第8話

 一方、サーリャを伴って出かけた永霞は、俺の帰宅からさらに三十分ほど経って戻ってきた。

 リビングのテーブルに置かれたデジタルの電波時計は、十五時四十一分を表示している。

 もし寮生と遭遇したら、「昨日はどこに行ってたの?」とか「その銀髪の娘は誰?」とか質問攻めにされそうなものだが、大丈夫だったのだろうか。

 特に、門限を破って外泊したのだから大問題のはずだが、こうして何事もなかったように無事帰ってきている。

「サーリャ、誰も、殺さなかったよな……?」

 俺は、むくむくと湧き上がってきた不安を恐る恐る口にした。

「さあ、どうかな?」

 サーリャは、からかうようにとぼけてみせる。

「永霞、寮生の誰かに見つかったりしたか?」

 埒が明かないので、俺は話す相手を変更した。

「うん」

「だ、誰も死ななかったんだよな……?」

「うん、平気」

 そっけなく、永霞は答えた。

 サーリャがそばにいるときの永霞は、怯えているのか絶対服従が自動的に強制されているせいか、とにかく口数が少ない。

 ほ、本当に……? とは、聞けなかった。


     †


 明日は、学園に行く、とサーリャは言った。

 とっぷりと夜も更けている。

 人間が摂取する料理としての夕食を食べる必要がなく、腹が空いた、という感覚はない。胃の中は実際、空っぽのはずなのに。

 寝室のベッドに仰向けになりながらも、明日のことが気になって、全然眠れそうになかった。

 そこに、ガチャッと扉が開く音。

 見れば昨晩のように、シャワーから上がった永霞が入ってきた。

 ただ、バスローブではなく、さっき持ち帰ってきたのだろう室内着――タンクトップとショートパンツを身につけている。

 し、下着と変わらないくらい露出度が高すぎませんかね……? 目の遣り場に困りまくり、俺は天上へと視線を逸らす。

 ところが、

「あの……芹生くん、食事、いいかな……?」

 恥じらいつつも、永霞の口から飛び出た言葉は、とても積極的というか大胆なものだった。

 昨日の食事風景がフラッシュバックし、流れが止まっているはずの俺の血圧が急上昇したように感じられる。

 それに、永霞から声をかけてもらえたのが、素直に嬉しい。すごく久しぶりな気がした。

 俺の感覚では、眷属は三日くらいは食事をしなくても特に問題はなさそうだ。

 身体が衰弱してきているわけでもないし、意識もクリア。渇望するような性……じゃなかった、食欲も今はまだない。

 にもかかわらず、永霞は食事を欲している? 眷属でも、個体差があるのだろうか。

「い、いいけど、我慢できるならそんなにしないほうがよくなくなくなくない?」

 興奮のあまり、最後を噛みまくってしまう。

「だって、ね……、食事中は嫌な現実を忘れられるの……!」

 永霞の言葉が、俺の胸に突き刺さった。

 ごめん、ごめんよ……、救ってやれなくて……。なんにも、できなくて……!

「俺で、よければ……いくらでも……」

 身体を起こし、俺は永霞へと頼りなく手を伸ばす。

「ありがとう、芹生くん……」

 永霞も悲しそうに、手を伸ばす。

 俺たちは、とても惨めな気持ちで、強く抱き合った。

 じんわりと、頭の芯が熱くなってくる。脳の中で、快感がとろけ出す。なるほど、これは、食事だ。精気が、体内に満たされていくのを確かに感じる。

「芹生、くんっ……」

 顔を上げた永霞が、上目遣いに見つめてくる。

 潤んだ瞳が、宝石のようにキラキラ輝いて、綺麗すぎる。

 その瞳を永霞は閉じ、心もち唇を上げた。

 き、キスをねだられている……。仕草がいちいち、可愛すぎるだろ……!

 ちゅっ、ちゅっ……、ちゅっ、ちゅっ。

 何度も何度も、軽めの唇と唇の接触を繰り返した。回を重ねるごとに、永霞への愛おしさが募っていくみたいだ。

 そして、いつしか――。

 ちゅぱっ、ちゅるっ、ぴちゅっ、ぺちゃっ、ぴちゃっ。

 湿った音に、変わっていく。

「「はぁっ……」」

 唇を離した俺と永霞は、同時に大きく息を吐いた。

 しばしの、沈黙。

「あのね、芹生くん……」

 小さな声で、永霞に呼びかけられる。

「なに……?」

 耳孔がくすぐったい気がしながら、俺は問い返す。

「私、お嫁さんになるのが、夢だったの……」

「へえ、意外だ……。永霞のことだから、てっきり将来は警察官になるのかと思ってた」

「もちろん、警察官になりたかったよ? でも、お嫁さんだって、一緒になれたでしょ? 人間の、ままだったら……」

 永霞の、正義感の強そうな表情が、暗く曇った。

「私ね、キスとか、エッチなことは……、結婚する人としか、しないつもりだったの」

「そう、なんだ……」

 すごく、正しい考えだと思います、うん。……って、あれ? ってことは、つまり……?

「だから、私、芹生くんとしか、食事、しないから……」

 決意めいた口調で、永霞は言った。

 それがなんとも、いじらしくて。

「永霞、大丈夫だ……。俺が、俺が必ず、人間に戻してやるから……!」

 できるという保証などまったくないのに、俺は断言してしまっていた。

「え、それって……」

 すると、みるみる永霞の顔が真っ赤になり、

「ぷ……、プロポーズだと思っていいの……?」

 俯きがちに、なにか呟かれる。

 よく聞き取れなかったけど、ここはまあ流れ的に肯定しておくとこにちがいあるまい。

「ん? ああ、任せてくれ!」

 全力で肯定すると、

「うん……。私、芹生くんに全部任せるね……、心も、身体も……」

 また最後のほうがよく聞こえなかったが、気にするほどでもないだろう。

 ちょっと任されすぎな感じもするけど、可愛いから許す!


「おやすみなさい、芹生くん」

「おやすみ、永霞」

 部屋の明かりを消し、それぞれのベッドに潜り込む。

 永霞との食事のおかげで、心が安らいだ。これならぐっすり眠れそうだ。

「明日は学園に行く。貴様らは普通に授業を受けるがいい」

 サーリャの言葉が脳裏に甦る。退学を言い渡されているはずの俺が、はたして普通に授業を受けることが許されるのだろうか……?

 考えるのが億劫になってきた。

 まあいいさ、明日は明日の風が吹く、だ……。

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