bread-22 返信

 夕食のあと、リビングのソファーで膝を抱え、流れるテレビの映像をただただ見てた。


 通常は18時閉店だけれど、パンが売り切れてしまったらそれより早く店を閉めてしまうのが我が家のきまり。


 今日はそんな日だった。


 時計の針はまだ20時を過ぎたばかりなのに、もうすでに明日の準備を終えた父がテレビの前でゴロリと横になり寛いでいる。

 その父がテレビのボリュームを3つも4つも上げたのを見て初めて、外が酷い天気だと気が付いた。


 気付いた途端、激しい雨音が主張してくる。

 窓に打ち付けるその音を聞いているうちに、彼のことを思い出した。


 晃さんは彼に会いに行ってくれただろうか。


『未央から聞いてると思うけど、私もう結婚してるのよ?それに、和浩くんが今でも私を好きだなんてそんなこと……』


 花屋のお姉ちゃん、千草ちゃんのお友達の未央さんに無理を言って取りつけてもらった約束。


 伝説になるだけあって、晃さんはとても綺麗な人だった。

 白い肌も、ぱっちりした目元も、ふわりと香る甘い匂いも何もかも、どこを切り取っても私の敵う場所なんてない。


 晃さんが『和浩くん』と彼の名前を呼ぶ度、彼との距離が広がる気がしたけれど嫉妬なんか生まれてこない。



 彼が忘れられないのも理解できてしまうほど、素敵な人だった。



『……でも、そうね』

『和浩くんに会うわ』

『私も翔も……そのまま卒業したこと引っ掛かっていたから』



 もう結婚している想い人と引き合わすだなんて酷だろうか。

 今の彼を知って欲しくて、ノートまで渡してしまった。

 彼は、私に腹をたてるんじゃないだろうか。


 もう会わないとはいえ、好きな人に嫌われるかもしれないと思うだけで心臓がえぐられるように痛む。


 部屋に一人でいたら涙を堪えられないから敢えてリビングに残ったのに、家族の存在を傍に感じていても視界がぼやけてしまいそうになった。


「さぁて、もう寝ようかな!明日も一生懸命働かなきゃだし!」

「お父さん、おやすみ!」


 父の『おう』という気のない返事を背中に受けて廊下に出る。

 すると、ちょうどお風呂から出て来た弟と目が合った。


 タオルでガシガシ頭を拭きながら一旦はすれ違った弟が何かを思い出したように慌ててお風呂場へ引き返す。


「姉ちゃん、そこで待ってて!!」


 何事かと目をやると、洗濯籠に入れた服のポケットをゴソゴソと探ってから戻ってきた。



「ごめん!渡すの忘れてた!」



 そう言いながら弟が私の手に乗せたもの。

 それを見た途端、息が止まった。



「……こ、これ」

「今朝、売店に買いに来たお客さんが姉ちゃんに渡してくれって」



 二つ折りにされたその小さな紙を恐る恐る開いてみる。


「姉ちゃん、パンの豆知識カードなんて作ってたんだな!!」


 弟は、ひたすら感心している様子で腕を組み頷いた。



 ――8つめ。ベーコンエピ



 忘れるはずがない。

 間違うはずがない。


 それは、私が彼に渡したあの日のカードだった。


「……その人、来たの?」

「うん。パン買って、んで、これ姉ちゃんに渡してくれって」



 カードの下。

 私が書いたパンのイラストの下。



 ――そこにそれを見つけた。



 見間違えるはずなんてない。

 だって、何度も見たんだもの。

 レシートの裏に書かれた彼の字を。



「……なに、買ってくれたの……?」



 弟の前なのに、声が詰まった。


 ただ事ではないと思ったのだろう。

 弟はすぐに目を大きく開き、記憶の引き出しから間違えないように取り出して言った。



「あ、あぁ……クリームパンを、ひとつ……だったかな?」

「んで、パンの感想を姉ちゃんに伝えたいから、時間作って欲しいって!頼んでたんだろ?アンケート?」




 玄関のドアを開けると、暗闇に激しい雨音だけが響いている。


 傘を開き、コートのフードも被る。


 彼じゃなければ……彼からの返信じゃなければ、私はこの酷い雨の中を飛び出してなんか行かないかもしれない。



『……ちょっと、出掛けてくる』

『はぁ?その人、今日だなんて言ってないぞ?!』



 ――それでも。



 彼は待ってると思った。



『ちょっ!姉ちゃん!!』



 行ったって辛いだけかもしれない。


 でも、


 だけど……




 ――会いたい。菊地――




 あんなことをカードに書かれたら、誰に止められたってこうする以外出来ない。


 彼からの返信を無視するなんて、私が出来るはずがないもの。

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