bread-23 一番会いたい人

 泥を含んだ水滴がバシャバシャと跳ねる。


 家の車は母が婦人会に行くために使ってしまっていたけれど、お店の車を使うことだって出来た。


 でも……それをしなかったのは、単に怖かったから。




『やっぱり晃が好きだって再確認したんだ。笹野さんには会ってお礼をしたかった』




 免疫を付けるために、そんなセリフを頭の中で何度も何度も繰り返す。



 帰りはゆっくり歩きたくなるだろう。

 だから、車は使えなかった。



 それなのに――



 駅のせり出た屋根の下で、私を待つ高いシルエットが見えた時、ただそれだけで涙が溢れそうになった。

 朝からぐずついてはいたものの雨は降っていなかったからか、コートを羽織っている彼の手元に傘はない。


 ……でも。


 中で待ったり、移動していないところ。


 そんな性格ところも好きだと思ってしまう気持ちを精一杯押し込めた。



「菊地さんっ!!」



 傘を畳みながら近付くと、色が変わるほど濡れているコートの裾にも気が付いた。

 長時間待っていてくれたことに、さらに胸が詰まったけれど、どんな理由でも涙は見せちゃいけないと一生懸命踏ん張った。



「何のための携帯ですか!」

「こういう時の為に連絡先交換したんですよ!」



 下げてきたバックからハンカチを探る。



「ふ、普通は、時間と場所くらい指定するものです!」

「……ま、まぁ場所は駅前くらいしか思い付かないですけど……」

「でも!何日も待つかもしれないのに!」



 慌てて取り出したハンカチを、すぐ目の前に差し出したのに彼はピクリとも動かない。

 もしかして、すでに熱でも出してしまったのかと彼の顔を覗き込んだ。




「菊地さん、大丈……」




 ――何が起きたか、すぐには理解できなかった。



 左の手を引かれ、勢いよく彼の胸の中に閉じ込められた体。

 行き場のなくなったハンカチを思わず握り締めたけれど頭がまるでついていかない。



 ただ――ひんやりしたコートの温度とは正反対に、引き寄せられ触れた胸から感じる彼の体温があまりにも温かくて、聞こえてきた心臓の音も少しだけ速いような気がして……




 ――夢なんかじゃないと思った。




 彼の掠れた声が首筋にかかる。



「……会いたかった」



 喉の奥がツンと詰まって目頭が熱を持つ。

 鼻の辺りが熱くなってまばたきを忘れた。



「ずっと甘えてて……ごめん」



 甘えてもらったことなんて一度もないのに、その言葉が嬉しくて。

 直に感じ始めた彼の香りに、心臓が煩く騒ぎ出し、いまだ激しい雨音も私の鼓動に比べたらおとなしい位だと思った。




「……この駅は……ずっと嫌いな場所だったんだ」



 こぼれだした彼の声。



「ずっと忘れちゃいけないと思ってた。俺が晃にしたこと、ずっと覚えていなきゃいけないって……だから」



 私の肩に染み込む、か弱い声。



「……この街に残ることも、自分で選んだんだ」



 背中に回された彼の両手に力が入るのがわかる。



「でも……もうずっと抜け出したかった」



 そっと、彼の背中に手を重ねる。

 広い広い背中が今夜はとても小さく思えてならなくて……包んであげたかった。

 これが正解かどうかわからない。

 けれど、重ねた手で彼の背中を何度もさすりながら、まるで子供をあやすように繰り返した。




「……大丈夫。大丈夫ですよ」




 どのくらいそうしていただろう。

 1分か2分、おそらく時計を見たら針が微かに動いたくらいの時間しか経っていないだろう。



 彼は私の両肩を支え、そっと離す。

 前よりもっと優しく緩んだその瞳の中に私が映っている。


 少し背中を丸め目線を合わせた彼は、私を真っ直ぐ見つめて再び口を開いた。



「笹野さんと会って、この駅は嫌な場所じゃなくなったんだ」



 ――溢れ出した涙のせいで、彼の顔が滲んでしまう。

 見たくて見たくて仕方なかったその顔を、やっと思い切り見れるのに。



「会えないと調子が出ないんだ」



 濡れた頬に彼の右手が近付く。



「傍にいて欲しい」



 まるで怖がっているかのように、ぎこちなく私に触れた彼の指先。




「好きだ」




 さっき、奥の方に押し込め過ぎたのだろうか。止めどなく流れる涙とは裏腹に、一番伝えたい大事な言葉が出てこない。


 だから


 答える代わりに彼の胸に飛び込んだ。

 想いが全部伝わるように、回した手に力を込めて。



 ***



 小降りになった家までの坂道を、小さな傘一つだけ差して歩く。

 傘のを持つ彼の大きな手が常に視界に入ってきて、ドキドキが収まらない。



 家まであと少し。



 まだ着かなきゃいいのに。

 家がもっと遠ければいいのに。



 願いは叶わず、あっという間に見えた店の看板に思わず溜め息がこぼれた。



「菊地さん、ここで大丈夫です」

「風邪、ひかないようにして下さいね?」



 名残惜しいけれど、彼を早く帰してもあげたい。


「傘返すのなんか、いつでも大丈夫ですからね?」


 小さなそのドームから、出ようとしたその瞬間ときだった。



 彼に手を握られ、引き寄せられる。



「次、いつ会えるかな」



 驚き見上げた私にそう聞きながら、小さく咳払いをする彼。



「菊地さんが大丈夫なら、毎日でも会いたいです!!」



 思わず『毎日会いたい』だなんて言ってしまったけれど。



「うん」



 照れたままの表情でそう微笑んだ彼。

 言葉は少ないけれど、隠さず、作らず、そのまんまの自分を見せてくれたような気がして……嬉しくて、嬉しすぎて……私はまた泣いてしまった。




 初めての恋の相手は難しいタイプで、私には無理だと思った日もあった。



 でも、だけど。



 彼が私を『好きだ』と言った。




 雨の日も、晴れの日も。

 春も夏も、これからも。




 焼き立てのパンの匂いで幸せな気分になるのと同じくらい。


 二人でいることが、そのくらい自然ふつうだと思えるくらいに。


 彼と歩んでいけたらと思います。




『うまくいきますように♪』




 ―END―



 ただ、いつも、この街で。bread編 最終話

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