第三章 藍の静寂と茜の鼓動

第三章 藍の静寂と茜の鼓動 PART1

 中心を見据え、席につく。


 胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめる。


 大丈夫、今日も心を鍵盤に委ねればいい。


 目を閉じて、鼻から小さく息を吸い込んだ。


 今からここを深海に変えてみせる。会場にいる審査員を含めた全ての人間を、海の底に引きずり込んでみせよう。


 水樹は鍵盤をそっと撫でるように触れた。


 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 第三章 藍    茜

      の    の

       静寂   鼓動

         と


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


  1.


 火蓮はいつの間にか席を立っていた。


 ホール全体が水樹の演奏を讃えるように、地響きのような拍手で鳴り響いている。自分自身も無意識のうちに拍手を贈っていた。それだけ素晴らしい演奏だったということだろう。


 前列を陣取っている審査員を一瞥する。今回の審査員は誰をとっても歴史に名を残す著名人ばかりだ。ほとんどがポーランド人だったが、どれをとってももショパンにゆかりのある人物が揃っている。この中で演奏を行うこと自体が名誉のあることだな、と嫉妬を感じ唇を噛んだ。悔しいが彼の演奏を認めざる負えない。


 水樹のピアノは恐ろしくなる程の静寂を作り出していく。研ぎ澄まされた純水の中に全身が浸かっていくようなものだ。何もない沈黙が時に最高の音楽になることを彼は知っている。


 そしてまた彼は要となるアクセントを忘れない。ピアノの音が単調にならないように緩急をつけ、耳が慣れすぎないように微妙な強弱を打ち込んでくるのだ。絶妙なバランスでアクセントとなるメロディを吹き込み、さらに深い海の底に引きずり込もうとする。


 それがまた、たまらなく心地いい。


 演奏が終わっても、観客達は穏やかな表情のまま拍手を贈っていた。このホールにいる中で深海に飲み込まれていないものはいないだろう。審査員も含めてだ。


 今回はショパン国際コンクール予選の三次審査だ。この審査に通れば、いよいよ本選が待っている。


 ……審査をするまでもない。


 この場は水樹のための一人舞台だ。彼の次に弾く人物が持てる力を発揮したとしても、今回の演奏に掻き消されるに違いない。それくらい魔力を持ったものだった。


 次の人物の紹介が始まったが、そのまま席から立ち去ることにした。これ以上ここにいても仕方がないと思ったからだ。音が立たないように扉をそっと開き、水樹の元に向かうことにした。



 外に出ると、水樹が何度も光を浴びながらインタビューを受けていた。彼は戸惑いながらも拙い英語で話している。日本人の記者もたくさんいるが、現地の記者に飲まれ入り込めていない様子だった。


 ……この様子ならしばらく時間が掛かるだろう。


時間を潰すため、煙草が吸える場所を探すことにする。辺りを見回していると、水樹が大股でこちらに近づいてきた。どうやら自分に気づいたらしい。取材陣を振りほどきながら悠々と手を振っている。


「兄さん、来てくれたんだね」


「……近くに寄っていたものでね。そのついでだ。本場のミュージカルを見に行っていた」


「そっか、イギリスに行ったんだね。来るなら来ると行ってくれたらよかったのに。いつ来たの?」


「昨日の夜、来たばかりだ。ポーランドは初めてだが、いい所だな」


 微笑んでみせると、水樹はにっこりと笑った。


「そうでしょ。こんなに静かで気持ちがいい街は中々ないよ」


 自分達の後ろで現地の記者がぶつぶつと文句をいいながら、カメラを調節している。水樹が急に席を外したからだろう。だが自分には関係ないことだ。


「今日の演奏は全て聞かせてもらった。本当に素晴しかった。本選出場は間違いないだろうな。このままいけば、日本人で初めての優勝者が出るんじゃないのか。母さんの念願だった一位が……」


「それは買いかぶり過ぎだよ。僕はまだショパンに弾かされているだけだ。自分のものにできていないよ」


……やはり彼が見ている世界は深すぎる。自分にはその世界を見ることも叶わない。


 口元を緩ませた後、親指で玄関の扉を指した。


「演奏はもう終わったんだろう? どうだ、一緒に食事でも」


「そうだね、いい所を知ってるんだ。っていっても僕のバイト先になるけどね。それでいいかな?」


「もちろん。ワインが旨ければどこでもいい」


「じゃあ決まりだ。十九時にしよう。僕も荷物を一旦ホテルに置いておいてくるよ」


「了解。じゃあ十九時で」


 火蓮は振り返らずにホテルに戻った。

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