十五幕:その名、神ノ影
最初に――。
最初にそのことに気付いたのは誰だったのだろうか。
亀裂が走った。
何処に? と問われると、答えに詰まる。だって、あれはその場で見た人間でなければ、到底信じることの出来ない光景だったからだ。
それでも、それでも答えるならば、たった一つ。その場所を示す言葉がある。
――空に。
そう。
空に、亀裂が走ったのだ。
ぴしり――と、まるで硝子が罅割れるような、空虚な響きと共に。
誰もが――それこそその情景を見た者たちですら、自分の目を疑ったくらいだ。話として聞く人間ものにとっては、それこそ想像の埒外のような光景。だけど、それは確かにその場に起きた事象であり、現象だった。
しかし、問題はそこではない。
空中に。何もない空間に亀裂が走った――ああ、確かにそれは可笑しな、とびっきり常識外れおかしな話だろう。ただ、それだけで終わったのならば。
罅割れた空。その亀裂は徐々に、しかし確実に大きくなっていった。
少しずつ広がる亀裂。
ぴしり……ぴしり……――ぎちり。
音が、変わった。
それは空が罅割れる音ではなくて。
それは軋轢の音。
それは世界の軋む音。
此方と其方が擦れ合い、ぶつかり合い、存在を訴える――そういう音もの。
やがて、広がった亀裂の一部が剥がれるように零れ落ちる。
そして――
そして、
――ぬちゃり……
最初に、それは地に落ちた。粘りのある独特の音を辺りに響かせて。ゆっくりと、身体を持ち上げる。
空に生じた罅割れから、続々と落ちてくる粘性の黒が、徐々に形を成していく。
人に似た、人の形をした――粘体。だが、
形を成そうとして、形を成せずにいる異形である。
そのうちの一体が、ようやく身体を起こした。
ゆっくりと。
のっそりと。
巨身が、持ち上がる。
大きさ、およそ一〇メルトル。
人々が見上げるほどの長躯、夜空の下に晒して。
――Ahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhaaaaaaaaaa…………
――Ahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhaaaaaaaaaa…………
それは、不気味な声を口にした。
それは、眼下の街を見下ろした。
そして、手を翳す。
ぼとぼとと黒い粘液を滴らせながら、ゆっくりと。
まるでその仕草を――その動きの果てに齎される結果を、見る者すべてに印象付けるように。
黒い異形が、そっと指らしきものを街の一角に向けて――次の瞬間、
開拓都市フロンティアは、赤光に包まれた。
◇◇◇
「――父さん、あれ……なにかな?」
「ん? どうした?」
帰路に着く親子。その娘のほうが、最初にそれに気づいた。想像だにしなかった出会いと、そして思わぬ身入りに浮き立っていた父は、娘の言葉につられて振り返って――そして、最早今日だけで何度目かも判らぬ、有り得ざる光景を目の当たりにした。
――空が、割れている。
まるで分厚い壁が剥がれ落ちて、その向こう側が見ているような――そんな光景。割れた空の先に蠢く、黒い何かを見た途端、父親の
あれは、マズいものだ。
これまでの人生で、商人をしているが故に何度となく遭遇した危機のどれと比べても、遥かに恐ろしく、おぞましい――それこそ、言葉にするのすら難しい得体の知れなさに、全身が粟立つのを、彼は自覚していた。
そして、その向こう側に蠢いていた黒い何かが、ぬぅぅぅっとこちら側にこぼれおちたのを見た瞬間、父親は決断した。
「――逃げるぞ」
娘の手を取り、父親は荷馬車へと飛び乗り手綱を掴んだ。娘が困惑したように父を振り返る。その視線が何よりも娘の気持ちを物語っていたが、彼はそれに答える余裕がなかった。
あれは駄目だ。
これまで出会った何よりも、どんなものよりも恐ろしい何かだと内なる声が訴えてくる。
そして彼は、その訴えを拒まなかった。否定しなかった。全力で、肯定すらした。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。
昼間に遭遇したビッグ・ボアのときなど比べものにならないくらいの勢いで、彼は手綱を操った。
彼の顔は青ざめていた。
娘はそんな父の顔を見て何も言えず、代わりに後ろを振り返って――その光景を目にした。
屹立する影を。
君臨する黒を。
どす黒い油のような粘体を滴らせた、名状し難い何かが、ゆっくりとその手を持ち上げて――その手の先が僅かに揺らめいだ。
それが、彼女の見た最後の光景だった。
◇◇◇
目覚めたトールキン・アランドラは、部屋の寝台の上に座り込んだまま瞑目していた。
伏せられた
ソル・ルーン=ファルラと名乗った少年。すでに充分実践で通用する――通用しすぎる腕前だった。
だが――。
それほどの腕を持つ少年と対峙したトールキンが感じたのは、貪欲なまでの渇望だった。力。強さ。そういったものを欲して止まない、剣鬼のような飢餓感と焦燥。
この程度では駄目だ。もっと、もっとと、力を欲するもの特有の飢えた気配を、トールキンはあの少年から感じたのだ。
「……ままならねぇもんだな、世の中ってのは」
逆にこちらは憑きものが落ちたような気分だというのに。
いや、だからこそ――なのだろう。
邪念とか、憤りとか、不義不満、嫉妬に
曇っていた視界が晴れるように。とはよく言ったものであると、トールキンは苦笑する。
剣士として、一端の男として、あの少年は実に誠実なものだった。だが――その奥底にある狂気にも似た何か。
何が、あの少年をあそこまで駆り立てるのか。
僅かに興味があったが、是非もなし。
あの少年と会うことは、おそらく二度とないだろう。だが、良い出会いだったと思う。もし再会の機会があったならば、是非にあの時の非礼を詫びねば――そう思いながら、トールキンは瞑目を終え、寝台から降りて部屋の窓を開けた。
すでに日は沈み、夜も深まってきていた。
静かで、静謐な月光がフロンティアの街を照らしている――そんな空を見上げ、彼は目を丸くした。
「――……なんだ、ありゃあ?」
間抜けな科白と自覚するものの、トールキンはその言葉を発せずにはいられなかった。
――空が、割れていた。
そう表現する以外になんとその光景を言葉にすればいいのか、トールキンには皆目見当がつかなかったが――ともかく、空が割れていたのである。
びしりと。まるで窓に罅が入るが如く。やがてその罅割れはどんどん大きくなっていき、剥離していく。
空の向こう。
寄る闇の空の向こう側から、何かがその割れ目を通してぬっと姿を現す。
得体のしれない。
名状し難い黒い何か。
それを目にした途端、トールキンは弾けるように踵を返し、寝台の横に立てかけてあった己の得物を手に取ると――手下の二人を捜すべく、飛び降りるような勢いで階段を駆け下りていった。
◇◇◇
ジェシカ・ホールンは嘆いていた。
自分の不幸を。自分の不運を。
「うう……騒ぎを起こしたのは私じゃないじゃないですか……なのに後始末と事後処理の書類をどうして私がやらないといけないのさぁ。
「良い度胸だね、ジェシカ君。本人を前にしてそんな言葉口にできるなんて」
ジェシカが机に突っ伏しながら文句をたれると、その体面に座っていたひげを蓄えた小柄な老人――冒険者組合フロンティア支部支部長であるファウゼン・ロームは、怒ればいいのか呆れればいいのか悩んだ末に、その間を取ったような微妙な表情を浮かべながらそう言った。
すると、ジェシカは机から顔を上げ、書類にペンを走らせながら半泣きで彼を睨みつける。
「うっさいですよ、支部長。私は今日という厄日を本気で呪っているので、変に茶々入れると巻き込まれますよ」
「何にだね?」
「私の愚痴の対象に、です」
「それはもう、なっているのではないかな?」
「意味の違いですね。支部長が言っているのは〝愚痴を零す相手〟という意味でしょう?」
「違うのかね?」
ファウゼンが首を傾げると、ジェシカは「
「この場合、私の中における〝今日の厄日はこいつのせいだ〟という意味での愚痴の対象です」
「ああ、なるほどね。で、今日のその愚痴の相手というのはトールキン君と――」
「ソル・ルーン=ファルラに決まっているでしょう!」
ファウゼンの言葉を引き継ぎ、ジェシカは憤慨しながらその名を口にした。
「まったく、なんなですかあの少年は! いきなり遠地からやって来たと思ったら、フロンティアの目の上のたんこぶだったビック・ボアを討伐してきて、その上あのトールキンと喧嘩騒動を起こして、挙句にとっちめてしまうなんて! すごいじゃないか!」
「完全に褒めているねぇ。それ」
「まあ、そうですよ。褒めるに値しますよ。だってすごいことですからね。このフロンティア支部の悩みの種を二つも解決したんですから、そりゃ褒めるでしょう。報酬にだって色付けましたよ!」
「それは初耳だねぇ。ジェシカ君、君減給な」
「そんなご無体な!? ああ……ほらやっぱりあの子が悪い! 私が残業する羽目になったのも、支部長の前で愚痴をこぼすのも、書類整理が終わらないのも、減給されるのも、全部あの少年が悪いわ!」
「いやいや、ほとんど自業自得だからね、ジェシカ君」
頭を抱えて恨み事を叫ぶジェシカに、ファウゼンはやんわりと苦言する。そして彼は肩を竦めた。
「まあ、今日はこのぐらいで上がり給え。その書類は明日私のところに持ってきなさい。判を押しておこう」
「支部長、一生ついていきますね」
「現金な子だねぇ」
両手を組んで跪き憧憬の眼差しを向けてくるジェシカに苦笑しつつ、ファウゼンは「では帰るとしよう」と彼女を促した。
ジェシカは一に二もなく頷いて自分の荷物をまとめると、先を行くファウゼンの後に続いた。
今日の冒険者組合は既に業務を終えていて、残っているのはジェシカとファウゼンの二人だけである。
「あ、支部長。よかったら晩御飯はいかがですか? お礼にというわけではないですが、奢りますよ」
「こらこら。部下に奢らせる上司はいないよ。それは私の科白さ」
仕事から解放されたからか、晴れ晴れとした表情で言うジェシカに苦笑しつつ、ファウゼンは支部の出入り口の扉を開けて外に出た――いや、出ようとした。
だが、それは適わなかった。
扉を開いた先に広がっていた光景が、ファウゼンとジェシカの足を止めたのだ。
――割れた空。
――そこから滴るように降ってくる、黒い何か。
それが、ゆっくりと立ち上がる光景は、ファウゼンの足を建物の中に戻すには十分すぎる理由だった。
扉を閉め、踵を返すファウゼンが、厳しい表情でジェシカを見る。
表情を絶望に染めたジェシカが、恐る恐るといった様子でファウゼンを見た。そんな彼女に。ファウゼンは言う。
「――ジェシカ君。残念なお知らせだ」
「な、何でしょう?」
ジェシカは判り切ったことを敢えて訊ねた。続く言葉は容易に想像がつく。でも、どうか神様支部長様、私に希望をお与えください。そんな気持ちで、ジェシカはその場に膝をつく。
そんな彼女の肩を、ファウゼンは優しく叩いて、言った。
「仕事だ。ほかの職員にも連絡を飛ばしてくれたまえ。私は他の支部と警備隊に連絡をする。いいね?」
その言葉に、ジェシカは涙目になりながら頷いた。
(うぅぅ……厄日だ!)
彼女がそう思うのは、最早必定だった。
◇◇◇
黒い影が、現れる。
一体、また一体。罅割れの向こう側から、滴る影となって現界する。顕現する。
――
――
――
――
異形が呻く。
音にならない言葉を口にして。
人には届かぬ願望を声にして。
彼らは
彼らは
かつて古の時代。
まだ、神話が現実であった頃から、彼らはこの瞬間を望んでいた。
――
――
彼らは宣言する。
彼らは宣告する。
再び、この地に舞い戻りたり。
かつて彼らは、こう呼ばれていた。
神に相対するもの。
神が拒絶せしもの。
その名を――〈
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