第二章 青の鼓動と赤の静寂 PART3

  3.


 ……いよいよ劇が始まる。


 指揮者である自分がタクトを強く握らなければならない。もちろん、どう握ればいいかなんてわからないが、何度も握り返しては感触を確かめて感覚に頼ろうとする。


 幕が閉まったまま、長老役であるヒヒの叫び声が上がった。意識を集中しようとすると、体が強張り震えだす。


 ……落ち着け、兄さんのためだ。


 右手にタクトを持ったままいつもの癖で目を閉じる。しばらく目を閉じていると、叫び声が楽譜のように小節を刻んでいくのを感じる。 


 力を抜いて腕をゆっくりと上げる。後はタイミングを見計らって降ろすだけだ。


 ……大丈夫。いつも兄さんを見ていたじゃないか。きっと体が覚えているはず。


 それに両耳を存分に味わうことができる。こんな機会、もう二度とないだろう。


 気がつくと右手は大きく振り落とされ、自分の指揮と共に木琴の軽やかな音が流れる。幕が開いていくに従ってフルートの音色が響き渡り、演劇者の叫びに程よく絡み合っていく。


 どうやら出だしは成功したらしい。


 叫びが歌に変わり、様々なキャラクターが唄い始めている。徐々に大きくなる音の集合体は一つに纏まるためリズムを合わせて渦を巻く。たくさんの風が一つの竜巻を作るように、音の集合体は一つの音楽へと変わっていく。


 そのまま体は誰かに操られるかのように緩やかに動き出す。あやつり人形のように身を委ねると、体の節々が音楽を奏でるために絶妙なタイミングで動いていく。


 全ての音が一つになった瞬間に左拳で幕を引く。それと同時にどっと滝が流れるような歓声が沸き起こった。拍手の音が自分の指揮を肯定している。


 ……痺れるくらい、気持ちいいっ。


 体温は急激に上昇し、もやもやとしていた心の底に眠っていた重い空気が吹き飛んでいく。まるで脳味噌が丸ごとワイン樽の中に浸かっているようだ。ピアノで味わう充実感とはレベルが違う。


 小さく手を振り、木琴にできる限り小さい音で始まるように合図をする。木琴の軽やかな音が男性の叫びと女性の叫びの仲介役となる。あくまでメインはコーラスだ。


 タクトのスピードを上げて次に入るマラカスの速度を促すように計らう。この後は打楽器がくる、なぜか次に始まる演奏が頭に浮かび上がっていく。


 唇を噛み締め、打楽器が集まっている集団に目線をやると、トイレであった恰幅のいい男性が勢いよく音を鳴らしている。


 次は少年ライオンと少女ライオンがサバンナで遊び回るシーンだ。早く大人になりたくて待ちきれない少年ライオンは、少女ライオンと激しく動き回る。


 この躍動感を表現するためには、風花のフルートの高音が一番相応しい。風花の顔を覗き込み、もっと大胆に吹くように合図を送る。彼女はそれに応じるかのように、頭でリズムをとりながら高音を吹き鳴らしている。シンバルの音が所々アクセントに入り、フルートの音色を際立たせていく。


 ……このまま一つの音に集中し過ぎると、音の洪水に飲み込まれてしまう。


 耳から脳に向かって大量の楽譜が送り込まれていく。自分が考えている以上に膨大な数の楽器が音を鳴らしていく。


 意識を冷静に保ちつつ懸命に体を動かす。このなんともいいようのないバランス感覚はとても論理で主張できるものではない。


 次に来る場面は第一部のクライマックス、父親ライオンと叔父ライオンのバトルだ。男性の絶叫が物語の雰囲気をがらっと変えてしまう。自分の予測通りに絶叫が響き渡り、テンポは二次関数のように急激なカーブを作り一気に上昇していく。


 ……体が重い。こんな短時間で疲れを覚えるなんて。


 体が鉛を背負っているかのように辛くなっていく。しかしここで気を抜くわけにはいかない、第一部のクライマックスが近づいている。


 演劇者の叫び声がオペラのように、さらに甲高い声に変わっていく。凄まじい緊張感の音色が続く中、叔父ライオンがバッファローの群れに父親ライオンを突き落とされていく。小太鼓、シンバルが特大のハンマーで叩きつけるようにガンガンと鳴り響き、悲劇へと導いていく。


 ……ようやく、前半戦の終了だ。


 第一部の終了を左拳で熱く閉じる。正直、立っているだけで精一杯だ。


 ……これ以上、体は持つのだろうか。いや、持たせなければ。


 滴る汗を拭いながらカレンになった水樹は指揮台から降りた。

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