情報熟練者/自分の恋心を、あいつは知らない
夕食を終えた遥香は、ジャージに着替えた。そして、ぱしんと頬を叩き、リリィを見て頷いた。
ウォーキングは最近始めた彼女の日課の一つだ。
何故部活で充分に運動している彼女が、わざわざまたウォーキングなどするのか。
それは自宅での勉強の出来が芳しくなかったことに原因があった。リリィが来てからと言うもの、勉強もよくやるようになった遥香だが、いかんせん集中力が足りずに思い通りに成績を伸ばせていなかった。それをリリィに相談すると、夕食後の軽いウォーキング後の勉強を奨めてくれた。
「よし。今日は英文を覚えながらやろう、リリィ」
そのウォーキングの間には、リリィが最近の授業で使われた英単語や語呂合わせなど、シンプルな問題を出していく。それは遥香にとってはかなり効率が良く、また楽しく学習できていた。
そんな様子を彼女の母はとても楽しそうに眺めていた。
「いってらっしゃい。お風呂入れておくわね」
「うん! 行ってきまーす!」
元気よく玄関の戸をくぐり、遥香は近くの公園に向かっていった。
「現在かんりょーハブ過去分詞ーかっこかんりょーはハド過去分詞ー」
小声で軽やかに歌いながら遥香は歩いていく。
「adjustは調理する……だっけ? あれ、それはcookだっけ?」
リリィが正解を表示した。
「そうそう。調整だった……えーっと、例文としては……」
リリィとそんなことをしていると、あっという間に公園に彼女らは到着した。遥香は目をぱちくりとして、スマホで時計を見た。
「うわ。あっという間だ……んー、もうちょっと歩きたいけど、あんまり運動しすぎてもなぁ」
足を止め遥香は少し考えた。
ぴこん。
運動しすぎは今後の勉強に支障あり。
「えーっと、心配してくれてるんだよね? 馬鹿にしてるわけじゃないよね?」
ぴこん。
どっちだと思う、
「もう……あんた準決勝以来生意気じゃない?」
遥香とリリィは似たような微笑みを浮かべ合った。
「まぁ戻ろっか」
遥香が回れ右をすると、早歩きで進む正詠が彼女の目に入った。
「お。まっさよっみー!」
名前を呼ばれた正詠は、横目で遥香を見て驚いたような表情を浮かべた。
「何してんのさ、正詠……って、それ」
正詠の手にはもう一つSHTITが握られており、彼の肩には二体の相棒がいる。
「あ、あぁ母さんの
正詠の肩にいる母の
「あーあーこれじゃあ正詠の肩から落ちちゃうよ」
「そう……だな」
そのまま去ろうとした正詠の腕を遥香は半ば無意識に掴んでいた。
「あ、そ、えっとさ……」
あぁもう、私はなんて軽率なんだ。太陽の腕を掴むのとは違うってのに。
彼女の心臓は早鐘のように鼓動を打ち始める。しかし、せっかく掴んだこの手を離すのも、彼女は躊躇っていた。
「英語でわかんないことあってさ、ちょっと教えてよ。そこのベンチで」
大丈夫。大丈夫。
彼女は〝いつものように〟自分を誤魔化す。
「仕方ない奴だな、お前は」
弱々しい笑みを浮かべて、正詠は遥香の頭を撫でた。
「汗だくだから気持ち悪いでしょ?」
「まさか。お前の努力の証だろ」
太陽とはまた違うことを言った彼に、遥香は頬を膨らませた。
「なんだよ、俺悪いこと言ったか」
「別に。あんたも太陽もなぁんか私のことを子ども扱いしてるよね」
別に嫌じゃないけど。
そんなことを彼女は言わない。
「で、何だよ。英語でわかんないことってさ」
「うーん。長文問題が全然ダメでさぁ」
「お前昔からそういうの苦手だよな。というか文系全般」
「面倒なんだもん」
「お前なぁ」
正詠はため息をついた。その姿はいつものようで遥香は正詠とは違う安堵のため息をついた。
「なんだよ、お前もため息か?」
「何でもできる正詠とは違うの」
「何でも……できねぇよ」
ざぁっと風が吹いた。
「……どうしたのさ、正詠」
「なぁ遥香。お前んとこさ、両親は相棒のことどう思ってる?」
正詠の唐突な問いかけに、遥香は頭を傾げる。
「んー……お母さんもお父さんも、私と同じ……じゃないかな。何ていうんだろ、友達というか悪友みたいな?」
遥香は両親の相棒に対する態度を思い返した。父の相棒はよく皮肉を漏らしながら、いつも適切な助言をしていた。それを聞いた父は熟考しながら、黙って頷くこともあれば、真剣に意見を返すこともあった。母は相棒とよく趣味の編み物をしていた。最近の流行りや、伝統的な編み方。傍らにいる相棒も、テラスのように一緒に編み物をしているのを、子供の頃よく眺めていた。
「太陽のところとか、日代のところとか、平和島のところとか。どうなんだろうな」
「……何かあったんでしょ?」
「何でもな……いいや、すまん。両親のことで相談したい。いいか?」
ぽかんと、遥香は正詠を見た。
「なんだよ」
「どうしたのさ、いつものあんたならそんなこと言わないじゃん」
「……信じてもらえない、話してもらえない苦しさってのを、お前や太陽が教えてくれたろ。だから俺は今後話すって決めてる」
「ふーん……」
あぁもう。この高遠正詠って男は本当にもう。何でこんなにカッコいんだろう。
しかし勿論口にはできなかった。それは恥ずかしからでもあるが、彼があまりにも真剣な表情をしていたからという理由が、一番大きい。
「バートン……あっと、母さんの相棒がさ、泣いたんだよ」
「うん」
「母さんがいなくて、父さんに預けようとしたらさ。『母さんがいい』ってさ」
「うん」
「それを聞いた、父さんがさ、『機械のくせにわがままか』って言うんだぜ? 信じられるか? 相棒にはさ、感情があるのにさ……」
正詠は言葉をゆっくりと紡いだ。それは涙を堪えているようにも、怒りを抑えているようにも、そして、必死に悲しみを押し殺しているようにも見えた。
「正詠のお父さんとお母さんってさ、確かお医者さんだよね」
「あぁ……医者なんだよ。俺にとっては、最悪さ」
どんなに情報が進んでも、機械やプログラムに任せられない仕事はある。
それは〝人間〟だからこそできる、曖昧さこそが味となる芸術、突飛な発想や柔軟性のある創作、同じ種族だからこそ分かち合えるメンタルケア。
そして……〝感情〟のある機械に等任せられない、医療。
全てを効率的に行えるプログラム。手術も、勿論生死の判断も。人間は……非常に理不尽だ。生死に関わるのだから失敗はするな、だが肉体だけでなく心もケアしろ。休むな。怠けるな。逃げるな。屈するな。助からないとわかっても、絶対に〝諦めるな〟。
それが機械にできるわけがない。いいや、出来るわけがないと〝証明〟されたのだ。
「父さんも母さんも、医者になることを決めたのはあの事件のときだったと聞いたんだ」
SHTITが普及し始めてからまだ十数年しか経っていない頃、ある事件が起きた。
それは〝
――脳と心臓を交換しましょう。救えます。
誰もがそのようなことを考えなかった。誰もがそのようなこと〝望みもしなかった〟。最高で最低の、今ある全ての技術を用いた〝延命〟という名だけの治療を。
――救いましょう。
たった一人の相棒の意見に、他の医者の相棒は同意した。そしてそれは人間も同じだった。何も考えなかった。何も考えたくなかったのだろう。だから、彼らは……相棒の傀儡となって、この女性を救ったのだ。
「傀儡医療だっけ? あれから医療規則が変わったんだよね」
「あぁそうだ。倫理に、道徳に反するからと、医療関係では相棒の使用は制限されている。皮肉だよな、最高の技術を要する医療において、最高の技術は道徳に反するから排斥されるんだぜ」
自嘲気味に正詠は笑った。
「だから、かな。父さんの相棒も母さんの相棒もロビンとは違うんだよ」
正詠はバートンへと視線をずらす。バートンはロビンとリリィに遊んでもらっていた。配布年数から見れは圧倒的にバートンの方が長いというのに、まるで子供のように。
「なぁ遥香。お前はどう思う?」
難しい問いかけだった。
道徳などについての問いかけか、彼の両親に対する意見か、はたまた
「んー……人それぞれが正しいと思うことをすればいいんじゃない?」
「は?」
「だって私と正詠は違うし、おじさんもおばさんも違うもん。でも……きっと想いは伝わると思うな」
あぁきっと、初恋というものは本当に唐突なのだ。
しょうもない一言、どうしようもない一言で、少年少女は恋をする。しかしその一言が、一人を救ったことには間違いないのだから。
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