも思わなかったろうが……、でもいいんじゃねえの、結果的に場を盛り上げることはできたし。MCとしては満点の働きだろ」
「そうかしら」
「ああ、あの場で一番いい立ち回りをしてたのはお前だ。少なくとも浪川美織ではなかったぞ」
「そう…」
智乃は口角を上げる。
「……導火線に火は付いたのかしら」
加藤は智乃の不気味な笑顔に溜息をつく。
「やめろ、その笑い方。若い時から治ってねえな、ホント」
「なに?でも、そうでしょ。もう上がってしまったのよ、花火は」
「……まだ分かんねえだろ。明奈の例もある」
「あれは上がる前に火種を取り上げられたからでしょ。次も同じようなことがあれば、『花火師』はどうするんでしょうね」
「お前って本当に性格悪いな」
しかし、智乃の言うことはいつも間違っていない。間違えようとしないところに彼女の芸能人としての強さと、人間としての弱さがある。ただそれも常人としての範囲の中に入る。
その人間らしい強さも弱さも、常人の範囲を越えてしまうのが佐伯だ。
何か起きていなければいいが……。
加藤は一抹の不安を感じながら、再び携帯電話に手を掛けた。
「……」
数十秒そうした後にディスプレイを確認する。
「出ないな」
「やっぱり昨日飲み過ぎて寝たんじゃないの?」
「確かにこれだけ掛けてアイツが出ないのも可笑しい」
「だから寝てるんでしょ」
「いやあの仕事人間は寝てても必ず電話には出る。可笑しいのは起きていながら電話に出られない状況になってるってことだ」
「どういうこと?」
「運転手さん、今から言うホテルに向かってください」
*
「どうしてっ、どうして、こんなことに……」
私はすっかり血の抜けてしまった死者に向かって手を合わせる。彼女はその
こんなことを誰がやったんだ。お前だ。タレントをこんな目に陥れるなんて。お前だ。これではまるで花弁をちぎり取られた花じゃないか。お前だ。絶対に許せない。お前だ。オマエガヤッタンダ―――――。
「っく、うぅ……」
私がやったのではないと信じたい。信じたいがこの状況を見て誰が私の無実を証明してくれるというのか。心の中に潜む鬼が私の脆弱な心柱を心なく折りにかかってくる。まるで彼女の首に手を掛ける私の画が思い起こされるようだ。
駄目だ。このままでは私は覚えのない罪に身体共に食い尽くされてしまう。
よく考えてみろ。私が彼女を殺す動機はなんだ。これからスタータレントとして歩を進める彼女、そのマネージャーとして傍らに付き添う私が彼女を殺す必要なんてないじゃないか。むしろ彼女を殺めようとする者を殺してでも止めるくらいの気概がある。それくらいのことをする義務が私にはある。思い返せば強引に彼女のマネージャーとして雇われ共に
今、それが見事に花を咲かせようと結実している。私は彼女の培養に成功したのだ。
成功目前にしてその幼花をちぎり取る輩がどこにいる。
少なくとも私じゃない。
そうだ、私がやったんじゃない。
こんなことをする輩は誰だ。
そいつを見つけ出して殺めなければ。それが私のマネージャーとしての義務だ。
この場所から私の痕跡をなくし、本当の犯人を見つけなければ。
そう思い立つと私は足元に落ちていたコンビニのビニール袋を手に持ち、ビールの空き缶を片付ける。周囲を見渡し、自分の荷物が置いていないかを確かめる。よく見れば室内には争った形跡があり、布団やシーツは乱れ、血しぶきが付着している。しかし、一見したところ私がここにいたという証拠はこの空き缶だけらしい。あとは……、おそらく、そこかしこに付いている私の指紋か。しかし、これは消せない。なぜなら犯人の指紋も付いている可能性があるからだ。それにこの部屋には前々日、アズサと私が来てミーティングを行っている。私の指紋があったとて不思議ではない。
私は部屋のドアをゆっくりと開け、右左右と周囲を確認しながら、忍び足で通路に出る。チェックアウトも大方済んでいるこの時間だ、ここを往来するものも多くないだろう。私が怯える必要もないのだが、念の為だ。
私は静かにエレベーター側にあった自販機のごみ箱に空き缶を捨てた。
とりあえず一度落ち着きたいと、自室に戻る。
美織の部屋と同じベッドの配置、テレビ台と机の距離感、膝下にひっそりと佇む冷蔵庫、すべてが一緒なのにやはり違う。あの部屋には色んな感情が蠢いている。私はベッドに腰を下ろし、ようやく落ち着いて物事を考えられるようになった。
まず先に警察を呼ぶべきか。
いや、きっとこの状態で私は警察の詰問に耐えられないだろう。昨夜の記憶が全くないのだ。それも中途半端に残っているのは、あの部屋で美織と話したという記憶だ。別の犯人につながる糸口を掴んでおかなければ、私に反論の余地はない。
とは言え、彼女を殺そうとする者に思い当たる節もない。敵を作りやすい性格ではあったが、だからといって殺意を覚えるまでには達しないはずだ。
「……ん?」
私は机の上にあった自分の携帯電話が光っているのに気づいた。
あれは着信履歴があることを示すものだ。
発信元は加藤だ、二件の着信。
昨夜は確か一緒に飲んでいて、彼と智乃は温泉街周辺の別のホテルに泊まると言うのでその場で別れた。ということは、この時間ならまだこの近くにいる可能性が高い。ここで電話を掛ければ、彼はここに来るかもしれない。
それはマズいか?一緒に都内に帰ろうと言えば、昨日いた美織の話も出るはずだ。美織だけ先に帰ったという言い訳は通用しないだろう。
そうなれば、あの状態になった彼女を説明しなければいけなくなる。
それは避けたい―――――避けなければいけない、と思うのに私はどこか雲を掴むような考えを思いつき始めていた。今、この閉鎖的な空間で私は袋小路に陥ってしまっている。この現状を打破する手立てなど今のところ思いつかない。
しかし、加藤ならどうだろう。
私が今この状況を閉鎖的だと感じているのは、私が自分の見えるものしか信じていないせいだ。それを、自分の見えないものに頼ってみればどうだろう。
「…………どの道、ここに逃げ場はない」
私は考えるより早いか携帯電話のディスプレイをタップしていた。
「……加藤さんっ」
ワンコールで加藤は電話に出る。
『……はい、加藤ですが』
「加藤さん、佐伯です」
『おう、佐伯か。お前が電話に出ないなんて珍しいな』
「はい、まあ、少し忙しくて」
『忙しい?ああ、オファーの電話か?』
「……」
『ん?佐伯?聞こえてるか?』
「加藤さん、そこに智乃さんはいますか?はいかいいえで答えてください」
『ん?…………おう』
「私が今から一方的に話しますので適当に相槌を打ってください」
『……おう』
「浪川美緒が………、なみかわ、みおりが…」
私は激しくなる心臓の鼓動を止めようとゆっくりと言葉を続ける。
「浪川美織が、何者かに殺されました」
『……』
「昨夜、お二人と別れた後、私と美織はホテルに戻りました。ひどく泥酔していた私はまだ飲み足りないとコンビニで缶ビールを買い、美織の部屋で飲んだのだと……思われます。そして明け方…、起きてみるとそこには彼女の遺体が……」
『……』
「でも、私には全く記憶がありません。彼女に手を掛ける姿も、動機も、全く記憶にないんです。これだけは信じてください、私が彼女を殺したんじゃないんです」
『そうか』
「そこで加藤さんに訊きたいことがあるんです。浪川美織の霊は視えますか」
『………』
加藤は沈黙する。
「彼女ならその時の状況が分かるのではないかと」
『あー佐伯、今ちょうどそっちに向かってっからよ。そん時聞くわ』
『佐伯さん?どうしたの』
電話の向こうで智乃の声がする。恐らく長い沈黙を不審に思ったのだろう。加藤は適当に話し始める。
『最近忙しいからな、今夜もなんか収録あんだろ?その前にちょっと、話くらいなら聞いてやる。あと十分くらいで着くぞ』
「……はい」
佐伯は耳から携帯電話を放すとそれを机のうえにゆっくりと置き、深いため息をついた。
これでよかったのだろうか。加藤は霊が視えると言うが、私はそれを全面的に信用したわけではない。いつだって彼の話は現実味を帯びているようで、その実全く理屈に適ってない。霊に理屈が通用するかはさておき、今この世を生きている人間が理屈を持ち出さなければ形而上学は衰退の一途を辿るのだ。そういう意味で私は未だに彼の怪談を信じられずにいた。
しかし、私は自分の見たものに関しては無条件に受け入れる。目の前で孫悟空が空を飛んでいても、巨大なワイバーンが車道を我が物顔で闊歩していても、きっと私はそれを受け入れるのだろう。だから、死んだはずの人間が自分にだけ見えると言われても、自分がその人間を視認できなければ受け入れられない。
そして、それは私が見たという事実さえあれば全ての常識が覆る。
だから、私は確かめたかった。加藤を呼びつけ、あの日、あのラジオ局で背後に見たものが誰だったのかを―――――、それを確かめたい。
「……?」
その時、妙な人の気配を感じた。
ドアの外。一人ではない、複数人いる。
慌ただしく足音を立てている様子だ。
どうやら、皆このフロアの一室に向かっているらしい。
バタバタバタ。
ざわざわざわ。
節操ない足音に、微かな悲鳴が入り混じる。
次第に言いようのない不安と、想定される最悪の観測が重なり合っていく。
間違いない――――、美織の遺体が見つかってしまったのだ。予定されていたチェックアウトの時間を過ぎてもカウンターに来ないのを不審に感じ、スタッフが接触しに来たのだろう。
とすれば、程なくして私の部屋にも来るだろう。この状況でチェックアウトを済ませろ、と催促はしに来ないだろうが、別の意図をもって私の部屋を訪ねるだろう。
これから真犯人を探そうというのに、邪魔をされてはいけない。ましてや、私を怪しい人物だと言い張って警察に突き出すような真似をされるわけにはいかない。
「……」
気づけば、私は忍び足でドアに頬をくっつけ耳を澄ましていた。
……すぐ近くに人はいないようだ。
それからゆっくりとドアノブを押し、開いた隙間に体を滑り込ませる。
周囲に視線を巡らせると、廊下のずっと向こうの部屋でホテルスタッフが並みならぬ表情で話し合いをしているのが見える。
その視線の先とは逆の方向に地面を蹴ると、素早く階段を下りていく。
階段を下りる途中、焦った表情を浮かべるスタッフとすれ違った。しかし、その目は私に一寸もくれず、虚空を捉えている。宿泊客に一瞥もくれず、その場を慌ただしく去っていくその姿を見ると、このホテルがすでに異常な事態に呑まれていることを朧気ながら感じさせた。
エントランスホールに駆け降りると、フロントに人の影はなく妙な静けさに包まれている。そのまま自動ドアが私を避けるように開くと、右に左に周囲を見渡す。中心にツツジの植え込みを囲むロータリーにタクシーが数台停まっている。
加藤はもう着いているだろうか。そんなことを考えていると、不意に誰かが私の肩を叩く。
「―――あっ、と」
「昨日ぶりだな」
「……加藤さん、お早いですね」
「タクシーの運ちゃんに飛ばしてもらったからな」
「智乃さんは?」
「そのままタクシーで帰した」
「ということは加藤さん今一人で―――」
「ああ、お前とは長い付き合いだ。智乃には話せない用があったんだろ……、いや自分の担当タレが殺されたなんて誰にでも話せるもんじゃないが」
「そうです!そのことなんですが…」
「佐伯とりあえずここを離れようか」
「え?」
加藤は私の腕をグッと掴んで、ズシズシと地面を踏みしめながらロータリーを出ていく。
「あ、あの、加藤さん」
「警察がこっちに向かってる、さっき来る時に見かけた」
その警察がホテルに横たわる不審な死体を調べに来ているかどうかは分からないが、ホテルスタッフがあの部屋の死体に気づいた時点で警察を呼ぶことは容易に想像できた。真意のほどは分からないが、遅かれ早かれ警察が来るのは分かっていた。確かに場所を変えるのは正しい選択だと思う。
私と加藤は足早にその場を去ると、人通りの少ない道を選んで小川に沿って南下していく。とはいえ、この辺りは人身を隠すような遮蔽物もなく、あるのは白いガードレールと灰色のアスファルトだけだった。今更、遠くに逃げることなどできない。とにかく二人きりで話せる場所はないかと周囲を歩けば、程なくして河川敷にたどり着いた。ベージュ色の枯れた雑草が生い茂る野球場、その錆びたベンチに腰を下ろす。
「さっき電話で大方の内容は聞いたな。……もう一度確認するが、間違いないんだな?」
「……はい」
「浪川美織が死んでいて、その横にお前がいたと」
「はい」
「ただお前には記憶がない、そうだったな」
「正確にははっきりとした記憶がないというか、昨夜彼女と話し込んでいたのは覚えています。ただそれから明け方まで何をしていたのかが、はっきりしないんです」
「その時、他の奴は一緒じゃなかったのか」
昨夜、私は彼女と二人で飲んでいた。私がいつもの銀のラベルの缶ビールで、お酒の苦手な彼女はウーロン茶を飲んでいた。その時の会話も覚えている。あれは美織以外とは絶対に話せない内容だった。だから、あの場に他の人間がいたとは考えにくい。
「いなかったと思います。彼女とは二人きりで」
「じゃあ、お前が―――例えば泥酔して記憶がなかったのだとしよう、その間に浪川美織が誰かを部屋に上げた可能性は?」
「それは、分かりません。ただ朝の室内の状況からすれば、私以外の人間が居たような痕跡はありませんでした。争った形跡もなかったので、もし居たのだとすれば顔見知りの人間だったのかも、と考えることはできます」
「顔見知りの人間…、そう考えるとお前が一番怪しくなるな」
「待ってください!私は―――」
「この考えはよそう。俺もお前がやるはずがないと思ってる。俺はお前を追い詰めに来たわけじゃねえ」
「すみません…」
私は浮かした腰を再びベンチに下ろす。
「そういえば、争った形跡がないって言ったな?」
「ええ…、はい」
「じゃあ、浪川美織はどういう状態で死んでたんだ?」
「それは、その、失血死……でしょうか」
「どうした?」
「いえ、私もはっきりとした死因は分かりません。しかし、彼女の首が無くなっていたんです」
加藤の表情が固まる。さすがの彼もこの異常性をいつもの気怠い応対で済ませることはできなかったようだ。
「普通の人間の発想じゃありません。なんでそんなことができるんでしょうか。加藤さん、私は絶対に自分が犯人じゃないと言いました。その理由はここにあるんです。彼女の首を私がどこにやったと言うんです?泥酔していた私にできるはずがない。それに、そもそも、彼女の首を切り落とすなんて真似―――私の立場では絶対にできない」
「……ああ、大丈夫。分かってるよ。お前は犯人じゃない。真犯人を見つけるぞ」
「すいません、こんなことに巻き込んでしまって」
「巻き込んでしまって、か」
加藤は大きく息を吸い込み、これ以上口を挟めばもっと厄介なことに巻き込まれるのだろうと眉を寄せながらその息をゆっくり飲み込む。
「これからが本題なんだろ?」
加藤は喉の奥でくくっと自嘲気味に笑みを零す。
「……はい。お電話で話した通りですが」
「ああ、なんでかな…、お前は絶対今後一生とも、俺の与太話なんか付き合ってくれないもんだと思ってたよ。自分の視えるものしか信じないんじゃなかったのかよ」
「その自分が信じられなくなったんです」
「……はあ、馬鹿だな、お前」
「加藤さんは視えるんですよね」
そこで自分の目を手で覆い、天を仰ぐ加藤。
沈黙が二人の会話を埋めていく。私は段々と不安になった―――もしかして加藤はずっとホラを吹いていたのではないかと。死んだ者の霊が視えるなんてのは真っ赤な嘘で、人を怖がらせる自分に酔狂していただけではないか。
「視えるよ」
加藤のその言葉に私の拙い考えは霧のように消えた。
「あの、それじゃあ、今からホテルに―――」
「いま戻ったらお前は留置所行きだぞ」
「でも、それだと加藤さんを呼んだ意味がありません」
ここまで親身に話を聞いてもらっていながらなんと薄情な言い方をするんだと自戒しながらも、私はそれ以上に事態がひっ迫していることに焦りを感じていた。
「安心しろ。あのホテルに浪川美織の霊はすでにない」
「どうして分かるんです?」
「俺が前に言ったことを覚えているか?霊は自分の生きた足跡を探し彷徨う生き物なんだ、どこに自分の命を奪われた現場に残りたいと思う霊がいる?少し考えれば分かることだろ」
霊の常識を説かれても、と口をひん曲げる。しかし、彼のいうことも一理あると私の脳は少しずつ柔軟になっていた。そうせざるを得ない状況にまで追い込まれているのだから仕方があるまい。
「本当に霊、視えるんですよね?」
「今疑うのか、それ」
「でも、加藤さんがホンモノだなんてどうやって、前の時だって―――あ」
「それを俺に確かめたかったんじゃないのか?」
私は思い出す。なぜこんな馬鹿げた考えにたどり着いたかを。
浪川美織の霊を追うなんて馬鹿げている。でも、本当に存在するなら話が早い。自分を殺した人間は誰かを聞けばいいのだから。では、どうやって見つける。そうだ、加藤は霊が視えると言っていた。彼に手伝ってもらおう。でも、彼は本当に霊が視えるんだろうか。私はあまり信じていないが、以前ラジオ局で「お前の後ろに霊がいる」とけしかけられたことがある。あの時、私は人ならざる何かを見た気がするのだ。それが誰の霊だったかを私が言い当てれば―――、加藤は本物だ。
「確かめましょうか」
「どうやって?」
「加藤さん、前に局で私の後ろに霊がいるって言ってましたよね。あれが誰の霊だったか、分かりますよね?」
「……そうか、やっぱり、そうだったんだな。お前あのとき視えてたんだな」
「加藤さん…、それが分かっててあんなはぐらかし方を……?」
「まあ、それはそれとして……、答え合わせ、しなくていいのか?」
「します。あの日以来、私は自己不信に陥ってしまったんですから」
「では、私が後ろを向きますから。加藤さん、この小石で地面にその人の名を書いてください。私もあなたの後ろで書いてますから、それから、せーので見せあいましょう」
「おう、いいよ」
それから私をベンチを跨いで彼と真逆の方向に両足を揃える。
背後でガリガリと音を立てる加藤に続いて、私もその亡者の名前を書いていく。
「……書けたか?」
「書けました」
「いっせーの、だったか?」
「せーの、ですよ」
「せーのって、『の』で振り向けばいいのか?それとも、『せー』ってところで振り向きざまに確認するって感じでいくか?」
「いや、どっちでもいいですってそれ」
加藤の喉が鳴っているのが背中越しに感じられた。
「じゃあ、業界人っぽい感じでいくか」
「なんですそれ」
「3…、2…、」
加藤のカウントは『2』を数えたところで、イヤホンを引っこ抜いたように声が消えた。しかし、その後の沈黙が何を意味しているか私たちには分かる。それは沈黙ではない。確かな拍なのだ。
私は脳内で『1』、『キュー』を補完すると、背後に振り向く。
加藤とシンクロしたその動きで、地面に書かれた相手の文字を確認する。
「……」
「……」
「……どうだ?」
「こんなことってあるんですね」
「お前は自分の視えるものしか信じない、だったな」
「はい。その信念はあくまで変わりませんし、今回のことでそれはより強固なものになったと思います」
「でも、これでお前も俺と同じムジナってわけだな。どうだ、今度怪談バーで披露してみるか?」
「ははは、誰も怖がってくれませんよ。オチなんてないんですから」
「それ俺がいつも言うやつな」
「すみません。私、加藤さんの気持ち分かってなくて、いつもつっけんどんに返して―――――」
「気にすんな。だが、これではっきりしたな。霊は存在するんだよ、佐伯。そんできっと、浪川美織の霊もな」
地面に荒々しい文字でその名が書かれていた。
そして、背後の地面にも私が書いた同じ名がある。
あの夜、ラジオ局で私の背後にいたのは―――、
往年の名歌手『清須みどり』だったのだ。
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