第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド PART7

  7.


 家に帰り着き、花束の包装紙を強引に破り捨てそのまま花瓶に叩き込んだ。冷蔵庫からワインを取り出し、グラスに注いで美月に渡す。


「で、話っていうのは何だ?」


「特にないわ」


美月はきっぱりといった。


「それはないだろう。何か用があったからオレを呼び止めたんだろう?」


 しかし彼女は何も答えない。先ほどの剣幕は嘘のように消えて、落ち着きを放っている。


 しばらく二人とも無言で酒を呷っていると美月の方から話を切り出した。


「そういえばあの二人、やっと結婚の話が出ているんだって?」


「ああ……。そうらしい」


今一番聞きたくない話題だった。


「結構のんびりしているわね、私はもっと早く結婚するのかと思ってた」


「まあいいじゃないか。あの二人は昔から仲がいいんだから、焦る必要もないだろう」


「……」


 美月の顔色が途端に変わる。何かを確かめるような感じで自分の顔を眺めてくる。


「……どうしたんだ? 何かまずいことでもいったかな?」


「……いや、何でもないわ」


 再び気まずい空気に陥る。無言になる前に彼女に尋ねなければならないことがある。


「今日は何でショパンの変奏曲を弾いたんだ? ショパンは退屈でつまらないといっていたじゃないか」


「……あの曲だけはね、特別なの」


美月はけだるげそうにテーブルに肘をついていった。


「中学の時に一度だけ弾いたことがあってね。その時はオリジナルのモーツァルトだったんだ。その時に仲良くなった子がいたんだけど、元気にしてるかな」


「なんだ、それから連絡をとってないのか?」


「うん。取りたいんだけど、どこにいるかもわからないからね」


「そうか……。でも音楽を通してれば出会えるかもしれないな。その子が続けていれば……必ず」


「そうだといいなぁ……」


 美月の表情は相変わらず固いままだった。下を向いて何かを考えるように押し黙っている。


 再び沈黙が訪れる。頭を振り絞って話題を練るが、中々切り出せない。


「そうだ、美月の海外遠征の話を聞かせてくれないか?」


「え? この間、話したばかりじゃない。どうして?」


「もちろん聞いたけど全部じゃないだろう?」


その答えは想定済みだ。動揺を悟られないように平然と続ける。


「オレはフランスに行ったことがないんだ。将来海外で指揮をすることもあるかもしれない。色々とヨーロッパの情報を仕入れておきたいんだ」


「……そうね」


美月は含みを持たせるように答えた。


「この間はパリの話をしたから、今度はウィーンの話をしようかな」


 美月は特に表情を変えることなく、留学の話をすらすらと始めた。しかし自分の頭には何も入らない。頭の中を回っているのは風花の現在の状況だけだ。


 今頃二人は本来の関係に戻って食事を楽しんでいるに違いない。そう思うだけで沸々と怒りが沸いていく。


 ……なるほど、火蓮が酒に溺れるのも無理はない。


 彼の心境を考えれば納得がいく。酒を飲んでいるだけで平静さを保てるようになったのは、いつからなのだろうか――。


 ……けれどオレだって風花を渡すことはできない。


 火蓮の体で強く思う。十年掛けて彼女とたくさんの思い出を気づき上げてきたのは自分だ。彼女だけは火蓮に渡せない。渡したくない。


 目を閉じると、風花との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。


 春には桜の花びらが舞い散る中、公園で手を繋いでデートをしたこと。


 夏には夜の海で波の音を聴きながら何度もキスをしたこと。


 秋には一緒に近くの山を登って、山頂で風花の手作りの弁当を食べたこと。


 冬には慣れないドレスを着こなす彼女を見ながら、ホテルの屋上レストランで食事を楽しんだこと。


 そしてその後、お互いの体を確かめ合うように何度も抱き合ったこと。


 ふうか、ふうか、風花――。


 オレには風花が必要なんだ、どうしても――。


 こんな別れ方があっていいのか……いや、あっていいわけがない。人格が入れ変わらなければ、こんな気持ちを味わなくてすんだのに。


 オレはこれから先、お前を見守るだけしかできなくなるのか――。


「……火蓮? ねえ、火蓮、どうしたの?」


「すまない。飲み過ぎたみたいだ、ちょっと酔いを冷ましてくる」


「……うん。それよりも唇切れてるよ。大丈夫?」


 唇を触ると赤い液体が滲んでいた。どうやら歯で噛み切ってしまったらしい。


「どうしたの、火蓮。やっぱり何か大きな悩み事があるんでしょ?」


 美月は唇に触ろうと近づいてくる。


「今日わざわざお父様の所にいったのはわけがあるんでしょ? 話したいことがあったら何でも話してよ、お願いだから……」


 体の奥から何かが込み上げてくる。彼女に全てを話してしまいたい。だがここで話したら後戻りはできない。


「……いいや、何でもないんだ。ただ酔っただけだ」


「何でもないことはないでしょ。じゃあ何で私を裏切ったの?」


「裏切った? 何のことだ?」


「とぼけないでっ。公演の初日だってあれだけ約束してたのに、なんで約束を破ったの……」


彼女の目には大粒の涙が膨れ上がっていた。


「……美月?」


「私だってずっと我慢してきたのよ。だけど二人のことを考えてきたから、私は今までずっと耐えてきたのよ。今までずっと……」


「何をいってるんだ? わかるように話してくれ」


 彼女の表情を見てまずいと思ったが、遅かった。


「私はずっと、この10年間あなたのことしか考えて来なかったのに……。あの日に戻るために私は今まで頑張ってきたんだよ」


 美月は決壊したダムのように話し続けていく。


「あなたに認めて貰えるようにたくさんの賞を貰ったわ。その度にあなたは褒めてくれたけど、私は技術を褒めて欲しくて賞を取ったわけじゃない。あなたと一緒になりたかったからよ」


 彼女の表情を見て驚愕する。今までにこんなプライドを投げ捨てて懇願する姿を見たことがなかったからだ。


「あなたと一緒の道を歩きたいから頑張ってきたのに。それなのになぜ留学を止めたの? なぜ留学を止めて風花のいる劇団に入ったの?」


 火蓮はなぜ美月の約束を破棄したのだろうか、そしてなぜ川口先生に頼んで劇団の指揮をすることにしたのだろうか?


 フランス留学を止めた理由。それは人格の転移しかないと思った。人格が入れ替われば再び美月を苦しめることになるからだ。


「オーケストラで同じ舞台に立った時、今度こそ付き合おうって約束したよね? なのになぜ断わったの? 他に特別な相手がいないことくらいわかってる。なのにどうしてなの?」


 公演が始まる前の争いを思い出す。火蓮と美月が争っていたのは彼女が劇団にゲストとして呼ばれた初日だったはずだ。


 まだあの時は人格の転移は起こっていない。それなのにどうして火蓮は彼女を拒んでいたのだろう。


「火蓮、何とかいったらどうなの? ねえ、どうしてなの?」


 今は取り繕わず正直に気持ちを述べるしかない。


「すまない……今は仕事に集中したいんだ。年末のオーケストラはオレたち兄弟の夢だったんだ。だからあと少しだけ時間をくれないか」


「……わかってるわよ、そんなことっ」


美月は俯いたまま、嗚咽を漏らした。


「わかってるわよ、いわれなくたtって……。あなた達兄弟だけの夢じゃなくて、私も風花も見てる夢なんだから。やっぱり……。やっぱり、そうなのね……」


 体中に悪寒が走る。美月は何をいうつもりなのだろう。自分の考えていることをいわれそうで彼女には何も訊けない。


「何で何もいわないの……やっぱり……やっぱり二人は違うの?」


 二人は入れ替わっていて中身が違うの?


 そう訊かれているように感じた。


「……どういう意味だ? 二人は違うっていうのは」


 冷静に美月に問う。彼女はたじろいだが、覚悟を決めて自分の目を見据えていった。


「二人の……中身が入れ替わっているんじゃないのと訊いてるの」

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