第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART9

  9.


「昨日はごめんなさい。父親の話をあんな風にされたら誰だって怒るよね。私が軽率だったわ」


 後ろを振り返ると美月が頭を下げていた。


「……僕の方こそ悪かった」


 水樹はピアノの椅子に座ったまま頭を下げた。


「演奏が上手くいかなかったからといって、人にあたるのは最低だ。どうか許してくれ」


「じゃあお互い様ね」


 そういって美月はにっこりと微笑んだ。


 翌日からの練習には昨日の尾が引いていた。火蓮はいつも通りすました表情で指揮台の上に立っているが、彼の指示には距離を感じた。


 コンチェルトの場合は指揮者とピアニストの距離は皆無といっていい。ピアノの真横に指揮台があるからだ。それでも彼の指揮が見えにくかったのは、わざと自分の目線を外しているようだった。


「そういえば神山先生はコンサートを見に来るの?」


「うん、来るといっていたけど。何か急用でもあるの? 体の調子が悪い?」


 美月は不審そうに見つめてきた。


「いや、そんな大したことじゃないんだ。先生は肉体があれば魂は入れ替わらないといっているんだよね?」


「そうみたいよ。お父様と話している時は、だいたいその話ばっかりだもの。本当の所はどうか私にはわからないけど」


「先生に伝えておいてくれよ。その仮説は外れていると」


「えっ、それ、どういうことよ?」


 水樹はそれ以上、何もいわずに席を離れた。



 ホールから出ると、火蓮が仁王立ちをして待っていた。先程の練習とは違って朗らかな顔をしている。


「水樹、ちょっと一杯付き合ってくれないか?」


「……兄さん、オレに酒を薦めるとはいい度胸だね」


「まあ、そういうな。昨日の仲直りも含めてだ」


 後をついていくと、昨日入った店が見えたが、そこには入らなかった。


 隣のバーに入ると、音楽は何も掛かっておらず、薄暗い照明の下にグランドピアノが置かれているだけだった。


「……何の話があるっていうのさ? こんな所で」


「まあ、とりあえず何か飲もうや」


 火蓮は店員に合図を出すと、ビールを運んできては徐に音楽を掛け始めた。


「なあ、お前は髪がすっきりした女性の方が好きだったよな? 風花みたいにさ」


 予想していない質問に戸惑う。


「夢の中の母さんはどんな髪型だったか? 短かったか」


「夢の中で見た母さんの髪は……短かったね」


「そうか。でも母さんのショパンコンクールの時は確か長かったよな。なぜだと思う?」


 彼の質問の意図を理解し、頬が強張っていく。


「意味なんかはないんじゃないかな。女心はわからないよ、ましてや母さんでも」


「そうかもな。俺は髪の長い母さんの方が好きだったなぁ」


 火蓮はそういってビールを一気に飲み干しワインに変えた。彼の瞳の先にはウミハのピアノがある。


「なあ、誰も弾き手がいないみたいだぜ。一曲弾いてくれないか」


「できるわけないだろう。今は必死にストーンウェイに合わせているんだ。よくそんなふざけたことがいえるね」


「ふざけているのはどっちなんだ? 俺か、それともお前か?」


 鋭く火蓮を睨み返す。しかし彼の表情は微動だにしていない。


「確かにストーンウェイに慣れてないから、今はまだ自分の感覚が掴めていない。それは謝ろう。だが後二日あるんだ。二日もあれば自分のものにできる」


「なるほど……ここまでいってもシラを切る気か」


 火蓮は自分の腕を掴んでいった。


「俺だってお前の体を経験しているんだ。もうごまかさなくてもいいじゃないか。白状しろよ」


「何の話をしているかわからない。だから何も答えることはできないな」


 火蓮は腕の力を抜き、大きく深呼吸をして低い声で呟いた。


「……お前、ショパンコンクールの時、してただろ」


 一瞬、時が止まったような感じがした。何とか笑い飛ばしたかったがそれもできない。


「何をいってるんだ。演奏中に耳栓する人なんているわけがない。どうやってピアノを弾くんだよ」


「俺だって最初は半信半疑だったさ……」


火蓮は物怖じせず言葉を返してきた。


「母さんは左耳じゃなくて右耳の難聴に掛かっていた。それがお前にも遺伝した。違うか?」


「根拠もなく、そんなことをよく推理したね。探偵にでもなれば成功するんじゃない?」


「根拠ならある。神山先生にカルテを見せて貰った。お前は事故で左耳が難聴に掛かったといっていたがそれは本当だろう。だが右耳も悪かった。だからお前はコンクールの時にどちらの耳も塞いで演奏したんだ」


 ……神山先生に見せて貰った、か……。


 火蓮の言葉は嘘だとわかる。神山はそんなことはしないし、それに外科が内科のカルテを見せるわけがない。


 しかし面白い推理だ。


「なるほど。仮にその推論が正しければ、どうやって兄さんの声を聞くことができるんだろうね? 両方とも聞こえないのであればこうやって会話すらできない。違うかな」


「そうだ。だから俺は半信半疑だったんだ……」


 火蓮は弱った声を上げながら頭を掻いた。


「しかし今日の練習を見て確信した。お前はピアノの音を聞いて練習していない。手の感触だけでピアノを弾いていたんだ。思えば、お前のピアノは他とは一線を越えていた。理由は簡単だ。最初からどっぷりと浸かれるのは、お前が最初からで創造していたからだ」


 ……だから火蓮は今日の指揮でわざと見えにくいように演じていたのか。


 そう考えれば彼の動きに納得がいく。


「会話になってないな。僕はどうやって話をしているかと訊いているんだ」


「それはどちらもだからだ。お前はどっちの耳も普段は聞こえるのだろう。だがピアノを弾いている時に耳が聞こえなくなることを恐れた。だからピアノの音でなく鍵盤の感触で弾いているんだ」


「詭弁だね。本当にそういった才能があればよかったよ。それはない」


「じゃあショパンコンクールの時についていた黒い粘土はなんだ? あれから俺はあの粘土を調べたんだ。すると精度の高い耳栓だってことがわかった。普通の耳栓じゃ微かに音が漏れるらしいからな」


「くく、素晴らしい……。音を聞かずに鍵盤を鳴らすピアニスト、最高の肩書きじゃないか。仮にも僕は優勝者だよ。耳栓をしていたのは他の演奏者の音を塞ぐためだ。コンクールに出る人物ならよくやっていることだ」


「お前はそんな逃げるような真似はしないよ。ピアノのことになるとプライドが高くなるからな」


 そういって火蓮は煙草に火を点けた。


「本選の時にお前はなぜ体調が悪くないのに休んだんだ? それはその前にお前と同じからだろう。お前の前に演奏したヤン・ミンは『第二番』だったよな」


 彼女の名前を聞くだけでいいようのない感情が生まれていく。この感覚は嫌いだ。


「だから何だというんだ? 兄さんがいった通り、僕の前に協奏曲『第一番』を演奏する人物はいなかった。それが何になるというの?」


「お前は内心焦っていたんだろう。心の方は万全ではないから、あながち仮病とまではいわないがな。確率でいえば50%以上だったんだろう。だがお前の賭けは外れ、切り札を使うことになった。次の日に演奏することにし、前日の『第一番』演奏者のデータをとることにしたんだ」


 それに、と火蓮は付け加えた。


「何といったってフィルハーモニー管弦楽団が演奏するんだからな。前日のデータさえ取れれば、お前は完璧に演奏を行なえる」


 背中には冷えた汗が流れていた。体が無意識のうちに震えている。


「何がいいたいのかわからないな。はっきりといってくれないか」


「さっきいったじゃないか。お前はピアノを弾く時に音を聴いていない。指の感触だけでピアノを弾いているんだ。協奏曲を弾く時は指揮者を見て弾いていた。だからお前が得意な二番ではなく、一番を選んだ」


「まったく大した推理だ。そんな凄技ができる人物がいたらお目に掛かりたいね。考案して実践した人物は余程天才か向こう見ずの馬鹿だ。リズムが狂えばそれで演奏は終了する」


「実践したのはお前が初めてじゃない。最初にやったのは母さんだ。お前は母さんのビデオを見てそれを思いついたんだ」


「ビデオにそう書いてあったの? 私は耳を塞いで演奏しますと」


「まさか。そんなわけがない。プライドの高い母さんがそんなことをするわけない。きっと父さんにも黙っていたんだ。お前が黙っていたようにな」


「やっぱり兄さんは名探偵だよ。確証もなしにそこまで考えれるなんて本当に凄い。ホールでの演奏後は探偵事務所を構えればいい」


 鋭くいい放つと、火蓮は大きく深呼吸をして再びこちらを見た。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「やはり最後までいわないとお前は認めないか。ここまでいわなくてもいいと思ったが、最後までいうぞ」


 部屋の空気が一段と重くなる。曲の終盤で火蓮は空咳を交えた後、告げた。


「……ストーンウェイだ。お前が必要以上にストーンウェイを拒絶する理由がわからなかった。文化祭の時、女生徒が俺に花束をくれた時にこういったんだ。 とな」


 ……あの生徒か。


 水樹は歯を食い縛りながら火蓮の話を聞いた。


「今日の練習で確信した。お前はウミハで培ってきた鍵盤の感触を狂わせてまでストーンウェイを弾いている。このまま今回の演奏を乗り切ったとしても、二度とピアノを弾くことができなくなるぞ。お前はそれでいいのか?」


「そんなことがあるわけないだろ。それは全て誤解だ。ただ単純にストーンウェイを弾きなれていないだけだ。じきに慣れるさ」


「慣れた頃にはお前はピアニストとして生きていけなくなる。お願いだから、捨て身にならないでくれ。日本に身を置くといったのもウミハのピアノで演奏するためなんだろう? このままじゃお前、本当にピアノが弾けなくなるぞ」


「仮にそうだとしても、オレは元々ピアノは弾けない。オレはカレンだからね」


 グラスで喉を潤すが、味は全くわからない。


「別にいいじゃないか。兄さんが僕の体に入ったからといって感覚が変わることはない。兄さんはミズキ、そのものなんだから」


「諦めるな、水樹。自暴自棄になって今まで作り上げてきたものを一時の感情で壊すのか?」


「すでに壊れているよ。兄さんこそ今のうちに美月をものにした方がいい。なぜ彼女と付き合わないんだ? それはやっぱりオレに義理立てしているのかい?」


「それは……仮の話だ。まだ真相はわからない」


「じゃあ、オレが風花を奪ってもいいの? 今からでもオレが声を掛ければ一夜を共にすることができる。悔しくないの?」


「俺にだって思い出はある。だが今までだって我慢してきたんだ。最後の公演まで粘ってみせるさ」


「ふん、それならそれで構わないよ」


「頼む、水樹。お前はストーンウェイを弾かない方がいい。俺達の考えが間違っていたら、お前は二度と舞台に立てなくなるぞ。頼む、兄貴からの一生の願いだ」


「ここで諦めるということはピアノ自体を諦めるということさ。オレは諦めない。必ず成功させて風花の心を掴む。それがオレの最後の願いだ」


「水樹……」


「……それに兄貴はオレだ。君じゃない」


 火蓮の表情が絶望に変わっていく。


「……わかった。そこまでいうのなら俺はもう止めない」


「ああ、そうしてくれ。こちらも変える気はない」


 火蓮はそのまま何もいわずに店を出ていった。


 水樹は残った酒を一気に呷った。体が焼けるほど迸っていた。

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