「あっ……! このシュークリーム美味しい! なんていうか……、ホントです!!」


 シュークリームをほおばる女性は大袈裟にただ頷きを繰り返し、カメラのレンズに満面の笑顔を向ける。何にでも形容できる言葉を用いて、無邪気な表情だけでコメントを繰り返す。


 「なんていうかあ、クリームがほんとに甘くて……、美味しいです!うふふ」

 「はは、アキちゃん美味しそうだねえ。では私も一つ……」


 隣でその様子を眺める中年男性が店員から差し出されたシュークリームを手に取り、豪快に口に頬張る。溢れんばかりのクリームを手で押さえ、なんとか口の中に入れ込める。


 「は、はふぁ、これ本当にっ…クリームの量がすごいですね!それにこの濃厚なクリームとサクサクのパイ生地が舌に馴染むんですね…!ええ、いやあ、ほんと……」


 中年男性はまさにこの言葉に尽きると言うように、満足げな表情を浮かべる。しかし、カメラの後ろに立つディレクターの顔は険しい。その口元をよく見ると「も」「っ」「と」―――「もっとコメントが欲しい」の合図であることが分かった。男性は内心で大きく溜息をつく。

 隣を見ると我が物顔でシュークリームを食べる小娘が一人、もはやこの場は男性の腕にかかってるとしか言い様がなかった。


 「……あれ!もしかしてこのクリーム、先ほど見せていただいた牧場の乳牛のお乳を使っていませんか?」


  男性はとっさに店員に話を振る。


 「え?ええ、もちろん使っております。それが私どもの牧場のウリですからね」

 「ああ、そうですよね!このクリームのコクがあまりに濃かったものでね」

 「苦手ですか?生乳の濃い味」

 「い、いえ!そういうわけでは!とても美味しいですよ!ねえ、アキちゃん」

 「……ん?はい、美味しいです」


 女性は口一杯になったクリームを飲み込みながら答える。

 その愛らしい姿に周囲の人間は自然と笑みが零れた。


 ディレクターが人差し指と親指で輪っかを作る。男性はそこで仕事のシメの言葉に入る。


 「ここ北海道カウカウ牧場からは以上です!スタジオにお返ししまーす!」


 男性が手を振ると、女性も慌てて手を振る。

 

 「はい!お二人ともご苦労様でした!」


 その声と共に、アシスタントディレクターが二人に暖かいペットボトル茶を手渡す。中年男性はそのお茶を手でこすり、一仕事終えたという表情でロケバスに足を運んでいく。



 「あの、ありがとうございました!」


 そこに先ほど共演していた女性が駆け寄ってくる。年はまだ二十歳を行き来しているくらいだろうか、幼い顔だが手元のシワがやけに目立つ。


 「君、羽島明奈さんだったかな?」


 男性はこのロケの前に見た段取り表にある共演者の名前をなんとか絞り出した。このところ「アキちゃん」という名前で売り出されているせいか、その肝心の芸名がすぐに出てこなかったようである。


 「はい!光陵プロダクションの羽島明奈と言います。また共演する機会がありましたら、その時は何卒なにとぞよろしくお願いします!」

 「ふうん…、まあ、ここの局は若い子をすぐ使いたがるからねえ」

 「え?」

 「消耗品にならないことを陰ながら応援しておくよ。それでは」


 男性は開いているのか閉まっているのかよくわからないその薄眼を横にやり、踵を返してその場を去った。


 「……お疲れ様です」


 一人そっと言葉にならない返事をすると、急に中年男性が立ち止まる。


 「あ、それと君ね」

 「……はい?」

 

 「そういう挨拶は明奈さん、君自身がしてきなさい。どうしてさっきからマネージャーのあなたが挨拶をするんだい?それはマネージャーの仕事ではない」


 「はい!…ほら!明奈さんも頭を下げて!」


 明奈のそばにいたマネージャーは頭を深々と下げ、また明奈の背中を叩き、頭を下げるよう促した。男性のロケバスが走り去っていくのを見送って二人はようやく顔を上げる。

 

 「やっぱり、印象悪くないですか?アタシ……」


 明奈の顔は先ほどとは打って変わって不安の一色に染まっていた。


 「大丈夫、あの人は最近地方ロケばかりで表沙汰には出てこないし、最近は視聴者からのマンネリを指摘されて、事務所内でもお荷物になりつつあります。元々芸能界との親交が薄い人だったから、さして影響はないですよ」


 「そうですか……」

 「ですが、毎回の事とはいえ、気苦労が耐えないですね」

 「えー、やっぱりアタシ挨拶しておいた方が良くないですか?」


 明奈はマネージャーの顔色を伺いながら、心配そうに尋ねる。


 「いいんです。明奈さんはそうしておけば。世間的にも、プライベートでも、天真爛漫でわがままっ子なおてんば娘、それを貫くこと―――それがあなたが売れる一番の近道なのですから」

 「佐伯マネージャーが無理してるのにアタシ近道なんてしたくないです」

 「おっと。それはあなたらしからぬ発言ですね」


 二人はそこでクスリと笑い、佐伯の「さて次の現場に出発しますか」の言葉とともに、光陵プロダクションと印字された車に乗り込んだ。

 

 「さて、今日の予定ですが―――」


 佐伯はカバンから革製のスケジュール帳を取り出し、自分の書いた文字を指でなぞっていく。『朝六時入り 北海道生放送』の文字を赤色のボールペンで消し、更に目線を下に降ろしていく。


 「まず、夕方6時からアルゴ前で行われるミュージックフェスのゲスト参加があって、それと夜11時から有明さんのラジオ番組があるので―――」

 「ええ、今日そんなに忙しんですかあ。大体、札幌から東京に戻るのだって大変なのに……」


 明奈は足をジタバタとさせて、愚図り出す。


 「あのね明奈さん、嬉しい悲鳴だと思いなさい。それに新人の身で、こんな事務所専有の車に乗せてもらえるなんてありがたい事ですよ?」

 「ん……まあ、それはそうだけど」

 「君と同期の小木アズサちゃんいるよね?」

 「はい。あまり話したことないですけど」

 「こないだ彼女のマネさんにお会いしたんだけど、彼女なんて近頃お嬢様系タレントとして売り出されてるけど、ロケ間の移動はバスとか地下鉄を使うそうだよ。タクシーチケットすらもらえないんだって」


 明奈は目を丸くして、佐伯の言葉に耳を傾けていた。


 羽島明奈は『幸運にも』デビュー後まもなくして陽の光を浴びてきた人間であるため、そういった日陰の実情をよく知らないのである。だからこそ、心の奥底からにじみ出る、ある種の世間知らずでわがままなキャラが浮かび上がるのである。そういった飾らない人間はある条件下で培養すれば、とても綺麗な花を咲かせる。


 佐伯はふとそんなことを思慮し、それが自分の言葉でなく、以前お世話になった事務所の先輩の言葉であることを思い出す。佐伯自身、ヒトを植物のように考えるその在り方に疑問していたところがあるのだが、やはり精神的にも、そして社会的にも未熟な人間を育てる上で、そういった倫理観は切って離すことはできない。そう自分に言い聞かせて、この業界に身を置いてきた。


 「そうなんですかあ。じゃあ、私はラッキーな方なんですね」

 「まあ、ラッキーというよりはそれだけ期待がかかってると思った方がいいですよ」

 「そうですね!よし、お昼からもお仕事がんばるぞー!」


 屈託のない笑顔を見せる明奈。佐伯はその笑顔がレンズに向けられる笑顔と同じであることを確認し、スっと頬を緩ませた。







「はい、明奈さんお疲れ様でした」


 舞台袖から降りてくる明奈に佐伯はそう声を掛ける。手元には明奈の好きな某ブランドのミルクティーがある。


 「あー佐伯さん、わざわざ買ってきてくれたんですかあ?ありがとうございます!」


 暦上では秋とは言え、残暑厳しい熱帯夜の中、それに増して照りつける無数の照明のせいか、明奈の額にはじんわり汗が滲んでいた。


 「どうだった?初めての音楽フェスは」

 「私、あまり音楽に詳しくないですけど、なんか皆の熱が伝わってきてこっちも熱くなっちゃいました」

 「はは、そうみたいですね」


 佐伯は小さいタオルを明奈に渡す。


 「さて、一度化粧直しに行きますか。次の仕事もありますからね」

 「はい!」


 大型百貨店アルゴ前の広場にて行われた野外ライブは熱狂の渦に飲み込まれた。その終わりを惜しむ観客が興奮冷めやらぬといった様子で夜の街に繰り出していくのを尻目に、仮設置されたテントの控え室に入っていく。

 明奈をスタイリストに託すと、一度外に出て伸びをする。佐伯は自分用にも買っていたミルクティーに口をつけると、ビル群の隙間に陽が落ちるのをぼんやりと眺めた。


 「いやあ、良かったですな」


 ふと、見慣れぬ小太りの男性が佐伯に近づいてくる。この関係者用スペースにいるということは何らかの形で携わっている人間だろう。大手飲料メーカーの宣伝用うちわをあおいでいる。この時、佐伯の業界人の勘が騒ぎ、それとなく姿勢を強ばらせる。


 「おかげで大盛況に終わりました。いやあ、今年は例年にも増して盛り上がりましたな……これもアキちゃん効果でしょうな!ガッハッハ」

 「い、いえ、そんなことは」

 「突然申し訳ない。私、こういうもんでして……」


 やっぱりだ。佐伯は男から出された名刺を見て目を光らせる。


 「ヨントリー企画広報部長、山村剛……様、これはこれはお疲れ様です」


 ヨントリーといえば言わずと知れたあの大企業で、今回の音楽フェスのメインスポンサーだ。佐伯は一礼した頭を上げると、胸ポケットから自分の名刺を取り出す。


 「申し遅れました。私は……」

 「いえ、結構」

 「ですが…」

 「佐伯さん、あなたのはかねがね……それよりも、少しお話があるのですが」

 「話、と言いますと?」


 このように疑問符を置いてみたが、実のところこの男から次に発せられる言葉は朧気ながら分かっていた。


 「いえ、実はね、今度私どもの会社で新しい炭酸飲料を発売するんですが、その新CM...これに是非アキちゃんを出演させていただきたい」


 「え、ええ!ウチの明奈をですか!」


 内心分かっていたとは言え、このような反応は大事である。明奈は本来ならこのようなオファーを受けられる段階ではないし、それに必要な時間を費やしていない。未だ地方ロケで東に西に足を使わなければいけないタレントだ。

 そのことを十分に相手方に理解してもらい、CMの内容を彼女の及ぶレベルまで譲歩してもらわなければならないのである。


 「はい。明奈さんなら十分だと……」

 「すみません、勿論お引き受けさせていただきたいのですが、何分彼女にはそのような経験がございません。先にCMの中身を教えていただけませんか」

 「そうですか……。社内では、炭酸特有の『はじける』を基軸に、果汁の『甘酸っぱさ』から青春のワンシーンを切り抜きたいと考えています」


 なるほど。それでは、相応の演技力も必要になってくると考えたほうが良さそうだ。彼女も見た目が若いとはいえ、学生の頃の記憶など日々消えかかっているに違いない。初めての演技舞台にしてはハードルが高い。


 「ですが、まだ詳しいことはクリエイターと今後相談して固めていく予定です。詳細は後日、事務所の方にFAXで送りますので」


 「あ、はい。分かりました、それではやはり名刺をお渡ししておきますね」


 佐伯は再度、胸ポケットから名刺を取り出し、山村に手渡す。


 「佐伯さん……やっぱりお噂通りだ」


 山村は名刺を見ながらそっと呟いた。佐伯には聞こえなかったようで、目を一回り大きくさせて首を傾げる。


 「い、いやあ、やっぱりしっかりされた方だなあと思いましてな」

 「いえ、私なんて一介のタレントマネージャーですから。彼らの身の回りを整理する家政婦と変わりませんよ」

 「ガッハッハ、またご冗談を」


 山村は豪快に笑い声を上げる。


 「それじゃあ、CMの件よろしくお願いしますね」

 「はい。了解しました」


 山村は扇いでいた団扇を佐伯に「よければアキちゃんに」と言って手渡し、ゆったりとした足取りでその場を去る。口約束ではあるが二つ返事でCM出演を許諾したことにご満悦なのだろう。随分と満足気な顔をしていた。

 佐伯は山村の背中が見えなくなるのを確認すると、じっと団扇を見つめた。今度、明奈が出演するらしいCMの商品がプリントされている。佐伯にはこれまでに、そしてどこにでもありそうな普通の炭酸飲料水にしか見えなかった。しかし、これが大人気タレントの力で宣伝されると人々はこれが優良な商品として一般化されたのだと錯覚してしまう。目に見えない付加価値を与えることになるーーーーーそれが『タレント』の力だ。

 そしてすでに羽島明菜はその力を備えている。大企業の権力者を、そして彼女を知る多くの人間を巻き込む力をつけつつある。佐伯はさんさんと降り注ぐ陽射しを一身に受け止め、ハレの舞台で輝く明菜の姿をイメージする。その日は近い、と佐伯は一人うなずく。


 「佐伯さーん!化粧終わりました!」


 控え室から明奈が佐伯を呼ぶ声がする。近寄ってくる彼女のメイクは朝より薄くなっていた。確かに今夜の予定はラジオの仕事なので、そう力を入れる必要もない。


 「よし局に向かいましょうか」

 「はい!」


 明奈は先ほど佐伯に渡されたミルクティーを手に、るんるんと鼻歌を歌いながら歩き進んでゆく。しかし、彼女は事前に示し合わせていた駐車場とは真逆のあらぬ方向へと歩いて行く。佐伯はそんな明菜を不審に思いつつ、彼女を呼び止める。


 「明奈さん、車はこっちですよ」

 「あ、はーい」

 「やけに機嫌がいいですね」

 「そうですか?いつもどおりの明奈だと思いますよ」


 いつもより声が一段と上ずっている。佐伯は今日の出来事を思いだし、最大限にアンテナを張った。


 「なんていうかあ、やっぱり仕事をもらえる有り難さを感じたっていうかあ…」

 「有り難さ、ですか」

 「そうです!佐伯さんの言葉で私思い直したんです。今これだけ忙しいのはみんなの助けあってのことだっ……」

 「オーバークラフトのROIさんですか?」

 「え」


 佐伯が一言呟くと、明奈はまるでロボットのように急停止し、固まってしまった。さっと引いた血の気を追うように冷や汗が流れる。

 『オーバークラフト』といえば、激しい曲調と荒れた歌詞で男女の切ない恋愛を歌い上げる、今期大注目の音楽ユニットである。そのメインボーカルを務めるROIは此度のフェスティバルに参加していた。話によれば、バツイチで歳も40近いという。明奈とは二三度、深夜の歌番組で共演したことがある。そういえばやけに明奈がROIを慕っていたのを覚えている。


 「どうしたんですか?明奈さん」

 「え、いや、その有り難さが……」

 「デートのお誘いでも受けましたか?」

 「いや、それは違います!アドレスの交換をしただけです!」


 佐伯はその明奈の言葉に続くことはせず、ただ彼女の目を見つめた。明奈は口をポカンと開けて、自分が思わず口にしてしまった言葉に絶句する。


 「いえ!それはその……」

 「ウチの事務所は基本的に私的な部分は本人に任せる意向です」

 「はい…」

 「ただし!私と約束しましたよね?時期が来るまではスキャンダルの火種となるようなことはしないと」

 「はい、本当に…すいません」


 明奈はしゅんと顔をしぼませ、ポケットから携帯電話を取り出す。


 「そうですよね。ちゃんと一人前のタレントになるまではって約束しましたもんね。ごめんなさい、連絡先…消します」

 「待ちなさい」


 佐伯はその手を掴む。


 「ただアドレスを交換しただけなら、私は何も言いません。それは…、それは貴方の自由とします。但し、相手方とどこか出かけるという話に持ち込まれたら、一度私に話を持ってきてください。良きに計らいます」

 「佐伯さん……!」

 「それに明奈さんもよくここまで頑張ってくれました。明日は何があるか分かってますよね」

 「はい!全国ネットのあのお昼の番組にゲスト出演できるんですよね!」

 「そうです。知っての通り、それはあなたのような新米がおいそれと出られるものではありません」


 長寿ながらにして、未だに驚異の視聴率を叩き出す、某局にとってドル箱とも言えるかの有名な番組に、明奈は明日出演することになっていた。彼女は今期ドラマにも映画にも出演していない。それはつまり、単なる宣伝としてオファーを受けたのではなく、昨今の彼女のスター性が評価されたことを表している。

 事務所内の噂によれば、どうやらそのゲスト出演で彼女が『数字』を持っているかを見極めようということらしい。


 「はい。実はとっても緊張しています」

 「それにもうひとつあなたに報告があります」

 「報告?」

 「先ほどヨントリーさんからCMオファーを頂きました」

 「ええ?!あのヨントリーですかあ?」


 目を丸くして佐伯に詰め寄る明奈。その眼には興奮と期待と、抑えきれない不安を秘めていた。


 「できる?」

 「できますできます!できますけど……どんなCMですか?」

 「どうやら青春モノで撮りたいらしいんです」


 佐伯の言葉で一瞬、明奈の顔に陰りが見えた。明奈にとっても、佐伯の心配な部分が共感できるようである。彼女の一抹の不安は瞬時に露呈した。


 「できる…かなあ」

 「できます。いえ、できてもらわなければ困るんです」


 佐伯の意外なプレッシャーに明奈は身を震わせる。


 「あなたもついにここまで来たということです。……週刊誌に載る日もそう遠くないですよ」

 「……はい!」


 明奈は力強く返事をする。 






 「じゃあ、行ってきますね」

 「はい、じゃあ頑張って。有明さんは毒舌だけど、あれは演出の一部だと思って」

 「もうっ…分かってますよ。もう何回ここであの人に虐められたか」

 「はは、それもそうですよね」


 佐伯はにっこりと笑うと、明奈の背中を押しその後ろ姿を見送った。


 「おつかれーっす」


 スタジオの副調整室に入ると、スタッフが一斉にやる気のない返事を返した。一部の人間のみがこちらに一瞥するのみで、ほとんどの人間が各々の作業を行いながら適当に返事を返す。


 「あれ、サブコンに加藤さんがいらっしゃるなんて珍しいですね」


 そのうちの一人、熱心に機器を弄っているスタッフがそんな言葉を投げかけてくる。サブコンとはスタジオの調整室のことで、実際の録音場所と防音ガラスを隔てた場所にある。

 

 「はは、お忙しくされてますね。私は光陵プロの佐伯ですよ」


 スタッフが佐伯を加藤なる別の人物と勘違いしたことを察し、佐伯は自分の名を名乗る。


 「え?!ああ!すいません!アキちゃんの……!」


 そのスタッフは慌てて佐伯の方に振り返り、そしてスタジオにいる明奈の方にも目を配る。


 「それはそうと加藤さん来てらっしゃるんですね」


 佐伯がそう言葉を振り出すと、脇にいた別の女性スタッフが答える。


 「はい。いつもは外の喫煙室で番組が終わるのを待ってらっしゃるんですけど……今日は先程からスタジオ内を行ったり来たりしてます」

 「珍しい日もあるもんですね」


 加藤とは、有名タレントを数多く輩出する大手プロダクションのマネージャーの一人である。現在、何人かのタレントを同時に抱え込んでいるが、今日の共演者でもある『佐々木智乃』は日本で誰もが知る女性タレントの一人である。そんな大物タレントのマネージャーを勤めながらも、他に数人のタレントを受け持つ加藤は多忙を極めるため、こうしたタレントの勤務時間が彼の唯一の休み時間になっているのだ。

 だからこそ、わざわざ彼がここに来るには少々の違和感があるのである。

 

 「じゃあ、そろそろ本番入りまーす」


 チーフのその言葉にスタッフ一同が一斉にわらわらと動き出す。手持ち無沙汰の佐伯はとりあえず足元のパイプ椅子に腰を下ろし、ガラス越しに明奈を眺める。既に、司会進行役の佐々木はスタジオに入り、物静かに原稿に目を通している。


 佐伯はサブコン内をぐるりと見回し、加藤の姿を追う。


 やはり加藤の姿はまだない。



 「佐伯さん」



 代わりに別の人物が佐伯の視界に忽然と飛び込んできた。


 「あ、どうもご無沙汰です」


 思いのほか、顔の近くまで迫ってくるその人物に佐伯は思わずたじろぐ。


 「お久しぶりです。元気されてました?」

 「え、ええ。でもたった一週間ぶりじゃないですか、吉野さん」

 「で、でも、その……忙しくしてるとたった一週間でも寂しいというか……」

 

 この人は先程から何をモジモジしているのだろう。佐伯はそう疑問に思ったが、思い返せば彼女はいつもこういった様子なので、とくに深く考えることもない。

 彼女の名前は吉野季里、言わずと知れたあの大物芸能人『有明』の付き人を勤める敏腕マネージャーである。彼女は若くしてこの世界に入り、タレントそのものを目指していたが鳴かず飛ばず、数年後に転身し、今では誰もが知るタレントのマネージャーとして忙しい日々を送っている。


 「はは、そうですよね。有明さんのマネともなると時間感覚が可笑しくなりますよね」

 「いえ、そんなことはないです。ただこの番組の日が楽しみなだけですから」

 「そんなにこの番組が好きなんですか……まあ、確かに有明さんの冠番組ですもんね」

 「いえ!それはそういうことじゃなくて……!」


 その時ちょうど、有明の口からタイトルコールが発せられる。佐伯はそのタイミングでパイプ椅子の向きを直し、ガラス越しのスタジオへと向き直る。


 「あ、番組始まったみたいですよ」


 「あ、え、はい……」


 吉野は何か言いたげだったが、その言葉を飲み込んで同じく有明を見据える。

 それから30分後、スタジオ内の空気も暖まってきて会話に弾みも出てきたようで明奈はいつもの『アキちゃん節』を存分に発揮しているようだった。時折刺す有明の毒に都度都度、吉野が頭を下げていたが、佐伯は「お気になさらず」となだめた。

 

 それがいつもの光景であった……のだが、今日は違った。


 「あ、お疲れ様でーす!」


 一際大きいスタッフの声に佐伯は驚きつつも、その挨拶の先に視線をやると身長190センチはあるだろうといった巨漢がサブコンに入ってくるところであった。


 「加藤さん……」

 「あ、加藤さんこっちです!お疲れ様です」


 吉野はパイプ椅子から立ち上がり、加藤に手を振る。加藤は無愛想な顔をして、その巨体で飄々ひょうひょうとやってくる。その威圧感たるや、なんと描写したものか。きっと熊にでも襲われなければ、この緊張感は伝わるまい。


 「お疲れ様です」


 佐伯も続いて立ち上がり、一礼する。


 「久しく会ってなかったな」


 加藤はパイプ椅子に腰を下ろし、長さの余った足を交差して組む。


 「加藤さんめったにスタジオ来られませんからね」

 「まあ、ちょっとな。この局のサブって妙に狭いからな。息苦しくて適わねえんだよ」


 スタッフの前で堂々と毒を吐いて捨てる加藤、その瞬間、部屋の中が凍りついたが、仕事に熱心な彼らの耳には届かなかったのか。はたまた聞かぬふりをしていた方が利口だと思ったのか、佐伯は息を飲んでから言葉を続けた。


 「ま……また、そんなこと言わないで……」

 「そうですよ!ラジオ局ってどこもそうじゃないですか」


 吉野も吉野なりにフォローを入れたのだろうが、その言葉からも何となく貶意が感じられる。


 「それはともかく、加藤さん最近どうですか?」

 「ん?んー、まあ、忙しいね。智乃はウチの事務所の稼ぎ頭だし、何かと振り回されるんだよなあ」

 「まあ、特にここ数年は彼女の姿を見ない日はないですからね」

 「ホント俺もこの業界入って長いけどよ、今もやってることは若手の頃と変わんねえ。あん時は、偉くなったら絶対社長の椅子の上でふんぞり返ってやるっていう思いでやってたんだ。こんなんだったら早めに転職しとけばよかったと思うよ」

 「またまた……そういうことを言わないでください」

 「そうですよ。忙しくしたくても忙しくできない才のない人間だっているんですから」


 吉野が自虐的に、佐伯の言葉に乗っかる。加藤はそこで吉野の目を見ながら、眉をひそめる。


 「よく言うぜ。有明だって今や潜在視聴率トップを誇る大物タレントだ。その付き人が忙しくしてないわけがない」


 確かに。佐伯はそこで激しく頷く。そして佐伯は椅子に座り直し、自嘲気味にため息をついた。


 「はは、でも……皆さんお忙しいようで何よりです。私なんてまだまだペーペーですから、今日なんて早朝から北海道ロケですよ。早く都内で回りたいですよ」


 その一瞬、加藤が鼻で笑う。


 「よく言えたもんだな。なあ、吉野?」


 加藤の威圧的な同調の誘いに吉野はゆっくり頷く。


 「いえ、私は皆さんのような大きな事務所ではありませんし、今在籍しているタレントだってビッグネームはいません。ましてや、自分の担当しているタレントだって……」


 「『今』はな」


 加藤は含みのある言い方をした。佐伯にはその言葉の意味が何となく分かっていた。恐らく、『希望』と『絶望』という意味での『今』だということをおぼろげながら理解していた。


 「今?今……!そうですよ!アキちゃんだってこれからですし!」


 吉野がまたも彼女なりのフォローを入れるが、含意をまるで理解していないととられたのか加藤はその言葉に一ミリも反応を示さなかった。むしろ佐伯の方に体をよじり、話を続ける。


 「それにある『噂』を聞いてんだ。お前に関する、な」


 そこで、録音スタジオから一際大きな声でタイトルコールが入る。そこで三人の目線は防音ガラスに向けられる。


 少し脱力した有明の声で『秋の夜長に話してみよう!どっきりどきどき怪談話!』と聞こえてくる。「というわけでね……」とコーナーの趣旨を説明する有明と、「やめましょうよ~」と文句を言う明奈の声が続く。


 「噂……ですか」


 再び向き直った佐伯は少しおどけてみせた。


 「まあ、いいや。なんかお前知ってそうだし」

 「え?何の話ですか?佐伯さん、加藤さん」


 吉野は食い入るように二人の間に割って入る。そんな吉野に構わず、加藤は椅子の背もたれに腰を下ろしつけ、スタジオで怪談話をする三人をぼんやりと眺める。


 「あ、そういやさ、俺って幽霊見えるんだよ」


 唐突に話し始めた加藤に佐伯と吉野は目を丸くする。


 「まあ、実際には見えるだけじゃなくて会話もできる。っていうか、幽霊って普通にその辺居座っててさ、あまり人間と区別がつかねえんだよな」

 「何の……話ですか」

 「何のって怪談話だよ。まあ、俺のは実際現実に起きてることだし、怪談話にしてはオチがないけどな」

 「は、はあ……」

 「一番最初に見たのは小3の時なんだけど……聞くか?」

 「い、いえ、私はそういうの苦手で…」


 そこで手を挙げたのが吉野だった。目を燦々と輝かせ、「聞きます!」

と声を張る。どうやらこういう話が好きらしい。

 佐伯は怪談話というものに激しい疑念を抱く人間である。現実にはありもしない現象をでっちあげて、人々を畏縮させることに何の意味があるのだろうか。恐怖に慄く心の高鳴りを快感に感じる人間が好むというらしいが、それは虚しいものだ。なぜなら実際には形のないものに心を躍らせ、振り回されるというのだから。しかし、この時佐伯は視界に移る三人の芸能人たちを見て、彼らもまた似て非なる部分を有していることを感じつつあった。ほぼ全てのファンにとって彼らは《人間味》を感じる対象ではない。何ピクセルかの色彩で描かれた平面の彼らを彼らと信じる人がほとんどだろう。それはある意味で実体のないものに酔狂する怪談愛好家と同じだ。となれば、彼らは幽霊の類と言って差し支えない。では、彼らの傍に仕える私たちは何者だろうかーーーーー。

 

 この時、≪天使≫ではなく、≪死神≫を想像した自分に佐伯は身震いした。


 「………っていう話だ。まあ、その後のことはよく知らないけどな」


 身震いを感じたのはこの男の話のせいではないと佐伯は自答する。

 何とも腑に落ちない、加藤の怪談話は吉野の趣向の的を射抜いたのだろう。彼の話に鳥肌を立たせてご満悦といった様子だ。しかし一方の佐伯はといえば、苦手な怪談に、意味の分からないリドルストーリーまで混ぜ込まれ、いよいよ頭の中で収拾がつかなくなっていた。


 「はいっ!お疲れっした~」

 「また来週もお願いしまーっす」


 そんなスタッフの声で二人の会話にようやく区切りがつく。佐伯は一息、長い溜息をつくと静かに席を立つ。


 「それじゃあ、私たちもまた来週ということで」

 「おう」

 「は、はい!それじゃ、また!」


 佐伯は二人に小さく手を振ると、サブコンを出て行く。スタジオから出てきたばかりの明奈、そして佐々木智乃、有明と面する。


 「今日もありがとうございました。またよろしくお願いします」


 佐伯のその挨拶に二人は同じような言葉で一礼する。佐伯自身、彼らとは特に親しい交わりはない。恐らく佐伯のステレオタイプな挨拶に同調しただけであろう。


 「さて、明奈さん。行きましょうか」


 「はい!」


 佐伯と明菜、二人並んで局内を歩いていく。手元の腕時計は十二時の針を指している。


 「明奈さん、お疲れ様でした。今日はゆっくり休んで明日のお昼に備えてください」

 「はい!明日は大勝負ですもんね!」


 気合の入ったその言葉は、今日一日働き詰めの疲れを見せない。


 「今夜はまた事務所の車を用意してます。それに乗って家に帰ってください」

 「佐伯さんは……?」

 「私はここからだと家が逆ですから、タクシーにでも乗って帰ります」

 「暗い夜道には気をつけてくださいね」

 「はは、君に言われるなんて……それも何だか『らしくない』ような気がします」


 明奈はその一瞬、表情に陰りを落とす。


 「私がどんな人間であっても、心配はしますよ。自分の大事なマネージャーさんなんですから」


 数秒の間。


 佐伯は自分が職業という仮面をかぶって、彼女をいたく傷つけてしまったのではないかと焦燥する。


 「いや、それはその……」

 「なーんて!冗談ですよー!こんなこと言ったら佐伯さん困るかと思って!えへへ」


 明奈は再びいつもの笑顔に変わる。


 「ははは……それならいいんですけど」

 「それじゃあ、また明日お願いします」

 「はい。気をつけて」


 明奈は大きく手を振り、玄関ホールへと駆けていく。


 明奈が玄関ホールの自動ドアを過ぎた辺りで、佐伯のポケットにある携帯電話が振動し始めた。こんな夜中にかけてくる非常識は誰だと思いつつも、パネルの番号を確認する。見たことのない番号だ。


 「はい。もしもし」


 佐伯は恐る恐る電話に出る。


 『もしもし。佐伯くんかい?』


 初老男性の声が佐伯に問いかける。


 「はい。佐伯です」


 佐伯は何となく聞き覚えのある声にもやもやとした気分になる。頭の中で引き出しという引き出しを開け閉めするが、一向にこの声の主がつかめない。


 『夜分遅くに申し訳ない。いやね、最近スマホというやつを買ってね、前のケータイから番号を移す作業をしているんだ。色々な人に電話番号が合っているかかけ回っているんだが……忙しくしている君ならこの時間にかけても大丈夫かなあと思ってね』

 「なるほど、そうですか。ええと……」


 佐伯は歯切れの悪い返答をする。


 『ん?まさか君、私のことを忘れたんじゃないだろうね』

 「すみません!誠に申し訳ありませんが、お名前をお伺いしてもよろしいですか!」

 『全く……、芸能界は人脈が全てだと口が酸っぱくなるくらい言ってきたはずだがね?人の名前を忘れるなどあってはならんよ』

 「申し訳ありません」

 『私だよ。船山だ』

 「あ……!!船山先生!!」


 その時、当然のことだが佐伯の頭の中でかの声とかの顔が一致した。


 『これは説教をせねばならんね。今から言う場所に来れるかい。少し飲もうじゃないか』




  闇夜に浮かび上がる街灯でようやく視認できるほど小さなある居酒屋、高架下にあるその店は電車や人の行き交う喧騒を一時忘れたかのようにひっそりとしていた。


「いらっしゃい」


 店内は人間四人分ほどの収容スペースしかなく、全てカウンター席であった。そのため、佐伯はすぐに船山の姿を見つけることができた。


 「こっちだ。佐伯くん」

 「船山先生!どうもご無沙汰しておりました」


 佐伯は船山の隣の椅子を引く。


 「いやあ、全くだね。君ときたら卒業以来、全然連絡を寄こさないんだから」

 「すみません。仕事が軌道に乗ってきてからご連絡差し上げようと思ったのですが……」

 「まあ、便りのないのがいい便り。君が忙しくしている証拠だ。送り出した立場としては誇らしいことだが……、すこし寂しいね」


 彼の名は船山次郎。佐伯が放送技術学院という専門学校に通っていた頃、芸能マネージャーコースで教鞭を振るっていた恩師である。現役時代は、名を聞けば震え上がるほど有名な故き芸能人のそばに付いてきた。その当時の経験を後世に残そうと今もうら若き学生たちに『マネージャー』とは何たるかを説いている。佐伯も彼の下で二年間学んだ。その二年の思い出を咀嚼しながら、『とりあえず』で頼んだビールで喉を鳴らす。


 「しかし……、船山先生もお変わりなく元気でいらっしゃいますね。ほっとしました」

 「ふん、まだまだ未熟な生徒を置いて死ねんよ。特に人の名前も覚えられないような生徒はね」

 「うっ……本当にすいません」

 「しかし、まあ、君たちの活躍はよく耳にしておるよ」

 「君たち……?」

 「特に君ら世代とその前後は特に優秀だったねえ。芸人の…ほら、アーバンタウンのマネの楠田君とか、ハーフタレントのマッキーの京坂君とか、あの辺りは君の同期だろう」


 そこで佐伯ははたと思う。そういえば、自分の周りの卒業生は精力的に頑張っている人が多い。


 「君の一つ下の卒業生だと彼女なんかが一番の稼ぎ頭じゃないかな。有明の吉野君なんて」

 「そうですね。先ほど局で会いましたが、相変わらず忙しくしているみたいです」


 今日に限っては怪談に興じていただけだが、と佐伯は心の中で言葉を付け足す。


 「しかし、大物芸能人を担当するからといって優れた人間であると判断できない。それが面白い所だ」 

 「面白いところ……ですか」

 「ああ。例えば、君は……サッカーなんて好きだったね。年内においてリーグ優勝、カップ優勝のどちらも成し遂げてしまった名監督率いるサッカークラブがあったとする。確かにそれは監督の手腕による所もあるのだろうが、結局ピッチ上で戦っているのは選手だし、その監督を任命したのは運営者であるフロントだ」

 「つまり、私たちも芸能人を管理・評価しながら、自分たちもまた事務所に管理され評価される側だと……いうことですか」

 「そう。少しくらい仕事のできない人の方がかの大物芸能人には合っている、とそう判断することもこの業界では少なくない」


 佐伯には確かに心当たりはあった。入社したての新人に有り得ないほどのビッグネームを担当させ、経験を積ませる――――実のところ、佐伯にもそんな経験があったからである。


 「しかし、事務所の意思か、マネージャーの手腕か、それを判断するのは難しくない。この私の目ならねえ」

 「はは、船山先生はたくさんのマネージャーさんを見てきてますからね」

 「そう。ただね、佐伯君……この業界には稀に事務所の意思に反して自分の才能を発揮する人物がいるんだ」

 「そんな人がいるんですか……」

 「いるんだよねえ。私はね、そういった子がやはり優秀な人材だと思うんだ」

 「先生の教え子にもいらしゃったんですか?そういう人」


 佐伯はグイっとジョッキのビールを飲み干し、ほろ酔いの頭で少し突っ込んだ話を仕掛けてみる。


 「んむ。そうゆう人材は意外と近く足元でくすぶった光を発しているやもしれんね」


 船山はその言葉を濁すようにおつまみのお新香で口の蓋を閉じた。

 佐伯は細い笑みを浮かべて、そのまま自分もお新香をつまんだ。


 「しかしね、佐伯君。何も灯台下暗しが全てってわけじゃない。灯台が照らしているはずの海原にも光はチラチラと光っているんだ」


 「……なるほど」


 「私にはね、その光が君に思えてならない」


 「…………はは、お褒めの言葉ありがとうございま……す?」


 佐伯は少し混乱していた。船山の抽象的な例え話に、泥酔した脳がついていけなかったのである。この人は一体何を言っているんだろう。今、私のことを指したのか。


 佐伯は数秒の間、固まった。


「私個人としては、君をそう評価したい。でなければ、君が今後この世界で生きていく上で、その意志の根本を崩しかねないからねえ」

 「……はあ」

 「これは一つ、恩師からの情けだと思ってくれ。……『君は間違ってない』」


 船山は遠い目をする。そして、思い切ったように何杯目かわからぬ酒を注文する。

 

 「先生、ちょっと待ってくださいよ。いささか話が突拍子すぎます。ちゃんと順を追って話してください」

 「そうか……。その様子からして、周囲の人間はあまり君に直接言わないんだねえ」

 「何の話ですか……」

 「とある君の『噂』の話なんだけどねえ」


 佐伯は「その話か」といった様子で、口をぽかんと開ける。


 「なんだね。やはり心当たりはあったんじゃないか」

 「いえ、よもやその話が先生のお耳に届いているとは思いませんでしたので」

 「この業界は広い。しかし、ほぼ全ては人脈という線で繋がっている。大方の内容は筒抜けだよ」

 「では、私の『噂』というのも……」

 「その通り。最初に耳にしたのはもう半年も前になるんだがね―――――」


 佐伯は専門学校を卒業後数年の間、大手から中堅、小さい事務所まであらゆる職場を転々とした。何となく、事務所の体制と折が合わなかったのがその要因である。そうするうちに、自分と馬の合う光陵プロダクションにたどり着き、腰を落ち着けることとなった。

 光陵プロでの佐伯の活躍ぶりは見事なものだった。担当する芸能人は皆、国民的人気ドラマの重要なポストに配属されたり、大手企業の永年CMキャラクターに選出されたり、ゴールデンタイムのバラエティ番組にMCとして異例の大抜擢を受けたりと、軒並み華々しい花を咲かせていった。

 しかし、その花は目も当てられぬほど美しく輝いた一瞬ののち、薄目で見ても見えぬほどか細い光となって惨めに消えていった。


 俗に言えば『一発屋』、そんな称号が彼らの胸元にはふさわしかった。


 そして、光陵プロだけでなく、佐伯が数年の間渡り歩いた事務所で担当した芸能人も皆、『一発屋』として高い鉄塔の上から都を見下ろしたあと、下町の地べたの辛酸を舐めることとなったのである。その頃から、業界人の間で佐伯が受け持つ芸能人は一度昇華し、その輝きが消えていくことから、『花火師』と噂するようになったのである。


 「しかし、『花火師』か……上手いことを言う人もいたもんだねえ」

 「汚名ですよ。恥ずべきことです」

 「恥ずべきことか……確かにタレントの力量をしっかりコントロールしきれていないという点ではマイナス評価に値する。しかし、その力量を想定外の範囲で昇華させるのは誰にだってできることじゃない」


 船山はホタルイカの甘煮を箸でつまみ、口に入れる。クチャクチャとさせては飲み込み、話を続ける。


 「君はね、自分の中にある信念を持って彼ら彼女らの管理をしている。それは確かに正常に作用している時もあるが、実は自分の思わぬところで予想外の反応を示していることがほとんどだ。だが君はそれでいい、間違ってないんだからねえ」


 船山の話はやはりどこか曖昧で話の筋が見えなかった。佐伯は先生の話とあって適当に頷いてはいたが、どこか釈然としなかった。


 「あと、そうだ。君を褒めるとしたら……」

 「ちょっと先生。私は幼稚園児じゃないんですよ。アメならもう十分です」

 「いや、ただ私が久方ぶりに会った君に言いたいだけなんだ。自分の誇るべき生徒にね。でないと、ほら、私の尊厳に関わるじゃないか」


 船山は酒で焼けた喉を鳴らして笑う。


 「ははは、いえ……先生のお褒めで暗示をかけてもらうより、やっぱり……自分は先生の生徒なんだと胸を張って歩けるよう成長したいと思います」

 「んむ。頑張りたまえよ。夜遅くにまですまないね。あすの予定は?」

 「お昼から海留スタジオであの番組です」

 「ほお……」

 「少し早いような気もしますが、彼女の昇格試験みたいなものです」

 「そうかね……では、出世前の土産として今日は私がおごろう」

 「すみません、馳走になります」


 船山はカウンター奥の店長に勘定をし、外に出る。佐伯もそれに続く。


 「では。またお時間のあるときにご連絡します」

 「送っていこうかね?」

 「いえ大丈夫です。家も近いので。では」


 お互い別々の方向へ歩き出し、その二、三歩を踏んだ時に船山が振り返る。


 「そうだ。君の担当している『アキちゃん』……彼女には早急に語彙力というものをつけさせたほうがいい。あれでは目の鋭い視聴者層から飽きられてしまう」


 「はは……そうします」





 ここは某局、某番組前の楽屋控え室。

 明奈は鏡を見ながら身だしなみを整え、その鏡越しに佐伯と会話を交わす。


 「昨日はぐっすり寝れましたか、明奈さん」

 「はい!こないだ、佐伯さんに紹介してもらった枕屋さんでオーダーメイドの安眠枕を買ったので、ぐっすり快眠バッチグーです」


 明奈は小さくウインクをする。


 「そうですか。それは良かった」

 「それにしても……そうそうたるメンツですよね」


 佐伯は今日はここに来るまでに見た楽屋の張り紙を回想する。


 「そうですね……。でも気負いする必要はありません。あなたも今日一日はそのうちの一人なんですから。堂々としていればいいんですよ」

 「はあ~あ、でも緊張しちゃうなあ」

 「はは、いつも大きな仕事の度にそんなこと言ってますけど、本当に緊張しているところを見たことがないですよ」

 「そうですかあ?割といつもテンパってるんだけどなあ」


 佐伯はこの大舞台でそんな言葉を吐いて捨てられる明奈を頼もしく思った。


 「明奈さん……少し、お話があるんですが……」


 鏡越しに見ていた佐伯の表情がいつもと違うことに気づいた明奈は、振り返ってしっかりと佐伯と向かい合う。


 「話って……」

 「私は、今日が山場だと思っています。そこで一つあなたにご決断をしていただきたいことがあります」


 明奈が佐伯のその目を見るのはこれで二度目だった。一度目は明奈が芸能界デビューをすることになった一番初めの仕事の時―――――――佐伯は明奈にいくつか『決め事』を作った。今と同じような口調で『ご決断』という言葉を使った。それからというもの、明奈は飛ぶ鳥を落とす勢いで芸能界各方面にその名を刻んできた。


 今日またその決断を迫られるというのなら、勿論、明奈の答えとしては『YES』だ。


 明奈の瞳に映っていたのは、その佐伯の凛とした、勝負師の眼だった。



 お茶の間でテレビをつけるこの時間に、国民のほとんどがこのお昼の生放送番組を見る。そのプレッシャーたるやいかほどのものか、番組観覧者もそれぞれ配置に着くとその圧がピリピリと感じ取れた。前説としてスタッフや数人の芸能人が会場の空気を和らげようとするも、何か現場には煮凝りのような目に見えぬ緊張感があった。

 番組は一時間の生放送、明奈は初めからゲストとして出演しているが、佐伯の目には彼女はいつもの自然体に見え、以前からレギュラーを勤めていたような一体感があった。出るとこは出、引くところは引く。彼女には語彙力はないが、会話の空気を敏感に感じ取るアンテナがある。佐伯はそんな人知れない彼女の能力をよく知っていた。

 そして番組は半分を過ぎ、佳境に入る。最後は年代別に流行ったものというお題で、クイズコーナーに入る。


 「さて……、90年代に流行ったおもちゃですよー皆さん!二十年前ですからねえ」

 「はい!これは分かったわ!』


 アフロヘアーの男性芸能人が司会の男の耳元で何かを囁く。


 「…………こけし!違うわ!いらんボケはせんとってください」

 「あ、分かった!!」


 今度は一人の女性タレントが手を挙げる。


 「……おお、ヨーヨーマン!正解!赤チームに3ポイント!!」


 会場はそれに合わせ拍手をし、一応の盛り上がりを見せる。

 番組の司会者はスタッフに手渡されたパネルを手に次の出題に移る。


 「さて次の問題ですよー?80年代に流行ったファッション!二位から五位まで一斉にドン!はい、こんな感じですね……さて一位はなんでしょうか!お考えください!』

 「いや、これは分かったわ」


 また同じアフロの男性が手を挙げ、司会のそばで囁く。


 「……こけし系…ファッション……ってもういいですって!何回言うんですか!」


 出演者一同、皆、これにはお手上げといった様子だった。何とか何かを言わねばと適当な回答をする芸人もいたが、時間は漫然と流れていく。そこでカメラの後ろ側にいるディレクターが痺れを切らし、正解開示の指示を出そうとしたところに……、明奈が手を挙げた。


 「お、アキちゃん!!」

 「ようやく思い出しました!えへへ」

 「80年代って相当古いけどアキちゃんにわかるかな~正解をどうぞ」


 明奈は司会者の耳元で囁く。司会者は一瞬目を丸くし驚きを表す。


 「……コンサバ!正解!白チームに5ポイント!!」

 「良かったー合ってて」


 明奈は胸を撫で下ろす。

 

 「いやあ、それにしてもよく分かったね。アキちゃんまだ生まれてない頃でしょ?」



 『いえ?今年で三十路なので、当時のことは何となく覚えています』



 会場全体が騒然とする。出演者だけでなく、観覧者、スタッフまでもが皆一様に驚愕する。唯一、この会場で涼しい顔をしているのは佐伯だけであった。


 そう。彼女、羽島明奈はその童顔と身長からどう見てもおよそ高校生程度と推測されることが多く、上げ幅で見ても女子大生というのが限界だった。それがよもやアラサーの年増の女性となると、その心の内からにじみ出る天真爛漫な性格が却って一種の魅力に見える―――――えも言えぬ視聴者たちは自然とそう感じるようになっていた。

 それは芸能人の間でも同じであった。彼女の性格が若いがゆえの暴挙でなく、積み重ねられた経験と渡り歩いてきた関門があっての性分だと分かれば、そこに他意はなく、同業者として信頼できる人物だということが感じ取られる。

 そして、各局のプロデューサーもただ若く見えるというだけでなく、その年齢から、番組の意図を理解してくれる『常識人』として今後見るようになってくる。



 そして、その告白をするのは各芸能関係者が注目するこの場が一番だと、佐伯が助言したのである。



 ――――――――そこで一つあなたにご決断をしていただきたいことがあります。


 ――――――――はい。


 ――――――――今日、番組のどこかでご自分の年齢を公表して下さい。


 ――――――――年齢を……?


 ――――――――はい。以前あなたに課した『年齢を明かしてはならない』あの決め事を今日解禁します。


 ――――――――……分かりました。


 ――――――――いやに決断が早いですね。


 ――――――――今まであなたを信じてここまで来ました。もう乗りかかった船です。途中で降りたりしません。

 

 ――――――――はは、良かったです。あなたらしくないですが……その誠実な一面もいいと思います。


 ――――――――えへへ……ニュースバラエティなんかも出られるようになりますかね。


 ――――――――その日も…そう遠くないですよ。





 その日の夜、自宅のパソコン画面の光源を前に佐伯は顔を照らす。


 お昼の番組で言い放った明奈の爆弾告白が、各種メディアに小さくはあるが報じられている。検索サイトの検索ワードも明奈の名前が連なる。ネット掲示板上では、「年齢偽装」や「整形疑惑」など言いたい放題だが、佐伯の想像しているよりずっと矢面に立った彼女への誹謗中傷は少なく、むしろ彼女を以前にも増して応援するといった声が多く見てとれる。

 佐伯は気づけば顔が綻んでいた。明日の仕事は早いが今日ぐらいはいいだろうと、冷蔵庫から缶ビールを数本を取り出し、開けていく。


 その時、携帯電話に着信が入る。


 加藤からの電話だった。



 「もしもし、お疲れ様です。佐伯です」

 『おお、悪いな。遅い時間にかけて』

 「いえ、今は家でゆっくりしているので。何かご用ですか」

 『いや、大した用事じゃねえが……今夜は羽島明奈の話題で忙しいなと思ってな。司令官参謀のお前と少し話がしたかっただけだ』


 加藤は「ククク」と喉を鳴らし、佐伯をからかう態度をとる。


 「やめてください。私はマネージャーとして当然の助言をしたまでです」

 『視聴率も良かったみたいだな。最後のコーナーのところの瞬間視聴率はここ数年で群を抜いてトップらしいじゃねえか』

 「そうなんですか。そこまで反響が大きいと今後が心配ですが……」

 『そうだな。あまりデカイ花火が上がるのも困るよな』

 「はは、加藤さん……」

 『花火師としてのお前は今回の盛り上がりどう見てる?』

 「もちろん……彼女をここでピークにしたくありません。今後は社会派としての一面も育成していくつもりです」

 『あの脳ミソでできるか、そんなこと』

 「彼女は決して根がお馬鹿というわけではありません。これからは年相応の仕事も増えてくるはずです。それに……」

 『それに?』


 「近いうちに彼女の学歴を公表します」


 『そんなにいいとこ出身なのか』

 「大卒程度ですが、国内ではないです」

 『ほお……。でもそんないい大学出て今まで何やってたんだよ』

 「大学を出てからはホスピスで働いていたとか……」


 ホスピスとは老衰・病気等で終末を迎えてしまう老人を介護し、彼らにその短かな余生を楽しんでもらうことを目的とした施設である。彼女は大学で看護学を学んでいたらしいが、何のご縁があってか海外のホスピスで働いていた経験があるらしい。当時のことを深く聞いたことはない。それが何か悪いことだとは思っていないが、何となく彼女の屈託のない笑顔を見るとそれを聞く意味すらないのではいかと思うようになっていた。


 『ホスピスねえ……まあ、色々、死生観も変わってくるっていうからな。何かそこでインスピレーションを感じて芸能界に転身……か』

 「もちろん、そのことについては余程のことがない限り表沙汰にしませんが…」

 『そうだな。国営放送様なんかはそういう話題は好きそうだが』

 「ええ、なのでもう少し世間が彼女をただのおてんば娘ではないと認識するまでは黙っておくつもりです」

 『そうかそうか、まあ、まだ弾切れじゃねえっつうんなら、心配するこたねえな』 

 「え?心配してくれてたんですか」

 『まあな。今回も綺麗に散らせて終わるんじゃないかと思ってな』

 「はは、いえ、私だってやりたくてやってるわけじゃないんです。彼女のために尽力しますよ」

 『それじゃ、悪かったな。また現場で』


 「はい。おやすみなさい」


 喋ったことによって酔いが回ったか、佐伯は空いた缶ビールの数を数えながらもお酒を欲するその手が止むことはなかった。その場の机にぐでんと頭を傾け、「明奈さんはこれからですよ……」そう呟いて眠りこけた。

 次の日の朝、七時にセットした携帯電話のアラームが部屋中に鳴り響く。佐伯は寝ぼけた眼でディスプレイを確認し、止める。

 そして数分後、また鳴り出す。スムーズかと思い、携帯電話を乱暴に取り上げる。そこで設定の解除をしようとしたときに、それがアラームでないことに気がついた。


 電話だ。発信者はよく知った人物だった。




 「はい!もしもし、社長!おはようございます!」


 佐伯は怪訝な様子で復唱する。


 「今から……お話ですか」


 佐伯は急いで支度をし、足早に家を出る。

 事務所へは電車を使って行く。普段ならタレントと同伴なのでタクシーを使うことのほうが多いのだが、今日は一人で事務所に行くだけなのでタクシーチケットを使うのは原則禁じられている。

 久しぶりの通勤電車に佐伯は少々戸惑う。およそ列になった人の波が右に左に動き、最後には綺麗に車両の中に収まる。彼らはまるで意思疎通が計れているかのような動きを見せ、それは一種の様式美といっても差し支えなかった。しかし、佐伯はそんなことを気に留めるのはものの数分のことで、頭の中は社長に呼び出されたことで頭がいっぱいだった。



 光陵プロダクションの女社長、伊上康子はとても気さくで放蕩者の佐伯を雇い、可愛がってくれた唯一の人物である。事務所ではいつも通販かグルメの話しかせず、芸能界に少し触れた話といえば、週刊誌のゴシップ記事くらいなものである。

 しかし、その一方で経営者としての優れた一面も持っている。以前の光陵プロはお高くとまった俳優や女優の吹き溜まりのような場所で、何かと話題になっては不祥事を起こすそんな問題児がたむろするだけの事務所だったらしい。だが、井上康子が就任してから彼女はかつての体制を一掃し、バラエティに富んだタレントを輩出することで、事務所自身を活性化させることに成功したのである。

 今日、自宅で耳にした井上の声は、通販でもゴシップでもなく、経営について語る彼女の声だった。

 佐伯はそれを十二分に理解していたからこそ、こうして頭を悩ませているのである。

 その時、佐伯は一通のメールを受信した。



 『明奈です。佐伯さん今日は欠勤ですか?体の具合でも悪いんですか?何かあったら連絡ください!』


 そう。さらに心配なのが、今日は明奈の仕事場に行かなくていいという指令を受けたことにある。佐伯は言いようのない不安に苛まれながら、事務所付近の駅で下車する。 

 都内ビル群の雑居ビルの一室にその事務所はあった。佐伯はあまり事務所内に来ることはないので、同僚や上司に一通り挨拶をしてから、社長室へと向かった。ドアをコンコンと叩き、中に入る。


 「失礼します。社長おはようございます」


 「おお、佐伯か。早かったな」


 井上は客人用のソファにもたれかかり、雄々しく腕を組んでいた。普段からほとんどしていないようなメークも今日は少し力が入っているように見える。切れ長なアイラインが佐伯を捉える。


 「社長。私の今日の仕事は一体……」

 「ま、座りな」


 その言葉に従い、佐伯は「失礼します」と言って普段は絶対に座ることのないフカフカのソファに座る。腰がふわふわとして落ち着かない。


 「今日、明奈の方は臨時で小谷に任せてある。心配するな」


 小谷と言えば、この事務所でも古株のマネージャーである。佐伯は一つ胸を撫で下ろす。


 「で、お話というのは……」

 「実はな、昨日いろいろお偉いさん方から明奈の活躍ぶりに関して褒められてな……恐らく、あいつはこれから休む間もなく忙しくなるし、ウチの看板タレントとしても頑張ってもらわなきゃいけない」

 「はい。本人もその期待に応える所存です」

 「そこで、だ。ここを一つ…、あいつの転機として、マネージャーを変えようと思う。つまり、佐伯お前にはあいつの担当を外れてもらう」


 佐伯はその瞬間、何とも言えぬ虚無感を感じた。小さい頃、大好きだった友人が家の都合で引っ越してしまった時のような、あの言いようのない無力感に襲われた。


 「そんな……どうしてですか!彼女とはデビュー当時から一緒にやってきました!あともう一歩踏み出せばいけなきゃいけない時にどうして私を……!」


 少し力みすぎた佐伯の声は室内に響く。しかし、井上は眉一つ動かさずに答える。 


 「だからこそ、だ。明奈にとってもこれが一番の『決断』になる」




 「私が……私が『花火師』だからですか……?」




 佐伯はぼそりと呟いた。



 「……そうだな。今まではお前の望む通りの行動をさせてきたよ。『花火師』として各所から忌み嫌われてきたお前を、私は敢えて自由にさせた」


 佐伯は事務所の意向に反して自由な動きを見せることが多かった。独断と偏見で決めるタレントへの『縛り』、クライアントへの無謀な『要求』……、恩師である船山はそれは良きことであると言った。だからこそ、今、社長にそうした部分を否定されるのが佐伯には耐えられなかった。

 しかし、佐伯は十分この社長に世話になっていた。今更、尻尾振るって牙剥いて放蕩の旅に出るつもりはない。

 それに一人のタレントに永遠に付きっきりのマネージャーなどほとんどいない。こうして部署が変わるように、タレントが変わることは日常茶飯事である。


 佐伯はグッと気持ちを抑え、顔を上げた。



 「分かりました。今日限りで明奈さんの担当を降ります」

 「理解が早くて本当に助かるよ。お前さんはもう若いだけのマネージャーじゃないな。安心したよ」

 「はは、それは皮肉でしょうか」

 「ふん、そんなものは豚にでも食わしときな」


 「さて」と言って、井上は席を立ち上がる。そして、自分が普段使っている木製のデスクからファイルを取り出す。


 「実はお前に明奈の担当を降りてもらったのはそれだけじゃない。もう一つ、この件があるからだ」

 「と言いますと……?」

 「まあ、ちょっとこのファイルに目を通してくれ」


 井上は佐伯の前にファイルを置く。A4ファイルの中に入っていたのはあるタレント志望の女性の資料だった。

 そこには一枚の写真がクリップで留められている。どうやら運転免許証の写真のようだが、正に『容姿端麗』という言葉がぴったりくるような女性だった。おっとりとした妖艶な目に、ほんのり紅く染まる頬、すっきりとした目鼻立ちに、最も目を惹かれるのはその清く流れる黒髪だった。


 「この方は……?もしかして……」

 「そうだ。今日からお前が担当になってもらうタレントだ」

 「今日から……?いくらなんでも突然すぎじゃないですか?」

 「……そうだな。はっきり言って突然すぎる。だがな、頼まれてんだよ」


 井上はそこで目をそらし、はっきりしない物言いをする。


 「頼まれてる?誰にですか?」

 「ん……、まあ、そのウチがよくしてもらってる企業の社長さんがな、その系列の財閥の娘さんを是非ってな具合でな」


 なるほど。自分の選球眼を重んじる社長にとって、他からの譲り受けとは彼女にとって屈辱の二文字なのだろう。しかし、お得意先には逆らえない。そんなジレンマに陥っている井上の心の内を理解し、佐伯は資料をファイルに差し戻す。


 「分かりました。引き受けましょう」

 「ああ、頼んだよ」

 「ただし、一つお聞きしたいことがあります。どうして明奈さんの担当を降ろしてまで私に引き受けさせようとなさったのですか?」


 佐伯は決して往生際が悪く、このようなことを聞くつもりではなかった。何となく、この社長がそのような乱暴な手段に出るとは思えなかったのである。


 「ああ、それはな、もしかしたら本人の口から聞くことになると思うが……直々にお前に推薦が入ったんだ。『佐伯マネージャーがいい』と」


 「私に……ですか」


 佐伯はその接点もない女性が自分を推薦する原因は何かと考えるが、全く思い当たる節がない。『花火師』の噂を聞きつけてきた目立ちたがり屋か……それもまるで現実味がない。


 佐伯は首を傾げる。


 「まあ、私にも理由は分からん。ただな佐伯、これだけは言っておく。何も私は推薦されたからといってお前を担当にしたわけじゃない。『上に立つ者』としての目でお前を選んだんだ。それを忘れるなよ」


 社長のその言葉が負けず嫌いだと分かっていても、佐伯には何か心振るわせるものを感じた。


 「それにな、芸人の事務所でもねえのに、余所行きじゃない免許証の写真を送ってくるなんてその女も肝が座ってんじゃねえか。お前とよく合うよ」

 「はは、これだけ綺麗な方でしたら写真なんて気にもしないんでしょうね」

 「ふん。気に食わねえやつだが、何とかお前が手懐けてくれ。これからは写真もカメラも気にさせるようにな」


 井上の言葉はおよそ自分の事務所のタレントに向ける言葉ではなかったが、佐伯は苦笑するしかなかった。


 「で、今日からということはもうこちらに向かってらっしゃるということですか?」


 「いや違う」


 井上は大きく溜息をついた。


 「お前が今日、今から迎えに行くんだ」


 なるほど。確かに気に食わない。佐伯はそっと心で吐いて捨てた。


 失礼します、と言って苦虫を噛み潰したような表情でその場を後にする。その顔には力の入れていたタレントを降ろされた悔しさ、そして不条理に突き付けられた任務、その両方が入り混じっていた。恐らく井上にも見られていたであろうが、佐伯には彼女の目の前を離れた一瞬のうちにその思いを押し殺す余裕はなかった。

 事務所を出ると事務所専有の車に乗せてもらい、この写真の女性の自宅である郊外の高級住宅街へと向かった。

 道中の車内で佐伯は気持ちの整理をしていた。明奈はこれから間違いなく売れていく。すでに昨日の番組に出演した局から他番組の出演オファーもあり、ヨントリーのCMも上手くいけば女優としての路線も今後は考えられる。彼女がこれから大成するというその直前に降ろされたということである。まさに導火線に気を付けたところで火種を取り上げられたのだ。井上は初めからこうするつもりだったのだろうか。そうであるなら、これまで佐伯にやりたいことをやらせていた意味は何なのか。そうなるとやはり今回、佐伯の元に託された新たなタレントの存在が気になる。お得意さんの紹介と言っていたが、井上はそういった計らいをひどく嫌がる。なぜ今回はあえて頑固者の私を降ろしてまで担当させる必要があったのか。


 件のタレントが住む場所は都内へのアクセスがたったの十数分という立地ながら、十分な教育・福祉設備が敷かれていることから近年注目を集める街である。その中でもこの街を見下ろせる小高い丘の上にその住宅街はある。芸能人はもちろん、有名スポーツ選手、各官僚関係者が住まう、成功者の園である。


 「佐伯さん、住所では一応ここになっていますが……」


 運転手は車を停めると、後部座席の佐伯の方を振り返る。


 「ここですか……ね?」


 その家は、途方もなく遠くに伸びる白塗りの壁に、密集した竹林が周りを覆い、まるで中の様子が見えない。ただ門から石畳みの道がずっと中へと続いていき、サラサラと囁く竹の葉が来る者を誘っている。インターホンらしきものも見えず、本当に家かどうか分からない。門の横に『お食事処』という立て看板でもかけてあれば、十中八九家だとは思わない、そんな風貌をしている。


 しかし、住所がここだと示すので入っていくしかない。


 「ありがとうございます。では近くの場所に適当に停めておいてください。すぐに戻ってきますので……」


 「いいわよ。そんなことしなくて。どうせその辺りは全てこの家の私道だから」


 竹林の影から物陰が現れた。


 一人の女性が立っていた。

 気は張っているが、今にも折れてしまいそうな儚げな女性がそこに立っていた。


 佐伯にはすぐ分かった。この女性が……。


 「浪川美織さんですね」

 「じゃあ、あなたが……あの佐伯ってわけね」


 美織は鼻を鳴らして、フッと笑う。


 「何だか思ってたより、頼りなさそうなのね。敏腕マネージャーって聞いてたから、もっと屈強そうな人かと思ってた」


 それは多分、加藤のような人間だろうか。佐伯はそんなことを思いつつも、軽く自分が侮辱されたことに顔を歪ませる。


 「え、ええ、すみません。生まれつきこんな体でして……」

 「へえ。まあ、いいわ。とりあえず中で話しましょう」


 美織の後ろをついていく。外からは見えないが、瓦屋根の大きい古風な家が佐伯を歓迎する。家門をくぐると小間使いらしき女性が「お荷物をお預かりします」と言って佐伯のビジネスバッグを手に掛けるが、何となくその扱いに慣れていない佐伯はとまどいながらも「お気遣いなく」と笑みを浮かべる。

 動線のしっかりした木組みの天井を見上げ、ニスの輝きまぶしい桐の廊下を歩く。部屋に案内される途中、数センチほど障子戸の空いている部屋があった。佐伯は何となくその部屋の中に目をやると、金色の仏壇が備えてあるのを確認した。遺影のような額縁があるが、微妙な光の反射で見えない。そのうち、小間使いの女性がピシャリと戸を閉める。佐伯は悪いことをしたかと思い、軽く頭を下げた。


 「そこの座椅子に座って」 


 案内された部屋は人間二人が話し合うにはあまりに広すぎる部屋であった。用意された座椅子と漆塗りの机が絶海に浮かぶ孤島のように見える。


 「改めまして、光陵プロダクションの佐伯と申します」


 「浪川美織」


 正座をして姿勢を正す佐伯に対し、美織は足を組んで、無愛想に返事を返す。たった二人ではあまりに余りすぎる数十畳の客間に彼女の声が響く。


 「え、ええと、ある程度のお話は伺っております。この度、美織さんが芸能界でタレントデビューをしたいと……、そこでこの私佐伯をお申し付けになったと」

 「そうよ。あなたの名前だけは知ってたの」

 「それはどのような場所で?」


 佐伯は自分の名を、業界人ならともかく、一般人が知っているほど認知度はないと分かっていたのでそうした質問を切り返す。


 「別に。どこでだっていいじゃない」

 「はあ……」

 「とにかく私の命令は一つだけ、私を売れっ子にしなさい」


 佐伯は言葉に詰まる。とんでもない命令だが、正にこの世の中で生きていく以上はその言葉に尽きる。佐伯はそれを十分理解していた。

 彼女の態度には問題しかないが、その押して押しまくる精神には今の発展途上のタレントたちに欠如したものを感じる。この子はひょっとしたら将来化けるかもしれない。そう思うと佐伯の心にはくすぐられるものがあった。


 「わ、分かりました。私はあなたの夢のために全力を尽くします」

 「ええ、よろしく頼むわよ」


 佐伯は新たな決意を胸に目をきらりと光らせる。彼女は予想通りの高飛車な女性で、人に嫌悪感を抱かせるような人間だけれど、井上社長の言う通り、案外その勝気な部分が私と合うのかもしれないとそう思った。


 「それじゃあ、一つ私たちの間で『決め事』を……」

 「あ、言い忘れてた」

 「え?」

 「基本的に私のやり方にあなたは口出ししないで」

 「いえ、それでは……」

 「私は……貴方の花火玉には絶対ならない。貴方という人間を踏み台にして、もっと上まで登りつめるんだから」

 

 その時の彼女の目は闘志ではなく、殺気のような物を帯びていた。少なくとも佐伯にはそう見えた。 思わずたじろいでしまった佐伯に、美織は睨みつける。


 「なにか異論でも?」

 「い、いえ……」

 「だって、そうでしょ?よく話は聞いてる。小出沙織、沢口カイト、真里亞、国母何とかって野球選手もあなただったっけ?ぜーんぶ、あなたが担当した時期に爆発的に売れ、そして……消えてった」


 佐伯は気まずい顔をする。


 「真里亞なんて売れた時期のお金で豪遊しまくって今では借金地獄だらけらしいじゃん。普通の仕事で払える額じゃないとか……」


 佐伯は以前の事務所で担当した真里亞のことを思い出す。

 確かに彼女は佐伯の元で上手くその花を咲かせることができた。そのことを甚く感謝されたことを佐伯は覚えている。しかし、彼女にはひどい浪費癖があった……そして、あろうことか今度はそれをネタに芸能界で立ち回ろうと佐伯に強く願ったのである。ただ佐伯は拒絶しなかった。むしろ、新たな分野で活躍できると信じ、背中を押したのである。

 しかし、現実は残酷だった。その頃から、彼女の人気は底なしのように下がっていったのである。「金持ちがバカして騒いでいるのを一般庶民が面白がるはずもない」、理由は明白であった。


 それから彼女は佐伯に何も言わず、事務所を離れ、どことなく消えた。


 「あーあ、本当に可愛そう」


 佐伯は久方ぶりに聞いたその名前に胸を痛ませた。


 「貴方はいいよね。そうやって導火線に火をつけるだけなんだから」


 美織は組んでいた足をほどいて立ち上がる。少し足でも痺れたのだろうか、足の先をさすってみせ、それから佐伯を見下ろす。


 「で?仕事はいつから?今日から?」 


 佐伯は動揺を上手く隠しつつも、やや震える自分の喉に乗せて答える。


 「今日……はありません。ただお顔合わせにと思っただけなので」

 「ふん。そう」

 「またご連絡します」


 そう言って佐伯も立ち上がり、その場を後にしようとしたその時、美織が佐伯の顔を覗き込む。


 「な、なんでしょうか……」

 「昔のこと引き摺んのは勝手にして。でも、今やんなきゃいけないことはちゃんとやってよね」


 「……承知しました」

  




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る