第11話

「いま、助けてあげるから。」

彼女が言い終わるや否や、窓が枠組みごと跳ね飛ばされた。


「走って!」


その言葉に弾かれた私は、思考さえ置き去りにして扉から駆け出す。

暗い山道をただ走る。

冷たい外気が肌を嬲る。

ショートパンツから出た素足を枝葉が打つ。

木の根に足を取られる。


どれだけ走ったか、走り疲れて木の幹にもたれ座り込む。

呼吸が整うに従い、理性が戻ってくる。

「最低だ、あの子を置いて私は……。」


あの子の強さなんて知らない。

その場に私がいても足手まといだったのは間違いない、が。


「このまま逃げっぱなしなんて、性に合わないよな。」


決意を確認するようにキッと眼前の闇を睨み付けると、あたりを軽く見回す。

木々の向こうに明かりが見える。


「管理棟……。」


管理棟の横の納屋にはバーベキューやキャンプに利用できる機材や道具が収められている。

鉈くらいならあるかもしれない。

私はすぐさま走り出す。


不用心なことに南京錠のひとつも無い小屋のなかを見やる。

「武器になりそうなものなんてなにも……」

はたと目を止める。

金色のスコップ。 炭を処理するためのものだろう。

こんなものにどれほどの殺傷能力も期待できないが、丸腰よりはおよそマシだ。

スコップといくつかの使えそうなものを掴み取った私は踵を返してバンガローへと向かう。


「無事であってくれ……。」


走りながら、私は嫌でもそれに気が付いた。

ざわざわという木々の音。

私が蹴る下草の音では無い。

風でさえない。


ひときわ大きな音をみとめると、私はその場に足を止め、スコップを構える。

やがて木々を押しやりながら現れた、それ。

忘れようはずもないその姿。


大蜘蛛。


あの時と同じかたちをしたそれが、再び目の前にいる。相変わらずの巨躯から生えた女体は、さも楽しそうな笑みをうかべながら額に見える複数の光源でこちらを見据えている。


さきほどの決心とは対照的に、鼓動は早まり手足は震え、呼吸は乱れる。

だが私は知っている。 私は教わった。

自分を害そうとするものと相対すれば誰だって怖気付くような心持ちにはなる。

だから抑えなければならない。

抑えなければならなかった。

私は……。


「もう、逃げない!」


地を蹴って走り出す。

思考が透明になっていく。 体が動く。

あの時と同じ、撃破への確信が私の中に現れた。

多脚をくぐりぬけ背部にまわった私は、蜘蛛の尾部にスコップを突き立てる。


スコップはわずかに身を削ったが、刺さり切るまえに身をかわされてしまった。

蜘蛛がややもって悶えるような仕草を見せた後。 ゆるりとこちらに向き直る蜘蛛の貌にもはや笑みは無く、その赤い光は確かに怒りを湛えていた。


つんざくように一声発した蜘蛛はまっすぐに突っ込んできた。

その勢いに気圧され、たまらず横に飛び退くと、後方で木がめきめきと音を立てて倒れる。

なんて質量だ。 こんなもの相手にどうやって……。


尾部や脚部はそうでもないが、それそのものの質量と牙の硬度が恐ろしい。

再び尾部を狙おうと走るが、もはや背を向けてはくれない。 正面から突っ込もうにも、反撃されてしまえばおしまいだ。

前のやつと違って足も狙わせてはくれない。


どうする。 どうする。

ポケットの中に詰め込んだものを指でまさぐりながら思考を巡らせる。

……ひとつ、ある。 試せそうなものが。


背後に明かりを確認した私はそのまま明かりの方へ駆け出す。

蜘蛛も速いが、木々による足止めがあるぶん私の方が早い。


管理棟の裏手に出た私は、そこにあったタンクをスコップで思い切り殴りつける。

破損した部分から液体が零れ出し、あたりを濡らしていく。


「これで……。」

背後に迫った物音に気が付き、身をかわす。

自分がいた場所へ、巨体が降り落ちた。


私はポケットからマッチを取り出し、擦る。


「……なんでも、蜘蛛は体表の毛で音や動きを感じ取るらしいじゃないか。」


マッチを放る。

途端、地面に撒かれた灯油は勢いよく燃え上がる。


「なら、こうして体表を焼いてやろうって話さ!」


蜘蛛は悶えるようなそぶりを見せると、火の中から退避する。

蛋白質の焼けるにおいからして、効果は確かなようだ。


「なら次は!」

スコップで未だ燃える地面を削り取ると、蜘蛛の顔面に投げつける。


怯んだ一瞬を、私は見逃さなかった。


懐に飛び込みスコップを振り上げ


脳天に振り下ろした。


頭頂から顎まで裂けた口でなにやら悲鳴をあげると、蜘蛛は倒れ伏しやがて黒く霧散した。


小さく息をつくと、やや安堵しそうになった心を諌めて私はバンガローへとまた駆け出した。

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