『満足の壺 弐』

『満足の壺 弐』



 僕はこの時狼狽ろうばいしていた。

「何故恣意しいを見破られた。僕に穴は無かったはずだ。可笑しい、この世に不思議な事はあってはならないはず。なのに…なのに、あいつは…霊能者かなにかなのか!?あの『りぃな』という垢消し最中のツイッタラーは何故知っている!?」

 そう、恐れていた事件が起きてしまった。予期してもいなかった事態。『満足の壺 壱』という『たし湯』を題材にした小説が発表されたのだ。そして看破された。


「wwwww」「てかりぃないたんだ」


 こう呟くしか欺瞞ぎまんを突き通す方法は無い。狡猾な僕はこれが最善だと考慮した。いや、欺瞞はバレない限り欺瞞ではない。欺瞞と考えるのは世間の目にも『壺』の姿が露見したからだ。そうに違いない。だから僕はペテン師ではないはず!僕は己の『満足』への道を守り抜かなくてはならない。

 それはついに世間へと標榜ひょうぼうされてしまった。

『壺』の全貌が。

 この『壺』は僕だけのもので、僕しか見てはいけないものなのに。

 眠ろう。これは悪夢だ。夢であって欲しい。

 欺瞞作業から二分後、意味深で誰にも捉えられないであろう呟きをして寝た。彼以外には。


「このままだと今年中に時代変わるな」


 これが夢であるために、こうして寝ぼけないといけない。寝ぼけないと夢が終わってしまう気がする。

 内心焦っていた、焦りがこの呟きを生み出した。披瀝ひれきする事で落ち着きが生まれる。そして彼は今この世界にいる可能性は少ない。『たし湯』を標榜した後何も呟いてはいない、何も焦る必要はない。そう思い込むしかなかった。

 しかし体は正直だ。震えが止まらない、寝たい。眠たいはずだ。汗が出てくる。嫌だ。『満足』に近いはずであったのに。

 まるで蛇に睨まれた蛙のようにたし湯は怯えていた。怯えという恐怖は眠ることでやり過ごすしかなかった。焦燥感は途絶えることもない。

 夏であるのに夜は冷たい。この冷たさで僕なりの解釈を、そうして心を癒すしかなかった。『不満足』だ、夏なのに。夏も『満足』ではない。夏は昼間は暑いのに、夜は冷たい。不完全。『不満足』。嘲笑だ。僕以外にも『満足』を目指している『不満足』は山程いるじゃないか。

 『壺』の外壁を飾る模様、これは根本である、元々は『壺』本体であるはずの『優位』だ。僕は『優位』に縋った。夏のような者を見つけて『満足値』を比べて『優位』になりたい。やはり僕は『満足の壺』。

 勿論先刻は僕が圧倒的、圧倒的に『満足』だ。

 僕は季節をも凌駕している。夏に『優位差』、つまりは『満足値』で勝っている。必ずそうである。「正義は必ず悪に勝つ」同じ理論だ。今度は下僕達を揶揄やゆして見下げてやろう。僕を超えるものは知らない。無くてはならない。『満足』の追求は心を落ち着かせる気がした。

 タイムライン。それは真夜中でも活発だ。

 普通海外の人達なら外出のない時間、日本でも特別な日を除いては同様に過疎でしかない。人気のない。それが夜の魅力であり、夜というものは普通そうでなくてはならないのだ。

 しかし、現実が夜であろうとここは昼同様、人々が闊歩している。ここだけは何故か夜の来る気配がないのだ。

 けれども今日はこれが良かった。これで少しでも壊れかけた『壺』が修復できるのだから。

 ここに来るといつも誰かが僕を罵倒している。実に愉快だ。僕に『満足』を破壊され喚いている、鳴いている。彼らはもしかすると蝉かもしれない。罵倒して擬似の『満足』を得てコロッと鳴き止むのだ。

 僕はそれを見て『優位』つまりは『満足』を得る。

 けれども、汗が止まらない。そういった事象を感慨してさえ、汗だけは止まらなかった。

 少し落ち着きを取り戻した実感というのはあるのだが何故だろう。

 何故汗だけは止まらないのだろう、僕は僕の知る何よりも『満足値』で優っているはずなのに、やはり何かがおかしい。

 いや、普通だ。まだ落ち着くまで足りていないだけだ、そう齷齪あくせくする必要も無い。落ち着こう。


 そして僕は『満足』を追求するあまり分かってしまった。これだけは判明わかりたくなかった。

 しかし自我が崩壊寸前のたし湯には理解せざるを得なかった。

 僕は夕立なのかもしれない。そして雨は止んだ。すがすがしくさえなった。


『最初から誰も『満足』じゃないじゃないか…』


 夜は静謐だ。青い幻想に丸い光が煌々と備わっているだけ。そうでなくてはならないもの。それが夜。しかし何故夜のタイムラインというもので人々が縦横無尽に闊歩しているのだ。それでは夜が成り立たないではないか。夜は『満足』に近いはずであろう。タイムライン、それ以外にも夜の邪魔をしているものは沢山思い付く。可笑しい。

 『満足』は僕も近いはずであろう。僕の『満足値』というものは、夜と同じであることは明白だ。

 しかしタイムライン以外にも夜を汚すものがいる、カジノや風俗、コンビニ。月という物の存在さえ懐疑的になってしまう。もしかすると僕も未だ見えていないだけで僕の『満足値』というものは低いのかもしれない。夏にも大差ないのではないか。

 そして気づく。

 やはり汚されていた。あの『りぃな』というやつに。小説で僕は褒められていた(そういう解釈をしたが事実無根かもしれない)。初めて自分自身否定してきた自分を否定された。みんなは僕を肯定した。だからプラスになる一方だったのに。彼はマイナスを足した。

 初めて僕は足せずに引かれる感覚に陥いる。実に奇っ怪だ。

 そして前述した通り『自分自身否定してきた』ことにも気づかされた。ずっと僕は正しかった。それに肯定してきたつもりでいる。けれども初めて否定されたことで自分自身を認めることになった。他人の『満足』に憧れ『満足』を目指すこと自体が間違っていたのだ。それこそ先刻の否定の観念である。

 人がいう常識なんてものは他人から見れば同様の常識ではない。多少のズレくらいある。環境、経験、そんなチンケなものに左右される。

 個人の常識というのは常識であって『常識』でない。まるで僕のようだ。歪んでいる。その結果『否定すること』を『肯定すること』に変えている。そんな視点から見ればもはや夜を汚すものなんて全てが『満足の壺』である。僕の中での真の常識、その見解はそうさせた。みんなが『常識』でみんなが夏だ。みんな完全なる夜でありたい。

 遡上そじょうして思慮してみれば調子者たちは『満足』だから僕を蔑んだのではない。"満足でないからこそ"蔑んだのだ。彼らもまた『満足』を求めていた。行き着く先は同じ。今に思えば見窄らしい。くだらない。疲弊した。常識ではなかったから。

 僕が目指したものは完全なる夏ではなく夏だと言うのか。

 夏特有の暑さが僕をくらました。

 否定した環境が僕自身を今の僕へと変化させた。

 人それぞれの常識があり、人それぞれの『満足』の意識がある。

『満足』だと思われている者たちも『満足』なくせにまだ『満足』を追及する。

 端的に例えるなら資産家で物なら何でも手にしているはずの『満足』しているものがまだ何かを獲得しようとしている。何よりも簡単な例だと思う。そしてまだ追及する理由。それはその人間、僕達自身の本質を辿れば追求するものこそ『満足』であるからだ。

 僕達は『壺』だ。


 りぃなというツイッタラーに会いたい。あの汚した、否、間違いを気づかせてくれたりぃなに会いたい。こういう感情は今までにはなかった。彼は『壺』を綺麗な形へと改修してくれた。僕を唯一理解してくれる人がいて、導いてくれて、初めて嬉々とした。やっと眠りにつける。

 肌に漂着する夏の夜の涼しさは久々に僕を熟睡へと誘った。心地いい。初めてそう感じたかもしれない。


 次の日僕はこう呟いた。

「りぃな帰ってきてくれ」

 紛れもない本心である。『壺』の内部を見せた。

 一週間ほど経って彼は帰ってきてくれた。そしてリプを交わす。彼と話す事はやはり心地が良い。自分を知るのは彼だけだ。


 僕が自然な呟きをすると、それもたまに炎上する。タイムラインにいる者達はなにかにつけて僕を悪者扱いし激しく糾弾した。途方もない通知量。蝉のように五月蝿く理不尽である。

 そんな蝉達も知らないうちに炎上商法に乗っかかっているから馬鹿とは承知していたが無理矢理にも歪曲させ叩いてくる姿には予想外甚だしかった。

 けれども今になるとそれは僕に汚された『満足』の報復、『満足』を求めるための行為なのだなと認識できる。僕の状況を表すなら松尾芭蕉の句に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」というのがあるがそれが適当では無かろうか。

 そしてその者達は自分から汚されに行っていることに気づかない。汚くなると知っていて泥遊びをする幼稚園児のようだ。やはり彼らはそれに気づかない。最初から泥や泥遊びの状況なんて見なければ泥遊びの存在にも気づかないし、ましてや泥遊びなんてしないだろう。見ないことにすればいいのに、なにかにつけて曲解し泥遊びに加わる。今触れているものが糞であろうとも。泥が糞であることにも気づかない。何回遊んでも稚拙だから、馬鹿だから気づかないのだろうか。そう思うと慣れた。

 僕は食べ物を提供する先生だ。彼らはそれを泥かなにかと勘違いする。そして遊ぶ。いつになれば幼稚園児は大人になるのだろうか。「食べ物を粗末にするな」親からこう言われたことは無いのか懐疑的になってしまう。

 普通に見れば炎上もしない呟きなのに。何度も炎上することの真理さえ見極めればわかることなのに。

 ならば『満足』を追及したことは僕だけが悪いのではなく園児も悪いのだ。研鑽けんさんさえすれば無論園児の方が悪いのだ。彼らは誤っている。彼ら自身が悪だ。彼ら自身『満足の壺』の虜だ。勝手に憑かれている。

 最近になってそう思う。そう思うのもりぃなが帰ってきてくれて歪曲された誹謗の事を自分に指摘してくれたからである。

 彼だけはやはり理解してくれている。

 ただ少なからず僕にも非があるだろうから『りぃな』の『満足の壺 壱』の小説をみんなに届くよう拡散した。幼稚園児から大人にさせるために。更生させるために。

 僕は変わった。変わったというよりも普通に戻ったのだ。なにかにつけて"全員が満足でないこと"を無意識に隠していた自分から披瀝した自分へと。これからは堂々と出来る。

 僕は『いい湯』じゃない。『有名』これを追及する者こそ『たし湯』だ。そうだ。僕が『たし湯』なんだ。やっと『満足の壺』の本質を見極めることが出来た。

 模様というのが『優位』で中身が『有名』なのは『いい湯』の話である。『たし湯』というのは『有名』だけを中身に兼ね備えている。明晰になった。『優位』を比べるなんて今はもう不毛である。


 そう悔悛した僕も今はワサラー団四天王の『たし湯』だ。

 周りからは『有名』だと言われているが僕には足りない。膾炙かいしゃに過ぎない。

 現実の事は明かしたくもない。それは自分の中でも抑制されている。思い出したくもないからだ。

 最近までは『満足の壺』の虜であったが、今は違う。自分を見失わないようになった。

 そんな僕にも「アルファカレンダーに載りたい」という欲求があり、その地点こそ満足の一段落だと思っている。

 その基盤として炎上商法を少しずつではあるが続けた。これが効率的であり、少しずつにしたのはこの地点が満足だからではなく"申し訳なさ"が反映された結果であろう。

 そして今現在間接的には関係あるだろうが僕とは直接関係ない、他のワサラー団四天王の内二人(テレサと梓とかいうやつ)が抜けようとしている事象が起きていた。

 僕にとってはやはり鼻くそをほじる程どうでもいい。

 敷衍するのであれば僕が黒蟻であって、彼らは白蟻ということになる。基本黒蟻は自分たちのことしか興味の無い。白蟻なんて眼中にすら置かれない。興味の無いことなんて白蟻同様に見ている。しかし同種なのだからたまに助け合うこともあるだろう。そんな感じだ。

 しかしそんな譫言うわごとの叙情を謳っている僕を一気に豹変させる出来事が起きた。

 りぃなが「ワサラー団四天王になりたい」と僕宛のリプライで豪語したのだ。『壺』を直してくれた恩人の満足をそこで惨憺させるわけにもいかない。僕はこの人とは唯一無二の同種だと思っている。黒蟻だ。

 だからこそ無理だとわかっていてもわさらーに懇願してみることにした。いや、懇願するしかなかったのだ。

 りぃなという垢は趣味垢である。気取りでも相互でもない彼がそれになれる可能性は誰が見ても皆無に見えるであろう。

 だから僕が蓋然がいぜんへと変化させる他ない。ただやはり無理だろう。そう見越した上で頼んでみたのだが、まさかりぃながワサラー団四天王になれるという結果には思いもよらなかった。それも自分の『力』で、だ。驚嘆した。

 初めて僕の人に及ぼす影響力というのが自分の中で垣間見えた。炎上なんていうものは誰にもできるし、そこから人に影響を及ぼすのなんていうのは誰でも当たり前にできる。

 しかし炎上無くして僕は自分の『力』で一つの趣味垢をワサラー団四天王へと変えさせたのだ。

 『たし湯』自身に『力』があることを初めて覚えた。しかしこれは胡乱だ。偶然かもしれない。一回の出来事でそう思うなんて。

 しかもりぃなはわさらーと絡んでいたこともあるじゃないか。僕は以前それを見たことがある。やはり偶然であろう。時間を置いて落ち着いてからまた何らかの方法で『力』というものを証明してみることに決めた。

 僕に『力』はないはずだ。慢心すればいずれまた憑依してしまうだろう。

 だからこそ見極めたかった。

 爾後じご、わさらー宛にリプライを送ってみた。「幸ちぇるをワサラー団四天王にするのはどうか」。そういう旨のリプライだ。

 幸ちぇるという人物は僕と同じで彼もまた炎上商法を元とした『有名』を追及する『壺』である。

 けれども彼は汚れすぎている。四天王の座になるには充分に売名できるだろうが、彼は殺害予告等、いろんな人に嫌われることを度々起こしているし、辟易とされている。

 だから彼もまた可能性というのは少なかった。

 りぃなと比べれば多少なりとも多いが。

 「なれるはずもないだろう、僕にそのような力もないだろうし」と思いながらも相変わらず軍隊蟻のようなものたちが闊歩しているタイムラインを監視していた。

 次の炎上ツイートを考えながら。

 そしてなんと気づけば彼はなっているではないか。

 ワサラー団四天王に。

 僕はやはり『力』を持っていたのだ。『力』の方に目を向けるあまり『壺』のことなんてどうでもよくなってしまった。

 それを放擲してまでも僕は自分の『力』に夢中になった。


「僕には『力』がある」


 そう。僕は慢心した。気づかない内に『力』に惑溺し、次第に『壺』の虜へと変貌していった。

 それは水へ向かう木の葉のように静謐に落ちていく。だから僕は気づきすらしない。

 ただ意識の中で少しは残っていた。残滓ざんしだけはあったから自我を保つことができたのだ。

 水に浮かぶ木の葉として暗澹あんたんに飲み込まれることはない。

 しかしもう今や僕は小我に落ちていくことなんてどうでもよくなってしまった。

 木の葉は水底深く落ちてしまう。ついに木の葉を水に沈める手が差し掛かったからだ。

 その起因というのもワサラー団''団長''になってしまったことにある。

 ワサラー団団長というのは『有名』であることの歴然たる称号であり僕にとっては絶大なる権力というもの、『力』を持つ者の証なのだ。


 静けさとともに逢着した木の葉はぷかぷかと浮いている。

 見捨てられた木の葉でも沈むことなんて甚だない。ただ風に揺られてふらふらと彷徨う事はあるだけで。

 しかしそんな木の葉を下に押すなんらかの『力』が掛かればどうだろうか。それも人為的であれば。

 当然『力』が働き、不用意にも木の葉は水底向かって沈んでしまう。

 しかし考えるに水底まで落ちた木の葉はその時自分が沈んでいることすら自覚していない。それは木の葉自身は"浮いている"と錯覚しているからだ。

 だから浮くこともせずに木の葉は沈んでしまう。

 そしてそのまま水底までたどり着いてしまう。

 自分自身"沈んでいること"に気づいた木の葉は必ず浮かび上がろうとする。

 そうしようとするのは水底まで沈んだ木の葉が"枯葉"だけだと知っているからだ。

 無論自分が枯葉でないことを知っているから浮くのだ。枯葉はもう浮いてこない。

 枯葉自身は浮いているつもりだろう。

 落ちぶれたものが枯葉になり『力』に支配されたことも知らず一生眠ることになる。まさに『力』に溺れている。

 『たし湯』は枯葉ではなくとも確実に沈んではいる。それは明白だ。枯葉になりつつあるかもしれない。

 『たし湯』はワサラー団団長になり『力』に憑依されてしまった。

 それはつまり『第弐の満足の壺』に囚われたということである。

 『力』があれば『満足』を満たせるという思考に陥ってしまった。それは『力』が自分のしたいことに作用してしまったから。『力』のおかげでしたいことができたからだ。

 もう溺れるあまり満足を忘れてしまった。

『たし湯』がワサラー団団長という『力』を身につけた今、彼は落ちていく木の葉同然なのだ。


『たし湯』と木の葉、よく似ている。


『木の葉』に『力が作用する』。

『たし湯』は『ワサラー団団長』。


『木の葉』は『沈む』。

『たし湯』は『慢心する』。


『力が溺れさせている』。

『力に溺れている』。


『たし木の葉』は考える。


「僕自身まだ水に浮いている」

 暗い水中に沈みながら。


『木のたし湯』は考える。


「僕の力は偉大だ」

 また『満足』を強く願う。僕だけが『満足』であるために。

『満足』なんて存在しないのに。今度は『力』に溺れてしまった。そこからまた『満足』を目指してしまうことになる。


『たし湯』はやはり『満足の壺』の虜であり、それ自身なのだ。


 僕らも本質さえ見れば『満足の壺』である。これは誰しも明白に言える。

 しかし決して虜になってはいけない。支配されるというのは「自我を忘れてしまう」ということだ。

『満足の壺』は普段露呈しない。だから自分自身支配されたことにも気づけない。

 では支配されないためにはどうすればいいのか。

 そんなのは簡単だ。溺れなければいい。『満足』に。


 そう言い切ってしまうと、人知れず『満足の壺』自身に豹変している人達がいるのは明白になってくる。

 もしかすると、あなた自身も『満足の壺』なのかもしれない。



『満足の壺 弐』完

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