第10話

 あっというまに、放課後はやってきてしまった。

 ぶっちゃけ、授業なんてまともに受けられる心境ではなく、教師たちの言葉はほとんど右耳から入っては左耳から抜けていった。

 今、目の前には広い広い校庭。

 陸上競技専用のトラックの白線が、きれいに描かれている。

 遠くには野球のダイヤモンドやサッカーのフィールド、何面ものテニスコートなどが見てとれる。

 甲高い金属バットの音や、ボールを蹴る音、ラケットで打つ音。皆それぞれの部活動に勤しんでいるのだろう。

 そして、俺の周りにはざっと百人くらいのギャラリーが集まっていた。

 主に個人競技や、それこそちょっとした怪我や体調不良で休養中の生徒たちだと思う。

 譜城山学園高等部普通科の生徒数は全学年で千五百名程度らしいので、その十五分の一が詰めかけていると考えるとなかなかの盛況ぶりだ。

「覚悟はよろしくって?」

 生徒会長は基本柔和な表情だ。たぶん俺が退学しようが残ろうが、たいして興味がないのだろう。

 タカにぃは渋い顔で、俺とあまり視線を合わせようとしない。立場上、俺と仲の良い態度は見せられないのかもしれない。

 俺は無言で頷く。

 ストップウォッチを手にした陸上部員と、スターターピストルを手にした陸上部員が、それぞれスタートラインとゴールラインの脇に立つ。

 まさか、もう一度こんなふうに、観客のいる前で走れるなんてな……。

 俺は、ただただ何も考えずに、走っていられれば幸せな人間だ……っていうと、なんか俺、アホの子みたいじゃね?

 十五秒かかろうが二十秒かかろうが、もしかしたらまた、人生の喜びを感じることができるかもしれない……死んでるけどな。

 あのとき死んだも同然だった俺はサーリャに殺され、今俺は死んでいるのに生きていると感じる。皮肉というより、純粋に不思議な気分だ。

 さあ、俺にとっては何物にも替えがたい、濃密な十秒を心から楽しもう。

 スターティングブロックに足の裏をつけ、両手を地面につく。

 静寂。

 パァァァンッ!

 ゴーッ!

 よし、ベストなスタートが切れ……た……?

 時が止まったかに見えた。俺以外、誰も動いていない。空を飛ぶ鳥や、風に揺れているはずの木の枝さえも、固まっている。

 スローモーションのように、それにしてはやけに進む距離が速い気がするが、俺の視界は移動していく。

 そんな中――。

 にやっと笑ったサーリャの、まん丸に目を見開いた永霞の、顔が映った。

 二人にだけは、俺が見えている……? これってまさか……縮地! サーリャの持つ超高速移動の能力なのか!?

 やべっ、緩めなきゃ……!

 と思ったときにはすでに、ゴールらいんを大きく駆け抜けてしまっている。おいおいおいおい、百メートル走タイムゼロ秒台とか、ドーピングってレベルじゃねーだろっ!?

 スタート地点まで戻り直せば……! 俺はすぐさま反転し、人の目では追えない速度で逆走してみせた。

 このへんか、よし、今度は、普通に走るように心がけよう。もう一回振り返って、スタートしたての体勢をつくる。

「おっ、ととっ」

 かなり無茶な動きをしたので、わずかに躓く感じになったが、大丈夫だ。

 ストライドを一定に保って、そう、イチ、ニ、イチ、ニ。なんか調子よくね? 右足の痛みも、嘘みたいにまったく感じられない。こりゃあ準決勝で、流すくらいの気持ちでいったほうがいいのか?

 などと思いながら、走っていると、

「ゴールッ!」

 カチッと、ストップウォッチのボタンが押された音がした。

 走り抜けながら、今の走りを振り返る。往復二百メートルの後の百メートル、実はけっこうタイムロスがやばかったか? けど、ちゃんと人間の速さで走った百メートルは、俺のベスト時の感覚に近かったぞ……?

 俺は固唾を飲んで、タイムが読み上げられるのを待った。

「は、八秒九八……!?」

 計測係の陸上部員が、うわずった叫びを上げた。

 しまったーーーーーーっ! まだ力のセーブが足りなかっただと!? 眷属の身体能力、恐るべしぃぃぃ!

 ビュウウウウウウッ!

 そのとき、実にタイミングよく? 辺り一面に突風が吹いたのだ。

「お、追い風参考記録だったんじゃないですかー?」

 永霞が、白々しい言い訳を大声で言ってくれる。やや棒読みだが。

「単に押すのが速すぎたんじゃね?」

「部員の中でも一番上手いやつがやってますよ?」

 陸上部員たちが揉め始めた。

 くっくっくっ、とサーリャはひとり笑いを噛み殺していやがる。

「どうかな? なんなら仕切り直してもよいのではないか? なあ、芹生龍征」

 笑い終えたサーリャに、騒ぎを鎮める口調で問われ、

「あ、ああ、いけます、何回でも」

 俺は即答した。

 百メートル全力疾走したとは思えない身体の軽さ。いや、全力ですらなかったし。あと百本やれと言われても普通に走れそうな自分が怖い。マジで怖い……俺もう、やっぱり人間じゃないんだな……。

「どうしますか、生徒会長」

 黙っていたタカにぃが、おもむろに口を開いた。鋭い視線は、俺に向けられている。まさか、俺の超スピード、見破られてない、よな……?

「……校長に、タイムを報告に参りましょう」

 結果はどちらでもよかったとでも言いたげに、生徒会長はくるりと背を向ける。

「わかりました」

 タカにぃは、素直に従う。

 が、

「龍征……、おまえ……、いや、なんでもない……」

 何か言いかけたタカにぃは、少しだけようやく、俺が昔からよく知っている、タカにぃの表情に、ほんの一瞬、なったのだった。

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