「二人の出会いは地方のイベントとお聞きしてるんですが、その頃はお互いのことをどう思ってたんでしょうか?」

 

 女性アナウンサーが手元の台本に軽く目を落とし、若い女性タレントに問いかける。一方は機嫌の悪そうな仏頂面をし、怪訝な様子でアナウンサーの言葉に耳を傾ける。もう一方は足元の場ミリを気にしながら、アナウンサーの問いかけに大きく頷く。


 「そうなんですよねー!地方のイベントというか出店みたいな所で客引きをしてて、何か彼女が喧嘩売ってきて……」


 「喧嘩ですか?すごいですね」


 「喧嘩なんて聞き捨ての悪い……、貴方が不甲斐ない真似をしてたから私が注意してあげたんじゃない」


 「注意って……。人前であんな注意する奴がどこにいるのよ」


 「何回この話したいの?あれは私が」

 「あれはどう考えたってアンタが可笑しいじゃない―――」


 二人はカメラから視線を外し、お互い半身になって戦闘態勢に入る。 


 「お、お二人とも本当に仲がいいんですね」


 そこで中央のカメラがアナウンサーを捉える。赤く点灯するカメラのライトを確認し、アナウンサーは息を大きく吸い込む。


 「では早速今夜も始めていきましょう!私、TKテレビアナウンサー星見沙弥子の『秘密の女子会』――――今日は巷で話題のお嬢様コンビ『あずみお』こと小木アズサさんと浪川美織さんにお越しいただいています!ではお二人ともお席の方にどうぞ!」


 観覧席の観衆が一斉に拍手をすると、二人はお互い自らの責務を思い出す。打ち合わせの指示通り、背後の自宅リビング風のセットに向かった。北欧家具のような曲線豊かな椅子に腰を落ち着かせる。


 「ようこそ、『秘密の女子会』に」


 女性アナウンサー、星見沙弥子は台本を机の脇に置いてゆっくりと二人を眺めた。


 「ありがとうございます!アタシこの番組出るの夢だったんですよ」


 「いえ、こちらこそ!今、若手注目度NO.1のお二人に来てもらえるなんてこちらこそ恐縮ですよ」


 「そんなあ、NO.1だなんて……、言い過ぎだよね?美織」


 「いいんじゃない、NO.1で。他に目立った人いないでしょ」


 「ちょっと!美織!アンタなにその言い方!」


 アズサが肩で美織を押す。美織は慣れた様子で顔色一つ変えず揺れる体を元に戻す。美織は何百回と行ってきたこのやり取りを淡々とこなす。気分は漫才師だ。


 「アハハ、本当にお二人とも面白いんですね」


 「美織って世間知らずで……大変ですよお」


 「貴方ね、世間知らずはどっちよ。こないだなんて新幹線の切符の買い方が分からなくて私に電話してきたじゃない」


 「バカっ!なんでそれ言うのよ!」


 アズサは耳を真っ赤にして人差し指を美織の口に当てる。


 「それ本当ですか?」


 星見沙弥子は手を顎に持っていき、信じられないという表情をする。


 「い、いや、あいや、あの……!違うんです!私、普段から新幹線とかしょ、庶民の乗り物乗らないんです!ここに来る時もヘリをチャーターして―――」

 「23区でヘリは使わないってば」


 「二人ともすごいお嬢さまなんですね。羨ましいです」


 星見は親戚の子供を見るような目で二人を見る。


 「もう……、星見さん、本当なんですってば……」


 腑抜けた表情をするアズサに悪戯な笑みを見せる星見。脇に置いていた台本を再び手に取り、思い立ったようにカメラに視線をやる。


 「さて改めまして、今日お越しいただいているのは小木アズサさんと浪川美織さん、通称『あずみお』のお二人です。この『あずみお』というのは、どなたがお考えになったんですか?」


 「いえ、これは……ファンの間でそう呼ばれていたみたいで、それが一応、アタシ達の間で公認になったというか」


 「なるほど、そういう経緯いきさつがあったんですね。可愛いですよね、『あずみお』って―――美織さんはどう思います?」


 「どう、というか―――」


 これはスタッフとの打ち合わせの時に二人の会話からふと引き出されたものだ。星見がチラリと台本に目を通したのを確認して、美織は求められている答えを確信する。そして再び打ち合わせの時と同じような返答をした。


 「『あずみお』って『あず』が初めに来てるのが気になります。『みおあず』でもいいのに……とは思います」


 声に張りがない、美織は自分の発声を瞬時に分析する。それもそのはずだ。打ち合わせの時は衝動的に発していたのでその必死さが却って愉快に映った。しかし、今は違う。頭にある自分の記憶を無理やり引きずり出しながら話しているのだ。


 「いや!それだと言いにくいじゃん!み、みおあ、みおあずって……、何か母音が二つ重なってて!」


 アズサの返しの言葉もあの時と同じだ。しかし、アズサの言葉には新鮮さが感じられた。カセットテープのように時にノイズを交えながら同じ言葉を繰り返す美織の言葉とはまるで違った。表情から息遣いまで、初めての経験のような言葉遣いであった。


 「いや、言いにくくないわよ。貴方、毎日ボイストレーニングしてる結果がそれ?」

 「ちょっと!それ周りに内緒にしてるんだから!」

 「え、アズサさん、ボイトレやってるんですか?」

 「はい、お恥ずかしながら……、こんな声ですけど、やってます」

 「将来、こういう仕事がしたいっていう希望があるんですか?」

 「はい、まあ、その……」


 アズサは照れた様子で、忙しなく髪をいじる。


 「ナレーションみたいな仕事もしたいなーって思ってるんです」


 「へえ、ナレーションですか。私も仕事柄よくさせてもらうんですけど……、すごくやりがいを感じますよ。アズサさんは可愛らしい声をしているので、十分その素質はあると思います」


 「ホントですか!」


 アズサは自分の胸元で大きく手を叩く。

 ここまではこないだの打ち合わせと同じだ。星見がこの番組のディレクターに代わっただけ……、美織はそんな二人のやり取りを静観していた。星見はそんな無表情な美織に気づき、話を振る。


 「美織さんは?将来してみたいお仕事ってあるんですか?」


 トクンと小さく心臓が跳ねた。急に台本から外れた質問が飛んできたからだ。

 観覧席の無数の視線が美織に刺さる。


 「将来……ですか」


 「そう、今こうして多くのテレビに引っ張りだこになってるけど、必ず落ち着く時期が来る。その時、美織さんは今はできないこと……、その人々の関心を引きながら何をしたいと思いますか?」


 アズサもじっと美織の答えを待つ。


 そういえば、将来の展望なんて誰にも話したことなかった。

 私はこの芸能界で売れたいとそう望んで、この業界に身を置いてきた。担当のマネージャーを強引に雇ってその夢を叶えようとした。だが、芸能界で一花咲かせたいと思ったのは自分の夢の過程に過ぎない。私の将来の夢はずっと先にある。それは誰にだってできることじゃない―――私じゃないとできないことだ。


 「私はファッションブランドを立ち上げてみたい」


 「ファッションブランドですか!確かに美織さんらしい、素敵な夢ですね!」


 「はい、昔から考えてました。日本のファッションスタイルはどうしても海外ブランドの影響を受けやすくて、みんな似たような欧米偏重の個性を磨いてしまうんです。だからそれを利用して和洋折衷のスタイルを探したいって、思うんです」


 「すごいですね……、まだお若いのに」


 「芸能人に若さは関係ありません。誰でも自分なりの活路を見出そうと、もがいてます。星見アナもそうですよね」


 星見はそれまで張っていた顔の筋肉を緩ませ、再度台本を脇に置く。

 売れっ子の若い女性タレントを招いて彼女自身、気を揉んでいた。これまで年増の大物女優やミリオンセラーを叩き出す有名女性歌手を相手に一人のインタビュアーとしてこの番組を仕切っていた。そこに彼女の心は入っておらず、今やAIでもできる単純な問答を繰り返すだけだった。毎週、打ち合わせのために早く現場に入り、スタッフの用意する台本に何度も目を通す。本番が始まるまで何度も目を通す。その間、何も口にすることはない。ただ何か失礼はあってはならないと、現場のスタッフにいらぬ心配をさせまいと、せめて被写体の私に過誤があってはならないと無用な使命感を持っていた。それをだと思わせる、そんな美織の語り口に星見は気づかず聞き入ってしまっていた。


 「この番組ってこんなお堅い番組なんですか?」


 「あなたの言う通りですね、今日は肩肘張らず本当の女子会をしましょう」


 星見のフッと緩んだ笑顔をカメラがアップで捉え、スタジオ内の空気が変わる。

 収録はその後数時間にわたって滞りなく行われた。自宅のリビングを模したはずのセットは演者によって本物のそれのように錯覚させていた。ふと出会った三人の女性が自身の展望を描きながら、将来の自分に思いを馳せる秘密の女子会がそこに開かれていた。






 

 すっかり夜が更け、誰もが次の日を考え寝静まる時間―――この都心の一角はそんな人々の憂慮を忘れさせる。日々の鬱憤を晴らすように我が物顔で歩道を闊歩する酔っ払った大人の群れ、それを避けながら歩調を合わせるカップル、そんな人々の間隙を縫うように一台のタクシーがノロノロと走る。

 ようやく車道に出ると今度は綺麗に揃った街灯の列がタクシーを誘う。明々としたオレンジ色の光が行く道を照らし、まだまだこの街に夜は訪れないぞと強迫めいたものを感じさせる。

 

 佐伯はタクシーの車窓からこの開けない夜の景色を眺めていた。

 隣にはすっかり酩酊した吉野の姿がある。


 「今日は飲み過ぎましたね、吉野さん」


 「へえ?にゃにがですかあ?」


 口の回らない吉野に、佐伯はペットボトルの水を差しだす。


 「水です、飲んでください」


 「あ、ありがとうございま……す」


 吉野はそれを手に取り、豪快にラッパ飲みをする。


 「明日も仕事なんですよね?今日みたいな日に誘ってすみません」


 「い、いや!わたしが…っく、もともと私が誘ったんですから……っく、気にしないでください。今日は楽しかったです」


 思いの外、水が喉を通ったのだろう。

 しゃっくりを交えて話す吉野に佐伯は微笑みを返す。


 「何が……っく、面白いんです?そんな……っく、笑って」

 「いえ、何だか幼気な子どものように見えたもので」

 「あー!私のこと子ども扱いしないでくださいよ!」


 大きな声を上げて力が抜けた吉野はそのまま佐伯に体を預ける。


 「吉野さん……、相当お疲れみたいですね」


 吉野の微かな吐息が肩越しに感じ取られる。


 「佐伯さん、私やっぱり佐伯さんがいないとダメかもしれないです。だから、ずっと……一緒に……」


 「一緒に、何です?」


 対向車の横切る音で吉野の声が遮られる。佐伯は吉野の顔を覗き込み、走りゆく街灯の光でその目鼻立ちがくっきりと映し出された瞬間に分かった。お酒のせいだろうか、その腫れぼったい涙袋が赤く膨張している。

 佐伯はそこでポケットからハンカチを取り出し、吉野の小さな手にそれを握らせる。


 「すみません……、私ちょっとお酒飲みすぎちゃいましたね……」


 吉野はそのハンカチで目元をグッと押さえる。

 すでに化粧が崩れるのを気にしていない様子だった。


 「でも、私たまに考えるんですよね。もし佐伯さんがマネージャーだったらあの時売れてたのかなって」


 吉野はマネージャーになる以前はテレビタレントを目指し、養成所に通っていた。しかし、先行く同期タレントを見るうちに自身の限界を感じ、早々に引退してしまった。それでも芸能界への憧れが拭えず、今度は彼らを支える芸能マネージャーの道に進んだ。今の地位を築くまでに途方もない時間と労力を費やし、長すぎる回り道をしてしまった。

 

 でも、またもう一度あの岐路に立たせてもらえるならどうする?


 歯を食いしばって同期タレントの背中を追いかけるか、惨めに夢の投射線を書き換えるか、それとも誰かの手を借りるか、確かな成功を約束してくれる誰かの腕を掴みたいと思うのか。


 当時の私ならきっと掴みたいと思っただろう。

 だが今、彼らタレントの傍らに立つ人間として考えることがある。それは非常に甘美な匂いのする危険な考えだということだ。確かに佐伯さんの言うとおりにしていればタレントとして売れるのは間違いない。しかし、そこに危険が潜んでいる。それはという異名を慮るわけではない。花火が上がった後の危険性を説いているわけではない。


 そうではない。

 なかなか上がらない花火玉の行方を私は心配してしまうのだ。



 「佐伯さんの手にかかればすぐに売れっ子になれたんだろうなあ……!」


 だが当然その心の内を蝕む得体のしれない不安を吐露することはできない。

 佐伯さんは私にとって信頼できる業界の同士で、憧れの対象だ。どうか私の杞憂であってほしいとそう切に願っている。


 「いえ、私にできることなんて…大したものじゃありませんよ」


 「またそんな謙遜ばかりしてると加藤さんに怒られますよ」


 「加藤さんに……、ははは、それもそうですね」


 「そうですよ」


 吉野と佐伯は顔を合わせて微笑む。


 「おっと」

 「わ……っと」


 車体が赤信号を前に急停止し、慣性で二人の体が大きく前に傾く。

 タクシーの運転手が「すみません」と頭を下げると、佐伯も頭を軽く下げる。


 「この交差点……ということは、もうすぐですね」

 「はい、あっという間でした」

 「明日はお仕事でしたかね」

 「はい、海留スタジオで有明の帯番組が」


 「私も明日は泊りで郊外のイベントに行ってきます。夏の特番の企画だそうで」


 「じゃあ、カメラも入るんですか……最近ホントあの二人も忙しいですね。こないだの秘密の女子会見ましたよ。あれから数字が跳ねてるって局員に聞きました、すごいですね」


 「はい、最近あの二人もよく頑張ってくれてます。あともう少し、あともう一歩という所まで来ています」


 佐伯は力強く拳を握り、目を輝かせた。街灯に照らされたその瞳が比喩でなく現に輝いているのを見ると、その発言に確かな意思が込められているように思える。

 情熱に満ち満ちた精悍な瞳、瞬時に変わる、狂気に溢れた妖しい瞳、精悍な瞳、妖しい瞳、精悍な瞳、妖しい瞳……、断続的に途切れる街灯の光が佐伯のそんな二面性を照らしていた。






 

 「久しぶりのオフなんだけど」


 美織は腕を組み、足で地面をコツコツと鳴らす。

 いつにも増して不機嫌な表情で眼前の相手に苛立ちを表現する。


 「急に電話で呼び出して、何のつもりよ」

 「いや、急にって、…悪いとは思ってるけど」

 「私もほとんど休めてないの知ってるでしょ」

 「そりゃ、もちろん」

 「だったら考えてよね。ウチのマネージャーじゃないんだから」

 「でも、たまの休みだからしたいこともあるじゃん」


 「で、今日は何?また新幹線の切符?」

 

 「バカ!違うわ、今日は別の用事!電話で言ったよね?」


 声を荒げる小木アズサに美織は溜息をつく。

 今日は久しく取ることができなかった休暇で、明日からの仕事のために休養に充てられた時間のはずだった。しかし、仕事の日以外は滅多に鳴らない携帯電話が何度も美織を呼び出し、それを無視することの方が却ってストレスになると感じ、結局はその呼び出しに応じてしまった。

 

 「仕事で毎日会ってるのに、なんで休みの日にまであなたと……」


 「いや、今日はどうしてもね」


 アズサは虚ろな表情をする。


 「どうしてもって、そんなに切羽詰まった用事じゃないでしょ」

 「アタシにとっては大事なことだよ」

 「だって今日の用事って……」

 

 「そう、映画を見に行くことだよ」


 アズサから電話をもらった時、美織は何かの聞き間違いだと思った。休みの日に時間を合わせて映画館を訪れるなど、好き合っている男女がすることだと思っていた。そして驚くことに、アズサは映画館なる場所でチケットを買った経験がなく、(想像では大きなスクリーンの前にたくさんの座席があり、そこに座って映像を眺めるらしいのだが)どのようにして座席まで辿り着けるのかを知らなかった。


 駅前の映画館は平日の午前中というだけあって人もまばらだった。甘いポップコーンの香りが鼻腔をくすぐる。アズサがその香りに誘われ、財布を手に買いに行ってくると言い出したのを美織は慌てて止めた。


 チケットカウンターの前に立つと、スタッフの背後にあるモニターに今日の上演スケジュールが映し出される。


 「どれをご覧になりますか?」


 「そういえば、今日って何見るつもり?」


 「決めてるよ」


 アズサはスマートフォンの画面をスタッフに見せる。


 「あの…、この……『桜が散った春』見たいんです」


 「かしこまりました。何名様ですか?」


 戸惑った表情のアズサが救いを求めるような眼差しをすると、美織が二本指を立てる。


 「大人二枚」


 「10時半からと、13時45分からの上映ですが……、どちらにされますか?」


 「じゃあ、……10時半からで」


 美織は腕時計をチラリと見る。


 「10時半からですと、この青い部分のお席が空いております」


 「この25列のE-3とE-4でお願いします」


 「かしこまりました。大人2名様で2,600円になります」


 二人はそれぞれ1,300円を差し出す。スタッフは発券機からチケットを発行するとそれを二人に手渡した。


 「上映15分前までにはお席の方にお願いします」


 アズサは渡されたチケットをじっと見つめ、それを静かにポケットに忍ばせた。美織は借りてきた猫のように大人しいアズサを不思議そうに見つめる。



 「あなた本当に映画館来るの初めてなの?」

 「初めてだよ」

 「庶民のくせに?」

 「ウチってさ別にアンタみたいなお金持ちの家じゃなかったけど、学校だけは地元で有名なお嬢様学校通っててさ、校則が厳しかったんだよね。しかも両親も一人っ子の私を大切に育ててくれたみたいで、あんまり普通の学生みたいな遊びはさせてもらえなかったんだよね」

 「そう……」


 そういえば、アズサの過去やその素性を聞いたことはなかった。お互い仕事に夢中になるあまり、プライベートな話は無用なものと思っていたからだ。


 「そういうアンタは?映画館に来たことある……んだよね?」

 「ええ、随分昔に一度だけ。母と一緒に」

 「一回?それにしては慣れた感じだったけど?」

 「来る前、お手伝いさんに聞いたのよ」

 「お手伝いさん……って、アンタ本当にお嬢様なのね」

 「ずっと言ってるでしょ」


 アズサは再びチケットを手に取るとその席番号と上映時間、そして映画のタイトルと順に目を向ける。


 「今日は何で映画見ようと思ったわけ?さっきの話聞く限りだと、あなたもそれほど映像作品に興味があったわけじゃないんでしょ」

 「まあ、ね…」

 「しかも『桜の散った春』って結構前に公開されたやつじゃないの?」


 美織は遠く向こうの壁に貼られた広告を見つける。

 同タイトルの漫画原作を映像化した作品で、新進気鋭の若手映画監督が旬の俳優や女優を起用したことで、一時期は大変話題になっていた作品だった。初週こそ動員数一位を記録していたが、その後思うように数字は伸びず、人々の記憶から薄れつつあった。


 「うん、でも……これだけはずっと見ないとって思ってた」

 

 「だったら早く見に行けばよかったのに。休みもなかったわけじゃないし」


 「そうなんだけど……、流行ってた時はちょっと見る勇気がなくて」


 およそ独り言のようにアズサは呟いた。


 「今だったら見れるの?」


 美織は先ほどスタッフが見せたモニターを思い出す。空席を表す青い席番号が画面の大部分を占め、現に美織が迷うことなく選んだ席はスクリーンを真正面に捉えられる絶好の位置だった。


 「今なら、見れる」


 アズサはギュッと唇を噛んだ。


 「なんで?」


 「出演女優にさ、明奈が出てるんだよね」


 美織は『アキナ』という聞き馴染みのない女性の名前を必死に記憶から辿っていく。しかし、思い当たる節はなかった。


 「誰?」

 「誰……って?本当にアンタって普段テレビ見ないのね」

 「どっかのアイドル?」

 「事務所の先輩でしょ!ウチで一番売れてるタレント!」


 美織は瞬時に『羽島明奈』という女性タレントの名前を思い出す。

 そういえば、最近よく耳にする名前だ。そして佐伯が以前担当していたタレントということも耳にしたことがある。佐伯の花火玉にならなかったタレント―――その時は若干の興味を引かれたが毎日の業務に忙殺され、その記憶も忘却の彼方へと葬り去られた。


 「ああ、あの人」

 「私の同期なんだよ」

 「同期?」

 「そう、同期」


 「じゃあ、あなたって先輩なの?」


 美織は目を丸くして驚く。


 「今更?まあ、2年くらいしか変わらないし、そもそも同い年だからそういう意識もないんだろうけど」

 「羽島明奈って結構、年取ってる人じゃなかった?」

 「うん、テレビで見ててビックリした。でも、あれからすごく人気出たんだよね、明奈」


 アズサはチケットから目を離さず、じっと出演者一覧を見つめていた。 


 「で、悔しいから見なかったの?」

 

 「まあ、そんなとこ。バカでしょ、アタシって。向上欲とか人に見せたくなくてバカなお嬢様演じて、でもホントは誰よりも売れたいって思ってて……」


 アズサは汗ばんだ拳を強く握りしめる。


 「でも私って他人の影響をすぐに受けやすいからさ、アンタに憧れて高飛車なお嬢様にもなってみたりして、でも上手くいかなくて。いつも誰にでも偉そうなアンタ見て劣等感感じてさ。かたや同期はたくさんテレビ出て、話題の映画やCMに出て、ちょっと気持ちが折れてた―――――だから、ちゃんとこの映画見てさ、現実と向き合おうって思ったの!」


 美織はアズサと共演を重ねるたびにふつふつとある思いを募らせていた。それは奇しくもアズサに対する激しい劣等感だった。同じお嬢様という立場なら、明らかにアズサよりその素質がある。そして、本物の芸能人が何たるかを誰よりも知っている。そのためにどんな努力も惜しまなかった。『芸能界で売れる』ことは自分の夢の一過程に過ぎないが、それでもこの仕事には情熱以外の何も注いでいない。大きく羽ばたくためには、精一杯の助走が必要なのだ。だから、私より優れた芸能人などいない、そう感じていた。


 しかし、その前に立ちはだかる者はすぐ側にいた。


 アズサは美織に比べて人をうならせるトーク力も知識もない、場の空気を変えるカリスマ性も度胸もない、だが収録の現場でいつも人が気に掛けるのはアズサの方だった。美織には分からなかった。アズサは決しておべっかを使っているわけではない。それでも、なぜか人を惹きつける力が彼女にはあった。


 「だから、これ見てさ……、スッキリした気持ちで明日の大一番に臨みたいって思ったんだよね」


 「明日、ね」


 明日は郊外で行われる大きなチャリティーイベントに出演する仕事が入っていた。毎年、夏に行われる25時間放送の特番企画らしい。他にも数名の芸能人が共演者の名前に挙がっていたが、どの名も各事務所を代表するようなビッグネームばかりだった。どう贔屓目に見ても、美織とアズサの起用は異例としか思えなかった。


 「明日は頑張ろう、そして絶対売れてやろうよ」


 アズサの表情はすっかり晴れ晴れとしていた。


 「……馬鹿ね。いつも通りやるだけよ」


 「25時間でいつも通りって……ぷっ、アンタこそバカみたい」


 思わず吹き出すアズサ、美織は口を尖らせる。


 「本当にアンタってすごいね。いつも自分のやりたいことに真っ直ぐっていうか、でっかい持ってるんだね」


 「私の、夢……」


 「前から言おうと思ってたんだけど、アンタ…こないだの収録でファッションブランドを立ち上げることが夢だって語ってたじゃん」


 「それが何?」


 「あれ嘘でしょ?らしいこと言ってただけ、違う?」


 「……」


 あの日、確かに私は嘘をついた。

 ファッションブランドを立ち上げたいなどという私くらいの年の女の子が考えそうなありふれた夢を、私はさも自分の夢のように語った。実はあの時、アズサが何か言いたげだった様子には気づいていた。だが公共の電波に私の本当の夢を乗せるわけにはいかない、その一心で私は嘘をついた。星見アナは私の嘘を信じて何か吹っ切れた様子だったが、私の本当の夢を聞いていれば同じ結果にはならなかっただろう。


 「アンタの夢って何……?」


 「私の……、私の、夢は……」


 美織は珍しく自分の言葉に自信が持てずにいた。これは話してしまっていいものなのかどうか、是と非が脳内を激しく駆け回る。テレビの現場ならこんなことは許されない、とにかく自分の言葉を口にしなければいけない。

 すぐに答えるはずだ。今ここにいる私は誰だ、同じ浪川美織ではないのだろうか。私もアズサと同じように演じていただけなのか。


 違う。カメラの前の私も、ステージの上に立つ私も、ラジオから聞こえる私も、映画館にいる私も、すべて私だ。


 いつまでも助走してる場合じゃない。夢は叶えるものだ。


 「私の夢は、おばあちゃんの無念を晴らすこと……」


 そうだ。言ったからにはやってやる。それが浪川美織だ。


 「××××に出演したい」







 25時間生放送を行うその番組は毎年八月の末日に放送され、夏休みを惜しむ子供や来る爽秋に思いを馳せる大人たち―――老若男女に愛される夏の風物詩ともいえる番組だった。今年は放送開始から25周年という節目の年を迎え、通年より気合も予算もふんだんに盛り込んだ内容となっている。

 局関係者によれば、今年度は局内で大幅な人事異動があり、それに伴い長年続いた番組体制も刷新された。実質的に総指揮を任されたプロデューサーは従来のお笑い分野への偏向を断ち切り、他分野のテーマを軸とした番組作りを目指した。その影響からこれまで長く手を取り合ってきた大手お笑い事務所のあっせんを断り、幅広い事務所選びを行うようになった。

 毎年、その年の顔が揃うこの番組はタレントの人選が命とも言える。予算のほとんどをタレントのギャラに回し、大物から人気者まで揃えることに成功した。しかし、番組進行を行う上で頭数がどうにも足りない。そこで起用するのが『抱き合わせ』、業界用語で『バーター』と言われるものだ。ある人気タレントと同じ事務所に所属する駆け出しのタレントを番組に呼ぶ行為をこのように言う。こうしたタレントは本来の単価も安く、抱き合わせで出演依頼することにより事務所から出演料を値引きしてもらえるケースが多い。そして大方の場合、事務所で推されているタレントのため活きもいい。この大一番で新人を起用するにはややリスクも孕むが膨れ上がる予算を抑えることを考えれば、善策の二文字である。


 そして今日、『小木アズサ』『浪川美織』の両名がこのバーター枠としてこの番組に出演する。メインは光陵プロダクションの看板タレント『羽島明奈』、二人は彼女の抱き合わせとしてオファーが舞い込んだ。同期のアズサには少々思う所もあるようだが、このオファーを断る理由もない。それどころか、掴んで離さないくらいの気概を持たなければこの業界では生きていけない。


 「いよいよ、ですか……」


 佐伯はそっと呟き、事務所の移動車から陸と陸を渡す大きな橋梁を眺める。

 この大一番で目立つことができれば、彼女らは必ず売れる。二人は確かな実力を身に付けている。それを存分に発揮するにはここしかない。


 「ねえ、美織。こないだ持ってたグミ、今持ってる?」

 「ああ、あれ?持ってないわよ」


 後部座席に座る二人に緊張感はない。


 「ちょっとアタシお腹すいたんだけど」

 「貴方ダイエット中じゃなかった?まさか何も食べてないの?」

 「まあ、ね」

 「断食したって減量するのは一瞬よ」

 「だってしょうがないじゃん。最近遅い時間に食べること多いし」

 「私も一緒じゃない」

 「美織の体は参考にならないよ」


 独り暮らしのアズサと比べ、美織の実家には優秀な家政婦がいる。きっと栄養バランスも考えられているに違いない。


 「そういえば、ガムなら持ってるけど?」


 美織はポーチから緑色の包装紙に包まれた小粒のガムを手渡す。


 「うえー、ガムかー。しょうがないなあ」

 「貴方ね、人が親切心であげてるのにその態度はないでしょ」

 「ごめんごめん、ありがと」

 「辛いやつだけど平気よね?」

 「まあ、大丈夫かな。アタシ結構、辛党だし………って辛っ!なにこれ、すごい舌が痺れるんだけど!」

 「だから言ったでしょ」


 「でも、なんかお腹一杯になってきたかも」

 「それは気のせいよ」

 「なんで?」


 美織は自分の頭を指す。


 「人は食事をし始めると血糖値が上昇する。すると脳内の視床下部っていう所にある満腹中枢にブドウ糖が送られるようになって食欲を抑えるように働くの。ちょうど食べ始めてから20分くらいが目安ね。だから貴方のは気のせい」

 「へえー、よく分かんないけど、美織スゴイね」

 「これくらい常識でしょ?貴方も本気でダイエットしたいなら、満腹中枢の働きを上手くすればいいじゃない?」

 「え?どういうこと?」

 「自分で考えなさいよ」


 佐伯は二人の会話の途切れを見つけ、助手席から後ろを振り向く。


 「お二人とも、もうすぐで着きますよ。あそこに大きなドーム型の建物が見えますよね。あそこです」


 メロンパンのような半球状の建物が窓外に大きく映る。


 「わあ、デカいなー!」

 「周りに何もないから分かりづらいけど、近くで見ると確かに大きそうね」

 

 「数分で着きます。降りる準備を始めてくださいね」




 普段はプロ野球の試合が行われている国内最大級のドーム、ここで25時間テレビのチャリティーイベントが開催される。この地域は半年前、季節外れの大型台風に見舞われ甚大な被害を負った。連日、テレビ局のヘリコプターが周囲を飛び交い、お茶の間の人々は泥水に飲み込まれる家屋や河川を見て息を飲んだ。大きく被害を受けたのは田畑や山林で、多くの農家は経営が維持できず一時廃業が相次いだが、幸いにも災害による死者は出なかった。

 そして今日、地域復興プロジェクトの一環として歌手やアイドルグループ、有名スポーツ選手や俳優など多くの有名人を招き入れ、訪れるファンから義援金を募ろうというのだ。


 「もう人並んでる!すごい人…、アイドルになった気分だね」

 

 車を降り楽屋へと向かう道中、二人はドームの入口周辺でうごめく人々の群れを見つける。


 「それはもちろん、アイドルもいるからじゃないの?」

 「それはそうだけどさ……、この中にアタシたちのファンっているかな?」

 「さあ、ね。事務所のHPくらいでしか告知してないから、可能性は低いんじゃない。それにそもそも私たちのファンなんて多くないでしょ」

 「そっか……」


 「今日ファンになってもらえばいいじゃないですか」


 佐伯が二人の肩を叩く。


 「はい!」

 「分かってるわよ」


 満面の笑みを浮かべるアズサと微かに笑みを浮かべる美織、佐伯はその表情を見て二人が過度に緊張していないことを悟る。

 

 関係者入り口と書かれたプレートの下をくぐると、そこは既に外とは違う空気になる。業界の関係者が忙しなく通路を往来し、テレビでよく見かける著名人がふと脇ですれ違う。番組を成功させるという同じ目標に向かって進む者たちだけが進入を許されるエリア、佐伯はこの場所の空気が好きだった。

 だから佐伯には分かる、この現場を食ってやろうという者たちの覇気が。前方からこちらに向かって歩いてくる男女の二人組を知っている。


 「カトさん最終打ち合わせはいつ?」

 「16時だ、共演者と一度顔合わせもするらしい」

 「それまでメイクさんに化粧直ししてもらってもいいかしら」

 「さっきしただろ」

 「ドーランがちょっと濃い気がするのよ」

 「いつもそれぐらいじゃね……お?」

 「あら?」


 二人組の男女は佐伯の前でピタリと立ち止まる。

 佐伯は軽く会釈をした。


 「加藤さん、智乃さん、おはようございます」

 「佐伯じゃねえか。ってことは仲良し二人組も一緒か」


 加藤は佐伯の背後にいる二人に目を向ける。


 「おはようございます!」

 「……おはようございます」

 「相も変わらずだな、お前ら二人も。最近はウチの智乃が色々とお世話になってるみたいだが」


 智乃が加藤の前に出る。


 「おはようございます。その節はどうも」

 

 低い調子の声、そして見つめたものを凍えさせるその凍てつくような視線は明らかに美織一人に向けられていた。例のラジオの一件から二人の仲はメディアに煽られる形で日に日に険悪になっていった。それをさらに助長するようにテレビ局が次々に共演の場を設け、カメラを通すことでしか話し合えない二人はすっかり猿と犬の関係になってしまっていた。


 「どうも」


 美織は短く返事をする。


 「それにしても、佐伯良かったな。25時間なんてハレの舞台もらって」

 「ええ、ホントに明奈さまさまですね」

 「その明奈はどこだ?別会場だったか?」

 「そうですね。総合司会のいる本会場です」


 智乃が奥歯を強く噛むのを佐伯は見逃さなかった。


 「あの、カトさん私先にメイクさんの所に行ってます」


 そう言うと智乃は足早にその場を去っていく。


 「お?おう、打ち合わせ16時な」

 「なんだか智乃さんピリピリしてますね」

 「ああ、これだけ大きい会場で今日は司会を任せられてる。それなりに緊張はあるんだろ―――ていうのは嘘で、本当は自分が本会場に呼ばれるはずだったっていう悔しさがあるんじゃないか」

 「なるほど」

 「おまけに今日はいつも噛みついてくる犬っころも一緒だし、スタッフの求めるものに腹も立ってるんだろう」

 「本当にすみません」

 「謝るなよ。俺だってそれを分かってオファーを受け入れてんだ、少なからずアイツの為に利益があると考えてやってる」


 業界でも指折りの敏腕マネージャーである加藤にそう言われて、少し気持ちが軽くなった。佐伯はフッと頬を緩ませる。


 「とにかく、今日は二人をどうかよろしくお願いします」

 「そうだな、今日くらいは仲良く手を取り合っていかないとな」

 「ほら、二人もお願いして」

 「お願いします!」

 「お願いします」


 佐々木智乃だけではない。今日は日本を代表する大物タレント達が一堂に会する。その中で二人はうまく立ち回れるだろうか、佐伯には一抹の不安があった。アズサにも美織にもそれぞれの個性があり、互いにそれらの能力を補完することでここまで駆け上がってきた。彼女らの実力は認めている、いつもと同じように振舞えばカメラの視線を独占することだってできる。全国のテレビ画面に、そして人々の手の届くところに二人の姿を届けることができる。

 今日この場で一番目立つことができるのは小木アズサと浪川美織だ―――その確信はある。確信はあるが、そのビジョンが見えない。それが佐伯の抱く不安だった。湧き上がる自信と奮い立つ勇気を二人は持ち合わせている。佐伯も同じだ。しかし、佐伯にとって売れるための展望が視えなければ安心はできない。


 この大舞台で彼女らを存在感の無き者にしてはいけない。

 何か策を講じなければ―――――佐伯の勝負師の眼が妖しく光る。







 『こんばんは!会場は再びここっ!青梅臨海ドームに戻ってきました!』


 拡声器を通し、佐々木智乃の声がドーム内に響く。会場の観客は思い思いに歓声を上げ、会場全体の熱気を伝えようと奔走するカメラに向かって大手を振る。


 『会場は大変盛り上がっております!』

 『智乃ちゃーん!義援金の集計が終わった模様ですよー!』

 

 ステージ上の大きなモニターに男性アナウンサーが映る。別室の大広間で小銭と札束の山を背に笑みを浮かべるアナウンサーとスタッフ、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 

 『安藤アナ!集計結果をお願いします!』

 『皆様のおかげで現在!義援金は75,628,045円!75,628,045円です!』

 『みなさん!たくさんの募金ありがとうございました!なお、HPでは放送終了までの、あす8月31日の20時まで募金を受け付けております!皆様からのあたたかいご寄付をお待ちしておりまーす!』 


 佐伯は一人楽屋で生放送の様子を見ていた。

 放送は東京の本会場から中継という形で都度、こちらのチャリティーイベントが映し出される。プログラムによれば、次はこのドーム会場で一時間の枠を取って紅白クイズ大会が開催される。企画としてはありがちな内容だが、それが一流タレント達の手にかかれば、最高のパフォーマンスショーに成り代わる。


 ここまで自己紹介しかしていないアズサと美織にとってはここが正念場だ。


 

 『さて!ここで恒例の企画に参りたいと思います!紅白対抗、早押しクイズ対決―――――!』


 会場のボルテージが一気に上がる。サーチライトが会場内を交錯し、最後にステージに立つ芸能人たちに刺さる。


 『企画内容を説明したいと思います!皆さんには二人一組になっていただき、一人が解答者、もう一人がこのお楽しみBOXに入っていただきます。クイズに対してお手元のボタンを押して解答してください。正解すれば10ポイント、不正解の場合は――――こうなります!』


 電話ボックスほどの大きさの構造物に入ったお笑い芸人が戸惑いの表情を見せている。佐々木智乃の声とともに頭上から赤い液体が滝のように流れ落ちる。


 『え?なんなん!これ!……って熱っ!めっちゃ熱いやんけ!』

 『不正解者のパートナーにはこのように罰ゲームを受けていただきます!ちなみに今かぶっていただいているは特別仕様です!皆さんにはあっつうい熱湯をかぶってもらいます!』

 『何で俺だけロウやねん!』


 蝋人形のようになったお笑い芸人の一言に会場からドッと笑いが起こる。


 『では始めていきましょう!紅白対抗早押しクイズ!』


 熱いロウは視聴者の不安を煽るとともに、それをもっと見たいという欲望を駆り立てていた。今回はデモンストレーションとしてお笑い芸人が被っていたが、次にこの中の人気タレントが被ったら……人々はそれを期待してしまう。

 この番組はお笑い路線から外れようとしても、結局はこうなるのだ。24年の伝統と慣習が自ずと番組スタッフを元の道へと突き動かす。視聴率が低迷しようと、これを見続けている視聴者はお笑いを求めているのだから当然と言えば当然の帰結だった。

 佐伯はここ数時間の放送を見ながら冷静に分析する。こうなることは数週間前から分かっていた。呼ばれているタレント達が多かれ少なかれ、バラエティに精通する者たちばかりだからだ。だから、アズサと美織にも同様の立ち回りを求めなければいけない。

 

 佐伯は本番前の楽屋で交わした会話を思い出す。


―――話したいことってなんですか?佐伯さん。


―――アズサさん、あなたにしか頼めないことがあるんです。


―――私にしか?どういうことですか?


―――今日の生放送はきっとバラエティ色の強い番組進行になると思われます。そこで一つあなたにしていただきたいことがあるんです。


―――


―――はい。浪川美織をおとしいれてください。


―――え?それってどういう……?


―――今まで多くのバラエティ番組に出演してきましたね。美織さんは口数少ない硬派なキャラ、アズサさん……あなたは場を盛り上げるムードメーカーであり、そして泥を被るキャラでした。ハリセンで頭を叩かれるのも、昆虫料理を食べさせられるのも、谷底にバンジージャンプをさせられるのも、熱湯風呂に突き落とされるのもいつもあなたの役目だった。でも、もし今日だけでもその立場が代わったら……、私はそれが見てみたい。


―――でも、美織はきっと…。


―――嫌がるどころか、話も聞いてくれないでしょうね。だからこそ、こうして美織さんに隠れてお願いしているんです。


―――でも、佐伯さん。アタシは美織と仲良くしてたいし、そんな裏切るような行為はできないですよ……。


―――これは裏切りじゃないんですよ、アズサさん。あなたたちが売れるための近道なんです。


―――近道?


―――今のままだと、売れるのはアズサさんあなた一人です。美織さんを蹴落としてね。それでいいんですか?ここまで共に歩んできた友を裏切るんですか?


―――そんな、でも……。


―――私はあなたを信じています。言いたいこと分かりますよね?


―――佐伯さん……。



 アズサは最後まで浮かない顔をしていた。だが、アズサはきっと期待通りの行動をとってくれると確信している。彼女はそういう性格の人間だ。長いものに巻かれ、心のしこりとなるものは取り除いておきたいと思う性格だ。マネージャーの私の言うことは必ず聞く。美織から嫉まれるようなことがないように配慮もするはずだ。


 アズサは必ずやってくれる。

 現に本番前の打ち合わせで罰ゲームを受ける相方に美織を指名し、自らを解答者とするようスタッフに話を持ち掛けていた。美織は終始納得がいかないような表情をしていたが、アズサが打ち合わせ後に何かを美織に耳打ちしていた。どうやら、上手く美織を言いくるめたようだった。



 『あち、あち、あっついって!!熱いって!』


 若い男性タレントの頭上に熱湯が湯気を立てながら注がれる。

 それを見た観客から歓声と悲鳴が上がり、ステージ上のタレント達が指を差して笑う。


 『さて次の問題に参りますよー!』


 出題者である智乃が台本とマイクを手に呼びかける。

 解答者たちが一斉に手元のボタンに神経を注いだ。


 『次の問題は特別問題です!この問題に正解できなかった場合は……、皆さんもうお分かりですよね!そうです!熱ぅいロウをかぶってもらいますよ!』


 罰ゲームを受ける者たちが大きな声を上げて騒ぎ出す。

 解答者たちに絶対に正解してほしいという嘆きだ。その嘆きが如何に真に迫っているかをアピールする、関係者の側から見ればそのような争いに見えた。しかし、美織はただ一人動きも騒ぎもせずじっとアズサを見つめていた。ここまでアズサは不正解を出さなかった。分かる問題は確実に正解し、分からない問題は安易にボタンを押さない。それはどうやらアズサと美織の間で交わした約束のようにも見えた。


 『では問題に参ります!今年、米倉和美さん著書の「カムカムダイエット」という書籍がベストセラーとなりました。この「カムカムダイエット」は食べ物をよく噛んで飲み込むことで満腹中枢を働かせ、実質的な食事量を減らすというダイエット法でした。では、この満腹中枢は食べ始めてから何分で働き始めるでしょうか?』


 『はい!』


 赤いパトランプが光る。


 『はい!アズサちゃん!答えをどうぞ!』


 誰よりも早くボタンを押したのは、アズサだった。


 『正解は―――』


 アズサは一瞬、困った表情を見せる。一般の視聴者には反射的に押したものの、正解に悩んでいるように見えたかもしれない。だが、実際には違う。彼女は正解を知っている。知っている上でに悩んでいるのだ。いま必死に彼女は考えている、天秤がどちらに傾くべきかを。


 佐伯はアズサの苦悩の表情を無心で眺めた。


 など分かっているじゃないか、佐伯は声にならない声で静かに呟く。


 君たち二人が、売れるためだ。



 『正解は、3分です!!3分!!』



 『残念、不正解です!!』


 佐々木智乃がスタッフに目配せをする。

 その目は嬉々として、ロウを流せ、と言っていた。

 

 バラエティで使われるロウは俗に『低温ローソク』と呼ばれるものを使用しており、実際に肌で感じる温度は低い。ただその溶岩のような見た目のインパクトが人々にとても熱いものだと錯覚させる。実際の事はともかくとして、それがテレビにおいて最も重要なものだ。視聴者にいかに強烈な印象を与えられるか、それこそが至上命題なのである。

 その意味で熱く煮えたぎったロウは視聴者の関心を十二分に寄せ、そしてそれを被る人間に意外性があればあるほど、なお良い。


 罰ゲームを受けるお楽しみBOXに入ったのは、若手お笑い芸人、地下アイドル、喜劇俳優等の面々、そして浪川美織だった。


 誰もが期待していただろう。

 いつも高飛車な態度をとるお嬢様がロウにまみれる瞬間を誰もが望んでいたに違いない。



 美織が一瞬にして赤いロウに包まれる。

 赤一色になった彼女の全身が艶やかに光を反射する。

 微動だにしない彼女は本物の蝋人形のようだった。


 笑いと悲鳴が入り混じる。


 彼女の瞳は閉じられたままだった。

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