第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART3
3.
……ああ。そうだったのか。
心の隅に留めていた記憶を思い出す。火蓮は一年前にも同じことをして自分の意識を尋ねてくれていたのだ。
あの時も、確か――。
――1年前、風花と三人で飲んだ次の日だった。風花にショパンコンクールのことを説明しておらず、風花の機嫌を損ねないように応対していると、火蓮を家から追い出す形になってしまった。
次の日に詫びようと玄関で火蓮の帰りを待っていると、彼は特に怒っておらず蕎麦とうどんを買ってきているだけだった。
その時自分は迷わず蕎麦を選んだのを覚えている。特に彼の表情に変わりはなかった。
あれは……ただ食べ物を選ぶだけじゃなかったんだ。
どちらを選んで生きていくのかという確認作業を仄めかしていたのだ。
「……僕は正直にいったら、蕎麦が食べたい。だけどそれは許されないと思っている」
「なぜだ? 遠慮しなくていい。蕎麦を食べればいいじゃないか」
「そういうわけにはいかない。兄さんはさ、本当は……蕎麦を食べたいんでしょ?」
「俺はうどんでもいい。お前が好きな方を選べ」
「いいや、違うっ。兄さんは本当は蕎麦が好きなはずだ。兄さんは前から知っていたんでしょ? 一年前からずっと……」
火蓮は自分よりもずっと前に気づいていたのだろう。だが彼は折れずに火蓮としての人格を失わなかった。
彼のきっかけはきっと劇団の指揮をとったことだろう。ヒヒの言葉が蘇る。
――過去は痛いものだ。しかしそれが本当の自分である。痛みから逃げずに今の自分の使命を果たさなければならない――
この言葉こそ火蓮を激励していたのだと気づく。4人で食事をしていた時にも同様の言葉を発していた。
「アメフトの選手には必ず一つの使命があるんだ。皆それぞれの役割を全うして初めてチームを組むことができる」
この使命という言葉が火蓮を変えたのだ。
彼の使命は火蓮として生きて風花を守ること。
自分に与えられた役割を彼は全うしようとしたのだ。きっと元の体への葛藤があったに違いない。毎日彼女と仕事で顔を会わせても触れることさえせずに、弟との遠距離恋愛を応援した。自分が留学すれば風花を一人にしてしまう、そう考えてフランス留学を止めたのだろう。
全ては火蓮としての使命を果たすために――。
「兄さん……。今まで本当にありがとう」
火蓮は意味がわからないといった表情で笑った。
「どうしたんだ? 何かめでたいことでもあったのか」
「……そうじゃない、そうじゃないんだ……」
火蓮は留学は博打といっていたが、彼の成績であれば博打ではないと思っていた。何かわけがあると思った。それがまさかこんなことを考えていたなんて。
そんな気が滅入るような毎日を繰り返して来てそれでも自分に対していい兄貴を演じてくれていた。
いや、今もだ――。
「今まで兄さんに迷惑を掛けて来たことを謝りたくなったんだ。僕が本当に駄目な弟だと気づいた。それで急に礼がいいたくなったんだ」
「そうか。水樹は本当に子供だからな。もっと俺のことは褒めていいぞ? 俺の苦労は底なしだからな」
「本当にそうだと思う。だからこそちゃんと謝りたい。気がつかなくてごめん」
そういうと、火蓮は嬉しそうに笑った。
「そうかそうか、やっと気がついたか。お前も本当にいい兄貴を持ったよな。わかった所で飯を食おう」
きっと自分がが気づいていなければ、他愛もない食事の話題で終わるつもりだったのだろう。そのためにこんなまどろっこしい茶番を行なっているのだ。いつの日か自分の記憶が戻ることを待って――。
火蓮は自分の方からうどんを取ろうとしていた。しかし水樹の方が耐えられなかった。
「もういいんだ。もう自分を偽らないでいいんだ、兄さん……」
火蓮の手を掴み懇願した。
「何がいいんだ? じゃあ今日は蕎麦を貰おうかな」
「そうじゃない、もう火蓮を演じる必要はないといっているんだ。僕にはわかっている」
「何をいってるんだ、水樹」
そういって火蓮は煙草に火を点けた。彼の部屋には煙草が一箱しか残っていなかった。いつもカートン買いをしていた彼がだ。特別に考えていなかったが、煙草を吸うことにも疑問を感じていたのだろう。
「兄さん、本当はピアノが弾きたいんじゃないの? コンサートの時に確信したんでしょ?」
「そんなわけないだろう。人格の転移で少し混乱しているようだな。俺は火蓮だし、この先もずっと火蓮だ」
「じゃあなぜ留学を止めたの?」
「それは前にも話した通り――」
「違う、兄さんはこの一年間で気づいたんだっ」
テーブルを叩き火蓮を凝視する。
「そして一つの選択をした。火蓮として生きることをだ。僕がポーランドに行く前から気づいていたんでしょ?」
「何もないさ。俺は指揮が執りたかったから仕事を選んだだけだ。百獣の王を選んだのも偶然だ」
「いや、それは偶然じゃない」
水樹は語気を強めた。
「川口先生から聞いたよ。初めから劇団の指揮を選んだんでしょ? 川口先生にお願いしたんでしょ」
火蓮は表情を変えずかぶりを振った。
「コネクションを使ったのは確かだ。だがあれは確実に決まっているものではなかった。自分の熱意で勝ち取ったと思っている」
「そんなはずがないっ」
水樹は大声で怒鳴った。
「あれだけ自分の力だけを信用していた兄さんがコネを使うはずがない。だけど理由はわかっている。兄さんは劇団のヒヒの言葉がきっかけになったんだ」
「ヒヒの言葉? なんだそれは」
「過去から逃げずに使命を全うする、というセリフだよ。兄さんはそれで自分を変えようと思ったんだ。だから留学を止めて劇団の指揮を執ることにしたんだ」
「それは違う。前にも話した通りコンクールに出るということは修行であって仕事じゃない。俺は早く社会に出たかったんだ」
「じゃあなぜ美月の申し出を断わったの? 昔から共演した時に付き合おうと決めていたんでしょ?」
「それは……」
火蓮の表情が薄くなり始めていた。それでも語気は強い。
「年末のオーケストラのためだ。その前に付き合うと不都合になると思ったからだ」
「それこそ違うよ」
水樹は大きく首を振った。
「彼女と同じ時間を過ごすためにわざわざヴァイオリン科に入ったんでしょ? 矛盾しているじゃないか。音楽のためなら付き合うのが自然だ。ずっと前からの約束を破棄する理由にはならない」
「すまない……美月に対して心が冷めたんだ」
火蓮は歯を食いしばるようにして言葉を並べた。
「恋愛でも仕事でもいいパートナーになれればと思ったがそれは叶わなかった。美月のヴァイオリンは素晴らしい。だから仕事だけでも繋がっていたくて、わざと引き止めるようなことをいったんだ」
「違う、絶対に違うっ」
体中の熱が暴走する。
「仕事で繋ぎとめるためならやはり付き合っていた方がいい。それが偽りだったとしてもそっちの方がオケは成功する。正直にいってくれ、今の体が自分の体じゃないと感じたからなんだろう?」
火蓮は一瞬黙った。そして躊躇いながらぽつりと呟いた。
「……風花のことが好きになったんだ。お前には悪いが風花の近くにいたいから百獣の王の指揮を選んだ。これでいいか?」
釈然としないが、その気持ちは本当だろうと思った。何しろ小さい頃はずっと風花と一緒だったからだ。事故がある前まで一緒にいた記憶があるのだろう。
「そうだとしてもそれはやっぱり理由にはなっていないよ。じゃあ一昨日人格が入れ替わっても風花に対して何もしなかったのはなぜなんだ? 風花は手も握ってこなかったといっていたよ」
「もちろんお前に対して遠慮したからだ。どうせすぐにばれることだし、肉体の繋がりを求めることだけが愛じゃないだろう?」
「……そうかい。そこまでいうのなら仕方ない」
水樹は二階に上がって鍵が掛かったヴァイオリンケースを持ち運んだ。
「そこまでいうのならこれの説明をして貰おう。これは兄さんが壊したんだろう?」
火蓮の顔が一気に固まるのがわかった。
「お前、鍵がないのに開けたのか? とんだ馬鹿力だな」
「冗談をいってる場面じゃないっ、兄さんの体に転移した時に開けたんだ。落として壊したなんて嘘はつかないでくれよ。これは父さんの形見なんだ。何度も叩き付けた跡がある」
「それは……」
これを見せられるとは思っていなかったのだろう。火蓮は口を半開きにしてぱくぱくと動かしていた。
「兄さんに移っている時に夢を見た。最初は僕が演奏していたと思ったんだ。でもそうじゃなかった。兄さんは僕がいない時、壊したんだ。一年前にね」
火蓮の顔に戸惑いの表情が浮かんでいく。そのまま畳み掛けていく。
「もう一つ説明を求めたいことがある。それはピアノだ。一年も経たずにポーランドに向かったからといって、これは前あったピアノじゃないことくらいわかる」
「俺は一年経ったから、調律師に頼んだだけだ。別になにも細工をしていない」
「……兄さん、僕の眼はごまかせないよ」
水樹は一つ吐息をついて思いっきり深呼吸した。
「同じピアノでも一つ一つ感触が違うんだ。車だって大量生産されても故障する部分は違うだろう? 調律しても鍵盤の感触は変わらない。それくらいのことはわかっているはずだ」
火蓮はごくりと唾を飲み込んだ。その音が沈黙の中ひどく響く。
「一年間、ここにピアノはなかった。僕が帰って来てから兄さんはピアノを準備したんだ」
火蓮から汗が滴り落ちる。しかし何もいわなかった。何もいえないといった表情していた。
「もう、隠さなくていいんだよ。この部屋の壁紙は煙草の煙で他より黒い。だからピアノがあればその裏の壁紙は白いはずなんだ。けどピアノの裏にある壁紙も黒くなっていた。つまりここに一年間ピアノは置かれてなかったということになる」
火蓮の血の気が一気に引いていく。
「このピアノはつい最近来たものだ。そうでしょ?」
「…………」
火蓮はうな垂れるようにして何も話さなくなった。
一時の沈黙が流れても、火蓮はソファーに座り込んで頭を抑えたままになった。何が何でも黙っていたいらしい。
「どうして……どうしてそこまで自分を偽るんだ」
火蓮の気持ちがまるでわからなかった。自分が逆の立場なら、間違いなく実行することはできないことばかりだった。
家に帰っては弟と自分の恋人が楽しく話しているのをぐっと堪え、わざとおどけてみせる。本来の体を得ても風花には指一本触れず、ごまかしたのだ。
自分に対してもわざと気づいていないように振舞っていた。ピアノを弾けるのが当たり前なのにわざと驚いてみたり、瓦蕎麦を水樹が作った時もわざと軽口を叩いてみせていた。当たり前のように自分に歩調を合わせていた。
それがどれだけ辛いことなのかはわからない。言葉で表せるものなのかどうかすらもわからない。
「……どうして、どうして兄さんはそこまでするんだよ……」
目から雫がぽたぽたと流れてゆく。火蓮のことを考えると胸が締め付けられ身がよじれそうだった。自分のせいだと思うと、なお一層苦しみは増していく。
長い沈黙が流れても火蓮は口を一文字に閉じていた。
「……もう限界なのかもしれないな」
火蓮は肩を落として自分の傍にきた。
「…………わかった。俺の考えていたことを全て話そう。ただし風花と美月には絶対に話さないと約束してくれ」
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