第一章 青の静寂と赤の鼓動 PART4

  4.


「お疲れ様。美月の生演奏は久しぶりに聞いたけど、やはり素晴しかった。また腕を上げたね」


「君にいわれてもお世辞にしか聞こえないわよ。ショパコン《ショパンコンクール》で一位をとった君にいわれてもね」


「ごめん、そういう意味じゃないんだ。本当に素晴らしい演奏だったからさ……」


 慌てて抗議すると、美月は肩を震わせながら笑った。


「……気にしないで、いってみただけだから。水樹の演奏を聞いた後だと、何をいわれても嫌味にしか聞こえないのよ」


「そっか。それなら安心したよ。またこんなこといったら怒られるだろうけど、君に認められると嬉しい」


 劇を終えていきつけの店のテーブルに座ると、三人とも疲れきった顔をしていた。だが一日の仕事を終えた充実感で満ちている。


「ようやく美月もわかるようになったか」


火蓮はにやにやと口元を緩めながら生ビールを煽る。


「子供の頃からずっと水樹のピアノを聴いてみろ。その辺を走っている暴走族の方がまだ可愛げがある音を鳴らしてくれるよ」


「ありえない。僕の方が劣等感を持っているのに。兄さんは何の楽器をやってもそつなくこなしてきたくせに、よくいうよ」


「幼い頃だけならな。けれどお前はそのままピアノ一筋で腕を伸ばしただろう? 

 片や俺は器用貧乏だ。やっぱり音楽をやるものとしちゃ一つに秀でた方がいいよな。


 アメフトの世界でも同じだが、一人の選手には必ず一つの使があるんだ。皆それぞれの役割を全うして初めてチームを組むことができる。一つだけ極めた人間が一番強いよ」


「アメフトのルールとか知らないよ」


火蓮に牽制を促すようにいう。


「それに兄さんは指揮者として、皆をまとめ上げているんだから、それでいいじゃないか」


「そうよ、火蓮も水樹も、美月もいいわよ。あたしなんか、他の代わりがいるからね、皆の才能が羨ましい」


 風花の愚痴に、返す言葉が見当たらない。彼女の演奏は素晴らしいが、心に残るものがない。それはアクション映画のようで、見ている時は夢中になるのだが、終わった後には余韻が残らない感じに似ていた。


「そんなこというなよ、俺は風花の演奏が好きだぜ。爽やかなフルートの音色が俺の肌に合うんだ。だからお前の代わりはいないよ」


火蓮が大振りに手を振りながら口を開く。


「というか何の話をしているんだ。せっかく久しぶりに会ったんだから、もっと他の話題があるだろう」


「……そうよね、ごめんなさい」


 美月が頭を下げて周りに謝っている。


「私がちょっと水樹の冗談に突っかかったから。水樹、本当におめでとう。素晴しかったわ」


 美月の現状に驚きを隠せない。プライドの高い彼女が謝るのは初めてみるからだ。川口がいった通り、欧州の旅が彼女を変えたのかもしれない。


「僕の方こそごめん。ついムキになってしまって……」


「はい、これで仲直りね」


風花はお互いの手を合わせていった。


「せっかくだから、みんなグラスを開けてもう一回乾杯しましょ」


 風花の合図とともにグラスを空にして、皆で同じものを注文した。

 

 同じ酒を飲み切ると、皆、満足そうに肩の力を抜いた。


 だが火蓮は再びグラスをテーブルに叩きつけ、体を前のめりにした。


「皆に今日集まって貰ったのは重要な話があったからだ。実は年末のコンサートについての相談がある」


「……結局、音楽の話題なの、兄さん」


 軽口を叩くと、美月と風花は口を開けたまま静止していた。どうやら、二人にはまだ話してなかったらしい。


「まあ、いいじゃないか。俺たちにはやっぱりこの話題しかない。年末に東京でオーケストラの指揮をすることになった。それでこのメンバーの結束を固めたいというわけだ」


「え、どういうことなの、火蓮。まさか年末というのは……?」


 先ほどまで緩めていた美月の表情がこわばる。


「ああ、全日本交響楽団からのオファーが来た。そこでそのオケに風花と美月にも出て欲しい。曲はショパンの協奏曲『第一番』だ。俺たちの夢がついに実現する時が来た」


 火蓮は二人を宥めながら説明に入っていく。その度に彼女達は相槌を打ち、次々と酒を注文していく。完全に彼のペースに乗せられている。


「やっと……父さんの舞台に立てる。どれだけこの日を待ちわびたか……」


 父・観音寺海かんのんじ かいはショパン190周年記念コンサートで指揮を振るった音楽家だった。今年でショパンは200周年を迎える。その子供が世代を超えて指揮を振るというのはこれ以上の宣伝はないだろう。


「美月、お前にはコンサートマスターをして貰う」


「は? 私がコンマス?」


美月の強い視線が火蓮に降り注がれる。


「止めてよ。正気なの? あんたは残りの人生、捨てに掛かってるんじゃないの?」


「まさか。俺が全日団を纏めて指揮をする方がおかしいと思わないか? これはで固めないと成り立たないんだよ」


 火蓮が力説すると、美月はいったん沈黙し、腹を抱えて笑い始めた。


「……なるほど、そういうことね。確かにそうじゃないと、誰もついてこないかもしれない。ご年配が権力を持ってしまえば、指揮者なんてただの置物になってしまうものね」


「そう、俺一人が指揮者として踏み込んでも、20人以上の人間を纏めることはできない。しかしだ、ピアノにコンマス、そして高音のフルートが入ればそれだけでも最低限の音楽は成り立つ」


 火蓮のいってることは検討外れではない。


 コンマスのリズムを指揮者が誘導できれば、それはほぼ全ての主導権を掴んだことになる。


 そして一般大衆が興味を持つ音といえば高音だ。管楽器の中で一番高いフルートは他の楽器より明確で聞き取りやすい。そこにほぼ全面に渡って演奏されるピアノが入れば他の者もついて来るしかない。


「そこで俺達は来週の公演で一時小休止だ。残りは年末のコンサートに全て注ぎ込む」


「……ちょっと待って。水樹はちゃんと参加するんだよね?」


 風花の視線にたじろぎながらも頷く。


「……ああ。もちろん参加するつもりだ。これはずっと追いかけていた夢だったからね」


「よし、よくいった水樹。中々返事が貰えないから、焦ってたんだぜ? これでやっと肩の力が抜けそうだ」


 そういって火蓮はさらに赤ワインを注文しようとした。


「……兄さん、この前みたいに飲みすぎたら駄目だよ」


「ああ、わかってる」


火蓮は口だけで頷いたが手を止める気配はない。


「水樹はいつ知ったの? 年末のコンサートの件」


「兄さんがポーランドに来た時さ。毎日酔いつぶれて大変だったよ」


 火蓮に非難の視線を浴びせると、彼は目を反らしながら風花に語り始めた。


「凄かったぞ、風花。他の演奏者が大したことなかっただけかもしれんがな」


「どういうこと?」


 風花が尋ねると、火蓮は鼻の広げながら告げていく。


「ピアノを弾く人間というのは徐々に自分の意識を開放する方が圧倒的に多い。それは練習によって無理やり押さえつけられているからだ。


 そんな人間のピアノを聞いてみろ。途端に同情しちまうんだよ、俺は。練習の成果を見て下さい、一日十時間はピアノの練習をしてきました。どう、私のピアノは凄いでしょ? って感じにな。


 そういう奴らはピアノを弾いている時にしか音に対する意識がないんだ。そんなピアノを審査員は全て平等に同じ時間、聴かないといけないだぜ。同情という言葉しか浮かばないよ」


 火蓮は自分の理論が絶対だといわんばかりにテーブルを両手で叩いた。


「だけどな、水樹の場合は違う。いきなりどっぷりと水の中に入るように意識が持っていかれるんだ。そしてそれは最後まで終わらない。お前のピアノは独奏で最後まで物語を見せてくれるんだよ」


 頷く風花。それに合わせて火蓮はさらに饒舌に語る。


「音楽を楽しむ人間なんて一番の目的は、音の世界に入り込むためだろう? 自分を今の世界じゃない所に連れていって貰えるだけでお釣りがくるんだ。それに他の楽器を合わせてみろよ。きっと映像の向こう側まで連れていってくれるだろうさ」


「何よ、そんなピアノの前で演奏をしろといってるの? 私達はただの飾りじゃない」


美月は肩を揺らして右側の頬を上げて笑った。愛想笑いのように見えるが、彼女の機嫌がいい時に見せる表情だった。


「ああ、笑いたきゃ笑え。俺は水樹を愛してるんだ。もちろん、風花も美月もそう。皆、愛してる」


 火蓮はそういいながら、風花と美月に投げキッスを何度も送っている。


「どうやら、酔っ払いに反論しても時間の無駄なようね。何か美味しいデザートでも食べよっと」


「何だよ、人がせっかく真剣に告白しているのによ。そりゃ、ひどいだろう」


 そういって火蓮は肩の力を抜いて笑った。風花もそれに合わせて微笑んでいる。


 結局、皆で同じデザートを頼み食事を終えることになった。


 久しぶりの友人との夕食は、失った記憶さえ蘇らせてくれそうなくらい心地がよかった。

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