第2章 東男に京女?

           風邪かな、愛かな



あれから半年過ぎた。暖かな春から爽やかな秋へ季節は移り変わった。桜の木は赤や黄色に色付きイチョウの葉は黄金色に変わった。

小杉さんと真也さんはあの日以来、プツリとお付き合いが切れたらしい。悪気はなかったとはいえ、やはり一太のせいではなかったか。秀美は気にした。しかしながら真也さんは、「これでよかったのさ。すっきりだ」と、笑っていたけれど……

さて、秀美と真也さんの関係はその後どうなったか。誰もが気になるところだけれど、秀美はそれ以上でもなくそれ以下でもない、と勝手に思っていたが真也さんはそうではなかった。まあ、最もな話。恋愛に鈍感な秀美だけあって、真也さんの魅力に無意識に惹かれたなんて思いもしなかっただろう。

真也さんは時々買い物に付き合ったり、一太を連れて遊びに行ってくれた。そんな優しさから彼が別荘へ寄る日が増えたが、それがどういうことか秀美は全然分かっていなかった。

ところで四月から始めた秀美の仕事の話だけれど、彼女は社員とすっかり馴染み順風満帆だった。ただし一つ問題があった。その問題とは相変わらず秀美を食事に誘い続ける諦めの悪い、植田課長のことだったがそれが彼の日課になっていた。そして今夜もご覧のとおりだ。

「ああ。秋山さん。週末だね。一緒に夕食どうだい?」

「申し訳ございませんが、遠慮致します」と、毎回同じ返事をしていたわけだが、今日は随分と秀美の顔を覗き込んでいた。

「秋山さん。つかぬことを聞くが、もしかして熱があるんじゃないか?」

植田課長に珍しいことを言われた。確かに頭が重いと感じていたが秀美は親の責任で保育園へ一太を迎えに行った。しかしながら次第に悪寒がして体が思うように動かなくなった。スーパーで魚やお肉のパックを掴みたいがなかなか手が出せなかった。健康なら然程感じない冷気が否応無しに体を覆い真冬の寒さと違った変な寒さを体中に感じた。

秀美はやっとの思いで自宅へ着いた。買い物袋が酷く重く感じ腕がぶるぶる震えた。それからたどたどしく歩き薬箱を開けて体温計を取り出し脇へ当てた。するとみるみる測定値が上がり「ピピッ」と、お知らせ音が鳴った。既に三十九度を超えていた。

(これは植田課長の怨念かな……。一度は食事に行った方が良かったかしら)

そんな事が頭を過ったものの、冗談はさて置き秀美は真っ直ぐ歩けなかった。目に映る全ての物がゆらゆらしてこんな状態でどうやって家まで辿り着いたのか不思議だった……

秀美の体はガタガタし震えが止まらず遂に呼吸もままならなくなった。おまけに立てなくなり秀美はこのまま死ぬのねって思った。

「だ、誰か、助けて下さい……」彼女の意識は朦朧としてきた。そのうちどっちが天井で床なのかさえ分からなくなった。

不意に室内でバタバタ音がして、秀美の目に見覚えある男性が薄っすら映った。「大丈夫か?」男性はそう言った。

秀美は救急車に乗せられ救急病院へ運ばれていた。しかしながら秀美の意識はそこから失われ数時間が経過した。やがて朝を迎えた。

クリーム色のカーテンの隙間から黄色の光が漏れて、秀美の右頬を薄く照らした。秀美の目は少し開き瞳は天井と壁を行ったり来たりしているうちに、秀美は安堵した。ここは我が家の二階で見慣れた風景だった。きっと悪い夢を見ていたのだろう。秀美は窓から入る一筋の光が朝日であると察した。

「大変。朝だわ」彼女はガバッと、布団から上体を起こした。

「一太のご飯を作らなければ。今何時なの?」

ところが酷く頭が重い。おまけに世の中がゆらゆらと揺れていた。まだ夢を見ているのだろうか。秀美は額に手を当てた瞬間、昨夜のことをハッと思い出した。私はあれからどうなったの?


「秀美さん、おはよう。体は大丈夫そうだね」

「嘘?」秀美はビックリしてもう一度周りを見回した。どう見ても我が家なのだけれど目の前に真也さんがいた。

「熱はどうかな?」彼は心配して秀美の額に大きな手を伸ばした。ところが、何を思ったのか秀美は後ろへ仰け反りそのまま倒れかかった。

「あらっ……」不意に真也さんの片手が秀美の背をぐっと支えたのだけれど、結局二人共バランスを崩して重なるように布団へ倒れた。秀美の瞳に再び天井が映った。

「私が仰け反ったばかりに、真也さんまで倒れました。ごめんなさい」

淡々と言ったつもりが、真也さんの体が上に載っていただけに苦しそうな声だった。そのうえ秀美の胸から心臓が飛び出しそうだった。むしろ激しく打つ心臓の鼓動が彼の耳と広い胸に伝わっていないだろうかと、無性にドキドキした。

真也さんはその体勢のまま秀美の額に手を当て、

「まだ熱がありますね」と言いながら、彼女の髪を指で梳かし頬に触れた。それからフッと笑った。

「あの。どうして笑うのですか?」秀美の瞳はまだ天井を見ていた。

「それは余りに秀美さんが愛おしくて……。僕はあなたを襲いたいのですが、堪えています」

「えっ?……」激し過ぎる心臓の動きをどう鎮めたらいいのか、秀美は分からないままじっとしていた。すると真也さんは秀美を真剣に見つめ、

「僕と正式にお付き合い願えませんか?」と言った。「あの……」秀美はとても嬉しかったけれど、夫のことを思うと素直に返事が出来なかった。

「まだダメですか?」真也さんは小さな声で囁いた。秀美の目に涙が浮かんだ。彼はゆっくり自分の体を起こして秀美の手を引いた。

「いけないことを言ってしまったかな」真也さんはまっすぐ秀美を見つめた。秀美の目は涙で潤んでいた。

「秀美さん。その。怒りますか?」グレーがかった神秘的な瞳が秀美を優しく見つめた。彼の瞳はあることを語っていたのだけれど真也さんの態度がどういう意味だったのか、秀美はとんと気付かなかった。

「あの……。怒りません」小さな声で囁くと、次第に真也さんの顔が秀美に近付いて目の前でふっと止まった。彼は涙で濡れた秀美の頬を優しく拭った。

「どうしようもなく、あなたを愛しています」

秀美はまるで金縛りにあったように彼の神秘的な瞳に惹きつけられ自然と目を閉じた。秀美の唇に彼の温かな唇が怖々重なってそれからゆっくり離れたけれど、秀美は慌てて、「か、風邪がうつります、から……」と、呟いた。心臓の鼓動が激し過ぎて言葉が絶え絶えだった。とは言え何て幸せなんだろうか。秀美は心でそれをふんわり感じた。

「秀美さん。僕は酷く眠い……」何事も無く目覚めて彼の気持ちに抵抗なく寄り添った秀美に安心したのか、真也さんの体重がスーッと体に覆い被さった。力の出ない今の秀美にそれはとても支えられるものではなく、再び布団に寝かされた。どうやら真也さんは一睡もしていなかったようだ。

秀美の耳元に彼の静かな寝息が聞こえた。彼女はもぞもぞと布団から両手を出すと、真也さんの背に載せた。

「私のために、大切な時間をありがとうございます」天井を見つめながら小さな声でお礼を囁いた。


「ドドドドドドドドッ」まるで競争してるように階段を駆け上がる足音と楽しそうな笑い声が聞こえた。

「おじさんの勝ちだ!」その声は秀一さんだった。

「トントン」と、ノックされ、

「秀美。お早う!」って、秀一さんの顔がドア越しに見えて、

「お早うございます」秀美が寝ながら返事をすると、秀一さんの視線が一点を見つめ静止した。

「一太、階段を下りるんだ!」秀一さんの顔が急に赤くなりドアを「バタン」と閉めた。

「い、一太。運転席にペットボトルを忘れた。それを取って来て欲いな」焦った秀一さんは一太にそう言って下へ降ろした。と言うのも布団に重なったふたりを見れば誰だって怪しく思えた。

「秀美。その……。服は着ているか?」

「はい。大丈夫です」秀一さんは静かにドアを開けた。

「あの。体に力が入らなくて、真也さんを起こせないの」秀美は仰向きのまま小声で話した。

「確かにだな……」秀一さんは一つため息をついた。

「真也さんは看病で一睡もしていなかったみたいなの」

「真也らしいな。それで熱のある病人が健康な人の面倒をみるのか?」

秀一さんは笑い、押し入れからもう一枚布団を出した。それから彼女を引っ張った。

「冷蔵庫に適当な食料と母が作ったお粥を入れたが、今食べるか?」

秀一さんに尋ねられたが、

「いえ。もう少し横になります」と、秀美はかけ布団を顔に被せた。

「そうか……。じゃあ、一太を連れてドライブしてくるか」そう言うと、秀一さんは下へ降りた。


秀一さんの車は一太を乗せて市内を適当に走った。一太は窓から景色を眺めながら、

「秀一おじさん。あのね。真也おじさんがお母さんのこと好きだって言ってた。真也おじさんとお母さんは結婚すればいいのにね」秀一さんは危うくブレーキを踏みそうになった。

「け、結婚だって? お母さんは真也おじさんが好きなのかな? もし結婚したらお父さんが真也おじさんに変わるんだよ」

「うん、知ってるよ」一太はニッコリ笑うと、動く景色を眺めながら今流行りの「カメムシのサンバ」を口遊んだ。




            植田課長とお経



翌週のこと。酷かった熱も下がり少々けだるさがあったものの、秀美は月曜日から順調に出勤した。職場の人は彼女が酷い熱で倒れ、金曜日の夜に救急車で運ばれたことを勿論知らない。


「やっとお昼だわ。何食べようかな」加藤さんが両手を重ね腕を前に伸ばした。

「ねえ。秋山さん。一緒に食べませんか?」彼女は机の書類を「トントン」と揃えながら秀美にそう言った。

「ありがとうございます。あと少しで終わりますから」

「では、先に行って席を取ってますね」

秀美はパソコンの画面に集中して残りの作業していたのけれど、チラチラとパソコンの蔭から眉と眉のくっついた目障りな人が否応無しに目に付いた。秀美は彼にこう言った。

「植田課長。とっても気が散ります」

「いや~。紀伊馬きいまさん。元気そうだね」

「あの。紀伊馬は旧姓ですから」

「おや? 君んちの表札は『紀伊馬』になっていたけどな。それはそうと体は大丈夫かい?」秀美は睨めっこをしているようなちゃらけた課長へ怪訝な顔をした。

「あの……。体ってどういうことですか?」

「はっ? 紀伊馬さん、聞いてないのか?」

「ですから、私は秋山です」

「いや、失礼。本当に何も知らないのか?」事務所は静まり人気がない。植田課長の声は意外と響いた。

「はい。何のことやらさっぱりですが、先輩は私の家へいらしたんですか?」

「紀伊馬さん。ここでは先輩は言わないこと」

「失礼しました。ですから私は秋山です」

「そうだ。その秋山なんだよ。確かあいつ義理の兄って言ってたな」

「あいつ……?」何だか妙な胸騒ぎがした。

「金曜日の晩に秋山さんの家へ訪問したことを聞いてないの? 君の命の恩人だってこともさ」秀美はパソコンの電源を落とした。

「植田課長。それ本当の話ですか?」

「ああそうだ。話せば長くなるな。あの晩僕が義理の兄を呼んだんだよ。僕に負けるけどイケメンだったな。はははははっ」

「植田課長。加藤さんと食事する約束をしてますが宜しければ課長も一緒に食べませんか?」

「いや~、構わないけど。僕と秋山さんが付き合ってると思われるな。ははははっ」植田課長は笑った。

「お言葉ですが、全くお付き合いしていませんから」

「まあ、そう怒らずに。では食堂へ行こう」気のせいか植田課長がにんまりした。二人は事務所を出た。

「あの日。秋山さんのようすが気になってね。訪問してよかったな。あれはビックリしたぞ」彼は秀美の横にピッタリ並んで階段を下りたのだけれど、がっしりした体型の課長と歩くのは初めてだった。

「君はこう思ってるだろうな。またご冗談を。それがさ。本当の話なんだな。記憶にないのか?」

「ええ。運よく……」秀美はクスリと笑った。二人は右に曲がり食堂入口に差し掛かった。

「秋山さーん。ここでーす!」加藤さんが手を振っていた。

「遅かったですね。って言うか、課長と一緒じゃないですか」加藤さんの顔は引きつっていた。

「ごめんなさい。ちょっと訳があって」と、言いながら秀美は椅子へ座ろうとしたのだけれど生憎秀美の分しか空いてなかった。

「あっ、課長どうぞ。今席を空けますから」

「それは申し訳ないな」

鬼の課長の噂はどこまでも広まっていたようだ。その証拠に他の人が席を譲った。課長は何とも嬉しそうに秀美の横へ座った。

「ところで秋山さん。なぜここに課長がいるんです?」加藤さんが怖々尋ねれば、

「これには『愛』の絡みがあってな」課長は一人で頷いた。

「はぁ?」加藤さんと秀美は唖然とした。

「まあ、その。切っても切れない『縁』だ」植田課長はコップを掴みゴクリと水を飲んだ。

「とにかく、ご飯を食べよう」加藤さんと秀美は互いに顔を見合わせ箸を持った。

食堂は賑やかだが、植田課長の周辺は自然と空席が出来た。

「おう、そうだ。救急病院で秋山さんが点滴している間、僕は君のために祈ったよ」課長は箸を上下に振り目を見開いた。そして独特の眉をハのじにして秀美をじっと見つめた。嫌な予感がした。

「それ……。まさかと思いますが、お経を唱えた、とか?」

「その通りだ。有難いお経だな」課長は空を見つめ一人納得した。

「あらら……」秀美は深いため息をついた。不吉な予感は見事に的中したものの課長の話はまだ続いた。

「それとだ。点滴していた部屋に、かなり年の婆さんが寝てたな。僕のお経を聞いて寝ながら両手を合わせていた。『ありがたや~、ありがたや~』って、声が聞こえたな」すると加藤さんの箸がポロリと盆に落ちて、「あのー。う、植田課長……」と、言い掛けた。

「いやー、参ったね。医師や看護師が来ちゃってさ」

秀美はさっき以上に深いため息をついてご飯を少し口に入れた。

「病院でお経が聞こえれば、誰だって縁起でもないことを想像しませんか?」加藤さんの目は点だった。

「なんと……。加藤さん。秋山さんは見事に復活したぞ。お経の力を見くびってはならない」植田課長は自信満々に言ったけれど、秀美は、

「それは点滴のお蔭ですから」と、聞こえないようにボソリ呟いた。

「それで植田課長。さっきから気になったのですが、どこでお経を覚えたのですか?」秀美の顔を一瞬眺め、加藤さんは興味津々に尋ねた。

「それはノーコメントだ」口元でニヤリ笑うと植田課長は、ガツガツご飯を食べたのだけれど、秀美は内心可笑しくて堪らなかった。課長の家は丸光寺まるこうじという名の寺だった。それを知ってるのはおそらく秀美だけであろう。

「あら大変。もうこんな時間よ」秀美は茶碗を持つと加藤さんに微笑んだ。


さて秀美と加藤さんは植田課長の妙な話で昼食を食べ終わるのがすっかり遅くなった。そうそう。植田課長は超早食いである。二人が食べ終わらないうちに席を立っていた。秀美と加藤さんが食器を返却すると、大急ぎで事務所へ戻ったのだけれど……

「ちょっと、秋山さん。あれ見てよ!」

加藤さんは秀美の肩をポンと叩くと、植田課長の机を指差した。そう言えば食堂で課長が、「ちょっと売店に寄る」と、二人に言ったのを思い出した。

課長は気分良く鼻歌を歌って白とピンクの秋桜を小瓶に愛らしく挿していた。

「ほら。秋山さんと昼食を済ましたから見てのとおり。ご機嫌なのよ。ということは、今後も宜しくお願いしますね」

「えっと。それは、すごーく遠慮したいわ……」秀美が両手を左右に振ると、

「ルルルルルル」って、電話が鳴った。秀美は受話器を取った。

「はい。営業部第二課の秋山です」受話器を片手に持ちながら、秀美は要件をメモをしようとした。ところがどうにもペン立てからペンが抜けなかった。摘んだペンごと宙に浮かせ、加藤さんの前で、「ああ、どうしよう」って、首を傾げお手上げという顔をした。何とも言えない状態に加藤さんはお腹を抱えて、「クククククッ」と、笑った。言うまでもない。蟻一匹入る隙間もないほどギュウギュウに押し込められた丸くて黄色の筒ペン立ては、誰が見ても驚くほど器用にペンが並んでいた。

加藤さんは笑いすぎて指に力が入らないばかりか手が震えたままだ。何度かペンを抜こうと指を伸ばしたけれどその度に空気が漏れるような笑いが邪魔をした。そうこうしてるうちに、

「はい。では宜しくお願い致します」と、秀美は受話器を置いた。加藤さんはまだ下を向いて笑っていた。それから三十秒後に漸く落ち着いた。

「ねえ。いつの間にペンがこんなに増えちゃったんですか?」指でツンツン突きながら秀美に尋ねた。

「本当ね。随分と増えちゃいました。これはあちらの席の方々が、『良かったら使って下さい』って、ペンを置いていくのよ。気付いたらぎっしりね。そろそろ家に持ち帰ります」

「はっ? あっちの席ってさ。独身男性ばかりじゃないの。どういうことよ。秋山さんの横に独身女性の私がいるのに、世の男性は一体どこに目をつけてんのよ!」加藤さんがぶつぶつ言うやいなやまたケラケラ笑った。

「そうですね……」秀美もクスリ笑うと、秀美の細い指がペン立てを押さえぐっと力を入れてペンを数本抜いた。そしてバックの中へ仕舞った。



              クリスマス



一太と二人暮らしを始めて最初の冬を迎えた。真也さんに父親になって欲しいと一太は秀美にしばしば言った。その理由は、「おじさんが傍にいればいつもお母さんを守ってくれるから」と、言う。子どもながら母の心配をする一太に秀美は心から感謝した。しかしながら一太にとってそれは海よりずっと深い意味があった。

一太は遥か彼方の重大な役目を果たすため、神懸かり的な行動で二人の運命を繋ぎ結ばなければならなかったのである。


十二月二十四日、土曜日。クリスマス・イヴの日。一太の保育園で生活発表会が行われた。この日、一太は朝からソワソワして落ち着かなかった。秀美はてっきりサンタクロースからプレゼントを貰えるからだと思っていたけれど、どうやら違っていた。一太は不思議なことを呟いた。

「お母さん。発表会が終ったらね、芝生公園へ連れて行って。だってそこで折り紙のお姉ちゃんと会うんだ。大事な話があるんだ」

なぜそのようなことを言うのか秀美には全然分からなかったが、ただ折り紙のお姉ちゃんの話は一太からよく聞いていた。

「あら。時々保育園へ来る高校生のお姉さんのこと?」

「うん。そうだよ」

「お姉さんと約束したの?」秀美は白いセーターの上にウールのコートを着るとバックにカメラを入れて一太を見つめた。

「してない。でもね、虎のお兄ちゃんが生き返るからそれを教えてあげるんだ」

「どういうことなの?」秀美は怪訝な顔をして一太の緑のジャンバーを持った。

一太は紺色の園服のボタンをはめてから同色のベレー帽を被り、まるで念を押すようにこう言った。

「それとね。真也おじさんも一緒だよ。お姉ちゃんと絶対に会わないといけないんだ。だから約束だよ」彼はジジジっとジャンバーのファスナーを上げた。

一太の話は本当に理解出来なかった。そもそも「生き返る」の意味が不明だった。そのうえ真也さんまで公園へ行くなんて……。そんな疑問を抱きつつ秀美は保育園へ行った。


一太は「うりこひめ」のおじいさん役をステージで演じた。子供らしく面白可笑しく、そして平坦な喋りで観客の笑いを取っていたけれど、秀美の頭は小さな彼の約束が堂々巡りしていた。この日は真也さんが偶然に保育園へ迎えに来る。勿論そのまま芝生公園へ行くつもりだった。

発表会を終えてご褒美を抱えた一太に秀美は優しく微笑んだ。その後一太の言う通り本当に高校生のお姉さんと公園の広場で会ったのだけれど、どうしてその通りになるのか。秀美は一太の能力に驚くばかりだった。


翌日はクリスマス。この日は日頃の感謝を込めて秀美は真也さんを昼食に招待した。料理をしながら色んなことが頭を巡り、月日が経つにつれ真也さんは秀美にとって掛け替えのない人大切な人へ変わった。そのうえ一太に風を吹かされこれから先、彼のことを真剣に考えようと思っていた。

「お母さん。ケーキの上にフルーツを載せたよ。美味しそうだね。真也おじさん早く来ないかな」一太は食卓で手伝いながら呟いた。すると、

「ピンポーン」ドアホンが鳴った。「わぁー!」一太の頬が上がった。

一太は玄関へ一目散に駆けてドアの鍵を解除した。それから取っ手をぐっと握るとゆっくり手前へ引いた。すると大きな花束を抱えた真也さんが照れた顔で立っていた。秀美も花柄のエプロン姿で出迎えた。

「ご招待ありがとう。これは秀美さんへ。そしてこれは一太のプレゼントだ」

「僕にプレゼントがあるの? 真也おじさん、ありがとう」

一太は両手でそれを掴むと早速リビングへ向かった。

「私にも……。有難うございます。どうぞ、中へお入りください」

秀美は頂いた大きな花束をリビングのソファーの上へそっと載せて、盛り付けた料理を食卓へ並べた。待ち遠しかった一太は、「いただきます」と、誰よりも先に唐揚げを口へ押し込んだ。秀美と真也さんは喜びを隠せない彼にクスリと笑った。

一太はお腹がいっぱいになると椅子から降りて、プレゼント包みを開けた。そして頂いた絵本を抱えて床にちょこんと座った。

真也さんはたとえ他界した弟であっても決して彼の席へ座らなかった。それは秀美への気遣いと弟、誠也を想う気持ちからだった。だから真也さんが来る日は、一太の席と秀美の席を入れ替えて、二人が向かい合わせに座れるように一太がしていた。

「どれを読もうかな」一太は楽しそうにプレゼントされた本の表紙を眺め、「これにする」と、言って、今度はソファーに座って読み始めた。一太の姿を見つめながら秀美はじわりと心が熱くなった。半年前まで泣いてばかりだった一太を、保育園へ預けるには心が酷く痛んだ。そんな矢先に真也さんと出会った。

最初は悩み躊躇したものの、一太の気持ちを汲んでいくうちに秀美の心に余裕が出来た。そして何よりも真也さんの優しさに秀美は感謝をしたかった。秀美は、「不束者ですがどうぞ宜しくお願いします」と、今日は伝えるつもりだった。

「一太は不思議な子だな」真也さんが一太を眺めながら呟いた。

「私もそう思います。一太は未来が分かるの。まるで私を導く羅針盤のよう……」

一太は腹ばいになり絵本を楽し気に捲っていたが、真也さんは単に血の繋がりとは違う説明のつかない懐かしさを感じていた。掴めそうで掴めない何かである。

「ねえ、お母さん。音楽を流してもいい?」一太がデッキのスイッチを押すと、「G洗線上のアリア」が流れた。静かな調べである。

「秀美さん。もう一つプレゼントがあります」そう言って真也さんは紙袋から細長い箱を取り出した。箱は赤地に金の細い線が不規則に描かれた紙に包まれ、光沢ある緑色のリボンが結ばれていた。

「どうぞ開けて下さい」

秀美の細い指先がリボンを解いた。箱を開けると緑色のハート型の石と小さなダイヤモンドを鏤められたネックレスが入っていた。

「なんて素敵なんでしょう。この石はエメラルドですね?」

「そうです。僕の気持ちです。どうか受け取って下さい」

秀美はそれを丁重に箱から抜くとほっそりした掌に載せて眺めた。すると真也さんがそれをそっと撮んで同じく掌に載せた。

「秀美さん。後ろを向いて」秀美は不意のことに驚いたが素直にそうした。綺麗に編み込みされた秀美の髪の下に、ネックレスがかけられた。

「あの……。ありがとうございます」

ほんのり赤くなった頬で秀美は食卓の食器を片付けたのだけれど、何だか落ち着かなかった。それでソファーに置いた大きな花束を床へ広げようとしたが、知らぬ間に一太がソファーでうつ伏さり「スー、スー」と、寝息をたてていた。

「あら。一太が寝てしまったわ。布団を持ってきます」秀美が階段へ向かうと、「僕が持ってくるから」真也さんが秀美より先に二階へ上がり、子供用の布団を脇に挟んで下りて来た。

「あの部屋に寝かせます」

秀美は一太を抱き上げて隣の部屋へ寝かせドアを静かに閉めた。そして真也さんに贈られた大きな花束をクリーム色のふかふかの絨毯へ置いた。それはとても豪華な花束だった。薄桃色の不織布を背後に透明なセロファンに包まれクリスマスカラーのリボンで上品に結ばれていた。

秀美はリボンの端を指先で摘みそっと解いた。それから透明なセロファンを開いて調和のとれた麗しい花々へ小声で語りかけた。

「紅色のバラは死ぬほど愛してます。プリティーピンクのバラは可愛い人。それから青いバラは祝福。カスミソウは確か、ありがとうだったわね。みんな素敵よ」秀美は花言葉を呟きながら丁寧に茎を切って花瓶へ挿した。そんな秀美の姿に真也さんは傍で微笑んでいたけれど、花に夢中の彼女は全然気付かなかった。秀美は花瓶を持ち上げてリビングのテーブルに載せた。その途端、体がふわっと浮いて真也さんの神秘的な瞳と見つめあった。彼の腕は背中と膝の後ろで秀美を支えていた。秀美は横抱きにされた。「月の光」が優しく流れた。

真也さんは秀美をソファーへ静かに座らせると横へ座った。秀美の心臓はどうしようもなく激しく動き顔は真っ赤だった。

「ドビュッシーの月の光。誠也も僕も好きな曲なんだ」そう言った後に真也さんの顔が少し曇った。彼は何か言いたそうだった。ただ秀美を大切に思う余りずっと口に出せない言葉があった。

「秀美さん……。高校一年の時から僕の思いは変わらない。誠也と結婚した君を心から祝福して、僕も秀一も彼女を見つけて五年後に結婚しようと誓い合った。だが、誠也は突然秀美さんと一太を残して逝ってしまった。秀美さんの未来が変わり僕は酷く苦しんだ。誠也を本当に愛していた秀美さんだからどうしていいか分からなかった」真也さんの瞳は弟を失った一年前を見つめていた。

「秀美さん。僕は……。僕は、誠也じゃない」彼は重々しい過去と言う名の扉を開けて巡る闇の時間をずっと眺め佇んでいた。しかしながら真也さんは向きを変え愛という名の力で別の扉を開こうとしていた。取っ手さえ分からず扉一面にぎっしりだった茨は容赦なく彼の指を傷つけた。ところが到底不可能と思ったそれは時と共に刺が消え、今は取っ手に手を掛ければ自然に開きそうだ。自然に……。それが最も大切だった。

「分かっています。真也さんは真也さんですから」秀美が震える声で答えると、彼は少し口を開いて何か伝えようとしたが止まった。

秀美は真也さんが何を伝えたかったのか察した。

「あの……」彼女は恥ずかしさで俯いた。頬が更に赤くなり胸の鼓動が酷く高鳴った。すると真也さんは秀美の肩を抱き寄せて一度止めた言葉を呟いた。

「秀美さんを抱きたいのです」秀美はこくりと頷き俯いた。

「いいのですか?」真也さんは尋ねた。秀美は、「はい……」と、震える声で返事した。

真也さんは優しく微笑むと秀美の額に軽くキスをした。それから白い首に優しくキスをして少しずつ彼の大きな手が秀美素肌へ触れて来た。秀美はそれが温かくて怖かった。なぜなら大切に思えば思うほど失った時の悲しみが、大きいと身に染みて知っていたから。けれど秀美はもう不安がるのを止めようと思った。

「僕のものに」秀美の耳元で微かに聞こえた。秀美は穏やかな気持ちで目を閉じた。しかしながらそれが正しい行為なのか。この幸せは罪ではないか。秀美の気持ちは未だ葛藤が続いた。そして彼女は覚悟をした。真也さんについていこうと決心した。

真也さんの瞳が秀美を温かく見つめた。

「お母さん」突然、隣の部屋から声がした。あろう事か二人は一太の存在を忘れていた。

真也さんも秀美も慌てて乱れた服を直したが、一太のタイミングの良さは

何とも言えず二人は顔を見合わせ笑った。

この日は二人にとって一生忘れられないクリスマスになった。



                合コン



「ねえ、秋山さん。出張から戻った植田課長さ、なんか酷くご機嫌ですよね。いいことあったのかしら?」

秀美に書類を渡しながら加藤さんが話し掛けた。

「ああ秋山さん。ちょっとこちらへ」秀美が植田課長に呼ばれた。

「あら。もしかして聞こえちゃったとか?」と、言いつつも加藤さんは秀美に、

「はい。行ってらっしゃい」と、軽く背を押した。秀美は両肩をちょっと上げた。

「ああ。秋山さん。これを皆に分けて欲しいんだな。それと……」

植田課長は右から左へ机の荷物を移動すると座ったまま腰を屈め机の下に潜った。そこから声がした。

「これは君に差し上げる」上体を起こした課長がニヤッとして長方形の箱を持ち上げた。秀美はぞくっとした。

「ありがとうございます。けれどこれは」と言い掛ければ、

「ああ。中身は大したもんじゃないから、礼は一緒に食事をするだけでいいから」

「いえ。どちらもお断りしたいのですが」と、小さい声で囁いたけれど、課長はまるで聞こえないようす。彼は何もなかったように仕事に取り掛かったが、これは先輩の作戦だろうか……

「ああ。そうだ。以前食事した時に話そうと思っていたことがある。秋山さんの息子はしっかり者だな。君が倒れた時にさ。『救急車を呼んで欲しい』って、言ったんだよ。幼い子どもなのに信じられるかい?」

課長は如何にも仕事をしてるように秀美へ呟いた。秀美は課長から黄緑色の包装紙の箱を三箱手渡されたが、予想以上にずっしりして腕に力が入った。それともう一つ。長方形の箱を仕方なしに受け取り席へ戻った。加藤さんが、

「意外と沢山ありますね。これはお菓子ですか? 私もお手伝します」加藤さんは箱の包みを丁寧に開けていたが、突然、「あっ、そうだ!」と呟き、バックから青い手帳を出した。そして栞の挟まったページを開くと、

「あの……。秋山さんにお願いがあります。あら大変。明日の夜だったわ。その……合コンがありまして、実は人数不足なんです。秋山さんが出席してくれると、とっても、とーってもありがたいのです。暮れで忙しいと思います。それにお子様がいるのも重々承知ですが、是非お願いします」と、加藤さんに懇願された。

「無理ですか? 無理でも来て欲しいのです」加藤さんの頭が下を向き、その上で両手が合わせられた。

「これはどうしても来て欲しいってことかしら?」

「つまり、そういうことです。宜しくお願いします」

秀美は夜の時間を一太と離れたくなかった。しかしながら加藤さんの熱心なお願いにとうとう折れてしまった。

「分かりました。どうにかしてみます」

「そうこなくっちゃ!」加藤さんの喜びようといったら全く滑稽だった。まるで子どものように燥ぎ皆の注目を浴びた。

「ゴホン。加藤さん。今仕事中です」大川君に呆れられた。

「ああ。ごめんごめん」加藤さんはぺこりと頭を下げたものの、

「ではお菓子を配りましょうか」加藤さんは鼻歌を歌ってた。


「やっと全部のお菓子を配り終えましたね。抹茶饅頭、ゆず饅頭、苺饅頭。まるで信号の色みたいですね」加藤さんは横一列に並んだ机の上の饅頭を指差した。

「いただいて言うのもなんですが、全部饅頭ですね。一つクッキーが欲しかったわ。ところでそっちの箱は朝からありましたっけ?」

「これは……。頂き物なんです」秀美はちょっと困った顔をした。

「へえー。私、気になります」加藤さんが興味津々でその箱を見ていたから秀美は開けることにした。

「一体何が入っているのかしらね」秀美は包装紙のテープを一つ一つ丁寧に剥がしながら包を開けると、透明な硬いセロファンから鉢植えの「ドラセナ」が見えた。

加藤さんは下から上に頭を動かし観察した。

「これは『幸福の木』ですね。プレゼントした人の顔を見てみたいわ。きっとロマンチストな方ですね」加藤さんは思ったことを正直に呟いたのだけれど、秀美は思わずクスリと笑った。「その人は植田課長よ」って、教えてあげたらどんな顔になるか、秀美は想像した。

「ロマンチストね……」秀美は心で笑いながら囁いたものの、加藤さんはただ羨ましそうにそれを見つめた。不意に「パチンッ」と手を叩いた。

「これは何かのお告げです。きっといいことありますね。ああ、合コンで素晴らしい人に巡り逢える予兆ですね」加藤さんはありとあらゆる思い付きを呟くと、「クスッ」と、笑った。そして青い手帳に秀美の名前を記入した。

「時間は夜七時です。場所は雛菊駅北口の「黒龍」です。ご一緒するのは知り合いの職場の人達ですから安心して下さい」

「分かりました」秀美もスケジュール帳を出してメモをした。すると、

「蛇足ですが。知り合いの話によるとイケメンぞろいだとか。一人は既婚者ですが、『来るだけでも得する』って言ってたわ」

「そうなんですね。私は未亡人ですが参加して大丈夫かしら?」

「平気よ。恋人募集中ということで大丈夫です」加藤さんが笑顔で呟くと、

「誰が、恋人募集中だって?」いつの間にここへ来たのか植田課長の声だった。

「そ、それはですね。谷村さんですね」加藤さんはチラッと彼女へ視線を送った。

植田課長はズボンのポケットに両手を入れてボソリ呟いた。

「植田課長、立候補したらいかがです?」

「いや……。僕の好みはだな。スタイルと美貌に拘るかな。例えばだ」

「植田課長、電話です!」これはタイミングよかったか悪かったか、課長が呼ばれ席へ引き戻された。

「あら残念。課長の好みが聞けるチャンスだったのにね」そう言うと、加藤さんはまた幸福の木を見つめ両手を合わせてお願いをしていた。

「もう。この身が燃え尽きてしまうような情熱的な恋ができますように」

加藤さんは椅子の背もたれに体重を掛けて万歳をした。

「加藤さん。きっと素敵な人に巡り逢えますから」秀美は微笑みながら「幸福の木」を机の端へ寄せると仕事を始めた。


その日の夜に私は合コンの話を一太に伝えた。一太は絶対に嫌がると思っていたけれど、

「お母さん。行っていいよ」と、素っ気なく言われ秀美は割り切れない気持ちを抱いた。

「行っていいの?」「うん」一太は元気に返事をしたが、ある意味秀美は理解に苦しんだ。


翌日の夕方。一太を保育園へ迎えに行ってから秀美は実家へ預けに行った。一太は車の中で、「あのね。やっぱ内緒……」と、何か言い掛けたがそのまま黙った。

「行くのを止めてもいいのよ」秀美は一太を心配したのだけれど、

「僕はおじいちゃんとおばあちゃんの家へ行くよ」一太は車の窓から外を見ながら答えた。

一太を実家へ預けた後、秀美は時計を気にした。どうやら約束の時間のギリギリになりそうだった。秀美は少し急いだ。 

さて秀美が飲み会に出掛けるのは何年振りであろうか。少しだけドキドキして、家に戻り支度をした。髪をアップにして薄いオレンジ色のワンピースを着て、若草色のロングコートに腕を入れた。久々のお洒落である。

仕事以外はカジュアルな恰好ばかりだった。どこへ行くのも一太がいたから常に動きやすい洋服を選んでいたが、思えば真也さんと会う時もそうだった。

(合コンはきっと私が一番年上よね……)

秀美はふと、そんなことを思いながら約束の場所へ電車で向かった。

秀美は約束した時間ピッタリに黒龍へ着いたのだけれど、店の入り口で加藤さんが心配そうに待っていた。

「わぁー。秋山は女優ですか? 昼間の雰囲気と全然違います。植田課長が見たら何て言うかしら。それよりびっくりしますよ。『来るだけで得する』と言った友人の言葉は本当でしたからね」

加藤さんはクスクス笑い彼女の背は嬉しそうに秀美を店の奥へ案内した。けれど、いざ、お座敷へ入ろうとして秀美はドキッとした。

「嘘? どうして……」彼女は咄嗟に身を隠した。

「何ブツブツ言ってるんですか? どうぞ中へお入り下さい」加藤さんに手招きされたものの、どうもこうも無理だった。

「あの、加藤さん。急に帰りたくなっちゃって」

「今更ダメですよ」加藤さんは巫山戯ふざけ半分にぷっと膨れた。

「ですよね……」秀美はこうなったら白を切るしかなかった。

「どうしてここに秀一さん、真也さん、それに近所の小川君がいるのよ」

秀美は顔を下げ額に手を当てたまま中へ入った。

「もう、秋山さんたらどうしちゃったんです?」加藤さんは不思議そうに彼女を見つめたけれど、

「えっと。実は目を向ける場所がないんです」秀美は本当に困った顔をした。

「ですよね。これだけカッコイイ人が揃ってると目移りしちゃいますね」

「あの。そうではなくて……」秀美はため息をつき深呼吸をした。そして遂に開き直って案内された席にそのまま座ったのだけれど、秀美の正面には真也さんが座っていた。クリスマスの日以来二人は会っていなかった。

「これ。どうぞ」半ば顔を隠したままの彼女に気を遣って肴が置かれた。

「どうぞ、顔を上げて下さい」真也さんに優しく言われた。しかしながら秀美は躊躇った。

「もう、ぶりっ子しちゃって。前の人が笑っていますよ」痺れを切らした加藤さんが脇を突いた。おまけに、

「すごーく目立ってます。皆さんの注目の的ですよ」加藤さんがひそひそ囁いたのだけれど、その仕草が明らかに態とらしいと理解していても、秀美はどうしたらいいのか悩んだ。すると今度は、

「どうぞ。恥ずかしがらずに顔を上げて下さい」兄、秀一さんの声だった。

この時ばかりは本当に女優になりたいと思った。

秀美は遂に覚悟を決めて顔をさらけ出すと、

「初めまして。秋山です」秀美はにっこり微笑んだ。さあ、大変だ。男性のうち三人が絶句した。

「可愛い人だな」左斜め前の人が呟いたと思えば、真也さんが赤い顔をして秀美を見つめていた。

「おっ、真也一目惚れか?」左斜め前の人が冷やかした。更に加藤さんまで、「ねえ。前の席の人が真剣な眼差しで見ていますよ」と、秀美を突いた。

「なんだ。皆彼女に注目か?」一番端の男性が笑いなが呟いたが近所の小川君が、

「いや。僕は妻がいるから」と、透かさず弁解した。続いて秀一さんも、「僕も彼女がいるから」と、言った。

「えっ? ちょっと待ってください」加藤さんが体を乗り出し両手を開いて会話を止めた。

「こちらの方は既婚者で、そちらの方は彼女がいるのですか? と言うことは素敵な人は秋山さんの前の人だけですね?」加藤さんが目を大きく開き驚きの声を上げるやいなや偶然右隣の部屋が大爆笑した。

「ちょっと待て! それは酷くないか?」一番端に座っていた男性が不平を言った。

「すみません。つい本音を」加藤さんが答えた時に、

「お待たせしました。ビールとレモンソーダ、唐揚げです」頼んだ飲み物とつまみが届いた。実にいいタイミングだ。それで不平を言った男性の気が逸れた、と思ったが、そうではなかった。

「えーと。秋山さん。ここへ来ませんか?」彼が飲み物をテーブルに置き笑顔で秀美を誘った。

「あの……」って、秀美が言い掛けると加藤さんが、「どうぞ」席をずらし気を利かせたのだけれど、真也さん、秀一さん、小川君のようすが尋常でなかった。本当にどうしてままならないのだろう。秀美は心で泣いて一方真也さんは険しい表情だった。

秀美は止む無く席を立った。加藤さんが頼んでくれたレモンソーダを手に持ち、後ろ髪を引かれる思いで移動した。

「初めまして」秀美はコップをテーブルに置くと正座して微笑んだ。加藤さんは二人がどんな話をするのかワクワクしていたが、真也さんは片膝を上げて静かに立った。

「僕は小森といいます」男性が自己紹介をした。すると秀美の席が妙に狭くなった。

「お前何やってんだよ!」それもその筈、真也さんが秀美の横に密着して座った。

「どうも秋山です。小森先輩。日頃は大変お世話になりまして」真也さんは深く頭を下げたが、

「おい。秋山!」「はい」秀美と真也さんが同時に返事をした。

「ああ、失礼。下の名前は?」小森さんが尋ねた。

「秀美です」「真也です」流石の先輩もこれに苛立った。

「でっかい秋山。黙ってくれ」真也さんに忠告したものの彼は全く動じず、

「小森さんはきっと秀美さんに好意を持ったに違いありません。確かに素人で素敵な人です。でも僕は小森さん以上に秀美さんを気に入っています。だから彼女のことは諦めて下さい」

真也さんは確信をもって断言した。すると小森さんはムッとしてビールをグイッと喉に通した。

「秋山は随分と自信があるな」真也さんに敵意を抱いた目で見た。このタイミングで店員がやって来た。

「おまたせしました。サーモンサラダとつくねです」店員さんはキョロキョロして皿の置き場所を探すと、加藤さんが皿を移動し場所を作った。

「ありがうございます」店員が軽い口調で礼を言い注文したものを置き始めた。

小森さんと真也さんは店員に目もくれなかった。小森さんは負けじと言った。

「秀美さん。僕はあなたを一目見て気に入りました。それで良かったら僕と結婚式場へ行きませんか?」驚いた店員さんは両手の皿を危うくひっくり返しそうになった。「結婚式場?」あまりに唐突過ぎて何て返事をしていいか……。ただそれを聞いて黙っていないのが秀一さんだった。彼の片手が前に出て明らかに「待て」と言いたげだった。つまりそう易々と大切な妹を渡してなるものかとつい口を挟んだ。

「小森さん落ち着いて下さい。お互い初めて会ったわけだし、秀美さんの気持ちもあります」ところが彼らの気持ちと裏腹に、

「わぁー、秋山さん。これは幸福の木の思し召しですね。小森さんは家柄もいいらしいですよ」加藤さんはうるうるした目で一人感動していた。さてどうしたものか。板挟みの秀美は敢えて不利な身の上を話した。

「あの。私は未亡人です。それに子どもがいます」秀美は小森さんへ嫌われるつもりでそう言ったのだけれど、

「僕が秀美さんを幸せにします」小森さんは嫌がるどころか優しく秀美を口説いた。さて困ったものだ。グラスとグラスがぶつかる音やザワザワ、ガサガサ浮かれ声があちこちで響いていたが、真也さんは極めて冷静だった。

彼は何か思うことがあり目を閉じた。そして開けた。

「小森さん。僕は意見します。彼女は渡しません。たとえ職場の尊敬する先輩でも、僕は渡しません」真也さんは急に姿勢を正し秀美を真剣に見つめこう言った。

「秀美さん。僕と結婚して下さい」ビールを一口飲んだ小川君は酷く咳き込んだ。

「わぁー、凄いわ! 一日に二人の男性から求婚されるなんて……。で、どっちを選びます?」

加藤さんの悪戯好きな瞳がキラキラ輝き秀美を覗いた。秀美の心は自ずと決まっていた。返事をするつもりでと深呼吸をしたのだけれど、そうは問屋が卸さなかった。秀一さんが声を大にして言った。

「待て真也。シングルで勝負だ。僕に勝ったらその話を受ける」

真也さんの気持ちを知ったうえだったが、妹思いの兄は咄嗟にそう言ってしまった。するとグラスをテーブルに置いた小川君は、両手で両ひざを「ポンッ」と叩き、

「その話のった。審判は僕がやろう。真也それでいいよな。真剣勝負した僕らの高校時代を思い出すな」小川君は秀一さんと真也さんを見つめ笑顔で呟いた。

「小川……。本当にそれをやるつもりなのか?」予想外の話に真也さんは戸惑った。「大マジさ」小川君は笑った。とは言うもののこれは秀一、小川、真也と秀美にだけ道理にかなった話だった。

「すみませーん。ちょっと質問していいでしょうか? 小森さんと真也さんは秋山さんに求婚しました。そこまでは理解出来ますが、彼女のいる秀一さんが、真也さんに勝負を挑む理由が分かりません。つまり秀一さんも秋山さんに満更ではないってことですか?」加藤さんの目はますます悪戯に輝き彼へ尋ねた。

「まあ、そうと言えばそうだ。彼女がいても気になる」彼は鼻の下に指を当てた。

「えっと。あのー。うーん、これは秋山さんモテモテですね……」加藤さんはますます困惑して秀美の顔を見つめた。ところが何を思ったか、「ポン」と、手を叩き彼らの顔を見回して、

「もう一つ質問です。何のスポーツで勝負するのですか?」今度は小川君へ質問した。

「それは卓球だ」彼は軽く答えた。

「卓球? あれ? もしかして秋山真也さんて、高校生ダブルスで全国大会へ出場したあの秋山真也さんではありませんか? えっとパートナーが……」

「紀伊馬秀一だ」小川君がボソッと言いつつ秀一さんを指差した。

「そうそう、紀伊馬さんよ……。はぁーっ? てことは!?」加藤さんは滅茶苦茶驚いて真也さんと秀一さんを代わる代わる見ていたが暫くして、

「高校一年生の時に友人の応援で卓球の試合を観に行きましたが、観客が女子高校生ばかりですこぶる疑問でした。その理由は当時、東西高校の秋山、小川選手と英男子高校の紀伊馬、秋山選手の対戦が原因だったんです。強い選手だったうえに容姿端麗となればその人気は凄かったですから」

小川君は秀一さんと「フッ」と笑った。

加藤さんは胸に手を当て大興奮して三人を見つめた。

「わぁーっ、感激です。イケメン四人組ですね。ところでもう一人の秋山選手はどちらに?」小川君と秀一さんは自然に秀美へ視線を向けたがそれ以上何も話さなかった。真也さんは黙る理由もないだろうと口を開いた。

「誠也はもういないんだ。僕ら三人は大学で理学部に進学し誠也は工学部に進みんだ。誠也と全然違う仕事をしていた。誠也は海外出張が多くそれで昨年の春に飛行機事故で他界したんだ」真也さんは秀美を見ないで静かに呟いた。

「それは残念です」秀美の求婚話からひょんなことで誠也君の話になり、その場の空気が一気に沈んだ。


あれは秀美が高校一年生。その時から注目を浴びてた四人の選手。その背景に、秀美と聡子へ恋の争奪戦があった。(恋ぞつもりて 文芸社)加藤さんや他の人は勿論知らない。そればかりか秋山誠也の妻がまさか秀美だなんて、加藤さんは微塵も思わなかった。とは言え懐かしい高校時代の話は秀美の心にぽっかり穴を空けた。秀美の様子が変だ。

「ごめんなさい。私、子どもを預けてあるの。だからもう帰ります」胸に悲しみの大波が寄せ、秀美は目に浮かんだ涙を隠しつつ荷物を抱えた。そして振り向かずにここを出て行った。

「真也。追い掛けなくていいのか?」小川君が心配し目配せをした。

「いや。このままでいいんだ」真也さんは元の席へ座るとビールをグイッと飲んだ。

加藤さんは秀美が去った後も店の入り口へ体が向いていたが、秀美の慌てた表情に首を傾げため息をついた。

「秋山さんの求婚話は面白かったのに残念だわ。でも秋山さん急にどうしたのかしら」加藤さんは秀美を気遣った。そしてこの重々しい場を何とかしなければと、どうでもいい世間話で一人盛り上げた。


その後秀美は何も考えずにひたすら駅のホームまで駆けた。

真也さんにプロポーズされ彼女は確かに幸せな思いで心が満たされた。けれど一瞬で幸せを失ったあの日のどん底の思いが、荒れ狂う波のように押し寄せた。秀美はどうしてまた人を好きになってしまったのかと、酷く悔やみ涙した。

秀美が鳩山駅に着くと雲一つない夜空が広がり星が万遍なく輝いていた。秀美はふっと立ち止まって何の気なしに夜空を眺めた。美しい星々。何を思って自身を表現しているのか……

宇宙はこんなに大きくて広いのにどうして自身の小さな心で悩むのか。彼女は足元を見つめまた歩き始めた。すると、

「お母さん。前を向いて」一太の声が脳裏を掠めた。

「一太。ごめんなさい」秀美は急いで実家へ戻った。


翌朝、年末休みに入った秀美は一太とのんびり朝食を済ませた。それからリビングを掃除してると一太が不思議なことを言った。

「お母さん、大好きだよ。僕ね、帰らなきゃ」

「帰るって? 家はここよ」すると、「ピンポーン」と、ドアホンが鳴った。秀美は一太の妙な言葉が気に掛かったのだけれど玄関へ進んだ。ドアを開けると爽やかな顔で真也さんが立っていた。

「お早うございます」

「あっ、真也さん……」昨夜のことを思い出した秀美は、恥かしさの余り咄嗟にドアを閉めた。けれど、

「秀美さん。なぜドアを閉めようとするのですか?」秀美の腕は突っ張り、力尽くで押されるドアに抵抗したものの彼に敵うはずがなかった。

「秀美さん。何やってんですか?」真也さんがドアを押しながら言った。

「私、ドアを閉めてます」秀美はなぜか意地になった。

「僕があの場でプロポーズしたことを怒っているんですか?」

「怒ってません」秀美の声も突っ張った。

「ではなぜ、こんなことをするんです?」真也さんはグイッとドアを押した。

「分かりません。でもとっても閉めたいんです」秀美の腕が震え体がググッと後ろへ下がった。

「もしかして女心と秋の空ですか?」真也さんは力を入れ更にグイッと押した。

「ち、違います。それを言うなら男心と秋の空が最初です」遂にドアが開けられてしまった。

「全く何を言ってるのですか? だから僕はあなたを守りたくなるのです」

真也さんは「クスッ」て、笑うと、秀美をギュッと抱き締めた。

真也さんの心臓の鼓動が秀美の片方の耳にドクドクと聴こえた。

「秀美さん。一太と三人で散歩へ行きませんか?」

真也さんは清々しい笑顔で秀美を誘った。丁度一太が駆けて来て、「さんぽ、さんぽ」と言いながら玄関ホールをくるくる回った。そんな一太の姿を見て秀美は安心した。

「分かりました。では戸締りをしてきますから」

家の窓を閉めながら、秀美は一太のジャンバーと自分のダウンコートを持って玄関に鍵を掛けた。それから少し寒さを防ぐため、一つに束ねた髪のシュシュを外してコートのポケットに入れた。

「お母さん。ありがとう」一太は自分でジャンバーを着た。秀美もコートを着たのだけれど、一太のさっきの言葉が気になって彼を何げに見つめていると、

「準備はできたようですね」真也さんが秀美に手を差し出した。彼の大きな手の上に秀美のほっそりした手を載せれば片方の手を一太が握った。そして三人で鳩山神社へ向かった。歩きながら一太は楽しそうに、しかしながらどことなく影のある顔をしていた。

「ねえ。真也おじさん。お母さんのこと好き?」一太は真也さんの顔を下から覗きながら質問した。

「ああ。大好きだ」

「じゃあ、お母さんは真也おじさん好き?」一太の手の握り方が強くなった。

「ええ。好きよ」一太に囁くと、

「ああ。よかった」彼は無垢な笑顔を返した。

「僕ね。嬉しい。お母さん、僕と真也おじさんのことを忘れないで」

「もう、朝から意味不明なことばかり言って……」秀美はしゃがんで一太の瞳を真剣に見つめた。確かに無邪気な一太だったのだけれど……


「秀美さん。手を清めよめましょう」真也さんが誘った。

三人は手水場へ行き手と口を清めた。時刻は午前八時半。清めた手は朝の冷気より水のほうが温かく感じられた。それに竜の口から勢いよく出る水は溜まった水に突き当たって心地よい音を奏でた。秀美は手を拭きながら癒された。

神社は人影がなく閑散としていたものの、大木の存在が大きく木々のエネルギーは三人を癒し清々しい香りを与えたばかりか、「キチキチキチッ」と、モズまで鳴いて冬を楽しませた。

秀美と真也さんは一太を挟んでお賽銭箱の前に立ち小銭を投げて祈願した。

「僕達が幸せになりますように」と、真也さんが囁いたが秀美は何とも言えない胸騒ぎを感じた。何の前触れもなく地面を歩いていた数羽の鳩が一斉に空へ飛び立った。すると一太の奇妙な願いが聞こえた。

「どうか真也おじさんの心がアオに戻り、お母さんがアオに巡り逢えますように僕に力を下さい。大好きなお母さん。今までありがとう。僕のことを忘れないで」

「一太!?」秀美は思わず叫んだ。そうである。幼い一太の宿命は秀美を真也へ近付けさせ、ともに別世界へ誘導することだった。そして遂に一太はこの時点を最期の場と見極めた。彼は目的を成し遂げるためこの世を去る決断をし実行した。だから一太の手は秀美からするりと外れ命をかけた小さな体は地面へ静かに横たわった。一太はもう二度と目を覚まさない。

秀美は魂が抜けて音もなく崩れた一太を気が触れた人のように呼び続けた。しかしながら恰も見えない壁があるように声が届かなかった。そればかりか秀美さえも景色に溶け込みその姿が透明になる不思議な現象が起きた。

一方、真也さんは急に謎の力で胸を締め付けられていた。彼の目に映る景色は歪み、「キーン」と、酷い耳鳴りがしていた。彼は地面にガクリと膝を着いて体中の毛穴から汗が滲み出るほど苦しんでいた。それでも真也さんは二人の安否を思い全ての気力を振り絞って声を出した。

「一太! 秀美さん!」真也さんの声が秀美の耳に微かに残ったが、それはただ木霊のように響きやがて遠くなった。

秀美はまるで見えない強い力に押されその激流にのまれたようだった。言い換えれば秀美は一太の魂に導かれ急激に別世界へ移動していた、というわけなのだけれどそれに耐えられず気を失いつつあった。けれど茫然とする中で秀美の頭を廻った未来があった。それは決して優雅と言えず単に美しくて悲しいものであり、その運命へ立ち向かう道しか残されていないものだった……。秀美は涙を流した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る