(4)「あんなのが天の川?」
行こう、と思い立ったのは、集合時間の七時半近くになってからだった。
それはテスト勉強からの逃避にすぎない。夕食のあと机に向かっても、SOS団員の顔が浮かんで教科書を開く気力も出てこなかったからだ。
とりあえず、イツキに電話してみる。。
「いまから家を出てもだいじょうぶ?」
『学校に着くのは、いつぐらい?』
「八時すぎちゃうかも」
『遅刻じゃん。キョン子ちゃん、お仕置きしちゃうぞ~』
「じゃあ行かない」
『待った待った! それじゃ一人、駅で待ってるから』
「いいの?」
『いいっていいって……あ、そうそう、キョン子ちゃんが来るとわかって、団長喜んでるわよ』
「いや、あいつは関係ないし」
『あたしだってうれしいんだよ。キョン子ちゃんと一緒に星が見たかったし』
「わかった」
私は意を決して、クニに電話をする。アリバイ工作のためである。クニは快諾してくれた。「涼宮くんと進展があったら教えてね」というお節介な一言をそえて。
こうして、クニの家でテスト勉強をするという口実で、私は家を出ることにしたのだ。
ひとまず夜空を見上げる。天文学的知識のない私には、どれが彦星なのかもわからない。イツキちゃん予報どおりに月明かりはなかったけれど、雲がかかっていて星空鑑賞会には不向きの天候みたいだった。
さぞやハルヒコはガッカリしているだろう。短冊に「晴れてください」と願っていればよかったのに。
それにしても、中河さんが星を見たい理由ってなんだろう? 私は電車に乗りながら考える。わざわざ見知らぬ部室のドアをノックするぐらいだから、相応の目的があるはずなのだ。
はたして、顔見知りの私がいない空間で中河さんはどうふるまっているのだろう。もしかすると、駅でイツキと一緒に私を待っているのかもしれない。もしくは、オタク先輩の愛らしい外見にダマされているのかもしれない。あるいは、ハルヒコの偉そうな星空解説に喜んで耳を傾けている、とか?
そんなことを考えている間に、電車は学校の最寄り駅に着く。改札口を出た私を待ちかまえていたのは。
「やあ、キョン子さん。早かったじゃない?」
「あれ、イツキは?」
予想外にも、制服姿のオタク先輩が一人で待っていた。
「イッちゃんは中河さんの相手してるから」
「で、みつ――いや、朝比奈先輩が私のために待ってくれたの?」
「まだそう呼ぶの?」
「うん」
私は力強くうなずく。
しかし、私は敬語を使わなかった。どうも、朝比奈先輩を目の前にすると、改まった口調で話す気になれないのだ。
それに、同行者として朝比奈先輩は悪い人選ではない。イヤらしいゲーム愛好家の変態だが、それゆえに私に手を出すことはないだろう。前科のあるハルヒコやその疑いのある長門くんに比べれるとずっと安全ではないか。
「だけど、朝比奈先輩がいないとなると、中河さんはだいじょうぶなの?」
「いやさ、あの中河さん、すっかりイッちゃんと仲良くなって、ガールズトーク始めちゃったんだよね。僕が間に入れないぐらいに」
「へ、へえ」
私はイツキと中河さんが楽しそうに会話する光景を思いうかべるが、あまりうまくいかない。
「イッちゃんがキョン子さん以外の女子と親しそうに話すのって初めて見たよ」
「でも、イツキって、けっこう懐が深いっていうか、話題の幅が広いんだよね。だから、その気になれば、誰とでも仲良くなれるのかもしれない」
「そうそう、イッちゃんって、年上の人とつき合ったりしたんだよね?」
「私はくわしく知らないけどね」
よく考えてみれば、みつる先輩と二人きりで話す機会なんてほとんどなかった。その話題がイツキのこというのは、私に合わせてくれているだけなのか、それとも。
「……やっぱり、イッちゃんって、背の高い人が好きなのかなあ?」
「へ?」
みつる先輩のつぶやきに、私は思わず反応してしまう。
「ま、まさか……みつる先輩」
「あー、今のナシ! 聞かなかったことにして!」
赤面するみつる先輩。そのあわてっぷりは愛らしかったが、さみしくもあった。
そうか、そうだったのか。
「少なくとも、イヤらしいゲームをしている男子はキライだと思うけどね、イツキは」
ちょっと悔しくなった私は、嫌みっぽくそう言ってみる。
「そんなことないよ。イッちゃんは、そういうことに理解があるよ。キョン子さんとはちがってね」
「どうせ私はケッペキですよ、オタク先輩」
「いや、それもまたキョン子さんの魅力だし、僕はキョン子さんのことも好きっていうか……」
「ほほう、これがオタクのハーレム願望というやつなのですかね、朝比奈先輩?」
「う……意地悪言わないでよ」
もちろん、私だって、みつる先輩が私のことが「好き」なのは「LOVE」ではなく「LIKE」であることはわかっている。
「……まあ、正直いって、イツキの好きなタイプって、私にはさっぱりわからないんだよね。だから、みつる先輩の相談相手になることはできても助けにはなれないかな、と」
「二人で恋愛のこととか話したりしないの?」
「しないしない。イツキが私に合わせてくれているだけかもしれないけど」
「でも、イッちゃんはキョン子さんのこと、相当気に入っていると思うよ」
「だけど、名字も覚えてくれてなかったし」
「あー、僕も最近まで知らなかったんだよ、キョン子さんの名前」
「マジで?」
「だって、清水京子って言われても、ピンとこないし」
「私も朝比奈みつるって名前は、オタクっぽくないと思ってますけど」
「ひどいなあ」
「でも、私がいくら言っても、みつる先輩はオタクであることをやめないんだろうし」
「うん、僕の生きがいだからね。すばらしいエロゲをプレイすることは!」
……天下の公道でなにを叫んでいるのだ、この人は。
でも、私は「もう同じ空気を吸うだけでもイヤです」と、オタク先輩から逃げだすことはなかった。
世の中、いろいろ我慢しなければならないことがあるのだ。サンタクロースを信じたふりをしたりとか、ハルヒコの理不尽な企画につき合わされたりとか。
◇
「あ、みんな集まってるね」
みつる先輩が指をさしたその先は、望遠鏡をかまえるハルヒコと、双眼鏡をのぞいている長門くんと、制服姿でぺちゃくちゃしゃべっているイツキと中河さんがいた。
遠目に見ると、天文部らしい微笑ましい光景だ。あいにく、我々は天文部ではなくSOS団なのだが。
学校近くとはいえ、生徒たちの姿はない。期末テストが近いせいで部活動を早めに切り上げているからだろう。
「やっと来たか、キョン子」
偉そうに答えるハルヒコにうなずきながら、女子の会話に加わろうとした私だが、
「で、そのとき、アタシの彼氏がさー」
「あー、無神経なこと言っちゃったんだね。わかるわかる!」
イツキと中河さんは恋愛話の真っ最中だった。
ていうか、彼氏がいるのか中河さん。
それなら、SOS団と星空を見ている場合ではないだろうに。
中河さんはやたらと大げさな口調で話していて、イツキはそれに合わせている。きっと、その彼氏と破局寸前の状況だろう。うん、関わりたくないパターンだ。
私だって女子のはしくれ、恋愛話には興味あるけど、同意を求められたりしたら困る。恋する女子は時として常識を軽く飛びこえて、感情のままにとんでもない発言をしてしまう。そのときに「あなたもそう思うでしょ!」とたずねられたら、どんな顔をしたらいいのかわからない。
だから、私は回れ右をする。そうなると、ハルヒコと目が合う。
「キョン子、おまえは星を見に来たんだよな」
「そうだけど」
「じゃあ、とりあえず、のぞいてみろよ。ピントは合わせてるから動かすなよ」
ハルヒコの望遠鏡は、たしかに高校生には小さい代物だった。
「なんの星が見えるの? 彦星?」
「見ればわかるって」
ハルヒコの言葉にうながされて、私はレンズをのぞきこむ。そこから見えたのは。
「星だね」
「だから、なんの星だよ」
「星としか言いようがないんだけど」
「なに言ってんだよ、よく見ろよ」
私は目を凝らす。見えるのは円形の天体である。いや、その輪郭は少しだけゆがんでいた。
「言われてみると、この星、なんか耳みたいなのがついてるね」
「耳じゃねえよ、輪っかだよ、輪っか!」
テンション高めに応えるハルヒコ。
「輪? そんなたいしたものには見えないけど」
「でも、それが土星なんだよ」
「土星? まさか」
「まさかじゃねえよ。見ればわかるだろ」
私は土星の形を知っている。理科の教科書に載っている土星の輪というものは、もっと美しいものであったはずだ。
しかし、レンズから見えるそれは、ただの耳でしかない。
「望遠鏡が発明されて、人類は初めて土星に輪があることを知ったんだ。キョン子、おまえが目にしているそれは、そんな歴史的発見なんだぜ。どうだ、ロマンを感じないか?」
「……へえ」
私はガッカリしていた。耳のついた星を土星だと言われても感動できるはずがない。
「だいたい、私たちは惑星を見に来たんじゃないよね?」
私は望遠鏡から目を離して、肉眼で夜空を見上げる。
「でも、残念だったね。月明かりはないけど、雲が出ているから、星がちゃんと見えないし」
「はぁ? キョン子、おまえ今なんて言った?」
ハルヒコがやけにすごむが、私は臆することなく、
「あれ、雲だよね?」
「なに言ってんだ、あれが天の川だろが!」
「あんなのが天の川?」
「おい長門、ちょっとキョン子に双眼鏡を貸してやってくれ」
ハルヒコは後ろでバードウォッチングのように夜空を見ていた長門くんに声をかける。
「ああ、わかった」
「双眼鏡で星が見えるの?」
私の問いにハルヒコが、
「残念ながら、その双眼鏡は、この望遠鏡よりも性能が良いんだよ」
「じゃあ、望遠鏡の意味ないじゃん」
「まったくだ。でも、望遠鏡にはロマンがあるじゃないか」
「自分の趣味を押しつけるのはロマンって言わないと思うけど」
そうつぶやきながら私は長門くんから双眼鏡を受け取る。ハルヒコの望遠鏡よりもずっと高級そうな代物だ。
長門くんにピントの合わせ方を教わったあとで、私は雲らしき物体をのぞきこむ。
たしかに、そこにあったのは光の粒だ。
「ホントだ、雲じゃなかったんだね、あれ」と私。
「おまえ常識外れにもホドがあるだろ。もう一度、義務教育からやり直せよ」とハルヒコ。
「失礼な。私、こう見えて理科の成績はそんなに悪くなかったんだけど」
「天の川を雲だと言ってる時点で、テストでいくら良い点をとっても同じだ」
「でも、おかげで彦星の場所がわかったし。あれだよね?」
私が指さした方角を見て、ハルヒコはまたもやため息をついて、
「あれは木星だ」
「また惑星? いい加減にしてよ」
「いい加減にしてほしいのはこっちだ!」
「だって、あんなに明るいじゃん。まぎらわしいんだよ惑星って。地球から近いだけで、主役の彦星よりも輝くなんて」
「おまえ、惑星ってどういう漢字書くのか知らないわけじゃないだろうな」
「なるほど、惑う星って書くものね。……ということは!」
私はパチンと手をたたいた。
教科書に出ていた太陽系の図が頭に浮かぶ。
「惑星の不規則な動きを知ったことが、地動説の発見を生んだわけね!」
自信満々に答える私に、ハルヒコは首をふりながら言う。
「おまえなあ、星座ができたのはいつだか知っているか?」
「たしかギリシャ神話が由来なんだよね?」
「地動説が確立されたのは何世紀の話だ?」
「う……」
「東洋の星座だってそうだ。そもそも、星座は、惑星がどこにあるかを知る目印として作られたんだよ。そして、不規則な惑星の位置から未来を予知しようとする占星術が生まれたわけだ」
「へえ、占星術とか興味あるの、あんた」
「昔は立派な学問だったんだぜ。日本でいえば陰陽師がそうだな。そもそも陰陽師とは天文学者のことで――」
「あの安倍晴明とかもそうなの?」
「ああ、それだけ人類は星空を真剣に見てきたということだ。惑星の動きに人々は天の意志、つまり未来を読み取ろうとしたんだよ」
「そのくせ、昔の人は地動説を知らなかったんだよね。じゃあ意味ないじゃん。天の意志とか、お笑いぐさだよね」
「まあ、その地動説にたどり着いたのが、この望遠鏡の発明だったわけだ」
「どういうこと?」
「例えば、ガリレオの名前がついた星の発見とかな」
「そうよ、ガリレオ=ガリレイ!」
私は力強く叫ぶ。
「ガリレオは地動説を主張した。それなのに、キリスト教はそれを否定したんだよね? ひどいよね宗教って」
「いや、ひどいもなにも、ガリレオの地動説モデルは不完全だったからな。そこから導かれるデータは、実際の観測とはズレがあったんだ」
「そんな些細なこと、どうでもいいじゃん。天動説と地動説よ。天と地ほどのちがいがあるじゃない!」
「――ったく、これだからバカは」
ハルヒコは頭をポリポリとかいたあとで、
「キョン子、一年は何日か知ってるか?」
「は? もしかして、私のことを本気でバカにしてるの?」
「バカにしてないからたずねてるんだよ」
「そんなの365日――いや、四年に一度、うるう年があるから、プラス4分の1日だよね?」
「ちがうな」
「ちがうの?」
私は本気で驚いてたずねかえす。
「正解は、約365.2425日だ」
「はぁ? ほとんど同じようなもんじゃん」
「ちなみに、1年を365.25日としたのがユリウス暦といって、ブルータスに裏切られたことで有名なジュリアス・シーザーが紀元前一世紀に定めたものだ。日本でいうと、弥生時代のころだな」
「そんな昔に、うるう年ってできてたの?」
「でも、それでは不正確だってことで、400年のうち三度だけうるう年をなくすことにした。これが、今の日本でも使われてるグレゴリオ暦だ」
「へえ」
「このグレゴリオっていうのは、当時のローマ教皇の名前からきている。そして、ガリレオが活躍した17世紀よりも前、16世紀の人間だ。つまり、ガリレオの地動説モデルを否定したときのキリスト教は、1年を365.2425日という精度で定めていたんだよ」
「じゃあ、なんで、キリスト教は天動説にこだわって、ガリレオをいじめたの?」
「ガリレオの地動説モデルには誤差があったからだよ。ガリレオは惑星軌道が真円であると主張したが、実際は楕円軌道だった。ガリレオは決して真理にたどりついちゃいない。そのくせ、ガリレオはケプラーの説を否定したんだよな。そういう経緯を知らずにガリレオが宗教の被害者っていうのは――」
「ケプラー? 誰それ」
「その楕円軌道を発見した天文学者だよ。そもそも、惑星の不規則な動きは、天動説モデルでも十分に説明できたんだ。わざわざガリレオの不完全な地動説モデルを採用しなくても問題なかったんだ。例えば、アルマゲストでは惑星の動きが天動説で説明されている。ちなみに、アルマゲストというのはアラビア語だけど、それを書いたのは古代ギリシャ人だ。なぜ、アラビア語で呼ばれているのかといえば、当時のイスラム圏が――」
「ちょっと話を広げすぎないでよ」
私は頭をおさえながら、
「私はただ、地動説を発見したエピソードが知りたいだけで」
「それが知りたければ、天動説についても、ちゃんと知らないといけないんじゃないか? かつて人々が信じていた宇宙の構造を」
「はぁ? 天動説はまちがってるんでしょ? なんでそんな仕組みを知らなければならないのよ? 私たちにはもっと知るべきものがあるのよ。電子レンジの仕組みとか!」
「でも、おまえは地動説を知識として知っているだけで、天の川を雲だと思っていたし、惑星がどれほど明るいかも知らなかった。そりゃ古代の人は、土星に輪があることも知らなかったし、地球が太陽のまわりを回っているとも知らなかった。でも、おまえよりずっとマジメに空を見てきたんだ。そして、それぞれの星の位置から様々なメッセージを――」
「もういい!」
私はたまらずにそう叫ぶ。これ以上、こいつの話を聞くと、熱が出て倒れてしまいそうになったからだ。
そして、あらためて思った。こいつは本当にものを教えるのがヘタだな、と。
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