閻魔の沙汰 1
「
「なに?」
栞は呼ばれた方を振り向いた。
見知らぬ人が立っている。軍服を着た男だ。目深に帽子を被り、その表情は定かに見えない。
「此方へおいで、栞」
何故か栞はもつれそうになる足を動かせる。そうして男の元へやってきた。栞は決して男が恐ろしかった訳ではない。ただ、何と無く近寄っただけの事だ。深い意味も浅い意味もない。その時には。
男は栞の目線まで
「栞。其処にいると永く生くる事はできまい」
「だあれ?」
栞は首を傾げる。
「此方へおいで。私が匿ってやろう」
雨だ。雨が降っている。
路地に雨が降っている。決して止まない雨だ。
消して止まない雨。
「なあに?」
声。音。不思議な音色、不思議な空気。
「おいで栞」
男は栞に手を伸ばす。しかし触れようとするのではなく、差し伸べる手だ。
光の様に。
一筋の希望の様に。
栞はその手を見て、自分の手を挙げた。
私の世界は無彩色だ。
それは本に綴られた文字の様に。
白に黒の蚯蚓がのたうつ様に。
栞、それは正しい。
私はマーキングなだけなのだ。
「栞、もうすぐだね」
佐奈がふんわりと微笑する。柔らかい笑みだ。
そうだね、と、応じる。
佐奈はいつも笑っている。どんな生き物にも慈しみをもって接する。謙虚でやさしい大和撫子の鑑だ。決して欲張る事はなく、出しゃ張る事もない。
「ねえ、栞」
「………」
佐奈はいつも笑っている。
「もうすぐだね」
「………」
「もうすぐ。もうすぐ私達は楽になれる」
「………」
「もうすぐ。私達は自由になれる」
佐奈はいつも笑っている。
「栞」
「………」
「この村には独自の伝承がある。神さまに供物を捧げる伝承」
佐奈は胡乱げに呟く。
「昔々、この村を大雨が襲った。その時に助けた神さまは、代わりに村の娘を差し出すよう村の人間にいった。その通りに差し出すと、村は繁栄した」
もうここは村じゃない。町だ。
それでも独自伝承は密かに引き継がれている。
「ありがとう、栞」
「………」
私は何も言えない。
「栞、ありがとう。あなたのおかげで」
佐奈はいつも笑っている。
いつも笑っている。
「あなたのお陰で、私達は平和でいられるのよ」
佐奈が私を見ている。
私の一挙一動を見逃すまいとする様に。
私を逃さない様にする様に。
佐奈はいつも笑っている。まるで佐奈の《無表情》が《微笑み》である様に。
私はそれを、残酷だと思う。
私は閉ざされた部屋の中で、外から囁く佐奈の顔を、鉄格子の隙間から見ていた。
佐奈の瞳を見つめても、
何も映っていなかった。
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