第3話 泣くな公田寺商店街 後編

「ね」

「ん」

「お腹すいた?」

「んーちょっと」

「じゃ行こっか」

「え?」

「お店」

 自分ちだってお店なのに。

「ケーキが良い? お寿司?」

 お寿司が食べたいんだ。でもさすがにいらないや。

「ケーキ!」

「ふーん」

 そんなにお寿司が食べたいのか。てか手紙、いつ渡そう。

「ダメ?」

「いいよ」

「優しい」

「別に」

 かわいい。


 二人で手を繋いで階段を下りた。彼の冷たくて長い指先をしっかりと握る。夕陽で長く伸びた影と階段の鉄板を踏む足音が二人分、かんかかんかんかかん、と重なって、なんだか楽しかった。今日もこれからほんの短い間だけど、幸せな時間が始まるんだって思った。

 その矢先。

 あたし達の前を、見覚えのある巨体が通り過ぎて行った。偶然通りかかったらしい。いくら学校から近いとはいえ、よりによって不幸にもあたしと彼の仲睦まじい様子を目撃したのは、昨日あたしにアイノコクハクをしていったあの子だった。名前は……やっぱ思い出せないや。ま、いいか。見られたかな。見られたよな。泣きそうな顔してたもんなあ。

「乗って」

「あ、ごめん」

 彼の赤くて大きな自転車に二人乗りして、彼の家の前から駅前に向かって坂道を下ってく。長くて大きな国道は歩道も広くって、自転車用の通路もちゃんとある。地面にオレンジの線が引いてあるだけなんだけど、その線の右側をあの子がとぼとぼ歩いてる。あたしはその線の左側を彼の漕ぐ自転車で駆け抜けてゆく。まるで男の子と女の子が大人になるのを競い合うように。

 

 大きな背中が気の毒なぐらい小さく丸くなっているあの子に、あたしは自転車でぐんぐん近づいてく。彼氏と二人乗りして。もうすぐ追い越す。あの子の眼には、あたしが一体どれほど遠くに走り去るように映るだろうか。あたしが気にしても仕方ないし、気にもしないつもりだったけど……あの子を追い抜くその刹那。やっぱりあたしは振り返ってしまった。

 泣いているあの子と目が合った。真っ赤に潤んだ視線があたしを捉えそうで、でも結局あの子は下を向いて、知らん顔してくれたみたいだった。あたしとあの子と彼と。大人と子供って、どっちがどっちなんだろう。自転車はびゅんびゅん走って、あっという間に坂道を駆け抜けた。


 自転車は商店街からほど近い、公田寺駅南口の大通りから一本裏へ入った閑静なビル街にやってきた。古い雑居ビルと、外資系の保険会社や旅行代理店、居酒屋チェーン店なんかの入った真新しいビルが混じり合ったブロックで、その中でも随分洒落てて味のあるビルの地下に、彼の目指すお店があった。ビルは4階建てで赤系の色をした煉瓦で壁を飾っていて、居住区のベランダや窓枠は曲線を取り入れたモダンな感じ。少しよどんだ空気のビル街の低い空に向かってらせんを描く非常階段が目印だって、彼が独り言のように言う。

 1階はどうやらこのビルを管理している不動産会社の事務所のようで、お店に続く階段はその事務所入り口の看板に隠れるようにして、狭くて暗ぼったい入口をぽっかりと開けていた。あたしは彼の後について、ことこと足音を鳴らしながら階段を下りた。


 ちりん、と小さな鈴の音がして、彼が扉を開けて中に入った。あたしもおっかなびっくりで中に入る。少し暗めの店内は落ち着いた、濃い茶色を基調にした色合いで、コーヒーの渋くていい匂いがふわりと漂っていた。

「いらっしゃい」

「うん」

「あら、この子?」

「うん」

「かわいいわね」

 なに、なんなの? あたしはカウンターの中に居る背の高い女の人をまじまじと見た。黒いエプロンにパリッとした白いシャツが似合ってる。長い茶髪は後ろでぎゅっと縛って、キツめの顔にハスキーな声がこれまたよく似合う。彼が子供に見えるほど、本当の、本物の大人の女の人なんだ。

「コーヒーでいい?」

「ねえ」

 あ、あたしか

「あ、はい」

「ちょっとまってね」

 慣れた手つきで、彼女はコーヒーを入れ始めた。このお店、一人でやってるのかな。広くはないけどお洒落で、なんだか隠れ家みたい。あたしがきょろきょろと店内を見渡していると、彼がどこからか戻ってきた。それと同時に、カウンター越しに暖かなコーヒーがカップに入って2つ出てきた。あたしの座った座席にふわっと漂った匂いも2つ。コーヒーの苦い香りと、さっき感じた甘い香水。彼女も、彼と同じのをつけているみたいだった。その瞬間、あたしはコーヒーの入ったカップの丸い暗闇をじっと見てしまった。態度になんて、出すつもりはなかったのに。

 彼、もしかして。お店に入ってこの人を見た時からとじわじわと浮かんだ思いが、次々にいろんな疑問を頭の中に駆け巡らせて止まらなくなった。

「どうしたの?」

 ハスキーな声。優しい、何気ない声。カウンター越しに飛んできたこの声に、あたしは答えられなかった。それが、何よりの返答だとも思わずに。あたしはただ黙って、黒いコーヒーの入ったカップをじっと見ていた。

「おいしいよ」

 彼はあたしの気持ちを知ってか知らずか、そんなことを言う。言われなくたってわかってる。苦いよ、このコーヒー。絶対。

「ねえ」

「?」

「ケーキ、ある?」

「うん、チーズケーキ作っといた。」

「なんで?」

「来ると思ったから」

「ありがと」

 ありがと、だって。あたしにそんな事言った事もないのに。ありがと、だって。

「チーズケーキだって」

 聞こえたよ。

「いらない?」

 ……。

「おまたせ」

 冷蔵庫から可愛い、しゃれた小皿に乗ったチーズケーキが二つ出てきて、あたしの彼の前にことん、と置かれた。小さな銀のフォークに、細長く伸びてゆがんだあたしの顔がうつっていた。ひどく惨めで、何かが急にぷつんとはじけた。幸せな時間は、逃げてくばかりだ。

「ねえ、食べなよ」

「いらない」

 あたしは振り返らないように顎に力を入れて立ち上がると、一目散にドアに向かって早歩きした。後ろから四つの瞳が怪訝な視線を投げかけているような気がする反面、あたしのことなんて全く無視して、二人の世界に没頭しているようにも思えた。むしろ、そっちのが気が楽だとさえ思った。

 店のドアをがちゃんと開けたとき、ポケットの中でくしゃりと音がした。さっき書いた手紙が、あちこち折れ曲がった惨めな有様で出てきた。こんなもの!


 あたしは手紙を八つ裂きにして破り捨てると、短い階段を一息で駆け上って、そのまま商店街めがけて一目散に走った。人をかき分け、角をすり抜け、走った。

 悲しい、寂しい、……悔しい!


 商店街に入って、うおマサの前を通り過ぎる。いつもこの店の周りは賑やかだ。おなじみのダミ声を頭の後ろで聞きながら、うつむいて歩く。少し走って汗をかいたせいか身体は軽くなったが、気分は重いままだ。もう、これで終わりなんだろうな。そう思ったら、思わず涙がこぼれてしまった。あんなに大人っぽくてかっこよかったのに、あの女の前ではまるで子猫みたいだった。どうやらあたしは、それもショックだったみたいだ。


 でも、まだわからない。心のどこかで、あたしの誤解だったんじゃないかってずっと思っている。そんな期待に縋っている自分が居て、やっぱり悔しい。彼の事、本当に好きだったんだ。負けたくなかった。取られたくなかった。あたしも大人の仲間でありたかった。

 あの子の事をふと思い出した。昨日ここで起こった出来事が、もう遠い昔の事みたい。そう、ついさっきまでは、あたしはあの子より数段大人だと思っていたのに。結局、あたしもまだ子供なのか。


 商店街のカラフルで少し汚れたタイルから目線を上げて前を向くと、スナック・ドンの辺りに見覚えのある大きな身体が見えた。あの子も、まだ泣いているのかな。とぼとぼ近づいてくるあの子と、あたしはどんな顔ですれ違えばいいんだろう。あたしはただ、他に好きなひとがいるだけなのに。ちゃんとそれを伝えもせずに、好きなひとには、愛されもせず。宙ぶらりんのままあたしも歩いた。

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