警犬!~国家公務員第一種警察庁第二公安特殊部治安三課特異犯罪担当第一班~

妹蟲(いもむし)

「オレタチ、ただの警察の犬だから」

 灰色に染められた事務所の中は人間が作り出した叡智の結晶とも呼べる機械によって快適と思われる温度より低い温度に保たれている。部屋に入った瞬間のその冷気に、チノパンに白いTシャツだけをまとったカズトは身体をぶるりと震わせた。

「遅かったですね、カズト」

 燕尾服に白いシャツ。真っ赤なネクタイを締めたメグルは優雅に紅茶を飲んでいた。いつでも身につけている白い手袋が紅茶によって染まらないかとカズトは少しだけ期待する

「寒い」

「そうですか?私には丁度いいですよ」

「メグルの格好が悪い。暑苦しい」

 そうですかねぇと首をひねったメグルに、カズトは盛大なため息をこぼした。外は真夏の炎天下だというのに、ここだけは秋空の涼しさを思わせる。

「そういやメイは? メグルが一人なんて珍しい」

 カズトが声をかけると、紅茶を持ち上げていた手をぴたり、と止めた。それからゆっくりとした動作でカップを皿に置く。静かな部屋に、カチャリ、と少し乱暴な陶器の音が響いた。

「……ああ、置いてかれたのか」

「人聞きが悪いですね、そんなんだからハゲるんですよ」

「ハゲてねぇよ!」

 はぁ、とため息をつきながらどこからか取り出したハンカチで口元を拭く。瞳も髪も着ている燕尾服と全く同じ深い黒のメグルを見つめていると、カズトは薄い雨の降る夜の匂いを思い出す。

 机の中にいれっぱなしになっていたチロルチョコレートきなこ味を取り出してカズトは口の中に放り込んだメグルは眉間に皺をよせながら書類に目を通している。

 甘いチョコの香りがメグルの元にも届く。いつもは自分の監視下にいる栗色の髪をした新人少年を思い出してもう一度浅くため息をこぼした。それからペラ、と一枚の書類をカズトに渡す。

「次の事件も一緒に行くと約束していたのに裏切られるとは思いませんでした。ジンがすぐに追っているので心配はありませんけど」

「え、ジンさんメイと組んでんの!?」

 がたっ、と椅子を鳴らしてカズトが立ちあがった。その反応が面白かったかのようにメグルは口元を横に引いた。

「当たり前です。新人に抜け駆けなんて出来ません。……それはまぁ、置いておいて」

 メグルは紅茶のカップをもう一度口元に運んだ。肌寒い部屋のせいか、紅茶はもう熱さと芳しい香りを手放してしまっている。

「仕事です」

 カズトも口元を緩ませて薄く笑った。




 ピリリリリ、と鳴り響いた電話をうんざりとした表情でポケットから引っ張り出した。黄色の今時では珍しくなった二つ折り携帯の画面を覗き、「依頼書を盗みだすなど言語道断」から始まるメール文章が現れた瞬間、メイは携帯をパタリ、と閉じた。

「リエコさん怒ってるー」

「だろうな」

 アスファルトの照り返しと真夏の太陽にジリジリと肌を焼かれる。金色に染めた髪の生え際からたらり、と汗が落ちる。手の甲で額を拭うと、両耳に付けた小さな鈴のピアスがチリリンと夏らしい音を落とした。

 カーゴハーフパンツに真っ赤Tシャツといういで立ちのメイに比べ、半そで白シャツにグレースーツのジンの格好は暑苦しそうに見えるが、涼しい顔で灼熱の大地を無言で歩く。

「にしてもメグルさんじゃなくてジンさんと組めるなんてオレっち幸せ!」

「泣くぞ、あいつ」

「え、泣くの!? メグルさんの泣くの!? っていうかあの人に涙腺なんてあったの!?」

「良く泣いてるだろ、笑いながら」

「それなら想像できるや。あの人結構ゲラだよね」

 平日の昼間の歓楽街の人並みは浅い。それも一歩入った裏道ならそれも顕著だ。遠くで車の走る音が緩やかに流れ込んでくる。楽しげに肩を並べて歩く二人を見るものはいない。もし見るものがいれば、高校生ぐらいの少年とスーツ姿の社会人の組み合わせにどういった関係なのか怪しむ者も少なくないだろう。

 二人の足がピタリ、と止まった。廃ビルにも見えるほど、年代を感じさせる細かいヒビがメイの目に映った。

 生ぬるい風が二人の黒と金の髪を小さく揺らし、メイの耳の鈴をまた鳴らした。

「ここの六階だよー」

 メイはそういうと率先してビルの中に入り込む。割れたガラス戸がキキィ、と嫌な音を鳴らして開いた。

 日差しが避けられるだけ中のホールはましだったが、滞留した空気が淀んで空気が肌にまとまりつく。

「ここでお待ちになってるのはゴンダショーイチって男の人なんだって」

 コンクリートの打ちっぱなしの階段に足をかけ、一歩また一歩と昇っていく。ジンもメイの背中を追うように続く。

「ターゲットか?」

「いや、依頼人」

 ほう。とジンは声をこぼすとそのまま口を閉じた。メイはひゅーひゅーと空気だけを吐き出すような口笛でなんらかの曲を奏でている。聞いているジンには一つ一つの音の違いがわからず、ただ空気が流れ出ているようにしか聞こえない。

 長い六階までの階段を登りきると、すぐ目の前の扉でメイは足を止め、軽く後ろのジンに目をやる。ジンは何も言わずに軽く頷いた。

「おっじゃまっしまーす!」

 ガタン、と大きな音と共にメイが扉の中に身体を滑り込ませた。

 目の前に飛び込んできたのはうちっぱなしのコンクリートに覆われた無機質な部屋の内装と、数人の男たちの姿だった。

 メイとジンが部屋に入った瞬間、数人の男たちは慌てて立ち上がり胸元から黒い塊を取り出し、二人に向けて突き付けた。

「何モンだおめぇら!」

「部屋間違ったじゃすまさねぇぞクソガキ!」

 定番ともいえる怒声にメイはまた音の鳴らない口笛をひゅー、と吹いた。そんなメイにちらりとジンは目をやってから、視線を周囲の男たちの中に彷徨わせた。

「ゴンダショーイチさんってあんた?」

 部屋の真ん中のデスクに座ったまま顔色一つ変えずこちらを見つめている男にメイは話しかけた。男は表情一つ変えず、白目がちな細い瞳でメイの視線を射抜く。眉間に鋭く残る傷跡と、あからさまに短い小指が男の職業を物語った。

「兄貴になんのようだてめぇら」

 男をかばうように横にいたアロハシャツの男が前を出て拳銃をメイに向ける。向けられたメイは呆れたように肩をぐいっと持ち上げて首をふるふると横に振った。

「ねぇジンさん。面倒なんだけど。ハーキル使っちゃっていい?」

「ばかか」

「えー、だめー?」

「だめだ」

 ジンは表情一つ変えず、ズボンのポケットから煙草を取り出し一本口にくわえた。胸ポケットから銀のジッポを取り出して煙草に火を付ける。オイルライター独特の焦げた甘い香りと、ラムの香りを思わせるハイライトの紫煙が緩く天井へと上る。

「ぐだぐだしゃべってんじゃねぇぞおらぁ!」

 ダンッ!

 イライラが頂点に達したのか、黒い拳銃が火を拭いた。赤い火花と共に耳を傷つけるほどの激しい音の波がメイをただまっすぐ狙う。慣れたようにメイはそのまま身体をかがめると、低い体勢のままその拳銃の持ち主の元に走りだす。

 弾はメイの頭の上を通り過ぎ壁にかかったカレンダーをぶち抜いた。メイはその低い体勢から軽く飛び上がり、右足のひざを相手の首元にねじりこんだ。

「…っ、ぐ……っ!」

 若い男の喉が、ぐぎり、と嫌な音を鳴らす。メイが両足を地面に置いて一瞬の間があいた後、ばたり、と男の身体が地に落ちた。

 シン、と事務所が静まり返った。その沈黙を奪い去るように、ふぅ、とジンが煙を吐き出す。

「やりすぎだ」

「殺してないもん」

 のんのんとした会話に、呆気にとられていた男たちが慌てるように拳銃を向けなおした。四方からカチャン、カチャン、と拳銃の安全バーを引く音が響く。

 殺気だった男たちが拳銃の引き金に指をかけた。ジンの身体がゆらり、と揺れた。

「待て」

 が、その瞬間に低い制止の声が響いた。全員の身体がピタリ、と止まる。動かなかった黒いスーツの男が立ちあがった。

「お前ら、まさか」

 スッ、と瞳が細くなる。メイはその視線に見られたことが嬉しかったかのように頬をゆっくり緩ませる。愉快そうな笑顔に、男の表情がさらにこわばる。ジンが短くなった煙草を地面に捨ててぐりぐりと足で踏み潰し火を消した。

「やっぱりあんたがゴンダショーイチさん?」

 男はこくり、と頷くとメイはさらに嬉しそうににこりと笑った。

「国家公務員第一種警察庁第二公安特殊部治安三課特異犯罪担当第一班、人呼んで警犬ですよーん」

 へへん、と胸を張るメイにジンは無表情で頷き返した。

 額に傷のある男、ゴンダショウイチは不躾な瞳で二人を見つめる。それからふぅ、と大きなため息をこぼしてからがたり、と大きな音を鳴らして椅子に腰を下ろした。

「そうか、ラベル持ちは若いのが多いことを忘れていた」

 ジンの眉がぴくり、と動く。彷徨わせていただけの瞳をまっすぐゴンダショウイチへ向ける。メイも楽しそうに笑いながらゴンダショウイチの座る机に腰をおろして足を組んだ。

「ラベルのこと知ってるなんて、おじちゃんワルイヒト?」

「イイヒトではないだろうな。お前ら、その物騒なモンしまえ」

 はっ、と苦笑するような笑みをゴンダショウイチは浮かべる。周囲にいる男たちは、動揺するようにお互いの目を見合わせたが、黙って握られたままだった黒い塊を胸元へ戻した。

 ゴンダショウイチが机の上にあった煙草を口にくわえると、横にいたスーツの男がすかさずライターを持ち、うやうやしく煙草に火を灯す。ふぅ、と苦い煙を吐き出すとゴンダショウイチは重たい唇を開いた。

「探してほしい奴がいる」

「探して、消すの?」

「ああ」

 へえ、とメイが楽しげにまた唇を尖らせた。ひゅーひゅーと空気が抜けていく。

「ウチのシマでヤクを売買している奴がいる。あんなんヤられちゃあがったりだ」

「ふぅん、どんなおクスリなの?」

 首をひねったメイに、にやり、とゴンダショウイチが笑った。ふ、と煙草の煙を吐き出す。

「アレがよくなる薬だ」

「アレ?」

「お前にはまだ早い」

 呆れたように黙っていたジンが口を開いた。それに対してメイが「ああ」と手をパンと合わせた。

「エッチいおクスリなんだ。いやぁん」

 そう言いながら身体をくねらせてメイがクスクスと笑った。

 ゴンダショウイチが机の引き出しから角2封筒を取り出して、メイが腰かけている横にバサリと置いた。約2センチほどの厚みがある。メイはそれを受け取ると中身を覗く。

「資料と……、何この白い錠剤」

 置くに入っていた透明な袋を封筒から取り出してふわふわとふる。フリスクにも似た小さめの粒が小さな袋の中でカサカサと動く。

「実物だよ。それがそのクスリだ。『エクス』っつー名前で出回ってる」

「へぇー」

 それだけ聞くと興味を失ったかのように封筒の中にその粉の入った袋を戻した。それからジンにぽいっと封筒ごと投げ渡す。慣れた手つきでジンもその封筒を受け取り、中身を軽く確認した。

「バイヤーもほとんど割れてないのか」

「結構周到なやり方をしているようだ。……とにかく、頼んだ」

 ゴンダショウイチが頭を下げる。慌てるように、周囲にいた男たちも頭を下げた。メイは困ったように自分の後頭部をがりがりとかき混ぜた。

「まぁ、とりま、まかせてくださいなっと」

 机から飛び降りると、部屋に入ってきたときと全く変わらない軽い足取りで扉へ足を向ける。ジンもそのメイについて部屋を後にする。二人のコツコツと響く足音だけが、部屋の中に残響し、それも扉が閉まる音を最後に消えていった。

 打ちっぱなしの階段を降りながらメイがまた鳴らない口笛を繰り返していた。階段を上っていたときの楽しげなリズムはそこになく、重たいリズムでひゅーひゅーと繰り返されている。

「調査込みとか聞いてないし。まじめんどーだよジンさーん」

「仕事に文句を言うな」

 部屋に入る前と表情一つ変わらないジンに対して、メイはあからさまにテンションが下がったと言いたげに眉をぐっと下げている。ビルの外は灼熱のアスファルト地獄だった。肌を焼く太陽は真上から少しばかり西へ移動している。だが日差しの強さは変わらない。

「あつー…っ! ってかさ、あのクスリの出所調べなきゃなんないんでしょ? 無理無理。音にかかわるものでもなきゃオレっちに調査なんて無理!」

 ああもうありえねー、とメイは不満げに金髪をかき混ぜた。耳の鈴がチリチリと激しく音を響かせる。

「だから文句を言うな。……とりあえず聞きこみだ」

「……はーい。じゃあ、駅前行ってくる」

「ああ、俺は駅裏に行こう」

 不機嫌そうに唇を尖らせたままメイはけだるげに足を駅前へと向かせた。その背中を見てジンはほんの少しばかり口元を楽しげに歪ませた。




 カラリ、と低いドアベルが鳴った。外の太陽から解放された屋内は快適な温度に保たれていたが、明るさは昼間というより夜だ。薄明かりの中に背の高いドレス姿の人間がカウンターの奥に立っていた。

「マチ、今いい?」

「ああらカズちゃん、久しぶりね」

 明るい茶色の長い髪を高く結い上げ、可愛らしい蝶の飾りで彩っているマチにカズトは明るく声をかけた。細いが、ノースリーブから伸びる腕は筋肉特有の質感を漂わせている。声もはずむような柔らかさを持ってはいるが、成人女性にあるまじき低さだ。

「あら、今日は一人じゃないのね」

 彼はちらりとカズトの後ろに立っている燕尾服の男に目をやった。マチと目があうのを確認すると、メグルは被っていたシルクハットを脱ぎふわり笑った。

「カズトのお知り合いなんですね、私、今日限定でカズトの相方をさせていただいているメグルと申します」

「……あらま、イイオトコ」

「お姉さまの美しさの前では私なぞ霞んでしまいますよ。マチさん、とお呼びしてよろしいでしょうか」

 そう言いながらつかつかとカウンターに腰を下ろすと、そのままマチの手をとり、指先に小さく口づけた。

 一連の動きにマチだけではなくカズトも目を白黒させ、そのまま動けなくなった。

「ね、ねぇ、彼氏とか、いるのかしら?」

 マチが手をとられたまま、もじもじと身体を揺らす。カズトはそんな姿のマチを見て「うえぇ」と口元に手をやった。しかしマチはそんなことに全く気もやらずただ一心にメグルを見つめている。

「仕事が仕事ですから、難しいですね」

 照れたようにメグルが笑い、掴んだままだったマチの手を離した。マチは目をせわしなくカウンターの上とメグルの間でそわそわとさせる。紫色のロングドレスの胸元で、大きな両手を合わせたり離したりさせた。

「な、なら、私なんて、その、どうかしら」

「え、その、いいんですか?」

「え、あ、もちろん!」

「そんな、嬉しいです!……あ、でも……」

 そういうとメグルは目をそっと伏せて、困ったように目を彷徨わせた。

「貴方のような美しい人を、将来一人にしてしまうかもしれない私は、あなたにふさわしくありません」

 声を微かに震わせながら、細く息を吐き出した。マチはそんなメグルを見てカウンターに身を乗り出し、目をかっ、と見開いた。

「それでもいいの!あなたが、あなたがいいの!」

「マチさん、そんなこと言ってはいけない。……自分を大切にしなさい」

 メグルの白い手袋に覆われた右手、マチの頬の上を滑る。親指が、真っ赤に彩られた唇をなぞった。

「生まれ変わったら、私と結婚してください」

「……ああメグルくん。どうして、どうして貴方な警犬なの!」

 そう言ってカウンターに伏すように、マチは俯いた。カズトは一連の動作を見て口元をぽかん、と開いたまま力なくカウンター席に腰を下ろす。

「……マチ、俺コーラで」


 からん、とコーラの入ったコップの中で氷が音を鳴らす。

「はいコーラ。メグルさんは紅茶でよかったかしら」

「ありがとうございます。……うん、良い香りですね」

 ことん、と置かれたコーラに刺されたストローに、カズトはずずっ、と口を付ける。

「でだ、マチ。最近やたら人気あるピンク系の撮影事務所ってある?」

「ピンク系の、ねぇ……。そうねぇ、最近ならハギちゃんのところね。突然羽振よくなっちゃって!」

 紅茶のカップに口を付けていたメグルの視線と、カズトの視線を一瞬交わる。

「ハギ?」

「『叩いて縛って女王様』の人気No.1女王様のハギちゃん。んふふ、カズトちゃんにはちょっと刺激が強すぎたかしら」

 メグルがカップをソーサーに置く。かちゃり、と陶器独特の柔らかい音が静かな店内に響いた。

「それくらい知ってるよ。SM嬢だろ」

「あら、もしかしてカズトちゃんもお客様だったりするの?」

「違うよ。……でも、SM嬢がAVの撮影場所とどう関係あんの?」

「そのハギちゃんの相方さんがね、そっち系の監督してるのよ。たしか、ハギちゃんも何本か出てるのもあったはず」

 メグルが納得するようにふむふむ、と胸ポケットに入っていた手帳に何事か書く。その様子をカズトはちらりと見ながら、視線をマチに戻した。

「前まで素人さんとか使うことなかったのに、最近は明らかにそこら辺の女の子ーみたいな、若い子がけっこう出入りしてるみたいなのよねぇ」

 メグルの視線とカズトの視線がもう一度ぶつかる。お互い視線を合わせたまま、小さくコクリ、と頷いた。

 カズトは残っていたコーラを全て飲み干し立ち上がる。メグルも残りわずかの紅茶を喉の奥へ流し込み、財布から2000円抜き取りカウンターの上に置いた。

「何、あの二人ってばやっぱり悪いことしちゃってるのぉ?」

 マチが野次馬独特のキラキラした瞳をカズトに向ける。カズトはその笑顔ににぃ、と最高の笑顔を向けてから「操作機密」と言って人差し指を立てて自分の唇に乗せた。

「マチ、いつもありがと。またすぐ来るわ」

「マチさん、美味しい紅茶をありがとうございます。ごちそうさまでした」

「もう行っちゃうの?寂しいわ」

 ちょっと唇を尖らせて身体をくねらせるマチに、メグルはふわりと笑いかける。そしてそのまま最初と同じように手をとり、そっと指先に口づけた。

「また来ますよ。……貴女に会いに」

「……っ、もう、待ってるからね!」

 はぁ、と呆れるようにカズトはため息をついてから、後ろを向いたまま手をふって扉から出ていく。この店へ続く廊下の煌々とした明りが瞳に痛い。メグルもカズトを追って部屋を出る。もちろん、部屋を出る際にペコリと頭を下げることを忘れない。

 カララン、と低いドアベルが、もう一度鳴った。




「遅ーい!」

 カズトとメグルが事務所に戻ると、暇そうに雑誌をめくるメイが目に飛び込んできた。ジンは入ってきた二人には目も向けずに、パラリパラリと資料のようなものに目を通している。机の上の灰皿から、ふわりふわりと煙が立ち上っている。

 カズトは何も言わずに、ジンのすぐ前の椅子に腰を下ろした。

「ただいま戻りました。早かったんですね、メイ」

「どこ行ってたんだよー、こっち全然情報つかまんなくてさぁ」

 ぶすーっと唇を尖らせて机の上にメイがつっぷす。メグルは被っていたシルクハットを入口横の帽子かけにひっかけ、メイが座っているデスクのすぐ目の前に座った。

 カズトが身を乗り出してジンの読んでいる資料を覗きこむ。

「ジンさん、どんな依頼なの?」

 ジンは視線をく、と持ち上げると、持っていた資料の一部をカズトに手渡した。カズトはそれを受け取って、ぱら、ぱら、と数枚めくる。

「へぇ、麻薬の出所ですか。なかなか大変な仕事ですねぇ」

 いつの間にか、メグルがジンの背後に移動して資料を覗きこんでいた。ジンは邪魔くさそうな視線をつい、と向けるだけ向けて無視するように資料へと目を戻した。

 メイはぐったりとした姿勢を変えないまま「そうなんだよぅ」と口先だけで喋った。

「……ん、なんか、嗅ぎ慣れない匂いがしますね、この資料」

 メグルがすんすん、と鼻を動かす。ジンが封筒の中から透明な封筒を取り出した。鼻先だけをその封筒に近づけ、メグルがくっ、と眉を寄せた。

「ううん、嫌な匂いですねぇ。エクス……に、混ぜ物されてますか」

「匂いだけでわかるの!?」

 ぐったりさせていた身体をぐっと持ち上げてメイは目を見開いた。メグルはそのメイの反応が嬉しかったのか、「まぁこれくらいは」とにっこり笑う。でもやはりその匂いはあまり好きではないのか、鼻を押さえてその袋から身体を離した。

「ジン、それしまってください。臭い」

「鼻がいいのも大変だな」

 ふ、と珍しくジンが目をゆるませ、それからその錠剤の入った袋を封筒の中へと戻した。においが遠ざかってほっとしたようにメグルは息をつくと、自分のデスクに戻って胸元から手帳を開いた。

「で、メグルとカズトは何の依頼だったんだ」

「こっちはAV女優の連続殺人犯探し」

 カズトがくっと首をすくめてから、机の上に広げたままだった資料のうち、一枚を引っ張り出してジンとメイに手渡した。

「なんかそっちのがオモシロソー!ずるい」

「仕事に優劣なんかねぇよこのガキ」

 カズトはメイの様子を見てはぁ、と小さくため息をついた。メイはまたいつものように口からひゅーひゅーと音の出ない口笛を繰り返した。

「ガイシャは三人。共通点は全員が絞殺、AV嬢。ついでに言うなら出演作はまだ1、2作しかない素人さんばっかだってとこまで共通点は同じ。ただ出演作のレーベルはバラバラ。知り合いだってことでもない」

 ふぅん、とメイは興味なさげにその資料を自分のデスクにぱさりと落とした。ジンはじっくりとその資料を読みながら目を細めている。

「まぁ今日はこれくらいにしましょう」

 メグルは何事か手帳にカリカリと書くと、ぱたん、と手帳を閉じた。それから机の上の資料を適当にまとめて机の中へ乱雑に放り込んだ。その様子を見て、メイも同じように机の上の資料を適当に机の中に放り込んだ。

「カズト、飯でも行くか」

 資料を眺めながらジンが視線だけをカズトに向けた。カズトは嬉しそうに目をキラキラと輝かせると「行きます!」と慌てて資料をいつものようにファイリングし、丁寧に机の中にしまった。その返答にジンもクリアファイルの中に資料をしまう。

「ジンさん俺焼き肉がいい」

「なら、駅裏のあそこにするか」

 二人でデスクから立ち上がり、挨拶もそこそこに部屋の中から去って行った。

 バタン、扉が閉まる無機質な音と共に二人の会話も途切れるように聞こえなくなる。

「メイ、私たちも帰りましょうか。夜が深くなる前に帰らないと」

「警犬がなんで夜道なんぞに怯えなきゃなんないんだよー、そんな弱くねぇし」

「わかってますよ、メイは強くて可愛いです。でもこの仕事をやっている限り、常に想定外は存在することを忘れてはいけません」

 何か反論しようとしていたメイだが、メイの言葉にぐっ、と言葉を詰まらせデスクから立ち上がる。

「わかってるよーだ。メグルの説教って年寄りくさいよね」

「……っ、と、とし、より……」

「じゃあねーっ、また明日ー!」

 ショックを受けるように目を見開いて動けなくなるメグルの反応がよっぽど嬉しかったのか、ニコニコとご機嫌に笑って走り去るようにメイは部屋から消えた。

 まったく、と小さくこぼしてからメグルは立ち上がり、部屋の隅にある冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、自分用のマグカップに注ぐ。とぽとぽという音が心地よい。

「ほんとまだまだ子供なんですから。……さてと」

 こくこくと麦茶をいっきに飲み干す。それから自分のデスクに戻りパソコンに電源を灯した。

「もう一仕事ですね」

 タン、とキーボードを軽く叩いた。


「悪い、遅くなった」

 チャキ、と小さく扉が鳴ってジンが事務所の中に入ってきた。時計の短信が12時を指すか指さないかのあたりで止まっている。メグルはデスク上のパソコンから一瞬目をそらして、小さくほほ笑む。

 ジンも自分のデスクに座り、自分のデスクからクリアファイルにしまった資料を取り出した。

「カズト、ちゃんと送ってきました?」

「ああ」

「あの子はほんと、目が離せませんからね」

「メイも同じだろう。それより、お前どう思う」

 ジンが口元に煙草を運ぶ。いつの間にか手に持っていたマッチでメグルは火をつけると、その火を煙草の尖端に灯した。

「そうですねぇ……」

 マッチを灰皿に落としてから、メグルは悩むように白手袋に覆われた右手を自分の口元に持っていき、少し言葉を選ぶようにしながら、パソコンの画面をジンに見せた。

「……ミヤビからの情報かこれ」

「ええ、明日の夜と引き換えに」

「お前は……」

 煙と一緒にため息を吐き出し普段は全く動かそうとしない表情を、微かに歪ませた。眉間のあたりに小さく皺がよる。そんなジンの反応を楽しむように、メグルはにっこりと笑みを落とした。

「面白いでしょうこの情報。明日は私にメイと組ませてください」

「メイにバレないようにしろよ。情報収集方法」

「わかってますよ。あの子こういうの嫌いですから」

 冷めた紅茶を喉に流し込む。ジンはその様子を見ながら、天井へ上る紫煙をぼんやり見つめた。それから立ち上がると机から取り出した白いマスクで口元を覆って扉に向かった。

「……いつもすいませんね」

「仕事だからな」

 メグルはパソコンの画面を見つめたまま、ジンも背を向けたまま小さく言葉を交わす。

 それからすぐにジンは部屋から出た。事務所無いですっかり乾燥していた肌にじわりと汗がにじむ。今日も熱帯夜になりそうだ。




「おはおー」

 ふあああ、と大きなあくびをこぼしながらメイが事務所の中にのっそりと入ってきた。今日も目を引くオレンジ色の派手なTシャツをまとっている。

 パソコンにむかってカタカタと何かを入力していたカズトは手を止めて、呆れたような視線をメイに向けた。

「メイ、遅刻」

「ギリギリセーフだよ。俺の時計5分遅れてるから」

「自分の時計に合わせんな!」

 ったくお前はほんと……。と呟くとまたパソコンに向かって入力を進めている。見ている資料を見る限り、どうやら昨日の報告書の作成をしているのだろう。

 メイはキョロキョロと部屋の中を見まわす。カズトの他に人の気配はない。

「メグルとジンさんは?」

「さぁ、来たときにはいなかった。ただもう出社している形跡はあったから随分早く来てどっか出かけたんだろ」

「……なぁんか、アヤシー。二人で密会?」

「何が怪しいんですか?」

 突然背後から聞こえた声にびくっ、とメイは身体を震わせた。慌てて身体を振り向かせると、にっこりと笑った黒い燕尾服にシルクハットの男が立っている。

「おはようございますメイ。今日も可愛いですね」

「いきなり現れないでよ焦ったよ!」

 はは、と笑いながらメグルは被っていたシルクハットを脱いで帽子掛けに引っかけた。

「それより面白いことがわかりましたよ」

「面白いこと?」

 メグルの言葉にパソコンと向き合っていたカズトも手をとめて後ろを振り返ってメグルを見た。

「例の殺されたAV嬢の三人、全員が『エクス』を常用していたそうです」

「へ?」

 メイが驚いたように口をぽかんと開く。

「どうやら私たちの仕事、つながっていたみたいですねぇ」

 自分のデスクに座り、手にしていた角2封筒から資料を取り出す。同じように胸元に忍ばせていた自分の手帳も取り出すと、いつものにっこりとした笑顔を浮かべて二人を見上げた。

「メイが持ってきた『エクス』、あの有名なクスリとは違うみたいなんですよ。いや、多分元はエクスなんでしょうけど、混ぜ物がされてますね」

 そこまで話すと、また事務所の扉が開いた。いつもより土気色した顔をしたジンが事務所に入ってくると、ふらふらとした足取りで自分のデスクに身体をがくっと預けた。

「これ、ハマる奴はハマるぞ。……やっとヌケた」

 背もたれに全体重を乗せて天井を仰ぎ見るジンに、メグルはいつの間に準備していたのか冷たい麦茶を差し出した。汗をかいたグラスと中の氷がぶつかって涼しげに鳴る。

 さんきゅ、と小さく呟いてジンはそのグラスを受け取って一息に飲み干した。

「バイヤー元は割り出した」

「さすがジン、ありがとうございます。それからそれ、どうですか」

「感覚的にはアッパー系ドラッグ。ただこのトビ感は幻覚系も混ざってるな。俺で4時間はトんでたから、実際は6~8時間程度」

「アッパー系ってことは、多幸感、活気のみなぎり、ってところでしょうか。それに加えて幻覚……」

「ああ。ただ一番の特徴は強い麻酔作用だな。しかも、快楽以外の」

 メグルのペン先がぴたり、と止まった。それから「なるほど」と呟き、考え込むように手を顎元に添えた。

 そこまで話して疲れたのか、深く息を吐き出してからぐ、とジンは目をつぶった。

「メグルさん。またあんたジンさんに飲ませたのかよ」

「ええ、そうです。どうやら購入時には目の前で服用することが条件だったようなのでお願いしました」

 カズトの瞳にぐ、と怒りが灯る。メグルはその視線を無視するかのように「カズト」と呼びかけた。

「私たちは警犬です。ジンのラベルを利用するのは当然のことです。……わかっていますね」

 不満げにカズトが下唇をかんだ。その姿にメグルは曖昧に笑いかける。メイは無表情で自分のデスクに腰を下ろした。

 クーラーは今日もしっかり効いている。夏とは思えない涼しさの事務所が不自然な沈黙に包まれる。ジンが、ぱちりと目を見開いた。

「メイと私はこれからちょっと危ない場所に行きましょう。カズトはジンについていってください」

 メグルはそう言うと手帳を胸元にしまって立ち上がった。メイも何も言わずに立ち上がる。入口前の帽子かけのシルクハットを手にとって頭にひっかける。

「カズト、いくら私にいらいらしたからって甘いモノ食べ過ぎてハゲないでくださいね」

「うるせぇ!」

 はははは、と楽しげに笑ってメグルは事務所を出た。メイはその一部始終を見ながらもやはり表情一つ変えずにカズトを一瞥すると、メグルを追って事務所を追った。

 扉が閉まったのを見届けて、カズトはジンをちらりと見る。

「お前はもう少し大人になれ」

 ぼそり、とジンが口を開いた。ちょっと俯いていたカズトがジンに目を向ける。それから困ったように視線をふらふらと部屋中に彷徨わせた。

「俺らも行くぞ」

「ジンさん、でも」

「俺はもう大丈夫だ。……行くぞ」

 立ち上がって椅子にかけてあったスーツの上着を肩に引っかける。カズトは喉の奥だけで「はい」と頷くと同じように立ち上がった。




 カララン、と、低いドアベルの音が小さな店の中に響いた。むせかえるようなすえた酒と男の匂いが部屋に入った二人を襲った。カズトは心の中で、メグルならこの匂いだけで卒倒しただろうな、と苦笑する。

 広いカウンターの上にワインレッドの短いドレスを着た人間が突っ伏していた。結い上げられた髪が緩くほどけて頬に落ちている。

 ドアベルの音に反応したのか、その人が顔をぼんやりとあげる。うっすら髭の生えた顔立ちに、禿げた赤い唇が明らかな疲れを浮かべている。

「……かずちゃんもじんちゃんも、こういうお店の朝一に来るなんて迷惑だってわかってるんじゃないの」

 明らかに男性とわかる低いドスの効いた声でそのドレスをまとった男性は身体を持ち上げた。それから疲れたように胸元から細い煙草を取り出し加え、ふぅ、と煙を吐き出した。

「悪いなナチ。こっちも急ぎなんだ」

 ジンもいつもより少し緩んだ表情を浮かべながらカウンターに腰をかけた。カズトもそれにならって椅子に座る。

「……それよりナチ、お前いつの間にエクスなんて取扱い始めた」

 ジンがおもむろに煙草を取り出して口にくわえる。オイルライターに火をつけると焦げた香りとラム独特の風味が部屋にふわりと広がった。カズトが驚いたようにカズトの顔を覗きこんだ。

 ナチは特に動揺した様子もなく、す、と吸いこんだ煙草をふわりと吐きだす。ジンの煙草の香りと苦みの強いマチの香りと混ざり合って独特の世界が生まれた。

「警犬まで出てくる程、あれへの規制厳しくなっちゃったの? 悪い薬ってわけじゃないのに」

「麻取が来る前で良かったと思え」

「それもそうね」

 そう言ってマチは煙草を近くの灰皿に押し付けた。頬に落ちていた髪を耳にさっと引っかける。疲れたような瞳に小さく黒い光が宿る。

 カズトはことが読めたかのように「マチ、コーラ」といつものように声をかけた。

「とりあえず今持ってる残りのエクス全てと、購入者とバイヤーのリストを出せ。どうせ作ってんだろ」

 ふふふ、と小さく喉元で笑うとマチはからり、とカズトの前にコーラを差し出した。そのまま慣れた手つきで薬缶に火をかける。

 カズトは出されたグラスのストローを抜いて、そのままコップに口を付けてこくり、と一口飲んだ。

「どこからあたしの名前が流れちゃったんだか。……ダメな子がいるみたいねぇ」

「駅裏の可愛い坊やが吐いてくれたぞ」

「もう、お仕置きが必要ね。よりによって警犬にゲロっちゃうなんて。ちょっと待ってて」

 ふわりと手をぱたぱた、振るとマチは店の奥に入って「確かここら辺よねぇ」とぼそぼそ呟きながら何かを探している。

「ジンさん、まさか」

「まさかもなんもだ。……薬の出所はここだよ。製造元は別だがな」

 ふ、と短くなった煙草の最後の一口を名残推しそうに吸いこむと、白い灰皿に押し付けた。白い灰皿の上には、口紅の付いた吸殻と何の特徴もない煙草が、二つ歪んだ姿で倒れ伏している。

 ナチはかつ、かつ、と高いヒール独特の高い足あとを鳴らしてカウンターに戻ってきた。手には大きなたっぱに入った大量の錠剤と、ファイルが二冊。

「随分多いな」

「ちょうど売れてきたところだったのよ。ああもう、これ手放しちゃったらうちはハーブしかなくなっちゃうじゃない」

 まったく、と唇を尖らせてつまらなそうにナチがジンから目をそらした。

 ジンは机におかれたファイルを手に取り、パラパラとページをめくる。一つのページに5、6人の名前とそれぞれの特徴、電話番号等が書かれている。そして数ページに1人か2人、黄色の蛍光ペンを引かれた名前があった。

「マーカ―の奴らがお得意バイヤーか」

「いつも通りよ」

 つまんないのー。とマチはほっぺをぷっくり膨らませた。青髭の見える化粧の落ちたオカマのそんな姿を見るに堪えかねてカズトは素知らぬ顔で視線をそらした。

「で、購入元を教えろ。証拠とセットで」

「……私にまた売れっていうの? その情報ちょとでも抜けたら私の商売終わっちゃうのわかってていっつもやらせてるんでしょうね」

「1本」

「ふざけてるの?」

「5本」

 ふうむ、と思案するようにナチが目を細く顰める。それから小さく「足りないわね」と呟いた。

「6本」

「もう一声」

「7本」

「……いいわ。シギ組のユキって男」

 そう言いながらマチは2cmほどの小さなデザインボイスレコーダーをこつり、と胸元から取り出しておいた。カズトはすぐにそのボイスレコーダーを掴んで、いつもポケットにつっこんでいるイヤホンにつなげて中身を確認する。

 それを目だけで確認し、ジンは口元を小さく歪ませた。

「どこで待ち合わせてた」

「そんなの無いわよ。向こうがふらっと売りに来るだけ。でも会うのは簡単よ」

「わかってる。俺たちは証拠をつかみに来ただけだ」

「あらつまんないの。それより、ほら」

 ふふ、と笑いながらナチはもう一本煙草に火を付けた。それから真っ赤なネイルで机の上をコンコンと叩く。ジンは持ってきていたかばんから紙袋をとん、と置いた。

「残りは後で持ってくる。とりあえず3本だ」

 マチはそれをすぐに手にとって、中に一万円の束が三つ入っているのを確認してからにっこりと口元を歪ませた。

 音声が間違いないことを確認したカズトが、イヤホンを外しながらジンに向かって小さく頷く。

「ナチ、裏切るなよ」

「わかってるわよ。警察のワンちゃんはおっかないんだから」

 その言葉にふ、とジンは口元を緩めて「またな」と手をあげてマチに背を向ける。カズトも「じゃあね」と言いながらジンを追いかけて店の扉へ向かっていく。

 カラン、と小さくドアベルが鳴り終えると、店に残されたマチが呆れたように眉を落とした。

「ほんと、警察のわんちゃんは息をするのも苦しそうよね」




 チリン。

 メイの耳元で鈴が鳴った。車を運転しながらメグルは横目でメイをちらりと見る。

 街中とは言え平日の午前中は人並みもまばらだ。メイはそんな街並みを見ているのか見ていないのか、曖昧な瞳でぼんやりと車の外を見つめていた。ハンドルを握るメグルもメイから目を外し、正面を見据える。この時間は車の数も少ない。

「ジンさんのラベルってさ、生きるのに不便そうだよねー」

 いつもよりほんの少しトーンを落としたような声でメイがぼそりと呟いた。メグルはメイを一瞥もせずに「そうですか?」とか返す。

「死ねない。でも苦しいのも痛いのも、全く他の人間と変わらない。うっげ、オレっちなら自殺しちゃう」

「ま、その自殺もできないんですけどね」

「そうだった」

 はははは、とメイは本当に楽しそうに笑った。メグルはその笑いに釣られるように口元を緩ませた。

 冷房の効かせた車内の温度は事務所とほとんど変わらない。Tシャツのままでいるメイには少し肌寒い程だ。

「カズトの力が、ジンさんにあれば少しは生きるの楽なのかな」

「そうならないからラベルなんでしょう」

「そうだね。ああ、やっぱりメグルさんって年寄りくさい」

「……メイってば本当にひどいんですから」

 肩をすくめてため息をつくメグルに、メイはけたけたとした笑いを返した。

 く、とブレーキが引かれる。慣性に誘われ少しだけ前のめりになる身体を押さえながらメイはひっかけていたシートベルトを外して車から降りる。

 扉の向こうは呼吸も一瞬止まるぬるい空気が充満していた。

「あー……、暑い」

 何もしていないのに背中に浮かぶ汗の気配に嫌悪してメイは眉を寄せた。

 と、メグルの携帯から無機質な電子音が鳴り響いた。メグルは少しほっとしたように電話を手に取ると耳に寄せた。

「ジン、お疲れ様です。……はい、……はい、じゃああとは私たちに任せてください。それでは後で」

 短い会話だけ終えると、無造作にメグルはポケットに携帯電話を閉まった。それから嬉しそうに目尻を落としてメイに笑いかける。

「始めましょうか」

「おう」

 メイも慣れたようにズボンの後ろポケットにそっと触れた。そこにある塊を確認してから『叩いて縛って女王様』と書かれたビルの隣に建てられたマンションへ足を踏み出した。


「……ああ、これはもう、うわぁとしか言いようがありませんねぇ」

 メグルが苦しそうに鼻をつまみながら、鍵を叩きつぶした部屋の中に入った瞬間呟いた。メイも「うえええ」と言いながら鼻をつまんだ。

 呼吸も嫌になる外気とは違って、部屋の中は心地よい温度に保たれていた。空調はどうやらしっかりと効いているらしい。それだけ空調が効いているのにも関わらず、部屋の中からは腐った豆腐と牛乳が敷き詰められたような嫌な匂いが充満している。

 メグルは胸ポケットから黒いマスクを取り出すと装着する。少しはましなのか、青ざめた表情が少しばかりよくなる。

 メイはその匂いに嫌悪を抱きながらも、とことこと靴も脱がず部屋の中に足を進めた。細い廊下を抜け、リビングの扉をがちゃり、と開く。

 それと同時に、ダン、ダンダン、と大きな音が立て続けに鳴り響いた。

「メイ!」

 扉を開いたメイの身体が後ろに飛んだ。メグルがメイの身体を受け止めるように支える。 すぐに扉からメイと自分を引きはがし、近くの部屋に身体を滑らせた。

「大丈夫。……ちょっと、耳の端やられただけ」

 メイが抱えられた状態からメグルと距離をとり、自分の右耳を指示した。右耳の耳たぶでいつも小さく囁いていた鈴と、その根元が無くなっていた。そこから、ぽたぽたと真っ赤な雫が滴り落ちている。

「……耳に影響は」

「それは平気。少し耳鳴りする程度。すぐ治る」

 すぅ、とメグルの目が細くなる。メイはポケットから絆創膏を取り出し、簡易的にとばかりに止血をする。押さえたそばから真っ赤に染まるがそれでも少しはましなのだろう。メイは落ち着いたように、腰元から黒い塊を取り出した。

 メグルはそんなメイを見ながら、自信も胸元から黒い塊を取り出した。拳銃と呼ぶには少し鋭すぎる経常を持ったそれは、彼ら警犬だけが持つ特殊な武器、ハーキルだ。

「出てこいよ」

 居間の方から、低い男の声が響く。水を揺らすような重低音に、メイの瞳がくっと細められた。メイがまとう空気が浅く深く変化した。

「……ふぅん……、そういうことかぁ」

 薄い唇をぺろ、と舐めてメイが立ちあがった。メグルはそんな様子のメイを危ぶむように見つめる。

「全部あんたの手の平で踊らされてたんだ、つまんないのー」

 扉を開け切って遮蔽物の無い廊下にメイはなんの警戒もせず、居間に向かって姿を現した。その先に立つ額に傷のある男に口元をぐいっと歪ませる。

 男もメイの姿を認めると、三白眼気味の細い瞳を、さらに細くゆがめた。

「踊ったのはそっちの勝手だ」

「それもそうだね。あーあ出し抜かれちゃった気分だよ。つまんないの」

「みているこっちは楽しかったけどな」

「……ばかっぽい顔してるのに頭いいんだね、ゴンダショーイチさんってば」

 この界隈ではよく見かけるスミス&ウェッソンをかざすゴンダをまっすぐ見据えながら、メイも同じように手の中にあるハーキルを構える。

 メグルは滑りこんだ部屋からその様子を見据え、そういうことですか、と小さく笑った。

「リエコから依頼書を盗むからこんなことになるんですよ」

「ホント。……あー、ついてない」

 ふるふると首を振ると、左耳のピアスがチリンと鳴る。いつも鳴っている右耳のピアスが鳴らないことにメイは少し首をひねって、「嫌な感じ」と囁いた。

「最初からオレっちとメグルさんを狙ってたのー?」

「おしいな、俺が狙ってたのは高坂だけだ」

「……おっと、私でしたか」

 ふふ、メグルが笑い声をこぼす。つたり、とメグルの頬に汗が伝った。暑さからではない。部屋の中にこもる独特の匂いに、人より良すぎるメグルの嗅覚を刺激していることが原因だ。

「それよりここ、ハギさんとユキさんって恋人同士が住んでるはずなんだけどなぁ」

 メイは一瞬だけ部屋の中にいるメグルに視線を向け、すぐにゴンダへと視線を向きなおした。その間も、向きあい続けている二つの銃口はぶれることは全くない。

 ゴンダは軽く喉元からググッ、と笑い声にも似た音をこぼすと「ここにいる」と小さく呟いた。メイは浮かべていた口元の笑みを消して一歩ずつ居間へ近づいていく。居間の中に入った瞬間に、すえた匂いはさらに増した。そして、部屋の隅の小さなベッドで折り重なるように肉片と化した二つの塊を見つけ、音の鳴らない口笛をひゅー、と鳴らす。

「メグルさん、一応依頼は終わってるみたい」

「それはよかった」

 その言葉だけでメグルは状況を察してため息をついた。状況は寸部も良くなっていない。

 メグルはかちゃり、と拳銃のようなものの後ろにある安全バーをそっと外した。その音に気付いたように、メイはピクリと耳元を震わせる。

 メイは自分の右耳にそっと手をやった。平等に聞こえない音のせいで頭の芯にあるバランスが微妙に狂っている。奥の部屋にいるメグルの呼吸が少し荒いのがメイの耳には届く。

「……そっかぁ、メグルさんを知ってたからゴンダショーイチさんはラベルを知ってたのかぁ」

「まぁ、そうだな。……金髪、お前には別に恨みもないが、そもそも警犬が俺は嫌いでな。」

 口元をそっと歪ませてゴンダは拳銃を握る手に力を込めた。メイが軽く顎を引く。

「死ね」

 ゴンダの指が動く。ダンッ、と鋭い銃声と共に、赤い火花が散る。メイは待ち構えていたかのように身体をがくり、と落とした。低い体勢から地面を蹴る。一瞬で2メートルほどあったゴンダとの距離が零へと消えた。そのまま右ひじをゴンダのこめかみに打ち込む。

「甘い」

 ゴンダの身体が一歩後ろに下がって壁に当たる。当たるはずだったひじが当たらずに一瞬体勢を崩すメイを見逃さず、拳銃をメイの額に向けて、発砲した。

 ダン、ダダン。

 鋭い音と共に、メイの身体が真横に流れる。

 すえたような死臭の中に、硝煙と、甘さを帯びた鉄の、新鮮な血の匂いが落ちた。

「……っ、メイ!」

 メグルが部屋から飛び出る。慌てたおかげか深くかぶっていたはずのシルクハットがぱたりと廊下に落ちる。黒いマスクをはがし、居間へと飛び込む。


「なーに慌ててんだよ、メグルさん」

 額から口元に流れてきた血液をぺろり、と舐めたメイがよいしょ、と床から立ち上がった。ハーキルを構えたまま仁王立ちになったメグルを見てメイが楽しそうにケタケタと笑った。

 床には全身をビクビクと痙攣させている大柄な男、ゴンダショウイチが倒れている。

「傷を、見せてください」

 震える指先で、メグルはメイの額に手を触れた。少し痛かったのか、メイがうっ、と軽く身体を引いた。血に触れたメグルの真っ白な手袋が赤く染まった。だが傷口はそう深いものではなく、メグルは全身から力を抜いた。それから胸元に指していた真っ白なハンカチをメイの額へ強引に押し付けた。

「いた、いたたたたた!メグルさん痛い!」

「自業自得です、傷を残すなんて警犬として恥ずかしい」

 いたいいたい!と繰り返すメイへぐいぐいとハンカチを押しつけ、ついで顎まで流れている血液を拭う。真っ白な手袋もハンカチも、どちらも赤く染まっていく。

「ああもう頭の傷は出血が多くなるものなんですよ。とにかく処置しに戻ります。押さえていてください」

「はーい」

 しぶしぶ、というような手つきでメイはメグルから受け取ったハンカチを自分で額に押しあて、居間を出る。それを見て少し安心したようにメグルは部屋の外へと足を伸ばした。

 居間を出る瞬間、まだ身体をビクビクと痙攣させたままの男をぼんやりと見下した。

「……それにしても、貴方は誰でしょうね。知り合い、だったのでしょうか。どうでもいいですけれど」

 痙攣したままゴンダショウイチは首だけを持ち上げ、メグルを見上げた。見開かれた目の中には、隠しもしない殺気が込められている。何かを口にしようとしているが、全身の筋肉が痙攣している今はそれをすることもかなわない。喉から、ガッ、とも、グッ、とも聞き取れない音がこぼれるだけだ。

 下等な生き物を見るような目でメグルはじぃ、とゴンダを観察し、数秒もしないうちに身体を翻した。

「……まったく、鼻がもげちゃいますよ」




「ほんと、バカね」

 事務所についた瞬間、メイが浴びせられたのは冷たい罵声だった。

 腰まで伸びる真っ黒な長い髪を適当にひとまとめにし、細い銀フレームで瞳を覆う美人は、全くの容赦なくメイの額にたっぷり消毒液をしみこませた綿を押しつけた。

「いだああああああ! リエコさん痛い! 痛いってば!」

「馬鹿には躾が必要なの。メグル、絶対逃がさないでよ」

「わかってますよ」

「メグルさんのばかああああ! 死ねえええええ!」

 椅子に座り、後ろからメグルに羽交い締めにされたメイは身動き一つ出来ないまま必死にその激痛の元である綿から身を逃がそうとする。もちろん、逃げられるはずもない。

 そんな様子を見ながらカズトは呆れたように笑い、机の上のパソコンをカタカタと操作する。今回の事件の報告書はどこまで書けばいいのか正直難しい。そもそも事件の発端である依頼書自体メイが盗んできたものだ、その過程もうまく誤魔化しながら書かねばならない。

 眉間にしわを寄せて四苦八苦しているカズトを見ながらジンはふ、と紫煙を吐き出した。立ち上る紫煙を見ていると妙に心は休まる。

 この部屋の管理者であり、この四人の警犬の飼い主である美人、リエコはメイの額にべたりと大きな絆創膏を張り付けてから、ぱちん、とその額をその上からたたいた。

「リエコさんまじどえす」

「あんたが悪いのよ。躾はしっかりしないといけないからね、飼い主として」

「でもオレっちリエコさんの犬なら満足、わんわん!」

「ハウス」

 羽交い締めを解いた瞬間に元気にリエコの回りを跳び回るメイを見ながらメグルはにこにことほほ笑む。手にしている白手袋は、いつも通り純白だ。

「まぁいいわ。報告と反省は後回しにして……、カズト、ジン」

 名前を呼ばれた二人がそれぞれのデスクからリエコにめせんを向ける。リエコの口元が嬉しそうに横に引かれた。その瞬間、カズトの眉間がぐいっと寄る。この上司の嬉しそうな様子は、大半が良くないことだ。

「新しい仕事なの。受けてくれるわね」

「……おおせのままに」

 ジンが諦めたような口調で呟いてから、立ち上がって資料を受け取る。すぐにパラパラと資料をめくると、加えたままだった煙草を灰皿に押し付け、心底嫌そうな顔でカズトを見て、すぐに扉へ歩き出した。

「……行くぞ」

「……はい」

 カズトも何かを察したように立ち上がると、事務室の扉に向かって歩き始める。

 メイとメグルはその哀愁漂う背中にぱたぱたと手を振り「いってらっしゃい」と見送った。

「あんたたちは待機」

「うそ!」

「しばらくはおとなしくしていること。じゃあ私も仕事に戻るから」

 まったく、とため息をつきながら、リエコも封筒を抱えてカズトとジンを追うように事務室を出て行った。


「手癖が悪いですよ、メイ」

「だってぇ」

 うひひひ、と嬉しそうに笑いながらメイはペラリ、と一枚の書類を取り出した。依頼書と書いてあるその紙は先ほどリエコが抱えていた封筒の中に入っていたものだ。メグルは苦笑するように口元をゆがめると「しょうがないですねぇ」と呟いた。

「今回だけですからね、付き合うのは」

「今回のは間違いないって! 面白そうな奴ちゃんと厳選したから!」

 もう一度メイは「うひひひ」と笑って、楽しそうに帽子かけに引っ掛かっていたメグルのシルクハットを取った。メグルはそれを受け取って、いつものように深く被る。

「メグルさん、いこ!」

「はい、おおせのままに」



 国家公務員第一種警察庁第二公安特殊部治安三課特異犯罪担当第一班、人呼んで警犬。シルクハットの男と派手なTシャツの男を見かけたらお気を付けください。何か事件に巻き込まれるかもしれません。

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警犬!~国家公務員第一種警察庁第二公安特殊部治安三課特異犯罪担当第一班~ 妹蟲(いもむし) @imomushi

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