クリムゾン タイガー (姫編) 

菊田 禮

第1章 飛鳥川の淵瀬

  ★この物語は銀の虎編(秋)の半年前(春)から始まる。

「恋ぞつもりて」(文芸社)とクリムゾン タイガー(銀の虎編)の合作品。 

              



                アオの目覚め



「アオさん。僕が見えますか?」

「ああ……」

「僕はギンと言います。あなたが目覚めるまで守るように王に言われ、ずっと傍におりました。あなたが目覚めたということは、いよいよ事が起こります。僕は王からそう聞いております」

「どれくらい眠っていたのか?」

「分かりません。僕が来た時は既に眠っておりました」

アオは眉間に拳を当て過去を思い出していた。

「俺は千年家の者に……。そうか、俺の魂は三つに分けられたはずだ。一つは俺のために、残りの二つは誰かのために。どうやらその一つが戻ったようだ。あと一つの魂がまだ別世界に残っている」

「アオさん。そこで何があったのですか?」

「残念だが、はっきりした記憶がない。だが誰かを愛し守っていた……」



               巡り合い


「お待たせ!」

「ちょっと、美鳥。遅いわよ」

香澄と美桜は、図書館の入り口にあるベンチに座って本を読んでいた。ほんのりと桜の香りに包まれつつも、花は優雅にそして華やかに咲いていた。ひらりひらり花弁がゆっくり散っている。

「ねえ。美鳥。同じクラスになるといいわね。では神社へ出発。志望大学祈願よ!」香澄がリュックを肩に掛けると笑顔でそう言ったけれど、

「全く香澄は気が早いわね。私達はこれから高校二年生よ」

クスクス笑いながら美桜もリュックを背負った。

「いいじゃない。早くから祈願するに、こしたことないわ。美鳥、そうよね」

「まあね。でもそれだけじゃだめよ。勉強しなきゃ」

「ああ、やだやだ。美鳥は母親みたい。あははははっ……」

彼女達は小野田学園高校へ通う高校一年生。同じクラスの親友同士。

「お隣の神社へ行きましょう。神社はお祭りだわ」


神社は沢山の人で賑わっていた。女子高校生達はお店に目移りしながら歩き、お賽銭箱へ「チャリン」と、小銭を入れた。

「どうか三人共、同じクラスになりますように。それから一年間、

平穏無事でありますように」美鳥は念入りに祈願した。するとどこからともなく声がした。

「戦いが始まるであろう。姫が現れるであろう……」

「えっ、今何か言った?」美鳥は辺りを見回した。

「いや、何もだけど。どうかしたの?」って、隣で祈っていた美桜が

心配した。

「だよね。気のせい気のせい」と、言いつつ美鳥は首を傾げた。彼女はこの年の秋に同じクラスの転校生、獣を宿す男子生徒に絡まれる。そして共に記憶を取り戻しながら別世界で緑国りょくこく(祖国)を守るために戦っていく。


「一太。高校生のお姉さんの後ろにちゃんと並ぶのよ」

「うん。分かっている」

本の返却で図書館へ寄った秀美と一太は、神社のお祭りに立ち寄ることにしたが、三歳の子どもなら当然出店に寄りたがる。しかしながら一太は秀美と手を繋いで奥へ進んだ。

彼女の名前は秋山秀美あきやまひでみ。子持ちの未亡人である。

秀美の子、一太は不思議な子供だった。一太はお賽銭箱の前に立つと天井をしげしげ眺め、「この神社は古いんだね」と、呟いた。それから前を向いて、

「保育園でお友達が出来ますように。それと僕にお父さんが出来ますように……」両手を合わせて切に祈っていたが、それとは別に一太はこれから起こる未来を予感し悟っていた。一太はそれを母に話さなかった。

秀美は幼い子供がどんな未来を見ていたのか知らなかったが、彼女はあどけない一太に少し微笑むと急に真顔になった。

「新しい環境で、どうか新たな出発が出来ますように……」


秀美にとって一太は大切な宝だった。夫を亡くしてから母子二人の生活に不安を感じていたけれど、秀美は静かに手を合わせ後悔のない人生を送りたいと思った。

ところで秀美はある人物とここで出会っていた。秀美の目は一般の参拝客に映っていたに過ぎないが、実はこの先何度も出会うことになる。その意味を一太だけが知っていた。

彼は父親を失った時に運命という重い画像を背負い、未来へ舵取りをしなければならない宿命を追っていたが、一太の母は何も知らずこの世で生活し、前向きに生きようと一心に神社で祈っていた。

一太は平凡に生きようとする母を横目で見ていたものの、秀美の人生がよもや別世界の波に乗り、少しずつその歯車を回されていたと言っても信じないであろうと思った。一太は子供だが決して平凡な子ではなかった。



              新たな出発



忘れもしない一年前のこと。秀美の夫が海外出張へ出掛けたまま、飛行機事故で帰らぬ人となった。突然の悲しみに酷く苦しめられその日以来秀美の人生は真っ暗になった。

幼い息子とどうやって暮らしてきたか、秀美は殆ど記憶になかったけれど、ただ我武者羅に生活していたことは確かだった。


三月末日。新しい命の芽生える時季、春である……

秀美は図書館帰りに三歳の一太を連れてお墓参りに行った。

「誠也さん。一太はあなたに似てとてもいい子ですから」

線香を置いてお墓の前でそっと手を合わせ静かに囁いた。実は秀美の夫に双子の兄がいた。彼の名前は秋山真也あきやましんやと言ったが、顔はそっくりでも性格は違っていた。ただ瓜二つのため葬儀も法事も秀美は真面に顔を見られなかった。

「いつまでも真也さんを避けていたら失礼よね」

少し笑って故人へ話し掛けた。すると、

「秀美さん」彼女の瞳が大きく開いた。その声はまさに夫だった。

「あっ……」

「偶然だね。今日は誠也の命日だから仕事を休んで来たんだ。秀美さん。元気そうだ」

真也さんは線香を置くと秀美に微笑んだけれど、どことなく無理のある作り笑顔だった。

「秀美さんはこれから仕事?」

「あの……」いざ彼が現れるとただ戸惑うばかりの秀美だった。

「あの……。仕事は明日から始まります」

秀美は遠くを見つめながら、か細い声で答えたがそんな秀美に関係なく、一太は伯父の周りを嬉しそうにくるくる回った。そしてピタリと真也さんの足に纏わりついた。

一太の父を亡くしてから、傍にいた男の人は祖父ぐらいだ。だから父に似た彼へ自然と親近感がわいたのだろう。一太は嬉しくてたまらなかった。

さて真也さんはなぜ秀美が彼を避けていたのか薄々分かっていたが、義理の兄とは言え二人へ何も出来なかったことを酷く切なく思っていた。


真也さんは一太の嬉しそうな顔を見て少し和んだ。

「一太。大きくなったな」彼は墓石へ手を合わせ秀美に囁いた。

秀美は花を包んであった包装紙をそっと拾って小さく折り畳むと、そのまま俯いたが一太は真也さんの真似をして一緒に手を合わせ墓石にお辞儀をした。そして彼の手を引っ張ると、

「ねえ、おじさん。遊ぼうよ」って、無邪気に笑った。一太は大人の気持ちを全然知らずに真也さんの手を引っ張り続けた。

「ねえ。おじさん。おじさんのこと、『おとうさん』って、呼んでもいい?」夫を亡くして一年経つものの、決して忘れたわけではない。秀美は青ざめた。

「だめよ、一太。だめっ!」秀美は咄嗟に強く叱った。その声に一太は酷く驚いてピタッと動作を止めた。彼の口はへの字になり今にも泣き出しそうだったが、真也さんはひやりとした雰囲気を穏やか変えた。

「一太。遊ぼうか。この先に広い公園があったな」

真也さんはそう言って優しく一太の頭を撫でた。一太は「うん」と頷いて今鳴いたカラスがもう笑っていた。それから一太の手を引いて歩き始めた。

一太の機嫌はすっかり良くなり、「おじさんの手、大きいね」って、満面の笑みを浮かべ母のことを忘れていた。そんな一太であるが彼は人見知りの激しい子だったから、なかなか母親の傍を離れなかった。それなのにどうして真也さんに付いていったのか、秀美は困惑した。

「一太、待って……」秀美は切ない思いで二人の姿を追い掛けたが、彼女の瞳に涙が浮かび前の景色がぼやけた。秀美のほっそりした白い指が頬に触れた。


人影の少ない公園は予想以上にがらんとしていた。時々公園を通り道にする人がいたけれど、人々の目の保養に桜の花が華やかに咲いて、その存在を見事に表現していた。

夫を亡くしてからというもの、心に余裕がなく風景すら楽しめなかった秀美に、柔らかな風が桜の花びらを載せてまるで快い調べを奏でるように美しく揺れた。散る花びらは雪のように歌った。そんな麗しさが過去の思い出を誘ったのか、秀美の頬に涙が伝った。


「おじさん。こっちだよ」一太の楽し気な声が近くで聞こえた。

不意に一太は走るのを止めて両手で顔を覆った母に、

「お母さん。どうしたの? 悲しいの?」と、尋ねた。彼は母のスカートの裾をギュッと掴んだ。

「一太。こっちへおいで」真也さんは一太を誘い体を屈めて抱き締めた。しかしながら一太はしくしく泣き出した。

真也さんはどれだけ秀美を心配し愛おしく思っていたか。秀美を心から強く抱き締め守りたかった。彼は一太を抱きながら呟いた。

「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」藤原実方朝臣の歌(あなたをこれほどまでに想い、好きだと言うのに言えない。私のこの想いが伊吹山のさしも草のように燃えているのを、あなたは知らないのだから)「恋ぞつもりて」文芸社一度諦めたはずの真也さんの切ない想いだった。

秀美はしゃがむと一太の涙をハンカチで拭って、「帰ろうか」と、囁いた。すると一太は、「おじさんも一緒だよ」って、泣きながら秀美を困らせた。

「そうね、一緒に帰ろうか」秀美が返事をすると一太はすぐ笑顔になった。幼い瞳は父のような光景で真也さんを眺めた。そして母の手を握った。それから一太を挟んで三人で歩き始めたけれど、美しく咲く桜の花は春の贈り物と一緒に、彼らへ豊かな「愛」を贈っていた。


              

              ここで



この春、秀美は中学から高校生まで住んでいた実家の別荘へ引越した。そこに夫の思い出が沢山あったけれど、秀美は自分を変えるためにアパートを出たかった。それだけではない。毎日別荘の弓道場で矢を放ち練習を重ねた青春時代のように、秀美は輝いていた自分をもう一度取り戻したいと強く思ったのである。それからもう一つ。秀美は仕事を始めようと決心した。家事と育児に専念していた彼女は、三月から一太を保育園へ預けて求職活動をした。


四月一日。この日から秀美は仕事を開始し、何もかも順調に熟そうと毎日意気込んでいた。忙しいリズムに少し慣れたある日、

「ハンカチを落としましたよ」

誰かに声を掛けられた。秀美が振り向くと男性の手に薄桃色のハンカチがあった。

「ありがとうございます」と、少し微笑んで御礼を言った。

今は会社の昼休みで、食堂で昼食を済ませようと秀美は列に並んでいた。いつもはお弁当を持参していたのだけれど、この日は朝寝坊をしてお弁当を作れなかった。

「へえ。意外と可愛い人だな」声を掛けた男性が呟いた。

「お前知らないのか? 四月から隣の課に入社した人だ。噂だと未亡人らしいが」

「未亡人?」

「そうだ。彼女は仕事の出来る人らしい。おい、顔がにやけている。さては未亡人にしておくには惜しい人だと思っただろう?」

「そりゃ思うだろう。そう言うお前こそ彼女を色眼鏡で見ていたぜ」


秀美は事務所内でちょっとした噂の人になっていた。けれど当の本人は何のことやらまるで関心がない。そんな鈍感さは学生時代からとんと変わっていなかった。

秀美は和の定食を選んで盆に乗せると広い食堂を見渡した。どこを見ても知らない人ばかり。秀美は少し孤独になったけれど所々空席のある奥側へ座った。そして一人で、「いただきます」と、夕食のメニューを考えながら食べ始めた。ところが短時間のうちにどんどん席がうまり、静かな場所を選んだはずが様々な会話で賑わった。そんな時、

「ねえ。君さ。何考えてんの?」誰かが誰かに問いかけた。しかしながら返事がない。

「ねえ。君さ。何考えてんの?」また同じ質問だった。秀美は疑問に思い、ふと顔を上げた。すると正面の男性と目が合った。

「悲しい顔して、さっきから何考えてんの?」

(私。無意識にそんな顔してたんだ……)

そう思ったら急に涙が込み上げ秀美は俯いた。暫くして、「どうぞ」と、男物のハンカチが差し出された。

「君さ。何か訳がありそうだね」彼にそう尋ねられたけれど、

「あの。自分のを使いますから」秀美はポケットにあったハンカチで涙を拭いた。

男は食事をせず秀美を眺めていたが、彼の白いワイシャツの襟とネクタイの締め方できっちりした性格が窺えた。

秀美は定食を全部食べ終えてなかったが席を立った。すると彼が、「それ、残すの?」って、尋ねた。

「えっと……」そう言いかけたものの秀美はどういう訳か再び座り直して、じっと彼の顔を見た。本当にまじまじと見つめれば、天然でくりくり頭の彼と、どこかで会ったような気がしてきた。

「ごめんなさい。見ず知らずの人に親切にして頂いて……」

秀美は丁寧にお辞儀をしてから席を立った。

「見ず知らずね。入社して十日目だけどな」彼はぶつぶつ呟くと、豆腐の味噌汁を片手で啜った。


食堂を出た秀美は気分転換に会社の中庭へ足を向けたが、外は清々しい天気で嫌な思いを全て忘れた。彼女は歩きながらちょっとした木陰を見つけて芝生の上に腰掛け水色の空を見上げた。コッペパンのような雲がふんわり浮かび、風に押され右から左へゆっくり流れていた。秀美は他人へ迷惑を掛けたくない一心で、一日でも早く仕事を覚えようと頑張っていたから春風で動く雲にほっと癒された。それからのんびり職場へ戻った。ところが、

「あら? 食堂で会ったハンカチの人だわ」秀美は驚いた。

彼の机は秀美の席と然程離れていない。そう言えば入社した日に事務所を案内をした大川君が、

「ここは課長の席です。鬼より怖い課長でして、はははっ……」

と、笑って説明していたのを思い出した。その時秀美は、

「えっ、鬼ですか?」思わず尋ねた。

「ははははっ、今のは聞かなかったことにして下さい。課長は出張中で、来週帰って来る予定です」

大川君の説明から課長は眉間に皺を寄せた、気難しい顔に違いないと秀美は想像していたが相違した。少なくとも第一印象はある意味ユーモアのある人に思え、その印象的な顔に秀美は急に可笑しくなってクスリと微笑んだ。

秀美は大川君をちらりと見て席へ着いた。すると、

「秋山さん」彼に偶然声を掛けられた。大川君の席は斜め前である。

「この書類をお願いします」落ち着いた声だった。

「はい。分かりました」

「分からないことがあったら遠慮なく聞いて下さい。大歓迎ですから。あっ、今そっちへ書類を持っていきます」

何とも嬉しそうな大川君に、

「ちょっと、ちょっと。どういうことよ」椅子の向きをぐるりと変えた加藤さん。彼女は秀美の隣で仕事をしていた。

「大川君! 対応に随分と差がありませんかね?」加藤さんの頬がぷーっと膨らんだ。

「何がです?」

「決まってるでしょ! 私に郵便配達みたいなこと、一度もしてませんけどね」

「あっ、加藤さんは僕の前の席ですからね。十分届きます」

「あら、秋山さんだって十分届くと思いますけどね」

「あっ、年上ですから」

「私も一応、大川君より一つ年上ですけど」

「僕と大して変わりませんからね」

「もう、なによ!」

二人の会話を聞きながら、秀美はつい、「クスクス」と、笑った。

「ほら秋山さんに笑われたわ」と言いつつ、加藤さんも一緒に笑っていた。

秀美は大川君から渡された書類を机の右端に置くと、ノートパソコンの蓋を開けたが、偶然にも今度は課長と目が合った。

「先程はありがとうございます」と、秀美は気持ちを込めて軽く会釈した。彼の天然髪と独特の眉毛は何げに印象があり秀美の頭の端に些細な記憶の欠片となって引っ掛かっていた。確かずっと前にそんな人と出会っていたような。その人は可笑しな人だったような……。曖昧な過去を辿りながら机の引き出しを開けて薄黄色の付箋を取り出した。

「植田課長、ちょっとここが気になりまして。ここですが」大川君が課長席の前に立った。

(そうそう、そんな苗字だった、わ……?)

秀美は思わず席を立ち、椅子がつーっと後ろへ下がった。

「えーっ! う、植田課長?」心で叫んだつもりが気風よく事務所内に響き、無意識に秀美はツカツカと課長席へ進み、

「課長、少しだけ話をしたいのです」と、傍にいた大川君をスルーした。

「あの。家業はどうなさったんですか? どうしてこの会社にいらっしゃるのです?」身を乗り出し小声で囁く秀美を大川君は呆然と見ていた。

「家業? 僕の家のことを知ってる君は誰だい?」

植田正宗うえだせいしゅう先輩。美術部の紀伊馬秀美きいまひでみです」

植田課長は悪戯っぽく秀美を見つめた。

「紀伊馬さん? ああ、結婚して姓が変わったんだな。いや、これは驚きだ。面接担当者から未亡人と聞いていたが、相変わらず可愛くて美しいな。で、僕と再婚する気はない?」

「植田先輩はあの時と全く変わらないです。私をからかうのが好きですね」

「いやーっ、ここで会えるとは実に運命的だ。仕事が楽しくなって来たぞ」植田課長は独特の眉毛を上下に動かして笑ったけれど秀美はこう言った。

「私はどちらかと言えば、運命を変えて欲しいのです。それが無理ならせめて課の変更をお願いしたいです」

「何か言ったかな?」


植田課長は中学の美術部の先輩だった。また彼の大親友、伊藤先輩にも秀美はよくからかわれていた。

植田課長の家は寺である。伊藤先輩の家は神社だったがなぜか彼らはキリスト教系の「英男子高校」へ進学した。因みに真也さんも同高校の卓球部に所属していた。(恋ぞつもりて 文芸社)


植田課長は笑顔で秀美の両手を握り、「ようこそ」って、迎えた。それに釣られ大川君までニタニタして手を握ったが、植田課長は諦めず、「結婚なら僕と」そう言って笑っていた。けれど秀美は、「しません」と、笑顔で即答した。

さて、課の人達は呆気にとられながらこの状況を見ていた。と言うのも植田課長は年齢こそ若かったけれど、仕事は完璧でそのうえ厳格な人だったから部下に、「鬼の課長」と、呼ばれていた。それが大川君の言う所以だった。



               手探り



週末の金曜日。秀美は残業せずに会社を出ると一太を保育園へ迎えに行った。それから夕食の材料を買いに出掛けたのだけれど一太が奇妙なことを呟いた。

「お母さん。今夜はおじさんが来るよ。それでね。ご飯を一緒に食べたいからいっぱい買ってね」

「あら? そんな約束してあったかしら……」

秀美は軽く受け止めただけだった。しかしながらトマトを籠に入れて何げに一太を見れば、妙に楽しそうである。

一太は時々不思議なことを言う。秀美はきゅうりを一本手にすると不意に思い止まり一太の顔を眺めた。念のため食材を多めに購入し備えておくことにした。

帰宅して夕食の支度が八割終了した時、「ピンポーン」と、ドアホンが鳴った。ゆっくりドアを開けると、私と同学年の兄、紀伊馬 秀一きいましゅういちが立っていた。いつ見ても爽やかで素敵な笑顔だ。

「あら、秀一さん」その声で一太が玄関へ駆けて来た。

「用事があって早めに仕事を切り上げた。で、秀美のようすも気になったから会いに来た。新しい環境はどうだい?」

「ぼちぼちよ」秀美は一太の頭を撫でた。

「仕事も始めたそうじゃないか。一太は大きくなったな」

そう言うと、秀一さんは彼を両手で抱き上げた。

「不慣れな点ばかりなの。でも前を向いて進むって決めたの」

「秀美なら大丈夫さ。そうだ、ケーキを買って来た。七個入りだ」

「七個も?」

「どれも美味しそうで決められなかったんだ」

「ねえ。秀一さんの用事って、もしかしてデートなの?」

「まあ、そんなとこ」兄は少し照れた顔をして下を向いた。彼は優しく一太を下ろし秀美の顔を見ると玄関のドアを静かに開けた。それから「頑張れよ」って、秀美を励ますと笑顔で去った。久しぶりに合った兄だったから、秀美はどことなく寂しさを感じた。

その頃一太は、小さな指でケーキの箱を押してくりっとした目で中を覗いていた。

「わぁ、やっぱりそうだ!」一太は満面の笑みを浮かべた。

「一太。ケーキはご飯を食べてからよ」

秀美は箱を持ち上げると、人差し指で彼の鼻をちょんと突いた。

「うん。分かってるよ」彼はこくりと頷いた。

そう言えば秀一さんが訪問したのだけれど……。兄はデートだった。一太の言う「おじさんと夕飯を食べたい」話は叶っていない。秀美は首を傾げ、「気のせいだったかしら」と、呟いた。


一太は音響デッキの蓋を開けモーツァルトのCDを入れた。スタートボタンを押すとバイオリンの音色が奏でた。それから一太はジグソーパズルをやり始めた。

「ご飯まだかな」って、呟きながら夢中ではめ込んでいた。

「お母さん。ご飯出来た?」

「出来ましたよ」と、言うやいなや「思った通りだ!」同時に一太はなぜか大はしゃぎをした。すると、「ピンポーン」ドアホンが鳴った。

「あら、誰かしら?」一太は一目散に玄関へ駆けていった。

「お母さん。おじさんが来たよ!」

「秀一さん?」

盛り付け終わった食器をキッチンへ置いたまま、秀美はいそいそと玄関へ向かいドアを開けたのだけれど、彼女の足は竦み躊躇した。

確かに一太の言う通りおじさんだった。でも立っていたのは秀一さんではなく真也さんだった。一太は大はしゃぎで真也さんに甘え、彼は一太とじゃれ合い優しい笑顔で高く抱いた。それからそっと一太を床へ下し少し戸惑った顔して、

「こんばんは」と、挨拶した。

「お母さん。お腹空いた」

「そ、そうね。ご飯食べようか」

「あのね。真也おじさんもご飯を食べてないよ。だから一緒に食べよう」

「どうして知ってるの?」秀美は驚いた。なぜなら一太の予感が当たったから。一体いつ知ったのか……。秀美は狐につままれた気分だったが、一太は構わず真也さんの手を引きリビングへ案内した。

真也さんは初めてこの家へ入った。

「どうぞ、こちらへお座りください」秀美は盛り付けたばかりの皿をテーブルに載せたものの、その手は微かに震えていた。

一方一太はさっきまで遊んでいたパズルを片づけ、自分の席へ座った。そして真也さんの食器をなぜか隣へ置いた。その位置は秀美の正面だった。

「おじさんの席はね、こっちだよ」どうやら一太にしてやられた。彼はニコニコしてこう言った。

「お母さんは真也おじさんの前に座ってよ」秀美は一太の気持ちを受け入れ素直に席へ着いたものの、一体どこへ視線を向けたらいいのか悩み勝手に動く心臓の止め方さえも分からなかった。そんな母親の複雑な気持ちが子供に分かるわけがない。

「お母さん。いただきますって言ってよ」一太に催促され、

「そ、そうね。いただきます」秀美は少しおどおどして言ったが、

「では、いただきます」と、同時に真也さんも呟いていた。その様はまるで一つの家族のようだった。

秀美の夫が亡くなったのは一太が二歳の時。一太は決して父親の存在を忘れたわけではなかったが、そんな生活に憧れていた。秀美は一太を見つめた。

「おじさん。ご飯美味しいね」

「美味しいな。一太のお母さんは料理が上手だ」って、真也さんは笑顔で囁いた。

「そ、そんなことないです」秀美は下を向いた。

「本当に美味しいな」真也さんは心から思い呟いた。

秀美がこんな風に褒められたのは久しぶりだった。それに甘くふんわりした幸せを心で感じたせいか秀美の手がじんわりと温かくなった。すると秀美の固く閉ざされた心が微妙に変化したのである。秀美の心に温かな灯火がともりそれが手火たびとなって、暗くて見えなかった道先が自然と案内された。ただその先に秀美を待つ勇敢な男性の姿があったが秀美にはまだ程遠かった。


食事の時間は意外と早く過ぎた。

「ごちそうさまでした」

両手を合わせて一太が大きな声で言った。

「あのね、保育園はね。給食の食器は自分でお片付けするんだよ。だからおじさんもちゃんと片付けてね」一人分の食器を両手に持ちながら一太は真剣に言った。

「ごめんなさい。食器は私が片付けますから」秀美は困った顔をしてテー

ブルの皿を重ねた。たどたどしい秀美に真也さんはフッと笑い一太にこう言った。

「わかった。ちゃんと片付けるよ」一太へ向けた笑顔が余りに眩しくて秀美の心臓がドキッとした。

「本当に誠也君そっくりだわ」秀美は無意識に呟いた。

「真也さん。食器は私が片付けますから座って下さい」

秀美はドキドキする心臓のせいで俯いたまま話し掛けたが、

「いや。僕が片付けます。一太と約束した」

秀美の伸ばした白い手が彼の食器に触れると真也さんの大きな手が偶然重なって指先がピクリと揺れた。秀美はどうしていいか分からずそのまま大きな手を呆然と見つめた。するとキッチンから一太の無邪気な顔がヒョイと覗いた。

「ねえ。お母さんとおじさん。顔が赤いよ」

二人は直ぐに手を離したのだけれど、秀美は気持ちを抑えるようにその手に別の手を重ねた。

「ごめんなさい」秀美は謝った。

「真也さんに確かお付き合いしてる方がいると、秀一さんから聞いています……」

「いや。いいんです。気にしないで下さい」彼はこみ上げる感情を押さえ平静を装った。真也さんは二年以上前から彼女がいた。

「ねえ。お母さん。お付き合いしてる人ってどういう意味なの?」

一太は尋ねた。

「それはね。真也おじさんに好きな人がいて、その人を大切にしているってことなの」

「ふ~ん。それじゃあ、それはお母さんのことだよ」

「えっ?」

秀美の頬はパッと赤く色付いてしまったが、実は真也さんも酷く動揺し下を向いて食器を重ね始めた。

「あ、あの。ケーキがあるの。秀一さんが買ったものですが、宜しかったら召上りませんか?」秀美はしどろもどろだった。そしていつの間にか秀美は夫の面影を自然と真也さんに重ねたことを意識した。

「それは喜んで」真也さんの笑顔がまた眩しく秀美の心が揺らいだ。一太は彼を父のように好いているけれど、秀美はどうしたらいいのか。何とも切なくなった。


キッチンでお茶とケーキを準備してる間、一太と真也さんはリビングで指相撲をして戯れてた。

「真也おじさんは、指相撲強いね。僕もおじさんみたいに強くなりたい」一太の瞳はキラキラしていた。

「強くなれる。一太はきっとおじさんより強くなる。そうだ、一太。今度どこかへ遊びに行こうか?」

「うん。おじさん約束だよ」

「ああ。一太と約束だ」楽しそうに話してる姿が目に映ると、秀美の心にまた小さな喜びを感じた。今の彼女の気持ちはモビールのようで天秤に天秤を吊るしていた。僅かな風で揺れたり回転していたが、不思議なことに上手くバランスをとっていた。


秀美はカモミールの香りを仄かに漂わせた三つの白いカップに、ケーキ用の小さなフォークと金縁の白いケーキ皿を、テーブルに並べた。それから大皿に七個のケーキを載せてそれも中央へ置いた。

「真也さん。お茶の準備が出来ました。どうぞお好きなものをお取り下さい」秀美は二人を見つめた。

一太は真也さんの手を引いた。ところが二人はテーブルを通り過ぎて、

「ねえ、おじさん。こっちへ来てよ」一太は部屋の向こう側へ真也さんを連れていったがその先に別棟がある。秀美も後をついた。

「ここは……。弓道場ですか?」

「はい。母のです」真也さんは全体を見回すと懐かしそうに秀美に微笑みかけた。

「秀美さんの袴姿を初めて見た時を僕は思い出す。高校一年のインターハイ予選の日だった。卓球の試合会場の隣に弓道場があって、秀美さんはたまたま袴姿で外にいた。君は素敵だった」

「ありがとうございます。あの時私は真也さんを誠也君と勘違いしたわ」

「ああ、そうだった。そこで初めて僕らは自己紹介をしたんだ」

「ええ。そうでした。お互いに自分の名前を言いました」

二人は高校生の素顔に戻り懐かしさで「クスッ」と微笑んだ。

「ねえ。お母さん。ケーキ食べようよ」一太は一人でリビングへ走り、

「おじさん。どのケーキ好き? 苺、栗、それともチョコレート?」って、呟いた。

「苺のケーキが好きだ」と、真也さんが笑って言えば、

「お母さんとおんなじだね」って、一太は喜んだ。一太の危なげな手つきで皿に苺のケーキを乗せられ、一太の保育園話に付き合いながらケーキを食べた。時計の針は夜九時をさした。


「じゃあ、一太。また遊びに来るから」真也さんは玄関で一太を高く抱き上げた。

「おじさん。絶対来てよ。約束だよ」一太は泣き出しそうな顔をした。

「ああ、約束だ」

「じゃあ、明日来てよ」それは無理難題であろうか。

「一太。真也さんは用事があるのよ。困らせたらいけないわ」

秀美は真也さんを見つめながら謝った。

「明日か……。分かった。秀美さん明日会いましょう」

「あの。迷惑かけてごめんなさい。気になさらないで下さい。それにもしかしてデートではありませんか?」秀美は躊躇した。けれど彼は笑顔で、

「明日の朝、電話をする。一太遊びに行こう!」と、言った。

秀美は信じられなかった。まるで数滴のブランデーを紅茶に落とし円やかな風味になったように感じられた。

玄関のドアが静かに閉じられた後もずっと真也さんの言葉が心に響いていた。



              デート



翌日、一太はいつもより早起きをした。外はいい天気だ。

二人で朝食を済ませると、一太は動物図鑑を本棚から引っ張った。そしてペラペラとページを捲り、ネコ科のページを開くと虎の写真をじっと眺めていた。

「虎が好きなのね?」秀美は一太のリュックに水筒を入れた。

「虎は好きじゃないけど、お母さんは虎と戦うんだ」リュックのファスナーを閉めていた秀美の手がふと止まった。

「どういうこと?」一太をじっと見つめた。

一太は父親と三人で一度だけ動物園へ行ったことがある。ぽかぽかした暖かな春の日に、主人と秀美が順番に一太を抱いて動物を見て回った。

当時から一太は虎に興味を示していた。目を大きく開きながら両手を頻りに動かしまるで戦ってる素振りだったから夫婦で笑った。そんな微笑ましい思い出なのに、なぜだろうか。一太の今の呟きが余りに現実味があり秀美に悪寒がした。


「ツゥルルルルル……」電話のベルが鳴った。

「お母さん、きっと真也おじさんだよ」一太の声は楽しげだった。

「はい、秋山です。あら真也さん……」

「秀美さん。実は彼女も一緒ですが秀美さん一緒に来て欲しいのです」

「でも、御迷惑では……」

「いや。むしろその方がいいのです。では三十分後に」

「はい。お待ちしてます」

秀美はそっと受話器を置いたものの、彼女の存在を一太にどう説明していいのか困ってため息をついた。

「一太。あのね。真也さんはお姉さんと二人でここへ来るの。だから今日は四人でお出掛けなのよ」すると、「分かった」と、一太は平然と答えたものの、彼の小さな指は図鑑の文字をずっと追っていた。

秀美は急いで出掛ける準備をした。それから暫くして、「ピンポーン」ドアホンが鳴った。一太は全く動かなかった。


秀美はドアをゆっくり開けた。そして、「お早うございます」と、にこやかに挨拶をした。そこに真也さんとショートカットの甘えん坊そうな女性が立っていたが、どこから見ても紳士的な彼と不釣り合いだった。

「お早うございます。秀美さん。一太は?」

「えっと。リビングで本を見ています」言い終わらないうちに、真也さんは靴を脱いで一太を迎えに行った。

「一太。お早う。へーっ、動物図鑑を見てるのか」大きな体を小さくして真也さんは一太に声を掛けた。

一太は真也さんをチラリと見ると、「パタン」と図鑑を閉じた。そしてまるで大人のように真也さんの耳元で、

「玄関いるあの人。誰なの?」と、囁いた。

「会社の人だよ」真也さんは何の疑問も持たずに答えた。すると一太は、

「真也おじさんはあの人が好きなの?」ちょっと睨みつつ質問した。思わぬ言葉に戸惑った真也さんはこう言った。

「そうだな。嫌いじゃない」

「じゃあ、僕のこと好き?」

「ああ、大好きだよ」一太はにっこりしたものの唐突に、

「じゃあ、お母さんは?」真也さんはビクッとして一太をまじまじと見た。

「一太が生まれるずっと前から、ずっとずっと大好きさ」

一太が笑顔になると、急に真也さんの瞳をキリッと見つめた。

「ねえ。おじさん。お母さんに『大好き』って、言ってみてよ」

一太はそう言いながら図鑑を本棚に片付け玄関へ走ったが、全く一太には驚かされた。真也さんは一太を鏡に映った誠也君を見ているように思った。真也さんは「フッ」と笑った。

「大好き……か。それが言えたらどんなに気楽か。今でもどうしようもなく好きなんだ」

真也さんはそう呟くとスッと立ち上がって玄関へ歩こうとした。ところがそこに秀美が立っていた。

「今の聞こえた?」彼は頭に手をやり気恥ずかしそうに笑ったが、秀美はただ首を傾げ、「いいえ」と、言った。真也さんは秀美の横へ立って、

「秀美さん。動物園へ行こう」と、誘った。それから二人が並んで玄関へ行けば、真也さんを待っていた女性が、「小杉です」と、名乗った。

「一太の母の秀美です。真也さんの義理の妹です」秀美は丁寧にお辞儀をしたが、傍で一太がそそくさと靴を履いて、「お早うございます」と、彼女に挨拶したものの何とも素っ気なく庭へ駆けた。一太は庭石の上で真也さんの車をじっと見つめていたが、彼の足元では雀が一羽、餌を探してちょんちょんと跳ねていた。


秀美と一太は後部座席に乗った。車でおよそ三十分後に市立動物園へ到着した。車から降りると一太の背のリュックが前後に揺れ彼は大はしゃぎしてゲートへ走った。

「一太。待って!」全く無鉄砲な子に秀美は慌てた。

「お母さん見て、ゴリラだよ」と、両手で柵を握り顔をその間にギュッ押し当てた。一太がこれほど喜ぶなんて……。秀美は真也さんの彼女がいても幸せだった。

「賑やかな場所へ出掛けたのは、久しぶりだわ」

周りがとても眩しくてスッと心が解放された秀美の笑顔に、真也さんは惹きつけられた。そんな真也さんに小杉さんが嫉妬し、「彼を離さないから」と、ピッタリ寄り添っていた。

秀美は二人の邪魔をしないように少し離れて歩いた。すると、

「お母さん。早く来てよ」一太が秀美を急かし手を引っ張った。ところが着いた先は真也さんの横だった。

「僕がここだよ」一太は真也さんと私の間に入ってそれぞれの手を握ってしまった。家族なら子どもを真ん中にして歩く光景は良くある話。しかしながら秀美と真也さんは夫婦ではない。そればかりか横に彼女がいた。

「一太。真也おじさんは小杉さんとデートなの。だから二人で歩いて行こう」

秀美は屈んで一太に優しく言ったけれど、「いやだ。この方がいい」頑としてきかなかった。

「でもね、小杉さんも真也おじさんがいいのよ」と、一太の両手を握りながらそっと語りかけたが、一太の目は一向に動かない。

「秀美さん。僕は一向に構わないから」

真也さんが優しく囁いた。しかしながら明らかに小杉さんは不機嫌だった。

「でも横一列に広がると、周りに迷惑だから……」秀美はさり気なく真也さんに言ったけれど、彼のグレーがかった瞳が神秘的に輝き秀美の心にスッと入った。ドイツ人の祖父を持ちその彼の瞳と秀美は不意に見つめ合った。秀美は息を呑んだ。真也さんもまた動揺した。

「秀美さん。一太はこれがいいみたいだ」

一太は再び真也さんの手を握り全く離れようとしなかったが、真也さんのもう一つの手は地に向いていた。

(その手は小杉さんのものでないの? )

秀美は素朴な疑問を抱いた。もしかして一太のせいでギクシャクしているのではないか。そう思って小杉さんを見れば、案の定、引きつった顔 をしていた。秀美は「ごめんなさい」と、思わず軽く頭を下げたものの、

「真也君。行きましょ」小杉さんは彼の腕を握った。

それから気まずいまま四人で歩いた。進行方向にどれだけ家族連れが歩い ていたことか……

親子の笑いや、ぐずった子どもを抱く夫婦の姿や、ベビーカーを押しながら幸せそうに歩く家族。どれも秀美は羨ましかった。

「あっ、お母さん。ライオンだよ」一太は真也さんの手を離すと、やっぱり柵の間に顔を押し当てた。それから、

「ねえ。抱っこして」と、母親に甘えた。その隙に小杉さんは真也さんの腕をぐいっと引いて一太から少し離れたけれど、どういう訳か一太は全然気にしなかった。とは言うものの秀美はまるで胸に小さな穴が空いて、哀愁という名の空気がスーッと通り抜けている気がしてならなかった。

「ねえ、お母さん。ライオンが見たいよ」秀美は一太の脇に手を入れて、遠くのライオンを見せようと抱き上げた。一太は母親へ嬉しそうにしがみついて、

「百獣の王はカッコイイな。すっごく強いんだよ。お母さん、知ってる? あれはね真也おじさんの姿だよ」

一太は特に大きなライオンを指差して呟いた。その途端どうしたことか秀美の心臓がドクドクして、一太を抱いた手がガタガタ震えた。それは単に一太の重さに耐えられなかったからではない。秀美の瞳はふと真也さんを探してた。


一方小杉さんは真也さんの腕を掴んだまま彼と真剣に話をしていた。

「真也君。私はあなたと二人だけがいいの。なのにどうして四人なのよ」彼女はイライラした。真也さんは小杉さんの瞳を見ながらすまなそうに呟いた。

「僕はあることが起こってから、君のことを考えられなくなった」真也さんは別れ話を切り出した。

「そうね。弟さんが亡くなってからあなたは変わったわ」

「僕は君を嫌いじゃない。だけど本当に守りたい人がいるんだ」

「そんなこと。私が素直に聞き入れると思うの?」

「ごめん。その人のことを何度も諦めようとした。でもだめだった。僕にも理解出来ない運命を感じるんだ。無性に彼女を守りたい」

そう言って、彼の瞳は小杉さんを映しつつも心は別の女性を見つめていた。

秀美と真也さんは少し離れた場所にいたけれど、不思議なことに心は同じ場所だった。初夏の風が微かに木蓮の香りを運び、秀美の心に「高潔な心」を思い浮かばせた時、秀美と真也さんは互いに見つめ合っていた。

「お母さん。あっちから虎の声がするよ」一太の声で我に返ったものの、彼は急に駆け出していた。

「一太、待って!」機敏に動く一太を追いかけるのは大変だった。

一太はまるで誰かを探してるように辺りをキョロキョロした。

「一太は、いたのか?」背後から真也さんの声がした。

「ええ。あそこに……」一太はちゃっかり女子高校生の間に入って虎を見ていた。


「ほら、美鳥見てよ! ホワイトタイガーって美しくて貫禄あるわ」

彼女達は二頭の白い虎をうっとり眺めた。

「私。虎を見ると心臓が騒ぐの。香澄はそんなことないの?」

「ないわ。それってほら、夜鳴きする近所のドラ猫と勘違いしていない?」

「もう、猫じゃなくて本物の虎よ」

「それじゃあ美鳥の祖先が実は虎だった、とか?」

「美桜まで。もう二人して何よ。でも虎と格闘したことがあるような……。テレビの見過ぎかな」

「よく言うわ。美鳥はむしろ勉強のやり過ぎでしょ?」三人は笑いながら、動かないホワイトタイガーを眺めた。

「ねえ、香澄。もしホワイトタイガーに乗った王子様が現れたらドキドキする?」

「どちらかと言えば白馬に乗った王子様よ」香澄は柵に両腕を載せると上に顎をつけて呟いた。

「なーんだ。夢がないわ。意外と素敵な人かもよ?」

「わぁおーっ! イケメンだったら虎でもご一緒するわ」

「それじゃあ、どんな動物も関係ないじゃない。美桜もそう思うしょ?」

「大いに関係あるわよ。カバは遠慮するわ」

「それは言えてるわ」三人の女子高生は大笑いしてそこから離れたけれど、一太は彼女達をいつまでも見ていた。

「一太。知ってる人なの?」秀美は一太の顔を覗き込んで尋ねれば、

「神社にいた人だよ。だから知ってるけど知らない人」一太は女子高校生の姿が見えなくなるまで見つめていた。

「この間行った図書館の隣の神社のこと?」

「うん、そうだよ。お母さん。もしもね。もしも虎に乗ったお姉ちゃんが現れたらビックリする?」一太は不思議なことを言った。

「そ、そうね。ビックリするかな。でもかっこいいわね」秀美は一太に微笑んでコクリと頷いた。すると真也さんが一太の頭に手を置いて頭をなでたのだけれど、秀美は傍に小杉さんがいないのに気付いた。

「真也さん。そう言えば小杉さんはどちらに?」

「多分、あっちだ」

「多分あっち……って。迎えに行った方がいいわ。きっと怒っているわ」

「そうだな。その前から僕は怒らせた」

真也さんは、「フーッ」て、ため息をつくと、

「そのままにしておこうか」と、呟いた。

「そんなこと、してはいけないわ」秀美は慌てて真也さんに伝えたものの、彼はホワイトタイガーを夢中で見ていた一太に少し屈んでこう言った。

「一太、手を繋ごうか」一太は飛び跳ねて喜こんだ。それから真也さんは、「歩こうか」と、囁いたが秀美は小杉さんを気に掛けハラハラした。

「真也さん。お願いですから小杉さんのところへ戻って下さい。私達が原因で二人の間に何かあったら……」

秀美の瞳に少し涙が浮かんだ。秀美は真也さんを気遣ったけれど真也さんは、

「何かあったらそれまでさ」と言って、一太の頭を撫でた。秀美は困惑した。

真也さんは不意に秀美の手を握ると一太と三人で歩き始めたが、秀美の心情は決して穏やかでなかった。

「どうしてこんなことするのです? いけないわ」

秀美は真也さんの手を離そうとしていささか強引な彼の顔を見つめたが、彼は秀美の困った顔を楽しむように眺めた。

「一太。シマウマだよ」

「真也さん……」秀美はため息をついた。

母親の心配ごとなど眼中にない一太は、シマウマの数を夢中で数え始めた。

「お母さん。全部で四頭だね。あの小さいシマウマは赤ちゃんかな」

「そ、そうね」秀美は一太のことより小杉さんのことで頭がいっぱいだった。ところが次の質問にどう答えてよいか迷った。

「お父さんはいるかな?」

「えっ? それは……」秀美の心はギュッと締め付けられ言葉に詰まった。気のせいか真也さんの手が急に熱くなった気がした。

「一太。きっとあの大きいのがお父さんだ」

困り果てた秀美の代わりに、真也さんが指さしながら答えてくれたけれど……。遂に恐ろしいことが起こった。

「真也さん。いい加減に家族ごっこはやめて!」

小杉さんの怒りは相当である。秀美は真也さんと繋いだ手を必死で離そうとしたけれど、離れるどころかますますきつくなった。

「これは家族ごっこじゃない」真也さんははっきり言った。

「ねえ。お母さん。あっちのシマウマも見たいな」

こんな時に一太は無邪気な顔で言った。しかしながら秀美は小杉さんに、

「誤解しないで下さい。彼はただの義理の兄です」と言えば、

「命と同じくらい大切な人だ。嘘は言いたくない」

秀美と真也さんはほぼ同時に言った。二人はただ互いに互いの言葉で酷く驚いた。そのせいで真也さんの手が緩みスルッと秀美の手が抜けた。

「待って!」秀美は焦り心の中で真也さんに叫んだ。

「な、何よ。二人同時に言うから、何て言ったか全然分からないわ」

小杉さんは更にイラついた。それにもかかわらず一太は平然と、

「お母さん。あのシマウマさ。一人ぼっちだね。このお姉ちゃんみたいだ」思いもよらない一太の一撃が二人をかなり動転させた。

「な、何よ。あんまりよ。身内になりたくないわ。もうムカつく!」

小杉さんの顔が真っ赤に膨れた。時は遅く修正不可の激高だった。

小杉さんはくるっと向きを変えるとプンプンしながら帰ってしまった。

二人は唖然として一太の顔を眺めた。

「クックックッ……」遂に真也さんが笑い出した。それに釣られて秀美も「クスッ」って、笑った。こんな言い方をするのは亡くなった夫しかいない。ここにいるのは一太の顔をした、さながら誠也君だったと二人は同感したからだろうか。とても懐かしい気持ちになった。

「ねえ。お母さんは真也おじさんの指が好きなの?」

「えっ?」秀美は自分の手を見て恥ずかしくなった。離れたはずの真也さんの手は繋がっていた。秀美は中指の先端をしっかり握っていた。

「ただの義理の兄、か……。さっきそう言われた気がする」

「いえ、あの……」慌ててその指を離せば、真也さんがこう言った。

「秀美さん。僕に手を貸して」秀美は自然に手を差し出した。それから一太を間に挟み三人で歩いた。



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