第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART8
8.
ホールを出てホテルに向かう。部屋で荷物を整理してベッドに転がると、不安が募っていく。
……ストーンウェイでオレは演奏することができるのだろうか?
胸を抑え気持ちを沈めていると携帯が鳴り響いた。美月からだった。初日ということでみんなでご飯を食べようという内容だ。
ロビーに降りると、すでに三人の姿が見えた。
「せっかく集まったんだしさ。火蓮は練習ができないし、水樹だってそうでしょ? 私達二人で個人練習するよりもこうやって4人で結束力を強めた方がいいんじゃない」
本来ならそれでいいだろう、だが自分と火蓮はすでに舞台に立っている。これ以上近づく方が問題に発展しかねない。
「そうね、私もそっちの方がいいと思う。みんなでちょっと散歩でもしながらさ」
風花は小さく手を上げながらいった。
「そんなにお前らは東京の夜を満喫したいのか、仕方ないな」
火蓮はやれやれと手を振って承諾している。彼はそのまま水樹の肩を掴んで呟いた。
「……今日くらいは羽目を外そうじゃないか。でないと来週まで持たないぞ」
◇◇◇
ホテルから出てしばらく歩いていると、洒落た店が一件あった。どうやらイタリア料理らしい。
美月は中に入り店員に指で人数を示している。その後、こっちに向かって手を振ってきた。どうやら空いているらしい。美月を追いかけるようにしてテーブルに着く。
「来週の年末コンサートの成功を祈って乾杯っ」
ビアグラスのカツンという音が店内に響いた。
久しぶりの酒に周りの目を気にせず一気に飲み干した。体全体に染み渡っていき何ともいえない高揚感を味わった。
「やっぱりこっちは華やかね。なんかビールの味も一味違う気がするわ」
美月もぐいっと飲んでおかわりを頼んでいる。
「何いってるの、美月は小さい頃こっちに住んでたんでしょ?」
風花はつまみのチーズを小さくちぎって口に入れている。
「そうだけどさ、もちろんこんな大舞台は初めてよ。しかも私がコンサートマスターでしょ? 20名以上のプロの音を合わせるなんて、いやでも緊張するわ」
「お前が失敗する所なんて考えられないよ。一度もリズムを狂わせたことなんてないじゃないか」
火蓮がフォローすると、美月は口元を歪ませて頷いた。
「私だって崩れる時は崩れるのよ。あなたこそどうなの? 明日からリハーサルでしょ。あんな大人数を操るんだもの。怖くないの?」
「俺だって怖いさ。だからこそ、このコンサートのために親父が使っていたタクトを持ってきた」
父親が使っていたタクトが目の前にある。彼は普段の指揮では指揮棒を使っておらず、代わりに年末のコンサートでは指揮棒を使うというのは有名な話だった。
「凄いわね。親子の夢の競演というのも、あながち誇張ではないみたいね」
「本当は父さんみたいに指揮棒を使わないで指揮を執りたいんだけどな。日本を代表する指揮者もタクトを使っていないだろう? やっぱりあっちの方が観客からみたら迫力があるもんな」
「新米の指揮者が何をいってるの」
「確かに。聞かなかったことにしてくれ」
そういうと二人は大きく顔を見合わせて笑った。同じテーブルにいるとは思えない孤独感を味わってしまう。
「そういえば観音寺海のタクトっていえば、愛好家にとっては数百万はするって聞いたことがあるわ」
美月が思い出すようにいう。
「そんなわけないだろ。どこでそんなこと聞いたんだよ」
「観音寺海っていったら私達の親の世代では有名らしいよ。お父様もよくCDを聴いているの。第一、海さんが扱っているものはもう手に入らないだろうし……」
「美月、それ以上は……」
風花が制したおかげで自分の腕は止まった。これ以上彼女が話していたら、間違いなく腕を振り下ろしていただろう。
「……ごめん、少し喋りすぎちゃったみたいね」
「過ぎたことだ、気にしなくていい」
火蓮は火をつけて煙草を吸い始めた。煙の誘惑が立ちはだかる。今日はさすがに我慢できない。
「火蓮、オレにも一本くれよ」
「水樹、どうしたの? 煙草なんて吸ったことないでしょ?」
風花の視線を受けても、体がいうことをきかない。これ以上我慢したら、自制がきかなくなりそうだ。
「たまにはいいだろう」
風花の手を遮り思いっきり煙草をふかした。そのまま全力で吸い込むと胸一杯に煙が浸透していくのがわかる。
……堪らなく心地いい。
久しぶりに体が満たされていくのを感じる。神経がゆっくりと落ち着いていく。
風花は何か文句をつけようとしていたが、何も咎めなかった。
不穏な空気が辺りを流れる。誰もしゃべらず黙々と料理を口に運んでいるからだ。
「さっきの水樹の演奏はなんか感じが変わってたよね」
美月が話題を変えようと声を上げた。
「なんかこう、今までは柔らかいイメージだったのに、さっきの演奏は情熱的だったわね。指の動きが早すぎて、私の目じゃ追いつけなかったし」
「それだけ真剣にやっているだけだ。美月は凄いよ、全くリズムを変えることがないんだ。よっぽど感情がないんだろうな」
心の声を漏らすと、隣の風花から熱い視線を感じた。睨んでいるといってもいい眼光だ。
……これ以上、何かいわれたら崩壊しそうだ。
この感覚はオレのものじゃない。まるで蝋燭の火が消えかかっているように、残り少ない魂の
「どうしたの? そんなに突っかかることないじゃない。私は本当に水樹のことを心配して……」
頭に激しい血が上っていき、先ほどの演奏が脳裏を過ぎる。美月に心配されるほど自分の演奏は悪かったというのか。
「ああ、そうか。オレが一人で独奏するのがそんなに面白くないか。そうだよな、ヴァイオリンなんて一人じゃ何もできないしな」
さすがに彼女も挑発に気づいたようだ。長い髪に巻きつけていた指を離して拳を作っている。
「何一人でナーバスになってるのよ。思い通りに弾けないからって人に当たらないで」
「なんだと? もう一度いってみろよ」
気がつくと美月の胸倉を掴んでいた。
「おいおい、やめろよ。どうしたんだ水樹も美月も」
火蓮が割って入ってきたが、それすらも気に食わない。
「何だよ、火蓮には関係ないだろ。親父の大事な遺品を自慢できて満足したんだろう? お前は引っ込んでろよ」
「どうしたんだ、水樹。いつものお前らしくないじゃないか」
……こんな時でも演技ができるんだな、さすがだよ兄さん。
だけど――。
「それがいらつくんだよっ」
美月をほどいて、火蓮を思いっきり殴りつけた。火蓮は宙を舞って後ろのテーブルにぶつかり床に叩きつけられている。テーブルに座っている客が奇声を上げてこちらを遠目から眺めている。
……自分でもわからないんだ。何が正しいのか、どうしたらいいのか。
誰か教えてくれよ、オレは一体――。
「火蓮、大丈夫?」
風花が火蓮に駆け寄っていく。彼を抱え込むようにして水樹に背を向けている。
……やっぱりか。お前はオレじゃなくて、やっぱり兄さんをとるのか。
「風花! お前はオレの彼女だろ? あいつの味方をするのか」
「何いってるの? どう考えても悪いのは水樹よ」
……ああ、そうか。風花にはオレが火蓮だってことがわかっているから、そんなことがいえるんだよな。
「……そうだよな。オレがいけないよな。火蓮だけ生きていればこんなことにはならなかった。オレも父さん達と一緒に死んでいればよかったんだっ」
風花は火蓮から手を離し、自分の前に立った。
「……どうしたの、水樹? 水樹はこんなこと、する人じゃないよね?」
「こんなこと? オレは一体、どんな人間なんだ?」
もうごまかす必要はない。全部吐いたらいいんだ。どうせ風花はオレの方に振り向かない。早く楽になりたい。
「教えてくれよ。オレの名は――」
「ごめんな。お前の下手なパンチなんかで倒れるからみんなをびっくりさせてしまった」
火蓮は立ち上がりながら周りの人に謝り始めた。
「悪い悪い。ちょっと大袈裟に倒れすぎたよな」
火蓮はそういって自分の肩を掴んだ。抵抗できない程、強い力だ。
「……あと少しの辛抱だ。それまで頑張ろう」
彼の瞳には凄まじい光が宿っていた。圧力に屈し頭を下げる。
「……オレの方こそ悪かった。すまないが、先に帰らしてもらう」
振り返らずに出口に向かうと、目の端には風花が泣いている姿が映っていた。だが声を掛けることすら、今はできない。
外はどんよりとした雲で覆われていた。ひんやりとした風が冷たく、一瞬にして意識が冷静に戻っていく。狂気への天秤はすでに消え去っていた。
……あと少しだけ我慢すればよかったのに。少しだけ、少しだけでよかったのに――。
導火線に火が点いたように自分の感情を制御できなかった。明らかに自分ではない何かに体をのっとられているようだった。
近くにあるベンチで嗚咽する。火蓮だって苦しんでいるのに、彼こそが一番辛いとわかっているはずなのに改めて自分の弱さに悔いるしかない。
ピアノが弾けなくなってもいい。今までの功績をなくしてもいい。ただ風花と一緒にいたい。それだけなのに。
彼女の細い体を折れるくらい抱きしめたい。飽きるまで彼女の唇を奪いたい。力尽きるまで体を重ねたい。声が枯れるまで愛の言葉を交わしたい。
風花の隣で年をとりたい。
なのに、どうしてオレじゃないんだ。
どうして――。
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