*
都内某カメラスタジオ。大小さまざまな姿が見える大人たちの中に、若人が身を寄せ合い多様な表情を見せている。室内にフラッシュがたかれる度、その顔は皆一様に笑顔になり、一瞬にして素顔に戻る。
「はーい!そこの子!もうちょっと腕を上げて!」
揃って各々のポーズをとるタレントたちに、カメラマンが声を張って指示をする。
「いいねえ、もうちょっと振り切ってみよっか」
「そこの子前出過ぎ!後ろ下がって!」
「はい、一度撮るからね―——」
眩しいフラッシュが室内を一瞬照らす。
「チェック入りまーす」
数人のスタッフとカメラマンがモニターをチェックする。しかし、あまりに出来が悪いのだろう、悪意しかない舌打ちまで聞こえてくる。
それもそのはずである。彼らは自身らの満足のいく方法でこの撮影に望んでいないからである。
「あの……君さあ、ここは皆で目線を合わせるところだって言ったよね?どうして急に指示してない目線の方に顔を振り向かせるのかな?」
チーフカメラマンがその悩みの元凶である女性の前に立つ。
「この目線がいいと思ったからに決まってるじゃん」
彼女の目は何一つ物怖じしていなかった。
「あのねえ、大体、君がどうしても真ん中がいいって言うからわざわざ配置変えたんだよ?まだ何か不満あるの?」
「おじさんさ、いくつ?」
「いくつ?」
「年齢聞いてんの」
「今年で五十だが、それが何か?」
「じゃあ、カメラマンになってからは?」
「もう三十年になるよ、希望社でずっと専属カメ——」
彼女は鼻で笑い、そのキリッとした目つきで男性の瞳をまっすぐに捉える。
「だからじゃん。希望社ってあの世界の絶景集とかよく出すとこでしょ。そこんとこの専属ってことはあなた長い間風景写真家だったんじゃないの?どおりで指示が画一的だと思ったのよ」
「な……」
男性のまぶたが痙攣し、顔がどんどんと引きつっていく。
「アンタ年頃の女の子の写真の撮り方知らないでしょ。もっと立体的に捉えたほうがいいよ。自撮りに精出してるそのへんの女子高生にでも話聞きに行ったら?」
「ききききき君はなんていう事務所の小娘だ!!ええ?!」
遂に堪忍袋の緒が切れた男性は怒号を飛ばす。
「仕事相手の名前も知らないんだ。私たちのこと景色だと思ってるからじゃないの」
「出て行けっ!!!」
その女性は息を荒立てる男性の前を何事もなかったかのように、颯爽と去る。そしてスタジオ内にいた関係者の前に立ったあと、その人物の裾を引っ張り、なおその歩みを止めなかった。
「ちょ、ちょっと待って!美織さん!」
裾を引っ張られよたよたと歩く佐伯は、その彼女を静止させようとする。
「いいから。早く行こ。こんな仕事、最初からやる気ないっての」
佐伯はスタジオのドアの外に吸い込まれていくその際で、「後ほど謝罪に向かいます!!」と叫んだ。が、顔を真っ赤にしたカメラマンと呆気にとられたほか関係者の耳には届かなかった。
「美織さん!美織さん!」
「なに佐伯」
スタジオ施設内の一線に伸びる廊下を二人足早に歩く。
「あんなことをされては本当に困ります!今後あの方から目の敵にされますし、もっと言えばこの手の仕事はなくなります」
「別にいいじゃん。元々、私はやりたくないって言ってたんだから……こんな着ぐるみまで着せられてさ!」
彼女は米菓子の『おかき』を象った着ぐるみを上下に着ていた。顔の部分だけ露出したその着ぐるみはこんな状況でなければ、罰ゲームでしか使わないだろう。
創立六十周年を記念し、とある米菓子の老舗が改めて自社商品のPRにと若い女の子を『おかき』に扮させ、ポスターを作ろうという案が出たことから今回この仕事が入った。
「っていうかさ、何なの!!私、写真の仕事ばっかなんだけど。出られてラジオとか……あなた仕事してんの?」
「私は一度だって職務を放棄したことはありません」
佐伯が彼女の担当マネージャーになって早二ヶ月が経とうとしていた。今はまだテレビ放送に起用されることはなく、イベントやラジオ番組、そしてこうしたモデルの仕事が大半を占め、地道な活動を続けている。
これも『写真を意識させろ』と言った井上社長の呪いなのか、彼女にはこのような仕事しか入ってこない。
「じゃあ、いつになったら私は売れるわけ?」
「でしたら、その横暴なやり口をやめてください。今月に入ってカメラマンの方と喧嘩するの何回目ですか?私の身が持ちませんよ」
「もう写真の仕事は全部断って!テレビかラジオ!モデルの仕事ならファッション誌のみにして!」
金切り声を上げる美織、佐伯は溜息をついた。
「とにかく、今日は次の仕事もありますから……早く支度して行きましょう」
「次の仕事?何?」
「いつも週間スケジュールをお渡ししてるはずなんですけどね……」
「で、何?」
またも深い溜息をつく佐伯に、美織はメンチをきる。
「ショッピングモールのイベントで、キャンペーンガールのお仕事が入っています。今度はちゃんとした服を着させてもらえますよ」
「そんなの絶対条件に決まってるでしょ」
「あとこのイベントに参加するタレントは、みんなウチの事務所の子達ですから、何かといい機会になるかもしれませんよ」
「いい機会?」
「同じ事務所なんですから。情報交換もできますし、何かと刺激になります。お互い切磋琢磨できる仲間が見つかりますよ」
美織は顔をしかめて、不満げな顔をする。
「切磋琢磨って……自分は自分じゃない。他人とどう手を取り合うってのよ」
「みんな同世代の女の子たちですよ?それも同じ高みに上り詰めようと志す人たちが集まるんです。自然とお互いを意識し、意気投合するのは当然のことです」
「ふん、どうでしょうね」
若いタレントが一番実力をつける方法を佐伯は知っていた。それは自身の中に『仮想敵』を作らせることである。
自分磨きがタレントの仕事と思われがちだが、実際には全く違う。自分と波長の合うライバルを作ることで、それに追いつこうと努力し、同じ高みに立ち、そして勝ち越した時、彼らはその世界で唯一無二の存在となる。
今回のイベントのキャンペーンガールは毎回、光陵プロダクションのタレントが務めることになっている。それを知っていたから、佐伯は敢えてこの仕事を入れさせてもらった。
全ては彼女のために。
*
東京に隣接する某県の大型ショッピングモール、ここでは毎年、地元の特産品をアピールするために大きなイベントを行っている。来場者は年々増加傾向にあり、主催者としては今年もやらないわけにはいかないといった意気込みのようである。
店内は、週末とあって家族連れやカップルが多く目立ち、イベントの方も参加者はまずまずといった様子である。
その中に混じって作業着を着た農家の人間や、キャンペーンガールである光陵プロのタレントが各自PR活動に勤しんでいた。タレントは開幕式の元気な挨拶以外は、各自それぞれの仕事がある。出店の店先で客引きをする者、道行く人にチラシを配る者、そして舞台で踊りを披露する者など様々である。
佐伯はイベント内の人ごみを歩き、美織の姿を探す。彼女の場合、こうして常に監視の目を張っていなければ、いつ何をしでかすか分かったものではないからだ。
「あれ、佐伯さんじゃないですか」
その時、佐伯の肩を叩く人物が一人。振り返った先の視線はつつつと下に下がり、その小柄な男性を視野に捉えて佐伯はようやく反応を示す。
「徹川さん、お久しぶりですね」
「いやあ、久しぶりだね。君、また背が伸びたんじゃないの?」
「はは、もういくつだと思ってるんですか」
彼、徹川宏太は同じ光陵プロの同僚で、佐伯より一年ほど早く入社したマネージャーである。ただそれ以前に佐伯は数年間別の事務所で働いていたので、経験年数がほぼ同じということもあり、よく話す間柄にあった。
彼はいつもその年に見合わない小柄な体型をネタにして「君、また背が伸びたんじゃないの?」という言葉で笑いを誘う。
「でも……久しぶりと言っても数ヶ月前くらいですかね」
「そうだね。あの時はアキちゃんの担当だったね」
『アキちゃんの担当』という久しく聞いていないフレーズと、最近すっかりテレビに引っ張りだこの羽島明奈の名前が佐伯の脳内を交錯する。
しばしの間に思慮にふける佐伯はどこか悩ましげな表情をしていたのだろう。徹川はとっさに言葉を重ねる。
「き、君の活躍のおかげでアキちゃんは大物タレントになったじゃないか!これからが楽しみだね!ね!」
「いえ、彼女自身の実力です。私はただのハウスマネージャーですよ」
「はは……またまた、冗談きついなあ」
これから、という言葉も佐伯の『噂』を考えれば、何か他意があるように感じてしまう。しかし、そんなことまで慮るのは少々杞憂に過ぎるのではないだろうか。徹川もまた悩ましげな表情をする。
「さて、それより佐伯さん……新しい担当の浪川美織さんはどうなの?今日、来てるんでしょ?」
「はい…何も問題を起こさないでくれればいいのですが」
「かなりの問題児らしいね。君も苦労が絶えないなあ」
「小木アズサちゃんは最近どうです?」
小木アズサは徹川の担当するタレントである。最近は周囲に「お嬢様」と呼ばれ、目下その路線で売り出されている女性タレントである。現在は同期の羽島明奈に先を越されその影を潜めてしまっているが、容姿端麗、眉目秀麗とテンプレのような言葉を着飾っても名前負けしない顔だちをしており、ポテンシャルは十分にある。
しかし、だからこそ芸能界ではオンリーワンになれない。顔だちのよい人ならば掃いて捨てるほどいるからである。そのことを案じてか、彼女はこのところお嬢様のような所作を勉強し、他のタレントより頭一つ抜きん出ようとしている。出自は公務員の両親を持つ家庭であるため、お嬢様には程遠い存在なのだ。
「彼女も彼女で努力はしているんだけどね…」
「そういえば、こないだモデルウォークの練習をしているのを赤上スタジオの楽屋前で偶然、拝見しましたよ」
「ああ、モデルウォークね…」
佐伯は小木アズサの努力に感心し、浪川美織にも是非見習ってほしいものだとそう息巻くように話を持ち出した。しかし、意外にも徹川は苦々しい表情をしている。
「なかなか様になっていたと思いますが…」
「佐伯さん、本気で言ってるのかい?確かに僕もあれで随分ましにはなったと思うよ」
「以前はもっとひどかったんですか?」
佐伯は当時の様子を思い出す。
そういえば、体の芯はしっかりしていたが、それも強制したような動きで、目線は何処にあるか掴めぬほど錯乱していたように思う。よほどその姿勢を維持するのが辛かったのだといまさらながらに思う。
「まあ、ひどいなんてもんじゃない。最初は生まれたての小鹿が歩いてるのかと思ったよ」
「はは…そうですか、私が見たときはかなり自立しているように見えましたが…」
その時、徹川が眉をひそめる。
「あの子はデビューして以来、一度も自立なんてしていないよ」
徹川はそれまでせき止めていた水を制御できないようだった。築堤された囲いは少しづつじんわりと瓦解し始めた。
「あの子はね、かなり家族に甘やかされて育った子なんだ。一人っ子の家庭で、あまり社会の常識を教わってこなかったみたいなんだよ。それにあのルックスだろう…?周囲も彼女にきつくあたることはなかったと思うんだ」
「まあ、そういうの…若い子には多いですけどね」
「彼女はその最たるタレントだ。あ、僕の担当してきた中でね」
徹川はこれまで年増のタレントを担当することが多く、何かと若いタレントとのギャップを感じることがあるのだろう。佐伯は徹川の境遇を察し、苦笑いを浮かべる。
「最近、彼女が『お嬢様』って呼ばれているのは知っているだろう」
「はい。何度かラジオ等で」
「確かにあのお嬢様気質は素の彼女さ……だけどね、彼女に刷り込まれているお嬢様はマリー・アントワネットなんだよ」
「マリー・アントワネット?」
「親の愛情に恵まれて育った自分を人とは違う、何か特別な存在だと思い込んでいるんだ。だから自分を良く言う者にすり寄り、悪く言う者を無下に扱う―――要するにどうしようもないワガママ姫ってことさ」
「それが彼女からにじみ出る『お嬢様』ってことですか」
「そう……だからね、みんなの想像するような高貴なお嬢様ではないよ。視聴者の目は甘くない、ただのわがままな女の子なんて見てても面白くないからね。だから僕のほうから、それらしい所作を勉強しなさいって言ったんだ…!」
「徹川さんも苦労されてるんですね…」
「そうだ…聞いてよ、佐伯さん。こないだもね―——」
語気を強めて話す徹川を静観する佐伯。
徹川は陽気な性格で、自分から事を荒立てて話すような人間ではない。しかし、仕事のことならば話は別だ。芸能界という荒波をオール一つで漕いでいくか弱い女性タレントを守るのが自分の使命ーーーその責務を感じているからこそ、徹川は熱くなっていた。佐伯はそんな彼の闘志を感じずにはいられなかった。しかし、佐伯は徹川の話から想像される小木アズサを少し面白いと思うようになっていた。どこか自分の担当する浪川美織に似ていて、浪川美織に欠落したものを持っている。
これは上手く相乗効果を引き出せるかもしれない。
「徹川さん」
考えるより言うが早いか、佐伯は徹川の話に食い気味に言葉を差し込んだ。
「なんだい?」
「ちょっとそのアズサさんとうちの美織さんを会わせてもらってもいいですか?」
徹川はキョトンとする。
「うん……別にいいけど、あの子すぐ同族嫌悪するよ?大丈夫?」
徹川にも美織がどこかアズサに似ているものを持っていると感じていた。周りを振り回すワガママなお嬢様、そんなラベルを浪川美織に貼っていたのだ。
「その点は大丈夫です。会ってみるまで分かりませんが、彼女とはタイプが違うと思います」
「そうなの?」
「はい。先ほど、徹川さんはアズサさんの『お嬢様』はマリー・アントワネットだって言ってましたよね?」
徹川は話が呑み込めないというようにゆっくりと頷く。
「美織さんはネフェルティティみたいなお嬢様なんですよ。きっと仲良くしてくれると思います」
そう言って佐伯は微笑んだ。
「ネフェルティティ?」
徹川はその寸胴な首をかしげる。
「はい。あのエジプト王妃のネフェルティティです。美織さんにはあの女性がぴったりだと思うんです」
「いやあ、僕にはそのネフェルティティという人が……」
頭をポリポリと掻く徹川の背後に佐伯はある人物を見つける。イベントスタッフの着ているものと同じ青いTシャツに白いホットパンツ、首元にピンマイクを付けているところからキャンペーンガールの一人と分かる。
絹のような白い肌にくりくりとした瞳が覗かせる。マネージャーである徹川が親しく話す相手などいないだろうというように、好奇心旺盛なその女性はグイグイとこちら側に近寄ってくる。
「あ、アズサちゃん?」
佐伯はふと彼女の名を呼ぶ。
「あれ、佐伯さんですか?」
小木アズサは胸の前で手を一つ叩いてみせ、「やっぱり!」と言って徹川との間に割って入る。
「遠目にそうじゃないかなあと思ってたんですよ!久しぶりですね」
「うん、徹川さんとはよく会ってたけどアズサちゃんとは長い間会ってなかったからね」
「最近、明奈は……って今は違う子でしたっけ?」
「うん、二か月くらい前に変わってね。今はまたウンと若い子の担当になってるよ」
先ほどの徹川と違い、「羽島明奈」の名を出すことにためらいはない。それは裏舞台を知らない身分ゆえの無知なのか、他人の心情を推し量らない若さゆえの暴虐なのか、佐伯には分らなかったが他意のない純朴な若者に自己の甘さを露呈するのも見苦しい。佐伯は特に明奈のことについてそれ以上口にしなかった。
「それよりアズサ?」
そう切り出したのは徹川だ。
「君は今仕事中じゃないのかい?何をしてるんだい?」
「さっきまで外で歩行者にビラを配ってたんですけどー、暑くて疲れちゃってこっちで涼しんでたら二人見つけて…みたいな?」
アズサは少女が幼気な悪事をごまかすようにペロリと舌を出す。
「君がちゃんと仕事をしてくれているならいいんだけど…」
「何ですか?徹川さん、もしかしてまだ私が仕事さぼるようなタレントに見えますか?」
「サボるとまでは言わないけど…、さっきも佐伯さんと話してたんだ。君にはもう少し人間として成長してほしいって」
「ええー、ちょー心外ですよ。私だって毎日頑張ってるのにい」
アズサは徹川の袖を引っ張り、頬を膨らませる。
「いいから早く行ってきなさい」
「はあい」
気の抜けた返事をするアズサ。
「それじゃ、佐伯さんまたね!」
大きく手を振り、人々の喧騒の間に入っていく。佐伯はその様子を見届け、同じく手を振る。彼女の姿が見えなくなったところで、小さく息を吐く。
「なんだか、お嬢様というよりわがまま姫という感じでしょうか」
「全くその通りさ。僕が悩むのも無理ないだろう?」
「そうですね…」
「じゃあ、さっきの話だけど明日の夜なんて空いてるかな?浪川美織さんも、君も」
佐伯はバッグからスケジュール帳を取り出し、明日は仕事が入ってないことを確認する。
「ええ、問題ありません」
「お互い何か発見があるといいね。やっぱり僕には彼女らを会わせるのは何だか一抹の不安を感じるけど」
「私も少し心配ですが何とかなるでしょう」
佐伯はこうは言ってみせたが、彼女たちに何かしらの化学反応があることを十分予測していた。ただそれが吉と出るか、凶と出るかまでは断定できなかった。だが、現状まだ日の目を見ることのできない彼女らにとって伸るか反るかは明らかであった。
「では、また明日に」
*
ここはとある都内の喫茶店、歩道から一段下がった地下にあるこの店は白昼だというのにどことなく暗い。店内の照明も安全灯のような淡い光を発し、よりその暗さを演出していた。聞き覚えのあるクラシックミュージックが流れ、夢中のノスタルジーを感じさせる。一身丈の観葉植物が店内のまばらな客の様子を清閑に眺める。徹川の行きつけというので来てみたはいいが、未だ彼の姿が見えないという不安と彼に似つかわしくない店の装いに佐伯は少々困惑していた。
そして隣に座る美織にもまた困惑の色が見える。
「今日ってオフじゃないの?なんでこんな場所に呼び出されなきゃいけないの?」
美織には困惑よりは苛立ちの色が勝っているようだ。
佐伯は「こんな場所」という言葉が店員に聞かれてないか辺りを見回し、声を小さくして美織に答える。
「ちょっとしたお疲れ会だと思ってください。こんな所ですが、たまには休息も必要です」
「はあ?じゃあ、普通に私宅で休ませてくれればいいじゃない」
自分の家を「私宅」と呼ぶあたり、金持ちの娘らしさを感じさせる。庶民に「別宅」などありはしないのだから。
「ですから、少し会っていただきたい人がいるんです」
「私が人付き合い苦手なのは分かってるでしょ」
「それはもう十分に」
「だったら何で呼ぶのよ」
「芸能界は人づきあいがモノを言うんです。これから先、色々な舞台に出ていく過程で共演者とのコミュニケーションは必須です。もしあなたが本当にこの世界で生きていきたいというのであれば、通らなくてはいけない要所です」
佐伯は理路整然と理屈を述べる。彼女は暴虐無人な一面もあるが、理に適っていることはしっかりと受け入れる。理論武装で臨んだ方が彼女を御しやすいということを佐伯は知っていた。
「……ふん」
美織は鼻を鳴らし、口をとがらせる。
その時、店内の来店ベルが鳴る。小柄の男とその横にすまし顔の女性が一人、そのシルエットで徹川とアズサの両名だということが伺えた。佐伯が彼らの方に手を振ると徹川は少し両足を浮きだたせて佐伯の姿を確認する。
「いやいや、遅れてごめんね。佐伯さんに……浪川美織さん」
初めて会う人間に懐疑的な目線を浴びせる美織。
「いえ、大丈夫です。こちらこそお仕事の合間に来ていただいて」
佐伯は席を立ち、会釈をする。
「またこの店ですかあ、徹川さん」
アズサは乱れた前髪をいじりながら席に着く。
佐伯はその彼女の言い草にギョッとし、店員に聞かれていないか周りを確認し小声で挨拶をする。
「アズサさんもすみません。お仕事お忙しいのに」
「そんな……佐伯さんに呼ばれたんだから来ますよお」
猫なで声のアズサに多少イラついたのか、美織のほうからこぶしを握る音が聞こえる。
「で、佐伯さんの担当ってその子で……」
「そう、アズサ。あちらが同じ光プロの…」
「あ————!!」
アズサは身を乗り出し、美織を指差す。
「こ、この子、あの時の……!」
「人を指ささないで。あなた相当育ちが悪いのね」
その指を平手で払う美織、その表情から察するに彼女もまたアズサのことを知っていたようだ。
「なんだ、二人とも知り合いだったのか」
「徹川さん、もしかして今日会わせたい娘ってこの娘?」
「そうだよ」
「ぐ……私、帰ります!」
アズサは席について間もない腰を浮かせてその場を離れようとする。
「ちょっと待ちなさい!アズサ!」
「アズサさん!」
徹川の声に続き、佐伯はアズサの手を取り、制止させる。
「少しでいいのでお話をお聞かせください」
佐伯の真っ直ぐな目に堪忍したのかアズサはゆっくりと椅子に腰掛ける。
「何があったんです?」
それは先日の、某県ショッピングモールにて行われたイベントでの出来事であった。アズサは近郊農業で知名度を上げているとある玉ねぎ農家のPRガールとして、ブースの前でビラ配りをしていた。ただ若い女の子が声を張っているだけでは人の目を引くことができないことを彼女自身、理解はしていた。理解はしていたが、実際にこの場に立って初めて理解が現実のものと認識した。道行く人たちはアズサを一瞥しても、後ろに積まれた玉ねぎには目を向けない。こっちも若い女の子が立ってる―――そんな矮小な興味を立てられるだけだった。ただこうして色んな人からゼロコンマ何秒の注意を引くだけの仕事、それが私に与えられた使命だと最初は感じていた。
「アルプス山系の綺麗な山水で育ったワサビ!そのままでも美味しいですよー!ぜひご賞味くださーい!」
「今朝とれたばかり!新鮮なリンゴを炭火で焼いた網焼きリンゴはいかがですかー!あ、そこのお兄さんお一つどうです?」
2時間、3時間と時が経ち、周囲で参加者と親しげに話す同期タレントを見るうちに彼女は胸中に熱いうねりのようなものを感じるようになった。
私は今ここに確かに生きる『小木アズサ』だ、後ろで退屈そうにパイプ椅子に腰かける農家のためにも、乾燥と戦う玉ねぎの山々のためにも、そして何よりテレビタレントとして成功する栄光の道のためにもここでひと踏ん張りして頑張らなくてはいけない。
普段はお嬢様を気取ってフワフワと生きている私も地に足付けていこう。どうせ私のことなど誰も知りはしないのだから、ちょっとくらい歯を食いしばってみてもいいんじゃないか。
そう考えたアズサは自分の後ろで猥談をしている玉ねぎ農家の男性に声を掛けていた。
男性らは初めこそ彼女を警戒していたが、アズサの静かなる闘志に何かを感じ取ったのか饒舌に玉ねぎの魅力を話し始めた。玉ねぎがより美味しくなる切り方、世に知られていない美味しい食べ方、そして今が最も旬であるということ―――アズサはそれらを全てメモしながら再度ブースの前に立った。
「ご通行中の皆さーん!今日の晩ご飯に玉ねぎはいかがですかあー!どんなお料理でも使える万能食材、それだけだと思ってませんかー?実はここだけのお話、ございますよー!」
久しぶりに声を枯らした。所々声が裏返ってしまったが、そこは勢いでごまかした。今までとは明らかに違う視線がアズサに向けられる。道行く人々は一瞬時が止まったように、皆一様に同じ顔をしている。
それは純粋な興味を示す表情だった。
肩で息をしながらその群衆を見つめ返す彼女に「お嬢様」の様子はない。
ただこれも悪くない、そう思うようになっていた。まだ何も成し遂げていないが彼女はこの時確かに自分の可能性を感じていた。
「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、これどういう玉ねぎなの?」
主婦らしい一人の女性が歩み寄ってくる。
その視線はアズサでなく、背後に積まれた玉ねぎにあった。普段は自己顕示欲の強い彼女だが、この時ばかりはこれが正解なのだと思った。
「あ、こちらの玉ねぎ、実は生で食べるのが美味しい品種で、糖度が通常の玉ねぎの五倍もあるんですけどお……!」
「あら、そうなの」
アズサは書き出したメモを思い出しながら、思いつく限りの説明をした。決して上手ではない、しどろもどろとした下手な説明だった。
女性の乾いた返答が何よりそれを物語っているようだった。
「あ、あの……」
「一袋いただけるかしら?」
「え?……あ、はい!」
その後も人が人を呼び、アズサの前には玉ねぎを求める買い物客が押し寄せていた。中にはアズサのファンだという者もいたが、多くは彼女の声掛けに歩みを止めた者たちばかりだった。気が付けば農家の男性たちも溌溂と玉ねぎの売り出しをしていた。
眼前に広がるは自分の言葉と熱意に惹かれた人々の群れ。ここはレッドカーペットの上でもなければ、ランウェイでもない。それでも、タレントをやっていて本当に良かったとそう思えた瞬間であった。
「ありがとうございました!ぜひ生で食べてみてくださいね!」
満面の笑みを浮かべながら一袋の玉ねぎを手渡す。
その客を目で見送って、後ろに控えていた客に目線を戻す。
「いらっしゃいませ!自慢の玉ねぎはいかがですか!」
この時に戻れるなら、この瞬間に戻れるならこの客の相手だけはしなかった。この客、この女にだけは声を掛けなかった。
「涼しい夏の気候を生かした太田倉の玉ねぎですよお!」
その女は私と同じ格好をしながら、私とは全てを
「何もしなくても、そのままで食べれちゃうんです!めちゃ甘いんですよ!」
彼女の変わり映えのしない表情に私はムキになっていた。ここまで順調に事が運んでいたばかりに私はきっとこの客も自分の虜にできるとそう考えていた。
「おススメは玉ねぎの炊き込みご飯!この玉ねぎをひと玉まるごと炊飯器に入れたら、そこにニンニクチューブを少しだけ入れてご飯と一緒に炊くだけなんです!」
その考えが甘かった。この女には、満点の営業スマイルも耳障りのいい宣伝文句も通用しない。彼女にはどれも人生において必要のないものだからに違いない。
「これが本当に美味しいんですよ……!!」
私はそれが同じ事務所の人間だということをすっかり忘れて、熱烈なアピールをしてしまった。しかし、時は既に遅かった。彼女はその重い口を開き、”口撃”を始めたのだ。
「あなた本当に食べたことあるの?その玉ねぎ」
「え?」
「食べたことあるの?って聞いてんのよ」
「い、いや、それは…」
私は言葉に詰まってしまった。その間を埋めるように生唾を飲み込んでしまう。
「そうよね?だって生で食べた方がいいのか、加熱した方がいいのか結局どっちか分かんなかったし、生で食べた方がいいっていうならこれはサラダ玉ねぎって事かしら?それなら炊飯器に入れるなんて真似はしないわよね、普通」
そう言いながら彼女は件の玉ねぎに目を向ける。
「それに……、サラダ玉ねぎは乾燥に弱くて時間が経てば辛味が増す。特徴の甘さも、その水分量があってのことなの。取れたてだったとしても、こんな野ざらしで大量に売りつけるなんて―――どうかしてるわ。プロの意識がないのかしら」
付け焼刃の知識をひけらかす私に対する叱責は、この際甘んじて受け入れることができる。しかし、この玉ねぎに魂を注ぎ込んでいる農家の方々は違う。
私は笑顔を崩して、その女に噛みついた。
「何でそんなこと言うの!アンタだってこの玉ねぎ食べたことないんでしょ!」
「そうね。でも良いものと悪いものを見極める審美眼は持ってる」
「じゃあ、これが悪いものだって言いたいわけ?」
「悪いのは玉ねぎじゃないわ。あなたよ」
彼女の口ぶりから察していた答えをズバリ言い当てられていた。
私は言い返すだけの理由を失い、言葉に詰まってしまった。
「さっきから何を言っているかと思えば、支離滅裂なことばかり。大きな声と集まる人だかりで客を寄せているだけ。それがあなたの仕事?」
周囲の客が私たちの問答を横目に、ヒソヒソと声を上げる。厄介なことにはかかわりたくないと、一人また一人その場を離れていく。
「アタシはここのブースを任されてるキャンペーンガールよ、ただ客を集めて何が悪いの!」
もうどうでも良くなっていた。声を荒げて私は彼女の言葉に食って掛かる。さっきまで自分を取り囲んでいた客たちの蔑んだ眼が私の眼膜にチクチクと突き刺さった。
「あなたは自分の仕事をはき違えてる」
感情的に話す私と対照的に、彼女は静かにそう答えた。
「………」
一瞬の静寂がこの場を包む。
顔の筋肉が痛い。感情をむき出しにして初めて気づいた。さっきまでの私はずいぶんと凝り固まった笑顔をしていたことに。
「………」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。騒然とする場を後に、颯爽と去っていった。その後、玉ねぎを買い求める列ができることはなく、薄らいだ夕陽に大量の玉ねぎが寂しく照らされた。
*
「そうですか…、そんなことが」
「はい…」
アズサは事の顛末を話し終えると、鼻をすすった。少し涙腺も赤くなっている。当時のことを思い出しながら、つい感情が込み上げてしまったらしい。
「それにしても、美織さん何でそんなことを言ったんですか」
そもそも仕事を放棄して油を売っていたことも問題だが、目頭を熱くするアズサを見ていると問題はそこではないように感じられた。佐伯は溜息交じりに美織に向かった。
「何で……?佐伯、今の話を聞いて何も思わなかったの?」
アズサの話はやや主観が入っていたとはいえ、概ねはその通りなのだろう。彼女と舌戦を繰り広げれば、このような結果になることは分かる。彼女はいつももっともらしいことを言って相手を言いくるめる。それを『もっとも』と思わせることが彼女の特技でもあるが、その特技を以てただアズサをねじ伏せたようにしか聞こえない。佐伯は美織の言っている意味が分からないというようにかぶりを振る。
「あなたそれでも芸能界の人間なの?この子はあくまでタレント、芸能人なのよ。それを、安売りワゴンの前で拡声器片手に詭弁を垂れる詐欺師みたいな真似して恥ずかしいと思わないの?」
その言葉に反応したアズサが美織を蛇のような目つきで睨む。
「なによ」
美織はアズサをにらみ返し、そう吐き捨てた。
佐伯と徹川は最早、口を出せまいと口をつぐむ。
「アタシのやり方に文句言わないで」
「文句じゃないわ。指摘よ」
「じゃあ、何でアンタに指摘されないといけないわけ?アンタ何様?」
「お嬢様よ」
美織は何の含意もなく、言い放った。それが自分の自己紹介だと言わんばかりに。
「私は本当のお嬢様で、本当の芸能人を目指してる。芸能人なら自分の気品で勝負しなさいよ。馬鹿みたいに舌使わないでさ、その溢れる気品で人を惹きつけなさいよ。芸能人なんだから黙って突っ立ってればいいのよ、それで人を集められる―――それができる唯一の人種なんだから」
美織の飄々とした表情は変わらない。
佐伯はそれが美織の体を貫く一本の柱だと知っていた、知っていたからこそ今日ここに彼女を呼んだのだ。小木アズサの流されやすい性格を直すために―――。
アズサもその言葉に表情を変えなかった。人は真の意味で心を動かされたとき、涙を流さなければ、笑顔にもならならない。それは場に即した反射行動だからだ。この時、アズサはその言葉を受け止め、確かに飲み込んだ。それをしている間に表情など変えている余裕もなければ、瞬きをする余裕もない。
だからアズサも美織と同じように眉一つ動かさなかった。
「さて思わぬ出会いがあったみたいだけど、どうかな?二人とも仲良くできそうかな?」
徹川が三人の前で一つ手を叩き、場を和ませようとする。
「まだここに来て何も注文してないのはお店にも悪いですから、先に何か頼みましょう」
佐伯も徹川に便乗し、場を一旦仕切りなおそうとする。
美織とアズサは互いに見つめ合ったまま、両マネージャーの言うことを聞いていなかった。佐伯はその様子に困ったような表情をしながら、徹川に目配せをした。
「ま、とりあえず何か頼もうか。て、店員さーん?」
徹川もこれ以上はお手上げというように、救いを求めるような声で店員を呼ぶ。
その言葉を合図に美織はアズサから目をそらし、机上のランチメニューに目を通す。しかし、アズサは黙って彼女を見つめていた。その目は愛しの恋人でも見るかのような目だった。もちろん美織に恋愛感情など微塵も持ち合わせていないだろうが、その眼差しを形容するならそう言わざるを得ない。
佐伯の直感がそう言っていた。アズサは美織に憧れている。そして、その憧れは遥か遠くにある星を掴むようなものではない、いつか自分もそうなるべきなのだという明確な目標だ。
店員が来たところで徹川は三人に注文を促す。それまでメニューを熱心に眺めていた美織は「カルボナーラ」といつもの不機嫌そうな口調で答えた。
「佐伯さんは?」
徹川が佐伯にメニューを手渡す。
「私は…いや、私たちはここを出ましょう。徹川さん」
佐伯はそのメニューをアズサに渡すと立ち上がった。
「後は若い二人に任せましょう」
佐伯は少しはにかんでそう言った。徹川は一瞬とぼけた顔を見せたが、佐伯の意思をくみ取ると腰を上げた。
「そうだね。二人ともまた騒ぎを起こすんじゃないぞ」
美織とアズサは思い思いの表情を浮かべながら何も答えなかった。
その様子にむしろ安心したというように、佐伯と徹川はその場を後にした。
残された二人はまたじっと目を合わせる。お互いに目を反らした方が負けとでもいうように、ただひたすらに相手の目を見つめる。
「………」
「………」
沈黙が二人の間を流れる。
しかしその沈黙を打ち破ったのは美織だった。
「あなた注文は?」
「……ボ…ラ」
「何?聞こえない」
「……カルボナーラ!」
アズサは少し涙のたまった涙袋を腕でこする。
「私の真似するんじゃないわよ」
「真似なんかしない……、店員さん、私のカルボナーラ具多めで!」
アズサは力強い言葉とともに鼻水交じりの鼻息を吸い込む。
そして美織から目を離すことなく、微笑んだ。
「ここの新玉美味しいんだから」
「ホントいい性格してる」
美織は不敵な笑みを浮かべ、その場を去ろうとする店員を呼び止める。
「店員さん、私のは麺多めで」
「あ!アンタ馬鹿じゃないの?そんなことしたら大味になっちゃうじゃん!」
「分かってないのは貴方よ、庶民さん」
「私はお嬢様!アンタの馬鹿舌と一緒にすんな!」
「わ・た・し・が・お嬢様なのよ。偽物お嬢様と一緒にされちゃ困るわ」
「アタシが偽物?ホント気に入らない!」
「私が最初に貴方を気に入らなかったのよ、真似しないで」
そこでまた二人ははたと目を合わせる。
お互いにこれ以上は不毛なやり取りだと感じ、細やかな笑みで会話を中断する。
「アンタとはまたどこかで会いそう」
「近いうちにね。佐伯の顔、見てた?気持ち悪いくらい満足げな様子だったでしょ?」
美織は臭いものでも嗅いだように顔を歪ませる。
「佐伯さんが?そんな、いつもと変わらない様子じゃなかった?」
「あなた鈍いわね。あの人のあの眼は良くないことを考えている眼よ。例えば…」
「例えば?」
「私たちでユニットを組ませる、とかね」
「ユニット?なにそれ!アタシ、別にアイドルになりたい訳じゃないんだけど!」
アズサは机に両手をついて身を乗り出す。
「私だってそうよ。ただユニットは言い過ぎにしても、同じ現場で仕事をすることは増えてくるかもね」
店員が食前のアイスコーヒーを持ってくると、美織はそれを受け取る。ストローを差し、水面上に浮かぶ氷をカラカラと回す。
「正直それについてあなたはどう思う?」
「アタシは……」
アズサは何かを考えているようで、また何か言葉を選んでいるようにも見えた。美織と同じようにオレンジジュースの水面上に浮かぶ氷をストローでかき混ぜながら、口を開いた。
「アタシは悪くないと思う。アンタと仕事をするのも…悪く……はないっていうか」
少し顔を赤らめ下にうつむく。ぼそぼそとした声だが、静かな店内のおかげで聞き取れないほどではなかった。
「それが一つで、もう一つは佐伯さんの考えだから」
今度ははっきりと美織の耳に届いた。店内に響くクラシックミュージックが佳境を迎え、アズサの発する一つ一つの声音を際立たせていた。
美織はこの楽曲をよく知っている。これはリストの『愛の夢』第3番変イ長調、クラシックに疎い人間でも必ず聞いたことのある名曲中の名曲だ。美織の祖母が大変この楽曲を気に入っており、お祝い事のたびにいつも祖母がピアノでこの曲を弾くのが通例となっていた。祖母によれば、何でもこの曲を聴くと祖父との出会いを思い出すのだと言う。
祖母は国民的な歌手だった。その愛らしい笑顔と麗しい歌声で日本中の人間を魅了させていた。彼女の髪型やファッションは若い女性のトレンドとなり、街を歩けば彼女のそっくりさんが街中を闊歩していた。誰もが彼女に憧れ、彼女のすべてを得たいと望んだ。
そしてそのすべてを得たのが美織の祖父だ。当時の祖父は芸能事務所の従業員として馬車馬のように働かされていた。現在では考えられないような長時間労働、上司から浴びせられる罵声と叱責、憧れていた芸能界と現実とのギャップにすっかり憔悴しきっていた。そんな折、祖父のもとに思いもよらないオファーが舞い込む。今を時めく女性歌手、清須みどりの付き人にならないか―――というものだった。清須みどりは後の妻、浪川みどりの芸名だ。彼は今の生活が変わるのではないかという期待から、そのオファーに二つ返事で快諾した。
しかし、現実は甘くなかった。多忙を極めるタレントの時間管理は少しのミスも許されず、またそのために日本各地を駆け回った。現在とは違い通信手段も移動手段も限られていたため、信じられるのは自分の足だけだった。今まで以上に不規則な生活が続き、祖父は辞職を考えるようになっていた。
彼が辞職を考えるに至ったのは忙しいという理由だけではない。清須みどりが想像以上に傍若無人な性格だったのだ。彼女は外ではしおらしく振舞っているものの内部の人間に対しては、自分の我儘な意見を押し通そうとする恐ろしい性格の持ち主であった。また自分が独善的な性格を有していると知っていながら、周囲を巻き込もうとするその態度に祖父はほとほと嫌気がさしていた。
そういうわけで祖父が彼女の担当を降りたいと言い出すのに時間はかからなかった。祖父は彼女を行きつけの喫茶店に呼び出し、清須みどりの担当を降り、数日後に辞職願を提出する旨を伝えた。しかし、彼女はそんな彼の言葉には耳を貸さず、店内を流れるクラシックミュージックに気を取られていた。それがリストの『愛の夢』だった。彼女はその曲が終わるや否や、自分の将来の展望を話し始めた。祖父はいつもの自分よがりで身勝手な話だろうとたかをくくっていたが、徐々に熱を帯び始める彼女の『夢』に聞き入ってしまっていた。
―――××××に出演したい。
清須みどりは最後にそう言った。それが自分の、芸能人としての夢なのだと言った。それは確かに誰でも出演できる番組ではない。選ばれた芸能人のみが主演できる番組だ。
それを聞いた祖父はその切なる彼女の願いを叶えたいと思った。そのために自分は何ができるか―――それはずっと彼女の傍らに立って支えてあげることだとそう考えた。まさかそれが一生の伴侶になるとは想像もしなかったが。
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