第二章 青の鼓動と赤の静寂

第二章 青の鼓動と赤の静寂 PART1


  水樹 ➡ カレン



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第二章 青    赤

     の    の 

      鼓動   静寂

        と


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 1.


 再び蛇口を捻り水で顔を洗う。この寒い時期に冷や水で洗えばすっきりするだろう。きっと酒が残っており頭がおかしくなっているのだ。


 バシャバシャと勢いをつけて、顔にぶちまけるように水を被って鏡を見る。だが何度やっても火蓮の顔がそこにあった。頭髪はきっちりと短く切りそろえられており、シャープな顎から水滴がゆっくりと垂れ落ちている。腕を見ると、自分の華奢な白い腕ではなく筋肉質の焦げた腕になっていた。


 ……まだ夢の中にいるのだろうか。


 火蓮の部屋に戻ると、ヴァイオリンケースが二つあった。きっと一つは火蓮のもので一つは父さんのものだろう。瑠璃色るりいろの光が思い出せない父親の記憶を滲ませていく。その横には火蓮の愛用している煙草があった。


 1本だけ取り出して、火を点けて大きく吸い込んでみる。美味しい、脳が満足するように痺れ、何ともいえない気分を味わう。


 ……煙草がいけるのであれば、お酒もいけるはずだ。


 冷蔵庫から新品のワインを取り出しコルク栓を抜くと、今までに感じたことのない芳醇な香りがした。胃がもたれているのにそのままガブ飲みしたい欲求に駆られている。


 欲求を抑えながらワイングラスに注ぐ。ドボドボと赤い液体がグラスの中を踊りながら満たされていく。その瞬間に自分の喉がごくりと音を立てて唾を飲んだ。


 ワイングラスを少しだけ傾けて舌で味わってみる。


 美味しい、舌を通して体中にワインが巡るような感じを受ける。体温が上がり気分がよくなっていくのを実感する。もう一度、口に含むとついに我慢ができなくなり、そのままグラスを大きく傾けた。


 ……どうせ夢なのだ、このまま飲める所まで飲んでみよう。普段の自分にはどうせできないのだから。


 灰皿を席の近くに置き、煙草を吸いながらワインに舌鼓を打った。ワインボトルが半分くらいに減った頃、自分の体が降りて来ていた。


「おい、そこのお前。何してるんだ?」


 彼の瞳には厳しい視線があった。そこに火蓮の意思を感じた。


「おはよう、兄さん。ワインを飲んでいたんだ。一緒に飲んでみない?」


 そういうと自分の体はゲラゲラと体を揺すって笑った。


「これは夢なのか? そうか、どうして俺の腕がこんなに細くなっていたのかがわかったよ」


 二人でワイングラスをぶつけると、聞き慣れたピアノの音がした。後ろを振り返るが、ピアノの扉は固く閉ざされている。


「こんな不味いもの、飲めたもんじゃない。腐ってるんじゃないか、これ」


 火蓮はグラスを一舐めした後、冷蔵庫に向かい軟水のミネラルウォーターを口にした。彼のゴクゴクという規則正しい音が心地よく聞こえてくる。


「お前の体じゃ楽しめるのがないな。そうだ、ピアノを弾いてみるか」


 そういいながら火蓮は長い髪の毛を気にしながら鍵盤を撫でるように触っていった。


 優しい音色から紡ぎ出される音はまさしく水樹が長年に掛けて作り出した音だった。流れるように溢れ出る高音のワルツは軽やかで、子犬が玉遊びに夢中になっているようだ。



 ワルツ第6番変ニ長調 作品64-1 『子犬のワルツ』 



 火蓮は途中からテンポを遅らせてなめらかなメロディに変えていく。このフレーズがあるからこそ高音のメロディを生かすことができるのだと一人納得する。


 テンポが徐々に上がっていく。素早い動きを要求される場面でも火蓮は一つのミスをすることなく進んでいく。


 気がつけば火蓮の指は止まっていた。二分ほどで終わる演奏はあっという間に過ぎていた。


「……兄さん」


「ああ、もう認めるしかない。これはどうやら夢じゃないらしい」


 火蓮は思いついた曲をどんどんと弾いていく。


『舟歌』、『英雄ポロネーズ』、『別れのワルツ』……。


 どれもショパンで水樹が好きな曲ばかりだ。そして今まで自分が改良を重ねて習得してきた技術を余す所なく使っている。


「水樹……これはお前の体に間違いない。これは夢なんかじゃない」


 そんなことがあるはずがないという思いはある。だがこの音は受け入れるしかない。夢の中で出せる音じゃない。


「……うん。これは現実なんだろう。なんたっていつもより音が鮮明に聞こえるからね」


 火蓮は絶対音感を持っている。思い起こせば、起きてから今まで聞いた音が全て音符になって聞こえていたのだ。


 顔を洗っている時の蛇口から出る音はワンオクターブ上げたドの音の連続だった。まるでピアノにある鍵盤が全てドに変わり、その鍵盤を端から端まで撫でているような清らかな音に変わっていたのだ。コーヒーマシンのコーヒーを擦る音はラのシャープだったし、液体が出てくる時に発する電気音はシの音だった。火蓮とグラスを重ねた時の音はソのフラットが響き渡った。


 全ての音が五線譜に書き込めるように聞こえている。


「……俺もだよ。他人の耳がこんなに聞こえにくいとは思わなかった」


「よくいってるだろ、僕はピアノを弾くしか能がないってさ。しかし凄いな。兄さんは全ての音が楽譜に示せるなんていっていたけど、本当にできそうだ」


「ああ、それはいいんだが……。水樹、お前もしかして耳が悪いのか?」


 心臓を掴まれたような圧迫感を受ける。


「兄さん、何をいって……」


「とぼけないで正直に答えてくれ。お前、左耳が悪いんじゃないか?」 


「ちょっとだけね。たまに聞こえにくい時があるだけさ」 


「……どうして今まで隠していた」


 火蓮はがっくりと首をうな垂れていった。


「手術は完璧に成功したといっていたじゃないか……俺が誰かにばらすと思っていたのか? 俺を信用していなかったのか?」


「いいや、違うんだ。兄さん、きいてくれ」

 

 頭を振りながら言い訳を考える。


「生まれた時から悪かったのかもしれない。母さんが突発性難聴だったじゃないか。記憶はないけど、僕は生まれつき悪かったんだよ。それよりも兄さん、今日の講演は……」


 時計の針が一瞬にして現実へと導いていく。もしこれが現実ならワインを飲んでピアノを聴いている暇などない。


「……もちろんある。もうすぐ風花もここに来るだろう」


 このまま議論をしていてもしょうがない。今からすべきことは火蓮の体で指揮を振らなければならないということだ。


 不安そうな顔で火蓮を見ると、彼は大丈夫だと頷いた。


「俺がショパンを弾けたんだ。お前だってできるはずだ。風花には連絡を入れて二人でいこう。今日は俺が送ってやるよ」


「ありがたいけど……兄さん、その体じゃ免許がない。タクシーで行こう」


「……そ、そうだな。そうしよう」


 火蓮の部屋に入ると、着替えがどこにあるのか鮮明に浮かんできた。三段ケースの一番上はパンツやタンクトップなどの下着、二番目には上半身に着るワイシャツ類、一番下にはズボンが入っている。


 彼のものだという認識がなかったはずなのに、それが自分のものだとわかるから不思議だ。


 着替えを終えてタクシーを待っている間、不意に煙草が吸いたくなった。我慢して思考に集中していく。


 これは本当に夢じゃないのか、この状況はいつまで続くのか、はたして火蓮に恥をかかせることなく指揮はできるのか。


 ……とりあえず、この場を乗り切るしかない。


 火蓮のごつごつとした手を眺めながら思う。今日は両耳を思う存分味わえ、父親と同じように指揮が振れるのだ。未知の体験が迫っていることに大きく胸が高鳴っていく。


 彼を目の端で捉えると、どこか遠くを見るような目をしていた。今から起きることよりもっと先のことを考えているようだった。

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