おつかいを忘れて一夜が明けた。

「おちゅかいできまちゅかー?」という幼稚園児向けの母さんの声を背中に受けて、店をでる。こうなったら登校前にスーパーに寄ってやろうかと考えたが、それはしなかった。

 代わりに風見が行くなと言っている通りを見に行くことにした。ちょっとした視察だ。風見によればおれは今日死ぬらしいが、だとしたら母さんがおれに向けた最後の言葉は、「おちゅかいできまちゅかー?」ということになる。考えて少し笑った。彼女の話はもちろん信じてはいないが、今日が自分にとって、地球最後の日なのだという想像するのは楽しかった。

 通学路からひとつ外れた通り。住宅地を抜けた先の大きな通りで、二車線と歩道がある。問題の交差点もすぐに見えてきた。おれにとっての地球が終わる場所。左の角に郵便局があり、右の角にはコンビニ。横断歩道の手前、残りの二角は民家となっている。

 朝にしては車の通りも少なく、信号機も正常に作動している。どこにでもある普通の交差点だ。横断歩道の前、民家の塀に背中をあずけて座っている風見夜子を見るまではそう思った。

 こちらとはまだ距離があり、風見はおれに気づく様子はない。交差点の中心をじっと見つめて動かない。何か、監視でもしているような怖さがあった。

 八年前の自分でもきっと、あの状態の風見には話しかけようとは思わなかっただろう。



 授業が始まっても風見が登校してくることはなかった。まさか、ずっとあの交差点に座っている気だろうか。その姿が一瞬ほど頭をよぎったが、すぐに忘れることにした。見て見ぬフリさえしていれば、世界は今日も平和である。シャーペンの芯が切れかけていること以外は、日常に支障はない。

 そう、シャーペン。今日一日はなんとかもつだろうが、明日のためには買いに行かないといけない。ティッシュ箱のおつかいもあるから、スーパーでまとめて買おうと思った。そこまで考えて、行きつけのスーパーには文房具が売っていないことを思い出した。

 何度も寄り道するのは嫌だから、一か所で済ましたかった。そこでコンビニの存在に思い至った。帰りはコンビニに寄ろうと決めた。

『あの通りには近づかないで』

 食堂での、風見の言葉がよぎる。

『コンビニに行くなら、ほかのところに』

 頭に響いて、小さく舌打ちした。授業中で、前の席の女子が不審な顔をして振り向いてきた。笑顔で手を振っておいた。そのすぐあと、おれよりも大きな舌うちを横の佐藤がした。ゲームの操作をミスしたようだった。またしてもその女子が振り向く。佐藤のかわりにおれが手を振っておいた。

 近所のコンビニはあの交差点に建っている場所以外にはない。もう一軒のコンビニまでは遠く、帰宅の道とは逆方向にある。わざわざそのコンビニに向かうのもバカらしいし、そんなことでは風見を恐れているようにも見えた。いちいち気にするまでもなく、おれはあの交差点のコンビニに向かうのだ。

 放課後になる。佐藤を寄り道に誘ったが、彼はまたゲームソフトを探しに行くらしく、断られてしまった。

 風見はまだ交差点にいるだろうか。だとしたら本当に気味が悪い。小さな興味が首をもたげて、足を速めさせた。

 どこにでもある道の先にある、どこにでもある交差点。車の通りも朝に比べてさらに少なくなっていた。陽が少し傾いていて、登校時とは少しだけ風景が違って見える。朝と変わらないのは、民家の塀に腰掛けている風見夜子の存在だけだった。

 このまま進めばコンクリートに地べたで座っている彼女にはち合わせてしまう。気づかれる前に、おれは道路を渡った。おれがコンビニに行くのを風見はとめようとするだろう。そうなる前に走って逃げようと思った。

 交差点まで三十メートルほどになる。ちょうど前の信号が青になっていた。間に合うと思い、走りだす。走っている途中で、横目に、横断歩道をはさんだ通りにいる風見の顔が見えた。

「……寝てんじゃねえか」

 車の通りもなく、おれの走っている足音だって聞こえていそうな距離だった。それなのに顔をうつむかせていると思っていたら、目を閉じていた。あれじゃあ本当に日本人形だ。

 風見によそ見していた。

 だから、塀の影から隠れてやってくる自転車が、直前まで見えなかった。

 寸前で気づき、反射で飛びのいた。

 その瞬間がスローモーションになった。遅れて自転車がブレーキをかける。キイイイイイイ、とかん高い音。自転車に乗っている女性の顔も見えた。四十代くらいで、きっと主婦だ。目玉がさらに激しく動く。近くの電線に鳥が数羽とまっていて、それが飛び立つのも見えた。すごい体験だった。

 おれは走っていたこともあり、完全にとまることができなかった。勢いがあまり、それを抑えきれず、地面につまずく形となった。

 スローモーションが終わる。転ぶと思ったときには転んでいた。顎を打ちつけ、その部分が熱かった。脳みそが揺れている感覚。考えが考えが考えが考えがまとまらなかった。

『横断歩道の途中で死んでたわ。場所は……』

 とじた瞼を開ける。とびこんできたのは、赤色になった信号機。

 身を起こすために、腕に力を入れる。地面の一部が白かった。横断歩道の白線だとわかった。

 そばに茶色の物体が落ちていて、よくみると、小鳥だった。ほとんど原型をとどめておらず、おれが転んだ拍子につぶしてしまったのだと理解した。

『あなたの死体をひっくり返してみたの。そうしたら、小鳥が下敷きになっていた。つまずいて転んだ拍子につぶしたんだと思う。だから、小鳥にも気をつけて』

 とくに腹のあたりが裂けていて、中身がでてしまっていた。地面が赤く染まっていく。コンクリートと混ざり、黒い色になった。

 女性の悲鳴が聞こえてきた。自転車に乗っていた主婦のものだとわかった。霧のかかった意識で無理やり体を起こす。続いてクラクションが聞こえた。野太くて、心臓を震わせるほどの音だった。

『死体の損傷が激しいから、大きな車に轢かれるはず』

 トラックだった。運送用のトラックで、派手な黄色のバンパーが見えた。近づいてくる。ブレーキをかける余裕もない。十メートルほど先にあったものが、まばたきをした間に、一メートルにまで迫っていた。ひゅわっ、と鼻先に風圧を感じた。最後に頭に浮かんだ光景は、カウンター席に雑に置かれた小銭だった。大盛りの親子丼の料金である。

 おれは死んだ。



 はずだった。

 痛みを感じるまもなく死ぬのだろう。そう思っていたら、脇腹にものすごい衝撃が走ってきた。トラックから見て真横からのものだったので、すごく驚いた。「うほぇいぐっ」と、口から妙な音がもれた。思わず目をつぶってしまった。

 次に目を開くと、走りさっていくトラックが見えた。一度ブレーキをかけたが、おれが無事だということをミラーから確認したようで、すぐにまた速度をあげて行ってしまった。

 あおむけに倒れているおれの体に、誰かがおおいかぶさっていた。心臓が跳ねあがっているのがわかる。相手の心臓の鼓動も伝わってきて、少しずつ、お互いに重なっていった。

 自転車に乗っていた主婦が真っ青な顔で、何かを叫びながら駆け寄ってきた。音が遠くて聞こえなかった。

 おおいかぶさっていた、そいつの体が起きあがる。起きあがって顔を見る前に、誰かはもうわかっていた。

「凪野くん」

「風見……」

 目が合う。マラソンを終えたあとみたいに、彼女の前髪は乱れていた。実際に全力疾走をしていたのだろう。タックルをして、おれを救ったのだ。

「小鳥は助けられなかったわね」

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