第3章 縁は異なもの味なもの

             ここはどこ?


「ここはどこなの?」秀美は呆然とした頭で辺りを眺めた。確か一太と真也さんと鳩山神社へ散歩に行ったはずなのに彼らはどこにもいない……

秀美は来たことのない竹林に立っていた。足元は平坦ではなく体が右足に傾いていた。

秀美は上空を仰いだ。竹の葉の隙間から僅かに青い空が覗いただけでひっそりしていた。それに竹特有の香りと独特な土の香りが鼻についたものの、記憶にない場所だけに当然不安になった。そればかりかゾクゾクと寒気が襲った。なぜなら「ガサガサ、ガサガサ」微かだが竹の葉の音だけでなく、まるで何かに狙われそれが近付いてるような気がした。

「逃げるのよ!」咄嗟に秀美は直感し駆け出した。秀美は更に背に刺さる鋭い視線を感じ、恐ろしさに押されて道なき道を死に物狂いで走った。秀美はどこへ向かっているのか考える余裕がなかった。

「わっ!」不意に竹林が途切れ目の前が開けたと思えば、その勢いであわや険しい道へ転倒しそうだった。そこは尖った大きな岩がまるで迷路のようにゴツリゴツリと出ていた。様々な形と大きさの岩は人を隠すに丁度良い高さであったものの、今の秀美に意味を成さなかった。

「逃げろーっ!」男の叫ぶ声だ。訳が分からず秀美は岩を避けて蛇行しながら走った。彼女の背後で岩から岩へ何かが飛び乗っていた。途端に一頭の大きな虎が秀美の前に現れ、「グワォーッ」と、吠えた。そして秀美に飛び掛かろうとした時だ、

「ドンッ!」

信じられない光景を秀美は目にした。大きな虎が目の前で弾き飛ばされ、誰かが素手で虎と戦っていた。秀美は夢か幻かと茫然と目に映ったものに、身動き一つせずガタガタ震えてたのだけれど、それさえも意識下になかった。秀美にはこれが妙に長い時間に思えたが、実はほんの数十秒のでき事だった。

漸く獣の唸る声が止まり辺りが静かになったものの、秀美の体は凍り付いたままだ。

「お姉さん、危なかったな。もう少しで虎にやられるところだった」

見るからに二十歳くらいの若者だった。

「ところで、お姉さん。獣道へどうやって来たのです?」

若者の声で秀美は我に返った。

(お姉さん? こう見えても人妻なんです)秀美はさっきまでの恐怖感が消えて急に可笑しくなった。

「えっと、神社へ行って」と、言い掛けると、

「ちょっと黙って!」秀美へ質問をしておきながら、「黙って」と、言われた。けれど若者の様子が変である。彼の頭に触角があるようにじっと何かを探っていた。

「今度は何が起こるの?」秀美の手に汗が滲んだ。秀美が辺りの様子を窺えば右手側から人の足音が聞こえた。鬼瓦のような岩陰から現れた藍色の衣装を纏った男性へ、秀美は掴みかからんばかりに身を乗り出しこう言った。

「真也さん。どこへ行ってたの? それにその恰好は?」

「真也? 俺はアオだ」彼の素っ気ない態度に秀美は狐につままれた気がした。余りにそっくりで、つい、そう言ってしまったのだけれど彼は本当に秀美を知らないようで、秀美は恰も無視されたような素振りから明らかに全然違う人物と思うよりほかなかった。とは言うものの秀美の心臓はドキドキと勝手に動き、それに不意にアオが何か思い出したようすで、目を大きく開き秀美をじっと眺めた。なぜだろう。この時秀美は目に見えない不思議な繋がりを感じ、心臓がますます活発に動いたのだけれど、それも束の間、

「どこでこの女を拾った?」と、アオが若者に尋ねたことで一気に興ざめした。秀美は呆れて、

「私は物でありませんから」と、呟き、高揚した気持ちを酷く後悔した。

若者は秀美をチラッと見て両掌を上に向けて答えた。

「私は密かに虎を追っていたのです。するとその前方に人の気配があり、お姉さんが獣に追われていました。伸びている虎は私が倒し、つまりたった今、ここでお姉さんを拾った、というわけです」若者の翡翠ひすい色の衣装は日の光に反射しシルクの様な光沢で輝いていた。若者は決して低い身分でない。秀美はそう思ったがそれとは別にムッとした。

「さっきから拾ったって言ってますが、私は子猫じゃありません」

頬を膨らませ少々憤慨して言えばアオが「フッ」と笑った。

「確かにそうだ。頬が膨らむ子猫は見たことがない。おまけに生意気だ」

彼は馬鹿にした目つきで秀美を眺めたが無理もない。秀美の洋服は彼らから見れば全く妙なもので武装に見えなかった。急にアオの目つきが鋭くなった。

「女一人でここまで来るのは至難の業だ。どこの里の者か?」

何て答えたら理解してくれるのか。秀美は妥当な言葉を探したが見つからなかった。それで嘘偽りなく答えた。

「どこの里の者でもありません。あなたにそっくりな人と神社で祈願していたら、どういう訳かここに来ていたわ。信じられないでしょうが嘘みたいな本当の話なの」そう言った後に秀美は一太や真也さんを思い浮かべ心細くなって俯いた。

「お前の話は信じられない。だが……。信じよう」そう言うとアオは秀美の腕を鷲掴みにした。

「ギン、屋敷へ向かう。その女を護衛しろ。お前は俺の後ろを歩くんだ」

命令口調のうえに意外と人扱いが乱暴だった。秀美は真っ暗な洞窟をたった一人で歩くように、この先がまるで見えなかった。ただ二人が善良な人達であることを強く祈り黙々と付いて行った。

いつの間にか三、四メートルある木々に囲まれ道と言えない細い道をたどたどしく歩いていた。秀美はいろいろ考えた。これはそう、きっと夢に違いない……。しかしながら、コートのポケットへ何気に手を入れた時のこと。秀美の顔は急変した。手に触れたのは彼女が今朝室内を掃除するため、髪を纏めていた見紛うことのないお気に入りのシュシュだった。

「ああ、何てこと! 夢じゃない。こうなったら開き直るしかないわ」

ボソリ呟くと秀美はアオから離れないようにひたすら後を追った。しかしながら道は決して平らでなく凸凹の坂道だ。秀美は不慣れな道に足元ばかり見ていた。だから突然アオが止まったことも気付かず、彼の背にトンとぶつかった。その拍子に打った鼻を押さえた。

「ごめんなさい」秀美は顔を上げた。彼は静止したままだ。

「ギン。どうやら二つ目の魂が戻った。これで俺は完全なはずだ。いや……。不完全だ。まだどこかに魂が残っている。だがたった今戻った魂は誰かを導いたようだ」アオは後ろを向き呟いた。そう言えば秀美は誰かの後を追い掛けてここへ来たのを思い出した。それは清らかでとても小さく、掛け替えのないものだったはず。でも思い出せない。なぜだろう……。秀美の目から涙が零れ落ちた。


さて、どれくらい歩いたであろうか。

「足が棒のようだわ」両足の小指にひしひしと痛みを感じ光沢ある藍色の背中がぼんやり映った。

秀美の足の小指にまめが出来た。秀美は両腕を脇から少し離し痛みを庇いながら崩れた歩幅で体が倒れないように、どうにか釣り合いを取って歩いていたのだけれど余程恰好が可笑しかったのだろう。後ろから、「ククククッ」と、笑い声がした。

「アオさん。お姉さんがもう、歩けないようです」ギンが口に片手を当て囁いた。アオが振り向いて秀美の足元を見つめた。

「あの。大丈夫です。少し小指が痛むだけで歩けますから」と、秀美は言った。

「あと僅かで屋敷に着く。ギン、馬を持ってきてくれ」

「畏まりました」疲れを知らない若者は軽い足取りで屋敷へ走った。

「あの。本当に大丈夫ですから」秀美はアオの瞳を見つめた。するとアオは秀美を抱き上げ枯れ草に座らせると傍に腰かけて胡坐をかいた。

秀美は両膝を抱えて空を見上げた。雲一つない澄み切った空だが秀美は小さなため息をついた。とは言え膝の上に両手を載せるやいなや、

「これくらい、なによ……」

秀美は気分を変え大らかな気持ちで景色を再び眺めたが、何気にアオが気になった。

アオは目を閉じて瞑想しているように動かなかった。この時彼は心の扉を開けて分裂して戻った魂の記憶をゆっくりと彼自身へ届けていた。

「幼い子ども……」ふっとアオが呟くと秀美が驚いた顔で彼を見つめた。秀美はなぜそうなったのか分からなかったけれど、二人は暫く無言のまま見つめあった。

やがて遠くから蹄の音が聞こえ真っ白い毛並みの馬が二人の前に停まった。と同時にアオの目が大きく開き、心の奥から親しみ懐かしい気持ちで秀美を眺めた。それは言葉にならないふんわりした綿毛のような温かさで、秀美の心に染み入って心臓が高鳴った。それにもかかわらずギンが馬から降りると、二人は個々の思いにベールを掛けて恰も何も無かった素振りをした。

「馬に乗れ」秀美がそれに跨ったのは小学生の時だった。家族と牧場へ行き係りの者に手綱を引かれて乗った思い出がある。けれどそれきりだった。

秀美は立ち上がったが足に力が入らず覚束おぼつかなかった。するとアオが馬に跨って、

「女を持ち上げろ」と、ギンに命令した。

「畏まりました」

ギンはいとも簡単に秀美を頭上へ持ち上げた。秀美の体が宙に浮くとアオに抱えられた。それからアオは手綱を手に取り馬を動かした。僅かな風に秀美の髪がなびいた。秀美はポケットからシュシュを取り出し髪を纏めようとしたが、心がそわそわしいからか手が震えて上手くいかない。秀美はシュシュをしまった。実はアオも同じ気持ちだった。


間もなく大きな屋敷の垣根が見えた。庭は外から眺められなかったが、三人が門を潜り敷地に入ると和風の庭園が広がり、隅から隅まで綺麗に手入れされていた。

「お帰りなさいませ。ご主人様」使いの者が出迎えた。

「この者の衣装を準備してくれ」

「畏まりました。ではこちらへどうぞ」秀美は誘われるままに靴を脱いで覚束ない足取りで使いの者についていったのだけれど、スニーカーにダウンコート、それにパンツ姿は見るからに異国の人だった。しかしながら使いの者は淡々とした態度だった。

「生かされたのが不思議なくらいだわ」秀美は心で呟きつつ板敷の廊下を迷路のように進んだ。秀美は奥の部屋へ通された。

「ここで少しお待ちください」障子が静かに開けられ、秀美が中に入るとスーッと閉められた。どうしていいか分からないまま畳に座ると屋敷の奥の方から水の流れる音が聞こえ、秀美はそのまま目を閉じ耳を澄ました。それは何とも心地よく響く癒しの音だった。秀美は以前からこんな環境で育った気がした。

「失礼致します。お着替えをお持ち致しました」使いの者は丁寧に畳の上

へ衣類を置いた。

「あの。どうしても着替えなくてはなりませんか?」

「はい。ご主人様の御命令です」秀美はそれらを眺めると、「嫌です」と、断った。

「ご無礼を承知の上でございます」凜とした態度に秀美は躊躇したが素直に応じた方が身のためであろうか……。しかしながらまるで男物。おまけにシュシュを外され赤く細い紐で髪を束ねられた。

秀美は今まで着ていた服を畳むと使いの者に渡した。彼女は大きな風呂敷にそれらを包み呟いた。

「あなたはまるで姫様のようです。なんて似てらっしゃることか。ご主人様がこの姿をご覧になられたらきっと驚くでしょう」

使いの者はしみじみ秀美を見つめここを離れた。

ところで誰もいなくなった部屋から秀美は水の音の方へ行こうと障子をそっと開けて部屋を出た。可能な限り気配を消して進むと右手に池があった。小さな滝から水が流れ池の周りは丸くない大小の石とその隙間からシダやユキノシタが覗いていた。秀美は初めて見る庭園なのになぜか懐かしさを感じた。

「池が珍しいか?」不意にアオの声がした。秀美が振り向けば彼は驚いた

顔をして立っていた。と、思えばいきなり秀美を強く抱き締めた。秀美は困惑した。

「あの……。苦しいです」そう言うと、アオの胸から離れたが、アオは恥ずかしさを隠すためか横を向いて素っ気なく言った。

「ある人にとても似ていた」そして今一度秀美を見つめると今度は優しく抱き締めた。秀美はある意味強引な彼に誠也君の面影が重なり切なくなった。ところが彼の目つきが鋭く変わり秀美の気持ちが押さえられた。

「ついて来い」まるで亭主関白だ。アオは秀美の腕を掴んで無理矢理引っ張った。こんな強引な態度に彼女は呆れ、

「やっぱり嫌な人だったわ」と、腕を外そうと躍起になった。とは言うもののアオには些細な抵抗でしかなく全く無駄な足掻きに過ぎなかった。たとえ僅かでも彼に惹かれたことを秀美は後悔したが、アオに連れて行かれた部屋を覗いて更に悔やんだ。障子を開けるとそこはいろいろな武器が陳列されていた。

「どういうことです? 優しくしたり冷たくしたり。それにこの格好で武器を見せられたらまるで戦争を起こすようだわ」秀美は驚き果てた。しかしながらアオは、

「好きなものを選べ」そう言っただけである。

秀美は理不尽な要求に深いため息をついたが、沢山ある武器を一つ一つ見るしかなかった。ふと一本だけ矢の入った矢筒と弓に目が留まった。弓道で使用する物より小さかったが、それが一番秀美に使えそうな武器だった。秀美はそれらを手にして感触を確かめると、「これにします」と、返事をした。

「ついて来い」今度は腕を引っ張られなかった。けれど秀美は光沢ある藍色の衣装へ吸い込まれるように着いて行くと目に的が映った。そこはまさに弓道場でアオは黙ったままドカリと床に座り秀美をじっと見つめた。

全く意味不明である。つまり矢を放てという意味であろうか。

アオの瞳は秀美を冷静に見ていた。秀美は深呼吸してから狙いを定め勢いよく矢を放った。それは光のごとく一直線に的へ命中した。

「この矢、凄いわ!」この瞬間、秀美は弓矢の感触に酷く心を魅かれたが、一方、的の傍でギンが大興奮していた。

「アオさん、見て下さい。この武器を扱える人物は限られてますが、まさに驚異的です」

ギンは穴の空くほど的を眺めた。なぜなら今までどんな鋭い矢も武器も通さなかった的が秀美の放った、たった一本の矢で真っ二つに割られた。この的は銀の虎の皮で出来ていた。

「やはりそうか……。女は真の矢の持ち主だ」

「どういうことなの?」秀美は呆然とした。すると、

「失礼致します。ご主人様。お食事の用意が出来ました」使いの者がやって来た。

「客間へ運んでくれ」

「畏まりました」

アオは秀美の腕を掴もうと腕を伸ばしたがなぜか止めた。

「来い!」そう言っただけである。秀美は右肩に少しだけ首を傾げてため息をついた。

「来いだの、ついて来いだの。私はあなたの恋人でも妻でもありませんから」

秀美は心の中で文句を呟いた。そのはずなのに、

「黙ってついて来るんだ」まるで聞こえていたようにアオが言った。

「人の気も知らないで……。私は家に戻りたいわ」秀美は一太や真也さんを思い出し我が家が酷く恋しくて胸に手を当てた。ただ、今はどうしようもなかったが……


「こちらへどうぞ」秀美が客間へ通されると目を奪われる襖絵が、部屋の右端から左端まで大きく描かれていた。秀美は息を潜め指差しながら絵に沿ってゆっくり進んだ。

「何て素晴らしいの!」太さの違う決して滑らかでない紅梅と白梅が空へ向かって見事に花を咲かせていた。白梅の枝に一羽の鶯が描かれ美しい囀りが部屋中に広がるようだった。

「どうぞお座りください」アオの前が秀美の御膳だったが、襖に見惚れている秀美を安心させるように、

「ご主人様はぶっきら棒な方ですが、大変強くて優しいお方です」

使いの者は小さな声で囁いて静かにそこを離れた。


客間はアオ、ギン、そして秀美の三人だけだった。御膳料理はどれも上品な味で何の不満もなかった。客間は音もなく静かに時が流れていた。それは返って秀美に都合が良かった。なぜなら秀美は心を静かにして食を堪能したかった。とは言え本当は会話をしたくないと意固地になっていたのかもしれない。

「たとえ話し掛けられても口を利かないわ」そう思った。ところがちょっとツンケンしたせいか、うっかり箸を滑らせ里芋を畳に一つ転がした。さてどうしたものか。秀美は暫くそれを眺めていたけれど、仕方なく二本の指で撮もうとすれば、何気に見ていたアオが、「クククククッ」と、笑いだし、挙句に大笑いされた。

秀美は口を利かないはずだった。しかしながら誠也君でもない、真也さんでもない、言葉で表現できない不思議な気持ちが薄桃色の恋のように秀美の心へ波紋した。すると秀美は恋する人に話し掛けるように、

「笑わないで下さいな……」と言った。と、その時、廊下から、「ととととっ」と、酷く慌てた使いの者の足音がした。

「失礼致します。ご主人様。王様がお呼びでございます。お城へ出発して下さい」真剣な表情だ。何て慌ただしいことか。心のゆとり欲しさに秀美は思わずアオを見つめた。



            千年家の者達



さて、その頃小野田学園高校二年生のアトラクション化した例の教室は、冬休み中とはいえ年末の補習授業で全員が出席していた。そう、紅葉君が火葬場から復活して間もない日であったけれど、彼の復活を皆が泣いたり飛び跳ねて喜んだ後は、これといって特別に復活祭をしたわけでもなく、師走の忙しさを何気に感じつつ勉強と遊び話で盛り上がっていた。確かに二年B組はこの日時まで一般的な高校生の自然な姿だった。こんな風に……

「香澄。初詣だけど一緒に行かないか?」高橋君が机に腰かけ鼻に指を当てながら彼女を誘った。

「いいわよ」鞄に荷物を入れていた香澄は微笑んだ。

一方美桜は塚原君の横で世間話をしていた。そして美鳥は忘れ物がないか体を曲げて机の中を覗き込んでいた。

「しかしあと三ヶ月で高校二年生が終わるのか。俺の愛するサッカーと数カ月でお別れか……」高橋君はふと天井を気にした。

「美鳥は理数系か? もしかしたら僕達と同じクラスになるかもな」

同じく天井を気にしながら塚原君も呟いた。

「たぶんそうよ。だって私達は腐れ縁だもの」美鳥が姿勢を戻した瞬間、千年家の者達に嫌な予感が走った。紅葉君は咄嗟に美鳥の傍へ寄り大声で叫んだ。

「来るぞ! 皆、廊下へ逃げろ!」それまでワイワイ楽しんでいたクラスメイトの反応はすこぶる素早い。サッと荷物を掴みドタバタと廊下へ移動した。全く逃げ慣れたものでこれから何が降って来るのか、ある意味興味深く教室のようすを窺っていた。すると銀色の不気味なものが辺りに漂ったが、それは彼らの記憶に新しく何が現れるのかおおよそ見当がついた。皆はまさかと思いつつ息を呑んだ。予想通りおどろおどろしい銀の虎が現れた。何てことだ。奴は生きていた。

「グワォーッ」恐ろしい吠え声が教室の窓ガラスをビリビリ振動させた。塚原君と高橋君はブレザーコートを脱ぎ捨て銀の虎と戦う姿勢になった。紅葉君も美鳥の前に立ちはだかり奴をキッと睨んだ。すると銀の虎が美鳥を狙い大きくジャンプしたのだけれど、それと同時に紅色に輝く光が現れ銀の虎と宙で衝突した。まさしく紅葉君の虎化した姿だった。皆は再び逢えた紅の虎に目一杯歓声をあげたものの、それ以上に、「グワォーッ」と、銀の虎が紅の虎に吠えた。彼らの歓声は消された。

二頭の獣は唸り声をあげ互いに威嚇したが、急に銀の虎が黙り首をブルッと振った。

「ショウよ。生きていたとはな」

「それはこっちのセリフだ」

「お前は何れソウに噛み殺される」銀の虎が気味悪く笑うと数歩だけ後退りしてスッと姿を消した。紅の虎は天井を眺め低く唸った。

「紅葉君。『ソウ』って何者なの?」

美鳥は紅の虎を見つめ、それから塚原、高橋君を見つめた。そこに言葉はなかったが三人とも顔を見合わせて頷いた。そして廊下へ向きを変えると、

「皆さん。私達は銀の虎を追うわ。でも必ず年内に戻るから」

美鳥は紅の虎に跨った。それから皆にお辞儀をして見る間に姿を消した。

「おっと、俺らも急ごうぜ。じゃあな! あっ、香澄。初詣は一緒に行こうぜ」

高橋君が笑って言えば廊下で心配そうに香澄が頷いていた。彼女の目に薄ら涙が浮かんでいた。

「大丈夫さ。男高橋、約束は必ず守る」そして皆に敬礼した。それから塚原君と姿を消した。

「頑張れよ!」

「負けんな!」既に見えない千年家の者達に、皆は大きく手を振り声援を送った。


ここは緑国の村の外れである。

「美鳥。国が静か過ぎないか? 何か起りそうだ」人の姿に戻った紅葉君は両目を閉じると不吉な風を肌で感じた。

「美鳥。王の元へ行こう。何か分かるかもしれない」紅葉君は真剣な眼差しで美鳥を見つめた。けれど、

「それは危険すぎるわ。だって紅葉君は緑国の最も恐れられた獣の保持者、紅の虎なのよ。王の元へ行ったら城が大騒ぎになるばかりか紅葉君の命が危険に曝されるわ」美鳥の瞳は悲しい色をしていた。

「大丈夫さ。俺は人の姿で行く」紅葉君はフッと笑った。すると塚原君が頷いた。

「それがいい。元々紅葉は千年家の者だ。ならば王に理解を求めこの異様さを確かめよう」

「同感だぜ」高橋君が頷いた。

「そうと決まったらさっさと行こうぜ!」高橋君が勢いよく先頭を切った。


さて四人は城へ向かったが誰かに付けられてる気配を感じていた。それも一人二人でなく、かなりの数が一定の距離を保ったままついてきたが、奴らは襲いもしなかった。紅葉君はニヤッと笑った。

「出て来い!」するとぞろぞろ虎が現れた。

「おいおい、何だってんだよ。寄り道する時間ないぜ」

高橋君はぽきぽき指の関節を鳴らし戦う素振りをしたのだが、

「おい、紅葉。全部お前に任せた」あっけらかんと言った。すると紅葉君は紅の虎に変身した。みるみるうちに虎達が後ろへ下がり一頭の虎が前に出てこう言った。

「ショウ様。ミンです。我々は少し前からここに潜んでショウ様が現れるのを待っていたのです。赤国の王はこの国の姫を欲しがっています。ショウ様は姫をご存知ですか?」

千年家の者達は互いに顔を見合わせたが、実はその姿を誰も見たことがなかった。なぜなら姫の存在は聞いたことがあっても既に墓石の下で眠っていたから。それなのになぜ赤国の王は姫を欲しがるのか彼らは疑問だった。

「姫はもう随分前に亡くなってるはずよ。葬儀も盛大に行われたって聞いたわ」美鳥は首を傾げながらミンを見つめた。

「ですが、赤国の王は姫を追い求め緑国を征服したがってるのは間違いありません」ミンは紅葉君に念を押した。

「おい。もしかして姫は生きてんじゃないか?」高橋君は身を乗り出した。時刻は午後三時だ。

「まさか有り得ない」美鳥は王家を信じていた。

「いや。その可能性もあるな。僕らの知らない所で存在してる、かもしれない」塚原君が両腕を組んだ。

「つまり秘密か? だとすると俺達は姫に会えるかもしれないってことだ。姫と言うからには、『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』だな」

「それは小野小町だが……。姫はしもぶくれか?」塚原君はちょっと吹き出したけれど、高橋君はこう言った。

「つまり美人ってことだ。だが、和歌の通りに容姿が衰えていたら幻滅するな」高橋君はガクッと項垂れた。と、思ったら、

「まっ、どうでもいいけど。いや。だったら姫を探しに行こうぜ」高橋君は急に溌剌とした。

「いや。まずは王のところだ」塚原君は長兄として答えた。

「マジかよ。ああ、姫を先に探しに行きたかったな。で、変更ありか?」

「変更なしだ」塚原君は笑った。



               私は何者?



秀美は食事がままならないままお屋敷の外へ出された。きょとんとした秀美はただ二人の動きを呆然と見つめていた。

ギンはきびきびと動き王の元へ行く馬の準備をしていた。

「お前は馬に乗れるのか?」アオは秀美に尋ねたけれど彼女はニ頭の馬の顔を怖々と眺め、それからアオの顔を見つめてこう言った。

「一人で乗ったことはありません」秀美は息を呑んだ。

丁度ギンが三頭目の馬の手綱を引いて来た。つやつやした黒い毛並みの大きな馬で、サラブレットのようにほっそりした美しい脚だった。

「お姉さん。この馬に乗って下さい」と、ギンは強張った秀美に囁いた。アオが秀美の緊張した顔を解すため、馬の首を上から優しく撫でた。

「こいつは気性の優しい馬だから安心だ」アオが秀美の右手を取ると馬の首にそっと載せた。思ったより柔らかい毛だったが秀美は相変わらず不安な顔をしたままだった。するとアオの手が彼女の手に重なりそのままゆっくりと長い首を撫で下ろした。この時アオは少し笑って、

「落ち着いたか?」と、尋ねた。アオの手は秀美の手を温かく穏やかに握っていた。

「ええ……」高鳴る心臓を片手で押さえ秀美は答えた。

「アオさんの馬に一緒に乗せた方が……」ギンは秀美を心配したが、

「大丈夫だ。この馬は女の動きに合わせる」アオの五本の指に力が入りサッと秀美から外れた。

「馬に乗るんだ」一瞬でアオは厳しい表情に変わった。これだもの。秀美が戸惑うわけである。とは言うもの言われた通り秀美が馬に跨れば、まるで過去に何度も乗馬をしたような不思議な感覚があって、秀美は自然に手綱を握った。

ギンの乗った馬が秀美の横に並び、秀美の前でアオが馬に跨った。そして秀美へ顔を向けると頷いて、

「付いて来い!」アオのよく通る声が響き馬が走り出した。誰に教えられたわけでもなく秀美は無意識に馬を動かし、夢中でアオを追い掛けた。

(私は一体何者なの?)

なぜこんなことが出来るのか分からなかった。


三人は山へ馬を走らせた。山の入り口に東大寺南大門のような大きくて立派な門があったが、両側に筋骨隆々の仁王像が立ちその様は人々を守る威厳に満ちた神の使いだった。いや、寧ろ鬼だったが瞬く間に秀美の馬は大門を潜りアオを追ってどんどん山の奥へ入った。

いつの間にか空に幾多の星が瞬きここは神の山と見間違る程、何とも幻想的な世界だった。なぜなら月光が雲の合間から木漏れ日のように射して、朧げだった辺りの景色が鮮明に映し出されたから。

秀美は花緑青はなろくしょうに輝いた林の美しさに言葉を失った。そればかりか、そこを抜けると目の前はまさに風光明媚だった。萌黄もえぎ色の水が月光にきらきらと反射して、黄金の橋の下に大きな月がゆらゆら揺れていた。心が震えるほど見事な景色に息が止まった。

「なんて美しいの……」秀美はこれ以上ない幸せを体中に感じると瞳から涙がぽろりと零れた。

秀美は無意識に馬の手綱を緩め速度を落とすと、「コツコツ」と、馬の足音が橋に響いて、「ヒヒーン」と、馬が鳴いた。するとその声でアオも馬を急停止した。秀美は慌てて手の甲で涙を拭った。

しっとりした木々の香りは三人を何とも穏やかな気持ちにさせたが、ふと秀美は辺りを見回して輝きに誘われるように馬から降りて橋の下を覗いた。秀美の仕草が気になりアオも近寄って馬から降りた。

決して深くない川底は無原則に楔石くさびいしが散りばめられ、眩いばかりに月の光と調合され美しく彩っていたが、アオはむしろ月を見上げた。

「この風景は美し過ぎる……。何もかも忘れてしまうな」

「はい。とても癒されます」秀美は流れる水を眺め答えた。

水面に揺れる大きく輝いた美しい月は、二人の顔を上品に照らした。単にこれは一寸の幸せだったが、月を見上げたアオに秀美はどきりとさせられた。月の光がアオの瞳の色を鮮やかに変えた。グレーがかった神秘的な瞳はますます秀美を夢中にさせ愛する人達を思い出した。

「誠也君、真也さん」秀美は二人の名を呟いた。そしてアオに、

「神秘的な瞳を持つあなたは誰ですか?」秀美は心で尋ねた。

「驚いた顔して何を見ている?」アオが呟いた。

「アオさんの美しい瞳です」秀美が微笑むと、今度はアオが真剣に彼女を見つた。

「お前は……」そう言い掛けた彼の瞳は真の強さと優しさで満ち溢れていた。

「なぜだろう。お前は俺の心を騒がせ妙に惹きつける」そう言うとアオは秀美を優しく抱き締めた。

「ここは病んだ者を癒す場所だ。それと愛する者と誓いを立てる場所であり、別れの場所でもある」この瞬間秀美の脳裏に、アオ自身の心の中が見えた。それはアオが誰かを愛したけれど、想いは遂げられなかった……

アオの儚い気持ちは未だ陽炎のように揺れていた。

秀美は我に返った。アオの胸から秀美が離れると、彼の表情がきりっと一変し、「出発する」と言った。秀美は、「はい」と、静かに答え馬に跨った。

この時から秀美はアオと不思議な関係を感じた。そしてどこまでもついて行きたいと思った。


さて、こちらは千年家の者達。

「遂にここまで来たな。しかしこの先どうすんだよ?」高橋君が塚原君に呟いた。「確かに。この門から先は限られた者だけだな。いくら仲間になったとは言え虎達をこの中へ入れられない」塚原君はチラッと美鳥と紅葉君に視線をやり、それから高橋君を眺めた。

「ああ、分かったよ。俺と塚原がここで虎達と待てばいいんだろ?」

「その通りだ、高橋。何が不服だ?」

「不服じゃないが。ああ、つまんねー。男ばっかじゃん」

こっちを向いた百頭以上の虎達を眺め高橋君はぼやいた。

「美鳥。紅葉と二人で先に王の元へ行ってくれないか?」塚原君は代わる代わる二人を見つめ命令した。すると傍らで、

「もう、むしゃくしゃする!」頭の毛をくしゃくしゃにしてイラついた高橋君だ。

「まあ。そう言うな。門で待つのは案外楽しい、かもな」塚原君は笑ったけれど、

「絶対つまんねーから」高橋君は酷く項垂れた。一方美鳥はソワソワして落ち着かなかった。

「美鳥、何をキョロキョロしてる?」辺りを見回す美鳥のようすが気になり塚原君が尋ねた。

「ねえ。何か感じないかしら?」

「いや。別に……」男子三人はそろって首を振った。

「変だわ。私達以外で別世界の人の気配を感じるのよ」美鳥は門の間を指差した。

「有り得ないだろう」高橋君はつまらなさそうに呟いた。

「そうよね。私もそう信じたいけど……」

「それより、おい。紅葉。言っとくけど途中で美鳥を襲うな。二人きりになったからって、美鳥はこの世界では妹だ。分かってるな」高橋君の目が吊り上がった。

「ああ。十分承知だ。だが約束は出来ない」

「おい、こら。それなら俺が紅葉と行くぞ」

「生憎男は乗せない質だ」

紅葉君はフッと笑ったが、塚原君はたわいない二人の会話に割り込んで、

「そこまでだ。美鳥と紅葉。もう行くんだ」と、言った。

「分かった。それで塚原お願いだ。悪いが高橋の面倒を頼む」

「紅葉。それどういう意味だよ!」憤慨しつつ何気に高橋君は笑ったものの、

「ああ。紅葉が羨ましいぜ」彼は門に寄り掛かり呟いた。

一方で虎達は紅の虎に注目し、

「ではショウ様。お気をつけて。我々はここでお待ちしております」ミンとその仲間達は一斉に礼をした。すると紅の虎の瞳がきらりと輝きゆっくり頭を下げた。

「では皆さん。行って来ます!」美鳥は紅の虎に跨って手を振るやいなや風のように山を駆け上がった。

「ところで塚原。紅葉は獣のまま行っちまったけど、あいつ大丈夫か?」高橋君は両手を頭に載せながら尋ねた。

「心配するな。紅葉は機転が利く。必ず戻るさ」そう言うと塚原君も門に寄り掛かり、百以上の虎達を眺めた。

辺りは既に暗く天に星が鏤められ地に虎の目がぎらぎらと異様に輝いていた。


さて幻想的な世界を離れた秀美は、難なく城にたどり着いた。門番が二人いたが、アオの姿を見ると門が自然に開けられ、使いの者がやって来た。

「アオ様。お待ちしておりました。その者もご一緒でしょうか?」使いの者はなぜか秀美の顔を凝視した。

「そうだ。一緒だ」アオはそわそわした秀美を見つめた。

「畏まりました」

秀美はアオの後ろについて城の中へ入った。初めて訪れたにも拘わらず、なぜか城の構造が頭に浮かんだ。

「そこに池があって金のニジマスが泳いでたわ。それからここには田があり稲作をしていたわ。なぜ、こんな記憶があるのかしら」

秀美の目に映る全てのものは、呟きと同時に現れた。


「失礼致します。アオでございます」

「待っていたぞ。娘がいるであろう。一緒に入るがいい」

二人が中へ入ると数人の家来が両脇に座り正面に顎髭を生やした目の細い小柄な老人が胡坐をかいて座っていた。彼は緑国の王である。

王は二人の顔を見ると安堵した。

「娘よ。ここに来ると分かっていた」細い目が大きく開き王は優しく微笑んだ。そしてアオに向かって、

「魂は全て戻ったのか?」と、尋ねた。

「まだでございます」アオは自分の胸を拳で押さえたが、使いの者が秀美をずっと見つめたままだったので、アオは「やはりそう思うか……」と、辺りを見回して王に尋ねた。

「王様。質問がございます。私が連れて来たこの女性は姫様にそっくりです。私が戦士となって間もない頃、父の付き添いで初めてお城に参りました。滝のある池で姫様が大きな石に腰かけ、金のニジマスを眺めておいででした。私は高貴な方と知らず傍によって、『何をしてるのですか?』と、気安く声を掛けたのです。姫様は静かに微笑み何も語りませんでした。後にあの方が姫様と知って驚いたのですが、私とは最初で最後の出会いでした。世にも清楚なお方でした。それから数日後にお亡くなりになったと聞いております」

「そうだったか。アオは姫と出会っていたのだな。姫が亡くなってから何の理由も聞かされずに眠らされたであろう」王は深いため息をつくと淡々と語り始めた。

「赤国の王は以前から姫を欲しがっていた。また王の息子も同様で姫の持つ力を欲しがり獣を宿す戦士を続々と作り緑国を支配したがった」

王はアオを見つめ話を続けた。

「姫の周りは強い者達で自然と固められた。言い換えれば姫を護衛する者は、千年家を筆頭に力のある者が不思議と揃った。だが我が国はあることを提案した。それは次期姫の誕生時に千年家の力を借りて、魂の一部を別世界へ送ることにした。そこで新たな体を作りもう一人の姫を誕生させ、姫を守りながらここへ辿らせた」

王の瞳に秀美が映った。

「姫が亡くなったと知れば赤国は諦めるであろうと思ったのだが……」

秀美は全員の注視を浴びた。と同時に秀美は青天の霹靂と言うべき事に茫然とした。驚愕する秀美を他所に王はなお話を続けた。

「姫の魂は時が来るまで別世界で生き、再びこの地へ戻るために誰かに守り導いてもらう必要があった。そこで同じ頃誕生したアオの魂の半分を別世界へ送った。生まれたてのアオの精気は極めて強くまさに一意専心に努められる力が宿っていた。送ったアオの魂はやがて別世界で二つに分かれ姫を守るようにした。それから二十年後、愈々時が近付き再びアオの魂を別世界へ送るためアオを眠らせた。アオの魂は見事に姫を守りぬき導いた。全て内密にされたことだった」

「王様。では私の魂は三つではなく正確には四つに分けられていたのですか?」

「そうだ。別世界で魂を分けるように念には念を入れよと、千年家の者がそうした」王は寂しげな眼差しでアオと秀美を見つめた。

「アオが池で会った姫は僅かな魂で生きていた。馬に乗り弓の稽古を欠かさなかった姫だが、やはり寿命が短かった……」王は秀美を見つめ更に話を続けた。

「だが緑国の姫が亡くなると同時に千年家の力で、この世界から別世界へ魂が飛ばされた。その娘は紛れもなく完全な魂を持つ」

「信じられない……」秀美の体は不必要にふらふらした。周りが霞んで今にも倒れそうだったが、不意に一筋の光が頭を過った。それは相違なく秀美に新たな生を植え付けた。秀美はハッとした。つまり姫の魂は秀美に吸収されてから、一途にその記憶を届けていた。だから何気に城の造りが頭に浮かんだに違いなかった。それに姫は死の間際でアオと出会い彼への淡い想いが秀美のどこかに隠されていた。それは一渡りにおいて秀美の想いと重なり迷彩化していた。


さてその頃美鳥と紅の虎は城の門へ到着した。

「千年家の者です。どうか門を開けて下さい!」美鳥は声を大にして言った。すると門が開き中へ通された。

「失礼致します。王様、千年家の者が見えております」

男女二人が部屋へ通されたが誰が見ても妙な服装だった。しかしながら秀美はそれが小野田学園高校の制服だと知っていた。そればかりか一人は一太がよく話していた女子高校生だった。美鳥も秀美を見てハッとした。

「一太君のお母さんではありませんか?」秀美の瞳は喜びに満ちて急に潤んだ。

「やっと知り合いに会えました。でもどうしてあなたはここにいるのです?」

「私も驚きです。別世界の人の気配を薄々感じていましたが本当だったとは。私はこの世界の者です。話せば長くなりますが、実は数か月前に高校の教室で不可解な事件が起りました。事の発端は私だったのだけれど背景にこの国の戦いがありました。それで千年家の者が戦って一旦収まったのですが、再び戦いが始まる予感がして私達はこの世界へ戻って来たのです」

美鳥は端的に説明した。それから紅葉君に視線を向けて、「彼は……」そう言い掛けた矢先である。オレンジ色の光に包まれてみるみるうちに誰もが恐れる獣、「紅の虎」に変身したから堪らない。

「紅葉君。だめよ、だめーっ!」美鳥は酷く焦り大声で叫んだ。けれど獣が、「グァオオオオオーッ」と、吠えれば一瞬でこの場が戦場化した。紅の虎を目掛け矢が飛んだ。

「お願いです。止めて下さい!」幾本の矢が襖に、「ズズズズッ」と、刺さった。王と秀美の前にアオとギンが立ちはだかり、

「どうやってここへ入った!」アオが腰から剣を抜いた。アオの剣は気の力で鮮明に青く輝き、一振りすれば青い滴が舞った。アオはその先端を紅の虎へスッと向けた。

「アオさん。初めて紅の虎を見ましたが、何て素早い獣か!」

ギンの額に汗が滲んだ。彼もアオ同様に気の力の入った緑色の剣を構えた。

一方秀美は震えあがるどころかおかしなほど冷静沈着だった。秀美の気は静かに体を覆い、その瞳は紅色の獣を映した。

「王様。どうか止めて下さい。紅の虎は敵ではありません」

美鳥は全身で叫んだ。

「何を言う。多くの民を殺したあの猛獣は悪に他ならない」

アオの気の力がより強くなったのだけれど、秀美は誰かに操られるように前進して淡々と言った。

「アオさん。どうかその剣を腰に収めて下さい。紅の虎は私達の味方です」物静かな口調は殺気立った気配を一時沈静させた。とは言え秀美はこの獣をたった今、見たばかりで何の根拠でそう言ったのか全く分からなかった。すると襖の蔭から堂々と紅の虎が姿を現した。と同時に、数本の矢が勢いよく飛ばされたが、紅の虎は逃げも隠れもしなかった。それらは確実に獣へ命中していたはずだったけれど、ぽろぽろと足元に落ちるだけで傷一つ負わなかった。こうなると打つ手がなくこの世に強靭化された獣の肉体に有効な武器があるだろうかと誰もが愕然とした。すると秀美の手が矢筒に触れた。そう可能なものが一つあった。それは「放てば光る矢」だった。



               仁王像



「おい。塚原。俺達はいつまで虎と睨めっこしてればいいんだよ。それにしてもよく教育されてるな。あいつらピクリとも動かないぜ。と言っても俺の目の保養に全然ならないけどな」

高橋君はこっちを向いて座っている多くの虎を眺めると、両腕を思い切り上げて大きく欠伸した。空は薄ら明るくなりいつの間にか星が消えつつあった。ひんやりした風を肌に感じ、半分眠たそうな目でそんなことを呟いたけれど、高橋君の指は柱をコツコツ叩いてた。かなり痺れを切らしていた。

「美鳥と紅葉が戻って来るまで我慢だ」塚原君はあっさり言った。

「で、いつまでなんだよ。それまで動かない虎と、ずっと睨めっこか?」

「我慢だ」

「やだね……。それはそうと、さっきからギシギシ妙な音が聞こえないか?」

「高橋も気付いてたか。いよいよだな」すると塚原君は体を軽く伸ばしストレッチを始めた。

「何がだよ」塚原君の行動が気になった高橋君だ。

「戦いだよ。そこそこの戦いになるな」そう言いつつ塚原君は気楽に膝の屈伸を始めた。まるで準備体操をしている彼に頗る疑問だった高橋君は、

「はっ? なんでそんなことが分かる? しかし気になる音だ。おい、ギシギシ五月蝿いぞ!」左右に目を向け足をドンと踏み鳴らし文句を言ったが……

「高橋。まさかこの音が何なのか知らないのか?」

「知るわけない」塚原君は呆れて笑った。

「山の守り神、仁王像が動き出したんだ」

「それマジ?」高橋君は目を大きく開いて右側の仁王像を真剣に見つめた。

「そう言えば、な、なんだこれ。柵が微妙に動いてんじゃ~ん」

「だろ? 山の守り神は余程のことがない限り動き出さない。もし守り神が動いたらどうなるか、想像しただけで怖ろしいがこれは脅しでない。僕らは巻き込まれて死ぬかもな」塚原君は多くの虎を見つめ呟いた。

「おい、冗談じゃないぜ。勘弁してくれよ。美女に囲まれて死ぬのが俺の理想だぜ。つまり今は男ばっかだから俺は絶対死ねないぜ」高橋君は両腕を組んだ。

「この緊急事態に冗談の言える高橋が羨ましいな」

「冗談だって? 当たり前だぜ。仁王像が乙姫様とかぐや姫だったら考え直す。塚原もそう思うだろ?」

「残念ながら思わない。仁王像はやっぱり仁王像だ」塚原君の姿勢が変わった。

「何で塚原はそんな石頭なんだよ」高橋君も目の色が変わり切羽詰りながら苦笑いした。不意に「ドン、ギシギシ……ギシ」鼓膜を突き破るような酷く恐ろしい音が響き、虎達も両耳を両腕で塞いでいた。しかしながらどんな状況下でも千年家の二人は戦いの姿勢になっていたものの、右側の仁王像の異変に度肝を抜いた。仁王像が突如重い囲いを押して外へ足が出たから言うまでもない。二人は驚愕した。

「わぁーっ!」高橋君の声が天を突き抜けた。

「塚原。仁王像が移動した。って言うか、随分と行儀がいい。自分で囲いを押し開けて両手で元に戻しやがった」

続いて反対側の仁王像も外へ姿を現したけれど、二人は呆然自失。ある意味天下一品の迫力に圧倒されたが、我に返った高橋君は力の限り叫んだ。

「美鳥、紅葉、速攻で戻ってこーいっ!」

千年家の二人は自分達より遥かに大きい仁王像に懸念し、たちどころに虎の集団の中へ飛び込んだが……

「塚原。仁王像が何か変だぞ。動きがピッタリ止まったがこの後どうなるんだよ。それに大半の虎は蜘蛛の子を散らしたようにどこかへ逃げやがった」

「だろうな。どっちにしろ美鳥と紅葉が戻るまで我慢だ」塚原君は目を閉じて周りの気配を窺っていた。

「またそれか。何で塚原はそんなに冷静なんだよ」

「兄だからな……。それと赤国の戦士がやって来たぞ」

「そうらしいな。言っておくが多勢に無勢だぜ。塚原逃げるか?」と、言いつつ高橋君は指の関節をポキポキ鳴らした。そうである。傍に相当数の赤国の戦士がいた。

「答えは決まってんな。俺らはミンの率いる虎達と戦うのみだ。」

「その通りだ」塚原君は大きく深呼吸すると叫んだ。

「皆、よく聞くんだ。この門から先は蟻一匹通すな。構えろっ!」

二人が左右に分かれ敵に追突すれば、仁王像が再び「ギシギシ」と、音をたてた。

塚原君と高橋君は敵と戦いながら、仁王像の変化を酷く気にしたけれど、それは見る間にぐいぐい空へ伸びて巨大化した。そして体にキシキシと罅が入りその欠片が空からポロポロ落ちて来た。と思えば、今度は小さく縮み人の大きさに変わるやいなや、黄金の美しい輝きで爆発した。飛び散った欠片の数は数百に及び敵も味方もその美しさに思わず息を呑んだ。まさにこの瞬間、黄金戦士達がごそっと誕生した。彼らは人並み外れた手ばし来い動きで敵をバタバタ倒した。

「これは凄すぎだっ! 黄金戦士、最高だぜ!」高橋君は歓声をあげた。


さてこちらはお城。殺気立っていた城の中は物音なくひっそりした。紅の虎は微塵も動かずアオの瞳をじっと見つめていた。不意に、「グアォォォーッ」と、軽く吠えれば再び矢が構えられた。しかしながらアオの剣は穏やかに腰へ収められた。すると獣は人の姿に戻り紅葉君はゆっくり正座して王の前で両手をついて最敬礼をした。

「千年家のショウでございます」紅葉君の発言は間違いなく「寝耳に水」だった。部屋の中が再び騒がしくなった。

「ショウは生きていたのか」

「はい。ご存知の通り私は幼い頃に行方不明になりました。私は赤国に捕らわれ、そこで獣を宿す戦士に育てられていたのです」皆の目が皿のようになり彼を見つめた。

「私は幼過ぎて母国の名をはっきり覚えてませんでした。それ故にこの国の人々を赤国の王の命令で殺しました。何て酷いことをしたのでしょう。その罪は拭うつもりです。しかし今は緑国の人々の命を守りたいのです」紅葉君は深く頭を下げると美鳥も横へ座り頭を下げた。と、その時、サッと紅葉君の頭が上がり美鳥に呟いた。

「ミンが叫んでる。戦いの気配を感じるんだ」すると城の使いの者が慌ててやってきた。

「大変です。山門の近くまで敵が来てます」咄嗟に紅葉君と美鳥が立ち上がった。そして、

「王様。どうか紅の虎を信じて下さい」そう言うと、二人は駆け出して速攻で山門へ向かった。

「ギン。行くぞ」続いてアオとギンも立ち去った。

馬に乗った二人が山を降りるにつれ、恰も待機してたように後ろから続々と戦士達が加勢した。ふとアオの脳裏に亡き父の言葉が浮かんだ。

「例の弓矢を扱える人物を探すのだ」アオは夢中で馬を走らせその時の思いが廻った。

「あの弓矢は特定の者しか扱えない。もしその者に巡り逢ったならともに戦え」しかしながらアオは必死で拒否した。

「父上。それは出来ません。なぜならその方は私が命懸けで守らなければならない姫様だからです。心から大切に想うお方だからです」


その頃城も秀美も護衛で固められてたが、秀美は焦燥感に駆られた。

「王様。私も戦います。どうかそこを通して下さい」秀美を守るために使いの者達は四方を囲って外へ出そうとしなかったけれど、秀美は自身も戦士だと体から発する不思議なオーラで皆を自然に退けさせた。そして秀美は馬に乗り急いで彼らを追った。


山門の前は既に人と人、獣と人の戦いが始まっていた。紅の虎と美鳥は門の傍で不気味な光が動いていたのを見逃さなかった。光は高くジャンプして門の前に近寄った。

「美鳥、降りろ。俺があいつの相手をする」

「分かったわ」美鳥は自力で地面へ転がり落ちた。紅の虎は風のように走りその勢いで高くジャンプすれば、紅の虎と銀の虎がガツンッと衝突した。そこから銀の虎同士の凄まじい戦いが始まったものの、相手は数学教師でなかった。

「俺の知らない銀の虎がいたのか……」紅の虎は相手を凝視し威嚇した。その傍をアオの馬が勢いよく走り去った。アオは剣を片手に持ち敵を恐れず攻め込んだ。彼の剣は一振りするごとに何人も宙を舞った。そしてギンはアオを上手く援護していたがアオを襲おうと唸って飛び掛かる虎は数え切れなかった。しかしながらアオは来るものを跳ね返し敵の王を倒そうと躊躇わず先へ進んだ。ギンは戦いながらアオの先行きを懸念した。

「アオさん。王を倒そうと早まってはなりません。赤国の王は戦いに強いばかりか、噂では怖ろしい銀の虎が王に付いています」ギンは背後から攻めた二頭の虎を剣で切り倒した。

「魂の欠けた不完全な体では命の保証がありません。まして孔雀石を僕に預けた今、アオさんの身を守るものがありません」ギンの集中力は切れずまた三頭の虎を倒した。

「分かっている。だが……。どうやら遅い。お出迎えのようだ」過去にこれ程凶悪なエネルギーに満ちた銀の虎を二人は見たことがあっただろうか。殺伐とした眼に震えあがるほど恐ろしい輝きを放っていた。

ギンは魂の欠けたアオに到底勝ち目があると思えなかったけれど、アオは馬から降り死を恐れず戦う覚悟をしていた。当然ギンも覚悟をした。

二人は呼吸を整え動きを合わせると何度も銀の虎へ剣を振ったが、獣は意図も簡単に攻撃を躱しニヤッと笑って更に脅威を見せつけ、「グアォォォッ」と、吠えた。二人は全身全霊で戦った。獣に振り回され呼吸が荒くなるばかりか二人の体に薄ら血が滲んだ。遂にギンが宙に弾き飛ばされ動かなくなった。

「ギン、立つんだ!」アオは全力で叫び、全神経を剣へ集中してぎゅっと握った。そして飛び掛かった銀の虎の腹部へ力の限り切り付けた。

彼の腕に確かな手応えを感じたもののやはりかすり傷だった。

「クソッ! なんて強靭な体か」アオは唇をギュッと噛んだ。

この時敵の数はかなり減り赤国は既に撤退命令を出していた。その背景に塚原、高橋君とミンが率いる虎達の活躍があったが、何と言っても山の守り神の強さは歴然だった。けれどここは違った。銀の虎は逃げずアオを見つめるとこう言った。

「俺の体に傷をつけた人間は、お前が初めてだ」それから悠々と歩き出した。アオは獣を追いたかったが体が思うように動かなかった。

アオはガクリと両膝を着いて地に倒れ意識を失った。なぜなら腹部に致命的な傷を負い地にどくどくと大量の血が流れていた。


一方馬に跨った秀美は戦場へ飛び込むと、紅の虎と戦っていた銀の虎へ矢を放った。獣は一発で仕留められ一瞬で動かなくなった。

秀美は何本も矢を放ち虎の動きを止めては馬を走らせ只管アオを探した。獣は光る矢に怯え逃げ去っていたが、秀美は妙に気がせいで酷く落ち着かなかった。

漸くアオの馬を見つけた秀美は、呼吸すら忘れて隈なくアオを探した。と、次の瞬間、秀美は心臓を槍で刺されたような衝撃を受けた。地面に倒れた瀕死状態のアオに愕然とした。

「いやーっ!」秀美は馬から降りて震える手で彼をそっと起こした。

「アオさん、しっかりして。私を置いてかないで。あなたは私を守る人なのよ……。私の元から大切な人が去っていくなんてもう嫌よ」

真っ赤な血で染まった衣装にこの上ない焦りで秀美はアオを抱きしめた。

「お願い、アオさん目を開けて」すると耳元でアオの微かな囁きが聞こえた。

「お前の名は、何と言う」秀美の目から涙がポロリ零れた。

「私の名は、秋山秀美よ」声にならない声で答えると、アオは苦しそうに笑った。

「そうか……。俺は、俺は誠也であり一太だった。もう少し秀美と一緒に過ごしたかった……」これがアオの最期の言葉だった。

アオは秀美の腕の中で静かに息絶えた。アオの体の重みが秀美の両手に重石のようにずっしり掛かった。しかしながら秀美は暫く彼から離れられず声を殺してずっと泣き続けた。すると、

「森羅万増、生きとし生けるものよ。己で運命を切り開け……」どこからともなく声がした。



          沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり



二日後。アオの葬儀が執り行われた。アオの体は楔石が散りばめられた美しい輝きの川へ沈められる。秀美とアオが黄金の橋の上で月を眺めながら、ほんの少し語り合ったことがまるでなかったように鮮やかにきらきらと輝いていた。


「ここは病んだ者を癒す場所だ。それと愛する者と誓いを立てる場所であり、別れの場所でもある」

まだ傍にいるような感覚だ。アオに抱き締められ囁かれたばかりの言葉が秀美の胸を騒がせたが、まさか「別れの場所」とは、それが死人を葬る意味だったとは……。多くの者が葬儀 に参列しアオの死を悲しみ最後の別れを惜しんだけれど、なぜだろう。秀美はもう涙が出なかった。

四人の者がアオの体を運び七色に輝く水に静かに浸けた。そして彼の体は水からあげられキラキラ輝く金色の雫となって風に押されスーっと流れて消えた。ギンは泣いていた。

「アオさんは死んではいけない人だった。僕が代わりに死ねばよかったんだ」ギンは両拳で橋を叩いた。秀美がそっとギンの傍に寄ると、彼は涙を拳で拭いてこう言った。

「アオさんから言伝があります。アオさんは自身を守る大事な孔雀石を城を出る前に、『必ず姫に渡して欲しい』と、僕に託しました」ギンは首飾りを外すと手に載せた。

六画に削られた美しい孔雀石には、くっきりした緑色の縦じま模様があり先端は尖っていた。それに白金プラチナの鎖が付いていたが、真に未来へ繋げる力を秘めた石に思えた。

「どうか肌身離さずお持ち下さい。この石にアオさんの波動が強く感じられます」秀美はそっと手を伸ばし細い指先で丁寧に撮み両手で首に掛けた。ギンの言う通りアオの波動は体の隅々へ痺れるように流れ、恰もアオがこの世に存在しているようだった。けれど彼の姿はもうない……


葬儀を終えてギンとお屋敷へ戻った秀美は、ここへ来た当時の洋服に着替えたがこの世界も元の世界も余りにも悲しすぎて、秀美の心はだだっ広い草原を一人ぽつんと眺めているようだった。

秀美は何の考えもなく一太のいない世界へ戻る決心をした。このお屋敷も主人を失くし酷く寂しかったものの、ギンはいつでも新たな主人を迎え入れられるように、準備をしなければならなかった。

最後に秀美はダウンコートを着た。そして脱いだ服を丁寧に畳みながら秀美はふと思った。赤国の王はまた姫を探すに違いないと。それでも「元の世界へ帰ろう」そう思った時に一羽の鶯がアオの部屋の前をスーッと横切り、「ホーッ、ホケキョッ」と、美しい声で囀った。

「ああ。鶯が歌いましたね」ギンが呟いた。秀美は以前眺めた池を無性に見たくなり急ぎ足で歩いた。不思議なことに鶯は秀美の後を追い池の縁に舞い降りて、「ホーッ、ホケキョッ」と、歌った。秀美は、「池が珍しいか」と、アオに言われたのを不意に思い出し涙が頬を伝った。そこへ千年家の者達がやって来た。

「秀美さん。元の世界へ戻りますがそれでいいですか?」小野田学園高校の制服に土がついて汚れていた。彼らは秀美が姫であることをまだ知らなかった。

「ええ。美鳥さん。宜しくお願いします。私を待ってる人がきっといますから……」

「分かりました。けれど時は流れています。元の世界で何が起こっていてもそれを受け入れて下さい」そう言うと、美鳥は指先に念を込めた。秀美は両目を閉じた。束の間の幸せが目に浮かび忘れないように強く胸に刻んだ。


暫くすると秀美の体は不思議な世界へふわり浮いていた。

「あっ……」思いがけず秀美は誠也君と一太の後ろ姿を見つけた。二人は秀美より遥か前を歩いていたが、しっかり手を繋ぐその姿は仲の良い親子そのものだった。秀美は無我夢中で彼らを追いかけた。すると二人の手が離れ誠也君の後ろに一太が重なって八方に白く輝いた。秀美の手に届きそうで届かない美しい光は、やがてアオの姿に変わり秀美へ爽やかに微笑んだ。


「発見されたぞ!」誰かが叫んだ。秀美におぼろげながら植田課長が見えた。救急車の音が微かに聞こえ辺りがざわざわしていた。秀美はどうやら行方不明者となり捜索願いを出されていた。

秀美は騒々しい中で救急車へ運ばれ総合病院で死んだように眠った。それから数時間後に目が覚めた。そこは総合病院の一室だった。真也さんがそっと秀美の手を握っていた。

「秀美さん。僕です、分かりますか?」

「……。真也さん、ですね」

秀美はゆっくり体を起こし真也さんの顔をまじまじ見つめると僅かに口が開き、「アオさん」と、呼びそうになった。

真也さんの顔は再会の喜びとは別に苦悩の色が浮かんでいた。秀美の口はそのまま閉じられた。

「秀美さんが行方不明になったあの時、僕は急に胸が苦しくなり倒れた。たまたま神職さんが発見して僕は病院へ運ばれたが一太は既に遅かった。原因は分からない。僕も一日だけ入院したがその晩体中に酷い痛みがあったんだ。今は大丈夫だ」真也さんの手に力が込められた。

「秀美さんまでも失っていたら、僕は……」

「心配かけてごめんなさい。本当に何もかもごめんなさい」

戻ればこうなると分かっていたはずなのに、どうにも辛すぎる現実だった。

「一太の葬儀は昨日行われたんだ。とても安らかな顔をしていた」

「そう……」秀美は両手で顔を覆った。


翌日。秀美はお医者様に無理矢理頼んで、退院させてもらった。

今日は大晦日。新年を迎える前にどうしてもお墓参りを済ませたくて、真也さんに墓地まで連れてってもらった。秀美は墓石の前でそっと手を合わせ、誠也君、一太へ祈った。それに銀の虎と命懸けで戦い命を失ったアオさんと、病弱で亡くなった姫へ、この世界から手を合わせて祈った。

秀美は黄金の橋でアオと並んで月を眺めた美しい日がつっと思い起こされた。秀美は確かにアオの瞳に惹かれた。ここに居るのはアオであろうか。秀美は真也さんの横を歩きながら同じ瞳を持つ彼にアオの想いを重ねた。

大晦日と言えども、お墓参りをしていた家族は幾つもあった。秀美は愛する夫も子どもも亡くし幸せな家族とすれ違う度に目を背けた。とうとう耐え切れなくなった秀美が涙を浮かべて真也さんの背中へしがみ付くと、不思議なことに秀美の脳裏に姫の記憶が映った。


部屋の障子を少しだけ開けて姫は布団から庭を眺めていた。鳥の囀りと水の流れる音がしてその脇の廊下を親子の戦士が通った。なぜだろう。咄嗟に戦士と話がしたくなり布団から出て姫は着物を羽織り、それから障子を開けた。しかしながら彼の姿はもう見えなかった。恐らく王の元へ行ったのであろう。

姫は父親より先に若者が戻ってくると直感していた。それでいつ通るか分からない戦士を心ときめかせて根気よく待った。

姫は幾ばくもない余命だったけれど、これは彼女にとって精一杯の表現、言わば「純粋な恋」だった。

障子越しにあった庭はゴツゴツした大きな岩肌を伝ってちょろちょろ水が流れ、池へ続いて幾つもぽとりぽとり水が滴り落ちていた。その横に勢いよく流れる小さな滝があって、傍に人が座れる四角い石が置かれ姫は陽に当たりながら腰掛け金のニジマスを眺めていた。暫くすると姫の体が冷えた。指先が酷く冷たくなったがそれでも姫は空や池を眺め戦士を待ち続けた。しかしながら決して嫌でも退屈でもなかった。

漸く戦士がやって来た。彼は池を眺める清楚な人に目を奪われ、

「何をしているのですか?」と、恥ずかしそうに尋ねた。すると姫は、

「あなたに逢えて幸せです」ただ戦士にそう言った。


「アオさん……」秀美は真也さんの背中で泣きながら無意識に囁いた。

「僕が秀美さんを守る」真也さんが振り向いて両腕で抱きしめると、孔雀石の首飾りがじんっと温くなった。それは姫とアオの想いが金剛石を伝って強く美しい輝きを放った。二人の不屈の愛が秀美と真也さんを包み始めた。まるで月見草の花の色のように穢れのない純白な想いと花言葉のとおり打ち明けられなかった切ない恋の表れであった……


秀美と真也さんはお墓参りの後に一太と訪れた公園へ行った。あの時は桜が満開だったけれど、今は赤や黄色に色付いた葉がほんの少し木の下にあるだけで閑散としていた。桜の木は寒さにただ沈黙し時に木枯らしが吹いて乱れる秀美の髪をじっと眺めていた。

秀美は桜の幹を見つめ細い指でそっとなぞりながらこう思った。どんな暑い日も寒い日も淡々と耐え続け大自然の営みの中で繰り広げられるその物語は、春に華やかな花を見事に咲かせる。悲しんでいられない。私も前へ進まなくては……

「秀美さん。車に戻ろう」真也さんが秀美に手を差し出した。しかしながら彼女はその手を避けてギュッと彼に抱きついた。

「私のために、ありがとうございます」

すると真也さんが思いなしか「姫」と呟いた気がして、秀美の体は一瞬震えた。それから彼は前に少し屈みそっと秀美の唇にキスをしたのだけれど、秀美は妙な気持ちになった。恰も初めてキスをした感覚であり、そのうえ孔雀石の波動が手品の始まりのように静まった。真也さんの瞳は黄金の橋の上と同じグレーに輝き秀美の瞳を惹きつけた。

秀美が別世界へ行ったあの日。真也さんは胸を押さえ苦しみながら秀美を探そうとしていた。秀美に惚れ過ぎた真也さんは幸か不幸か、一太の魂とともにアオの元へ戻らずこの世界に留まった。そのため別世界で体を失ったアオの魂こそが分裂した残りの魂を探し求め彼の記憶を持ったまま、真也さんの体へ辿り着く不思議な現象が起きた。つまりアオの魂はこの世界で完全に一つになり復活したのである。

「城で姫にお会いしたあの時から惹かれておりました」真也さんの中でアオが呟いた。

「部屋の横を通り過ぎた時から私はあなたに惹きつけられて……」秀美の中の姫が囁いた。

姫とアオの魂は嘘偽りなく時静かに燃え想像を絶する出逢いに深く熱いキスを交わした。そして秀美は首にかけてあった孔雀石を外すと、真也さんの首へかけ直した。

「これは真也さんにお返しします」笑顔でそう言うと、彼はコクリと頷き服の内側へ仕舞った。


さて、こちらは高橋家。

「やっぱ。家はいいな。俺の日頃の行いがいいから無事に戻って来たぜ。まっ、ぎりぎり年末だったけどな」高橋君は制服についた埃を叩き玄関を開けた。

「あら、孝介。お帰りなさい。別世界へ行ってたの?」

「はっ? 何で知ってんの?」

「だって友達がそう言ってカバンを届けに来たわよ」高橋君の母は両肩をチョンと上げた。

「塚原勇介君と佐藤美鳥さんとそれから、えぇっと、ほら、松崎紅葉君。彼らと銀の虎をやっつけに行ったんでしょ? それで戦いは無事に済んだの?」

「無事に済んだっていうか。まあ休戦中と言った方が妥当かもな」

「あら、ではまた出掛けるわけね」

「決着がつくまでは。それが僕らの運命なんだ」高橋君はリビングのソファーにゴロンと寝転がると、両手を頭の後ろに置いて仁王像を思い出した。

「かぐや姫と乙姫様だったら幸せだったな……。って言うか、大変だ。俺は姫を見てないぞ。アオが復活してたんだから姫はとうに存在してたはず。なんてこった! 美女か野獣か、果たして老婆か。ああ、ガックシ」高橋君はすっかり落ち込んだ。

「孝介、香澄さんから電話よ」奥の部屋から母の声がした。

「おっといけねぇ。携帯電話を充電させてなかった。今夜は紅白歌合戦か。行く年来る年だな。約束の初詣にどうにか間に合った……か」高橋君はヒョイとソファーから起き上がった。



               契り



年が明けた。

一月半ば過ぎに秀美は会社へ出勤した。秀美はこの世で最愛の子、一太を失ったけれど決して深い悲しみに埋まったままではなかった。


「秋山さんが会社へ戻ってくれて嬉しいな。君にもしものことがあったら僕は頭を刈って修行僧になってたぞ」植田課長は「チーン」と鼻をかんだ。

「そちらのほうがずっと先輩らしいです。いっそのこと家業を継げばいいのに……」秀美は聞こえないように小さな声で囁いたけれど、隣の席の加藤さんは秀美を見るやいなや涙を流して抱き付き、そればかりか同じフロアーの独身男性も秀美の顔を見ただけで天使が現れたように安堵していた。

「秋山さんが生きていて良かったわ。行方不明のニュースが流れた時、暮れの忙しさなんかふっ飛んだわ。警察官と協力してみんな血眼で探し回ったのよ」加藤さんの瞳が大きく開いたと思えば、人差し指を植田課長へ向けた。

「そして見つけた人が植田課長で、社員は警察犬以上の働きに夢かとばかりに驚いた。あの時だけは鬼の課長が神様に見えたわ」加藤さんの両手がごしごし擦り合った。秀美はその仕草が可笑しくて、「クスッ」と、笑い、

「あの時やっぱり朧げに映った男性は植田課長だったのね」秀美はチラリと植田課長を見て、

「これで二度も命を助けてもらったわ」感謝の気持ちを込めてさり気なく頭を下げた。

秀美は机に載った仕事を一つ一つ片付け始めた。すると加藤さんが遠慮がちにこう質問した。

「あの。喪に服してるところ、つかぬ事をお聞きします。そんな気分じゃないと思いますが、例のプロポーズはどうなったのかな? なんて……」

「それはあの時のままです」秀美は少し俯いて答えた。

「そ、そうよね。なんか気になっちゃって。小森さんは家柄がいいし、秋山真也さんは紳士的で素敵だった。秋山さんはどちらが好みですか?」

「私は……。卓球の試合にかけます」すると加藤さんが笑顔になって、「勘が当たったわ」と、呟いた。それから「クスッ」と笑ってまた仕事を始めた。


それから二カ月後。桜の花が美しく咲く季節がまたやって来た。

秀美は夫の命日に真也さんと一緒にお墓参りをした。と言っても二人がゆっくり会えたのは暮れ以来であった。

「秀美さんと落ち着いて話をしたい」と、真也さんから数日前に電話があった。それで今ここに居る。

お墓参りを済ませた後、秀美は真也さんの車に乗って海の見える旅館へ向かった。その途中で、「紫陽花の家駅」前にある喫茶店に入って二人は軽く食事をした。この駅は秀美が誠也君にプロポーズされた思い出深い場所だった。恰も全てが長い夢のようだったが寧ろそうあって欲しいとさえ思った。


旅館へ到着したのは午後五時過ぎ。部屋へ案内され荷物を置いた二人は、浜辺に降りて暫く海を眺めていた。それから寄せては返す波の横を静かに並んで歩いた。秀美も真也さんもこのまま時間が止まってしまえばどんなにいいか……。そう思っていた。

心地よい波の音に癒された二人はゆっくり旅館へ戻った。古風な木造建築に小さな日本庭園。何とも心の落ち着く場所だった。庭の池にどこからか桜の花弁が舞い水面の小さな波にゆらゆら揺れていた。

「真也さんらしいわね」と、秀美は庭を歩きながら呟けば、

「秀美さんをイメージした場所なんだ」と、彼は笑った。

「少し寒くなった。部屋へ戻ろう」真也さんの優しい言葉だった。


職場の話をしながら部屋で食事をして、それからそれぞれ露天風呂へ入った。湯船から眺める星空は果てしなく天上を覆い、二人を静かに見下ろしいていた。

秀美にとってゆったり過ごせた時間が余りに贅沢に思えた。それに真也さんがそばにいるだけでなんて幸せなのか……

誠也君、一太そしてアオの魂が一つになって真也さんの中で生きている。

秀美は洗った髪をドライヤーで乾かし髪をアップして部屋へ戻ると、先に真也さんが戻っていた。彼はパソコンを開き仕事をしていた。

彼の邪魔をしないように秀美は鞄から読みかけの本を取り出し、布団の上に座わり本を開いた。するとキーを打っていた真也さんの手が自然に止まり、秀美の横顔を眺めながらパソコンを静かに閉じた。

真也さんは和装の似合う秀美に石楠花しゃくなげの花を重ねた。赤と白でふんわり咲く花には品のある美しさが漂う。それは「高嶺の花」と言われた。


「何の本を?」真也さんが秀美の正面に座り尋ねた。

「秀美さんの浴衣姿を目にしたのは二度目だ。確か地元の夏の祭りで、秀一と花火を見に行った時に浴衣を着ていた。愛くるしくて抱きしめたい思いだったが、あの時秀美さんは誠也とキスしていたんだ。僕は一気に奈落の底へ落とされた。

「えっ……」恥ずかしさで秀美の頬は真っ赤になり俯いた。

真也さんは秀美の手の本をそっと取り上げてこう言った。

「今こうしているのがアオと姫の関係だったら、僕は王にきっと国を追放されてただろう。この世界で真也として巡り逢えて感謝してる」彼の顔がほんのり赤くなった。

「秀美さん。僕はあなたを愛したい」秀美は咄嗟に胸へ手を当てた。心臓が矢鱈と激しく動きそれを抑えながら神秘的な彼の瞳を見つめた。

「僕を叩きますか?」秀美が、「いいえ」と、首を横に振ると真也さんが立ち上がり部屋の明かりを小さくした。

綺麗に着ていた浴衣は次第に乱れ秀美は包み込むような真也さんの大きな愛に身を委ねた。カーテンの隙間から入る月明りが二人をほんのり照らし心を穏やかにした。

秀美と真也さんは何も恐れず深いキスをし愛し合った。しかしながら秀美の指先が彼の背に触れた瞬間、秀美は怯えて涙が溢れた。なぜならミミズ腫れのような傷を何箇所も指先に感じたからである。そればかりか右腹にもっと痛々しい噛まれたような傷を感じた。それらは決して目に映らなかったけれど酷く辛くなって涙が止まらなかった。

「もう大丈夫だから悲しまないで」真也さんは優しく囁き指で秀美の涙を拭いた。

「天つ風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(天の風よ、雲の中の帰り道を吹き閉じてくれ。もうしばらく、美しい天女の舞の姿を地上に留めたいから……。『恋ぞつもりて 文芸社』)優しい眼差しで真也さんは僧正遍照そうじょうへんじょうの和歌を囁いた。秀美は彼の神秘的な瞳を見つめコクリと頷いた。そして解き放たれた心で微笑めば漸く二人はこの世で契りを結んだ。


その頃赤国はリツの銀の虎を倒した者を探っていた。

「倒したのはショウか?」

「王様。確かにショウとリツは戦っておりました。しかし大きな外傷がないのです」王は周囲を見回すと最強の銀の虎を宿すソウに目を向けた。

「ソウよ。お前は何か感じるか」

「恐れ入ります、王様。私はこれ以上リツに近寄れません。なぜなら目に見えない巨なるエネルギーを感じ、我々にはそれが致命的であります。後ろ足の小さな傷口から特に強く燃えるように出ております」

王は言われた傷口に指で触れようした。ところが少し手前で手が止まり下から上へ指を動かした。

「目に映らない物がここにある。ソウよ。お前のような優れた銀の虎でもこれに死の恐怖を感じるのか」

「王様。恐れながらそうでございます」すると、戦士の一人が跪いてこう言った。

「王様。私はこの目で流星のように矢を放つ女を見かけました。その者は一見男の格好をしておりましたが女であります。獣を恐れず馬に跨り戦っておりました。噂で緑国の姫ではないかと聞いております。しかし姫は既に死んだはずです」

王は目を閉じ腕組みをした。すると何か勘付いてむくっと立ち上がった。

「いや。姫は生きている。緑国が姫の魂を別世界へ送っていたのだ。ソウよ。今すぐその者を探しに行くぞ」

「畏まりました。王様」


こうして姫が生存してたことを確実に知った赤国の王は、絶対に彼女を手に入れようと、いよいよ別世界へ現れるのである。











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