第4話 歩く公田寺商店街

 あまりにも思いがけないものを見てしまって、まだ心臓がはくん、はくんと大きく脈打っている。ぐるぐる回る頭でかろうじて考えてみたら、まあ当たり前の事だったんだよな。彼氏が居るってことぐらい。そんなことも想像つかないほど彼女に夢中だったと言えば、聞こえはいいのかもしれない。だけど、いま俺は顔中を伝う涙が熱くて、とめどなくて、みっともなかった。昨日までの自分は間抜けな幸せ者で、今はそれがひたすら惨めだった。彼女を見て、彼女の前で涙を見せた自分が情けなくて。本当に本当にものすごく悔しかった。彼女が他の誰かのものだったという事。そして、それは俺にはどうすることも出来ないことが。憂鬱な心はあの夕暮れの景色に焼き付いたまま、足だけがとぼとぼと公田寺商店街に向かっていった。

 この方向からアーケードに入ると、公田寺商店街の南口。おなじみ【鮮魚うおマサ】とは反対側になる。あれは北口側で、駅方面に向かって左の角っこで今日も元気に営業中だ。南側の入口向かって右の角には高野自転車店がある。ここいらの子は数少ない例外を除いてみんなここで自転車を買ってもらい、壊れたら直してもらう。店主のオジサンは昔、俺のじいちゃんの店で修業をしていたらしい。そう、例外とはバイク屋の孫である俺と、その仲間たちの事だ。ウチには父親が居ないので跡取りが居なかったが、最近は姉の千夏が跡を継いでバイク屋になるんだって張り切って店に出ている。毎日両手を真っ黒にして、顔にも煤や油をこってり付けて、楽しそうにバイクや自転車をいじくりまわしては、直してるんだか壊してるんだかしている。

 

 自転車屋さんの隣は電器屋さんで、ここも高野電器店という。自転車屋の高野さんの弟だ。二人とも恐ろしく背が高くてデカいのだが、二人とも性格は至って呑気。特にこの電器屋の弟はのんびり屋で有名だ。背が高いので電気工事にはさぞかし便利だろうと思うのだが、あまり商売に精を出す気はないらしい。

 自転車屋と電器屋の対面には大きなパン屋がある。老舗のヒラタヤというのだが、店主の平田さんが作るパンはどれも絶品だ。なんでも米粉を使ったパンもあるとかで近頃話題を呼んでいるらしく、こないだローカル局の昼番組が取材に来ていた。が、なぜか一番張り切っていたのはうおマサの大将だったという。ヒラタヤの平田さんはパン職人なので、いつも大きな白いマスクをつけて歩いている。それがいかにも柔和な、まるで焼きたてのパンのように真ん丸な顔によくマッチしていて可笑しいと、じいちゃんがいつも言っていた。

 

 自転車屋と電器屋、そしてパン屋と続いたその隣が坂口精肉店だ。ここの店主も背が高くて、しかも若いころは柔道の猛者だったというからおっかない。190センチを軽く超える荒鷲の様な体格で、これまたマチェットのようにデカい包丁を持っている姿を見ていると、申し訳ないがとても肉屋には見えない……。だけど普段寡黙で強面のご主人は、本当は大変な子供好きなのだ。俺も小さいころからよくお使いに行くが、そのたびにコロッケや小さなカツなんかをオマケに持たせてくれる。特に1個60円という値段の割に大きくて美味しいメンチカツが人気で、みんなで学校帰りに買って食べることがしばしばある。

 俺はさっきの出来事からなるべく逃れようと、わざとらしくお店の一つ一つを眺めたり、下を向いて少し汚れたタイルの色違いになる間隔を数えたりしていたけれど、俯いて坂口精肉店の前を通り過ぎようとした時はちょうど夕飯時のお惣菜や揚げ物が出来上がる時間だったので、熱した油の香ばしくていい匂いが辺り一面に漂っていた。思わず顔を上げてお店の方を向くと、ご主人と目が合った。

 あっ、と思った時にはもう遅い。ご主人がゆっくりとした動作でカウンターから出てきた。なんとも気まずい。今は誰とも話したくないし、何も考えたくなかった。

「たっちゃん」

 ご主人の長くてふっとい腕が俺の横から伸びてきて、がしっ! と肩を組まれた。

「泣いてもいいけど、ちゃんと食えよ」

 それだけ言うと、もう片方の手に持っていた白い紙袋を俺にほいと渡して、カウンターに戻って行った。袋は坂口精肉店のいつもの紙袋で、袋越しに伝わる熱々の手触り。油のいいにおいがふわっとして、俺の大好物であるメンチカツとハムカツが入っている。

「あ、ありがと」

 小さく、蚊の鳴くような声でカウンターに向かって礼を言うと、

「ちゃんと食えよ」

 ともう一度言って、ご主人は下を向いて作業に戻ってしまった。


 自分ではとっくに泣き止んで、思考を商店街の街並みと人ごみ、そして現実逃避だけに集中させていたつもりだった。けれども、体の大きな男子中学生が目の周りを真っ赤に腫らしてスンスン泣きながらとぼとぼ歩いていれば、何か余程のことがあったということぐらい察しが付いてしまったのだろう。その一部始終をカウンター越しにじっと見られていた、いや、見守ってくれていたというべきか。

 俺は胸元に出来たての揚げ物を抱えて、再び歩き始めた。坂口のご主人に励まされたものの、依然気持ちは晴れないままだった。タイルの色が少しずつ変わってゆき、やがて黄色と黄緑を中心にした色合いになるころ、商店街は中ほどに差し掛かる。

 この辺りには飲食店がいくつか軒を連ねている。ちなみにその向かい側はデンタルクリニカ・新倉という歯医者と、藤原内科という胃腸が専門の病院があるのだが。そんな一角に最近できたアジアン料理店のホリウチ食堂から夕食メニューのいい匂いが漂っている。そういえば昨日はここでも坂口さんのところでも何の匂いも感じなかった。それほどマユズミさんの事だけを考え、彼女の事に全神経精神が集中していたのだろう。そういえば、彼女の仕草や表情、それにうっすら漂った花のようなやわらかなにおいは、まだはっきりと思い出せるもんなあ。

 

 ホリウチ食堂のお隣が件のスナック・ドンだ。俺が昨日、人生最大の挑戦を挑み、虚しくも玉砕した。言ってみれば【痛ましい事故現場】だ。花束でも放ってやりたくなる。昨日の自分に。賑やかな商店街の中でも、このお店はぴったりと扉を閉ざしてじっとしている。夜8時ぐらいになると入口にぽうっとオレンジ色の艶めかしい灯りが点いて中からざわざわとした大人たちの話し声が聞こえてくるのだけれど、今はまだ夕方。このお店と隣数件の居酒屋やBARなんかは、まるでこのあとの出番を待っている状態みたいだ。


 そんなスナック・ドンの前を通り過ぎて、居酒屋まえだの前に差し掛かった時。反対側の商店街の入り口からは、すでに大将のダミ声がわずかに響いてきていて、そのダミ声と雑踏の中に、見覚えのあるシルエットを見つけた。俺と同じか、それ以上にしょぼくれている。昨日はあんなに素敵で、さっきまであんなに幸せそうだったあの子が。


 声をかけるべきだろうか。近所のオバサン中心の買い物客や学校帰りの連中が人ごみになって、ざわざわと流れてゆく。細長いアーケードの下に、昨日とは真逆の状況で、俺は彼女に、何か言葉をかけてあげられるのだろうか。あのかっこいい彼氏らしき男性と何かあったのだろうか。それとも、他にも何か辛いことを隠しているのだろうか。

 今の彼女に近寄って優しい言葉をかけるべきなのは、俺じゃないんだろうなあ。ちょっと、そんな気がした。だってこれじゃ諦めの悪い火事場泥棒じゃないか。自分で火をつけた家の焼け跡からまだ何か金目のものを探しているような。とにかく、なんだかみっともない気がするんだ。だけど声をかけてあげるべきなのかもしれない。少なくとも親切には感じてくれるかもしれない。

 俺は散々迷った。声をかけたいという自分の気持ちが、果たして混じりっけなしの【優しさ】や【思いやり】だろうか。彼女からしたら、まるでこの時を待っていたコバンザメかハイエナのように思われやしないだろうか。自分で自分をそんな風に疑っている時点で、俺が彼女に慰めや励ましの言葉をかける資格なんてないのだろう。だけど、こんな時こそ、ナニゴトカ声をかけてあげるだけでも良いのかもしれない。堂々巡りの思案をしているうちに、彼女はゆっくりと確実に近づいてくる。


 見慣れた風景を精一杯瞳と心に取り込んで、さらに坂口のご主人に揚げたての大好物までもらって漸く落ち着いてきた心臓と脳味噌が、再び回転数を上げてきていた。ぐわんぐわん揺れる視界の奥に、たったひとりあの子がいる。しょんぼりと俯いて、きっと嵐の中に放り出されたような心持で。俺は、まだ迷っていた。心の中では彼女に声をかけたいと思っているけど、自分と同類だと思っているとか、同情しているとか、そんな風に思われるのが怖かった。

 昨日、あんなことさえ言わなければ……俺はきっと駆け寄ってでも彼女を励ましただろうし、話を聞くことも出来たかもしれない。あんな事を言ったがために、あの子が今何を考え、何を感じて、なぜ泣いているのか気になって仕方がないのに、身動きが取れずにいる自分がやっぱり情けなくて。自分の周りにも居る、女性が落ち込んだり悩んだり辛いとこぼしたときに、さりげなく何でもないひとことで的確に、自分が君を心配しているし、相談も聞くよ、と言うようなことが伝えられる男がワケもなく憎たらしく思い出された。自分はあんなふうに如何にも付かず離れず希薄な感じで、かつ親身になるなんてことが出来ないのだろうな、きっと。諦め半分、嫉妬半分。気持ちのやり場がないことも含めて、一人ひとりそいつらの顔や名前を思い出しては、理不尽な怒りをぶつけてやりたい気分だった。


 とぼとぼ歩く俺と、とぼとぼ歩く彼女が、あと数メートルまで近づいた。俺は歩くのをやめなかったし、向こうもそれは同じだった。俺に気付いている様子もない。

 彼女を泣かせたのは、きっとあの男だろう。あいつの素性は知らないが、あのイケ好かない優男が何かを言うかするかして、それで彼女はあんなに打ちひしがれたんだ。

 自分以外の誰かが彼女に愛されて、自分以外の誰かが彼女を傷つけて。俺は赤の他人として蚊帳の外なのが虚しく、寂しくて仕方がなかった。彼女と俺の人生は、決して交わることのない、大きな絨毯の中に織り込まれた限りなく遠い糸と糸なのかもしれない。幾ら運命の赤い糸なんてものがあったって、これじゃどうしようもない。愛することも傷つけることも出来ないのは、居ないのと同じことだ。そうして普段からそんな風に外側に居る人間だからこそ、薄っぺらで明るい励ましと心配の一言をかけられるのだろう。好きでいるということは、【好き】を伝えてしまうということは、つまり場合によっては敵になってしまうという事でもあるのかもしれない。せめて、敵とだけでも認識されていれば、の話だけれど。


 いよいよ彼女が重い足取りで俺の左斜め前方3メートルほどの地点に差し掛かった。こんな時、俺はそそっかしいんだか決断が早いんだか……とにかく思い切って、彼女に声をかけてみることにした。もしそっとしておいてほしければ、そう言うなり態度に出すだろう。

 俺はすっと短い深呼吸をして、最初の一言を喉元まで送り込んだ。

「おーい平田! 平田だろ!」

 その瞬間。乾いてかすれた大声が辺りに炸裂した。びっくりして振り向くと、ちょうど喫茶ドラゴンの目の前だった。そこのマスターが平田さんを見かけて、大きな声でストップをかけたらしかった。ああそうか、と思って前を向きなおしたときに、ちょうど彼女が俺の真横を通り過ぎて行った。


 何も言えなかった。彼女が俺に気付いていたかどうかもわからないいまま。

 片思いなんて、それも一度ぽちゃんと池に落ちた石ころのような片思いなんて、こんなもんなのだろう。世間ではそれを、失恋というのだ。


つづく

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