アンフェスバイナ事変
先ず目に飛び込んだ色は、赤だった。
――それは炎の
――それは血の
揺れる
零れる
やめろ、やめろ、やめろ――そう声にして発する。否、発したつもりだった。
だが、言葉は声にはならなかった。ただただ頭の中で、心の中で反芻するだけで、実際に口から零れることはない。
ただ、その場で震えていた。
ただ、その場で脅えていた。
声にならない泣き声。嗚咽と共にぐしゃぐしゃになる自分の顔。目の前に広がる光景。まるでそれは悪夢のよう――いいや、悪夢そのものだった。
誰もが逃げ惑い、
そして――
また一人、死んでいく。たった一人の男の手によって。
◇◇◇
何故そうなっているのか、判らない。
最初はそうではなかったはずだ。
誰かが叫んでいた。「化け物が現れた」と。
魔獣ではなく、化け物――そう。確かにあれは、化け物と呼ぶ以外になんと呼べばいいのか想像がつかなかった。
それは、黒い異形の何かだった。
ただただ果てしなく黒くて。
異様に細長い手足。街を守る為の外壁並みに大きな寸胴の身体に、
そして、何よりも異様な、真っ黒な全身の中で異様に存在を主張する――濁った血のような、赫い
その姿を観た瞬間に納得した。
ああ。あれは――化け物だ、と。
それが空の向こうから、まるで盗人が窓からのっそりと家の中に侵入してくるような緩慢な動きで、化け物たちは此方側に姿を現したのだ。
そしてその化け物たちは周囲を興味深げに見回した後、ゆっくりと眼下の町並みを見下ろした。
そして自分を見上げる住民を見つけると、まるで新しい玩具を与えられた赤子のような無邪気な所作で――地面ごと住民を薙ぎ払ったのである。
――ゴウッ! と。
凄まじい衝撃が、あたりを襲った。まるで突風が吹いたように全身を叩く空気の圧力。弾け飛ぶ舗装路と、
そして彼は――剣を手に取り果敢に化け物へと臨む父の背を見送り、母親に手を引かれて逃げていたのだ。
◇◇◇
そこまでの記憶はある。
その後だ。
何かが起きた。
何かが起きて――そして、気づいた時には、その光景が広がっていた。
今日まで住んでいたはずの街はもう、何処にもなかった。
あるのは、瓦礫の山。炎に飲まれたかつて街だったはずの残骸。誰のものとも判らない肉片。そして何より多いのは、死体と死体と死体の――骸の道。
「――……おかあ……さん?」
その中に、見知った亡骸、一つ。
記憶が途切れる寸前まで、自分の手を引いていた母――母であったもの。
他にもあった。よく見れば、其処には見知った顔ぶれが沢山あった。隣に住んでいた老夫婦や、よく遊んだ友達たちやその家族。街を守っていた衛兵に、商店街を賑わせていた商いたちも……ああ、でも。全部全部、目を見開き、血を流して、動かない。
皆、皆、死んでいた。
何も――
何も判らなかった。
訳が判らなかった。
どうして? どうして? どうして?
そんな疑問だけが幾度も脳裏をよぎる。
答えはなく、応えもない。
ただどうしようもなく、その場で呆然と立ち尽くしていると――不意に、何処からか音が聞こえていた。
金属同士のぶつかる音。
(誰かが……まだ、いる?)
ほとんど考えもせずに、足は動いた。その場を離れて、ただ音の聞こえたであろう方に向かって足を運び――それを見た。
瓦礫と、化け物たちの亡骸が積み上がるその場所で。
――胸を剣で貫かれて横たわる父の姿を。
そして。
――その父の胸に突き刺さる剣を握った、銀髪の男の姿を。
◇◇◇
フィドア大陸中立地帯――交易都市アンフェスバイナ。
小国連合――通称
ル・ガルシェはアンフェスバイナの壊滅は連合国による魔獣の誘導にあったと発表。敵対行動を取ったとして、事件から二週間後。連合国との停戦破棄、及び宣戦布告を発令。連合国への侵攻を開始した。
連合国側はル・ガルシェの主張を真っ向から否定し、国境付近にて軍を展開。侵攻してきたル・ガルシェの
のちに〝魔剣戦争〟と呼ばれることになる戦乱の始まりは、一つの都市の崩壊によって引き起こされた。
――しかし。
その都市でたった一人。
たった一人だけ、生き延びた人間がいたのだ。
それがまだ年若い少年であったということを知る者は少なく。またその少年も発見されてすぐに姿を暗ましたために、その生存の是非を問うことが叶わず――結果、当時その生存が世に知られることはなかったのだ。
――アンフェスバイナの生き残り。
その存在が知られるようになるのは、〝魔剣戦争〟の末期。
戦争の泥沼化と、連合国側が対ル・ガルシェの切り札として利用された魔剣――ファーレスの魔剣が、大陸中に散逸した頃だったと云う。
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