第10話
ぬるい、朝だった。
相変わらず太陽は穏やかに朝の街を差し照らしている。
秋のこの時期、金木犀の香りは清々しい、しかしどこか"つちけ"のある風に乗ってやってくる。
ああ、なんとも清々しい、憎らしいような朝だ。
そんなことを、私は町のはずれにある高台の上から、もはや退廃的な雰囲気を醸す街並みを眺めて思っていた。
・・・
これは彼女との暮らしとも慣れて来た頃、つい先日の話だ。
その日は秋というにはすこし暑かった。
窓から見える空。 どこか霞むような青に、まるで夏みたいな雲が浮かんでいた。
その日の朝食は彼女の担当だったから、お世辞にも上手ではない彼女の料理を、しかしいつものようにまんざらでもない心地でもって食べた。
初めは鬱陶しかったはずの生活に、確かな華が添えられていたんだ。
そう、その日は日曜日。
こんな天気の良い日に家にいるばかりなんてもったいないーなんてあの子がまくし立てるものだから、彼女の要望もあって町外れの山にある自然公園に来ていた。
・・・
「ねえねえねえ、仁美ちゃんは食べないの? こんなにおいしいものを焼きたてに食べないとか人生の3割は損してるよ?」
「別に?」
「あー、知ってる知ってる。 最近自分でおなかつまんでため息ついてるもんねぇ。」
「ぐはっ⁉︎」
「あはは、図星なんだー。 食べたあとで運動しないからそうなるんだよ。」
「……あんたこそ最近ゲームやら絵ぇ描いたりで外出てないくせに……。」
「私は仁美ちゃんが見てないところで運動、してるんだよねぇ」
「あーはいはいそうですか。 ったくもう……。」
しかしこの子の恐ろしいこと。
出かける前から、香草とオリーブオイルに付け込まれた牡丹肉を既に用意していたんだ。
トレーに並べられたつややかな肉を、油をひいた網に並べていく。
炭火に晒された肉の香りが私を挑発してくる。 うるさい。 私は負けないぞ。
にわかに焦げ色を纏ったそれから香草を取り除き、レモンを一滴垂らす。
「食べないの?」
網の上に新たに載せられた援軍と、目の前に迫った彼ら。
「食べないなら私がぜんぶ」
「……箸は。」
「ん?」
「箸が無いと食べられないじゃん。」
「はい、どうぞ。」
楽しそうに笑いながら差し出された箸を半ばひったくると、間を置くことなく肉を口へ運ぶ。
噛みしめるごとに、香草でも消しきれない牡丹肉特有の野性味溢れる風味と脂が広がる。
畜生、なんでこんなに美味いのか。
だが、だがもうこれ以上は……
「鹿肉もあるけどもうやめとく?」
「食べるよ‼︎」
涙の塩気がついた肉や野菜は、どうしようもなく美味しかった。
・・・
この自然公園はバーベキューが可能なだけでなく、簡単な宿泊施設まである。
管理棟でシャワーを済ませ、バンガローのテラスから星を眺める。
あの子は遊び疲れてしまったのか、早々に眠ってしまった。
こうして一人になると、あの時のことを思い出す。
所詮一ヶ月前程度のことではあるが、果たしてあれは夢だったのではないかとさえ思えてしまう。
ただ、あの時の破損の修理が学校では行われていて、あの子との日常がここにあることがなによりの証明だろう。
……濡れた髪を撫でる風が心地良い。
「さて、と」
自分も眠ろうとテラスに背を向ける。
振り返りざま全身を悪寒が走り、私は動けなくなくなってしまう。
何。 何、これは。
視界の端、テラスの屋根。
その上から、白い顔が確かにこちらを見据えている。
こちらの意識に気付いてか薄ら笑いを浮かべるそれ。
今にも叫びそうになる気を諌め、私は窓をつとめてゆっくりと開けると、中に入り後ろ手に窓を閉め、鍵をかけた。
ふと、正面の小さな窓に目をやった。
窓になにか大きな木の枝のようなものがさしかかっている。 違和感を覚えた私は、その枝葉に目を凝らす。
黒く光沢を帯びた多関節、各関節に一対ずつ備えられた、枝のような脚。
間違えようもなくそれは、巨大な百足の胴に他ならなかった。
再び遭遇した怪奇に硬直している私は、カリカリ、と引っ掻くような音に反応して。
つい、後ろを振り返ってしまった。
巨大な百足の胴から生えた腕が三対ある人間の胴。
六本ある腕が、窓を舐めるように這いまわっていた。
腕の動きに合わせてうごめく百足の足が窓に当たり、かりかりと音を鳴らしていたことを知った。
目がそらせない。 身がすくむ。
視界がにじんでいく。
恐怖に直面している私を満足げに眺めていたそれは、ついぞ窓に体当たりを始めた。
簡単ににはひびが入り、建物は揺れる。
手元に刀なんて無い。 出口はあの足が見える窓の横。 もう、もう……。
「仁美ちゃん。」
「え?」
かけられた声に硬直がとけた私がそちらを見ると、彼女が立っていた。
「ここは任せて、ね。」
優しく微笑んだ彼女は私の横をすり抜ける。
「悪心に囚われたばかりに姿を変えたかわいそうな人……。」
寂しそうにそう呟いた刹那、淡い光が彼女から湧き出る。 髪は淡く蛍色を纏う。
淡くきらめく拳を握り、眼前のそれを見据える。
「いま、助けてあげるから。」
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