第2話 泣くな公田寺商店街 前編
布団の中でまどろみながら、掛布団のシーツを下唇にあてたままため息をついた。ふーっと暖かな空気が胸元まで流れて、体中を包み込むようなけだるい眠気が頭の奥の方まで溶かしてゆく。結局なんだかんだ寝そびれて、今日もおそらく3時間ほどしか眠っていない。不機嫌な母に「早く寝なさい!」などと甲高い声を浴びせられ、渋々返事をしていたことさえ懐かしいような気がする、
勉強するでも、何か考え事をするでも、電話や手紙を書くわけでもなく。ただぼうっとしているうちに夜があっという間に更けてしまう。そしてまた朝が来て、夜になって、いつの間にかあたしは歳を取る。歳は取るものじゃない、重ねるものだ。なんて強がってみたは良いけれど、こんな風にぼんやり過ぎてゆく毎日が重なっていくのはなんだか少し怖くもあり、ひどくつまらない事のように感じた。
あまり見たくないけれど、時計をちらりと見てみる。朝の5時42分。今すぐに寝れば、まだ充分な二度寝を堪能できる時間だった。ああ、早いとこ寝てしまわなきゃ……ねむねむ。
明朝8時数分過ぎ。
「おはよ」
「あ、おあよ」
「どしたの?」
「あんま寝れなくて」
「そっか。また後でね」
「うん! またね」
背丈の割に華奢な身体が、あたしに背中を向けて人ごみでごった返す昇降口へ紛れていった。市内でも有数のマンモス校だけあって、毎日の登下校ラッシュも凄まじいものがある。あたしも少し苦労して自分の下駄箱に赤いスニーカーをすこんと放り込んで、上履きの踵をつぶしたまま小走りに教室へと向かう。昇降口の混雑はそのまま1階の教室を使う1年生の人数分を綺麗に差っ引いた分が階段を上り、2階の教室を使う2年生が各々の教室へ続く廊下の方向に吸い込まれてゆく。3階は3年生が使うから、さらに上へと続く流れは途切れない。朝の校舎内はどこもまるで小さな魚の群れのように、ひらひらした女子の制服と、もさもさした男子の学ランがすれ違い入り乱れて、いつのまにか一定の流れのようなものを作り出す。
その流れにスイと乗って、あたしも自分の教室に入って席に着いた。不思議と毎日楽しそうでおしゃべりにキリのない人たちと、わけもなく毎日つまらなさそうな人たちとのなかにぽつんと混じった退屈な一日が今日も始まる。あたしはそれが何時にも増して面倒に感じられて、どっちからも早いところ置いてけぼりを決め込むつもりでいた。放課後の、ほんの数分だけを夢見るようにして。我ながら冷めてて嫌な女なのか、乙女チックでどうしようもないのかわからない。
だけどもっとわからないのは、こんな女をあんなに好きになったあの子だ。名前は、ごめん。忘れた。しかしまあこのあたしがアイノコクハクをされるだなんて、生まれてこの方初めてだ。する方は、あたしもこれまでに2度ほどしたんだけどね。きっとあの子には、あたしは随分と素敵に見えるのかもしれない。おこがましいようだけど、魅力がないってことはないだろう……彼氏、居るし。けど、あの子に今更言えないよなあ、そんなこと。
はあ、机にくたんと突っ伏してため息を吐くと、朝っぱらから暇そうな脂くさいクラスメイトが数名寄ってきて「どうしたの」「何かあったの」と心配そうな声で好奇心丸出しの視線を浴びせてくる。面倒くせえなー。
「寝不足」
あたしはそっけなく答えた。
「ああ、そ」
「あ、みっちゃーんおはよー!」
「あーー! ちーちゃーんおはよお!」
つまんないと思うが早いか、彼女らは足早に登校してきた自分たちより不細工なクラスメイトに駆け寄ってハイタッチなどして喜んでいる。大して仲も良くないし、嫌でも毎朝会うだろうに。ああ、やっぱり学校なんてかったるい。いくらなんでも、こんなの退屈すぎる。
授業って、なんなんだろ。窓の外と教室の天井を交互に見ながら、時折ノートに意味も形もない線を引いてみる。その繰り返し。それでも一日は過ぎてゆくし、この授業とやらに打ち込む心持とその結果で、先々の人生までもが決まってしまうらしい。そんな馬鹿な。
あ、そうだ。あたしはふと思い立って、手紙を書くことにした。便箋なんて気の利いたものはないから、ルーズリーフのノートの切れっぱしだ。将来の事や、この先もずっとお勉強をすることばかり考えてても仕方がない。もっと身近で、楽しい未来だってあるじゃない。
結局その日の授業とやらをほとんど聞き流し、夢中で手紙を書き上げた。我ながら上出来だ。今日の時間割に移動がなく、教壇の前で淡々と話す教師の授業ばかりだったのも幸いした。あたしはそれを右のポッケに仕舞って、部活動や下校のために移動する人いきれでざわざわと埃っぽい教室を後にした。廊下、階段、下駄箱。それぞれが少しずつ、ドキドキする鼓動の所為で揺らめいて見える。あたしは、今からのほんの短い時間のためだけに生きている。のかもしれない。でも、やっぱり好きだ。あの人のこと。
午後16時少し過ぎ。
学校を出て、向かって左へ歩いて、交差点の角を曲がってすぐの古い喫茶店。お店の右隣にある細い路地を通って、バケツや色の薄れた三輪車なんかをまたぎながら、これまた年季の入った鉄階段をカンカンこんこんと足音を立てて登ってゆく。二階のドアを開けて靴を脱いで、左手の部屋のドアをガチャリと開ける。
「よ」
「うん」
タバコの煙で白くうっすら霞んだ部屋で彼が待っていた。細長い指でタバコを吸いながら、また何か難しそうな本を読んでいる。まるで歌舞伎役者の女形のように色が白くて、ほっそりした輪郭と体型。長い手足をぎくしゃくと折り曲げるようにしてクッションの上に座っているこの人が、あたしの彼氏。整った顔たちだけど、全体的に少し影があるのが素敵だといつも思う。
「早かったね」
優しい声。でも、少し冷たいトーン。そこがまた良いんだけど。
「そかな。普通だよ」
あたしも隣に座って、彼にもたれかかる。外国製のタバコのにおいと彼の香水がふわっと匂ってきて、ああ今一緒に居るんだと実感する。あれ?
「香水、変えた?」
「んや。たまたま」
「いいにおいだね」
いつもより柔らかで、優しい花のような匂いのする香水。あたしより一つ年上なだけで、なんだかいつも大人っぽくて、正直彼には少し甘すぎるんじゃないかな。
「これ読む? 面白いよ」
彼が一冊の文庫本を差し出してきた。
「んん、やめとく。難しそうだもん」
「そうでもないさ」
彼はそう言って文庫本を傍らに置くとタバコを吸い込んでふーっと煙を吐き出した。窓を閉め切っているせいで部屋中に煙とにおいが充満している。
「窓開けないの?」
「んーいいよ」
「どっち」
「どっちでも」
もう。
あたしは立ち上がって、彼のベッドに膝と手をついて窓を開け放った。カラカララ、と軽い音がして、少し冷たい空気がこの部屋の熱気と入れ替わってゆくのがわかった。あたしは階下の往来を見渡して、ふう、とため息を吐いた。
彼が立ち上がって、あたしの隣に並んでタバコをふかした。煙たいけど、ちっとも嫌じゃない。むしろ、彼のタバコの匂いだけは大好きで、ずっと思い出したり、探していたりする。他の連中が吸ってるタバコは臭いし不快なだけなんだよね。みんな同じようなタバコを高いの何の言って必死で吸っててカッコ悪い。でも彼は、妙に様になってるというか、似合ってるんだ。この煙だけはもっといっぱい吐き出して、あたしの身体じゅうに染み付けばいい。
「時間いいの?」
塾の時間が迫ってた。けど、今日はもうどうでもいい。
「うん、今日はお休み」
実を言うとさっき学校を出る前から、サボりを決め込んでいたんだよね。いいじゃん、勉強なんていつでもできるけど、幸せな時間は逃げてくばかりなんだから。
「ふーん」
たぶん、彼は御見通しなんだろうなあ。あ、そうだ。手紙渡さなきゃ。
つづく
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