bread-19 夏に積もる雪

 月曜日、俺はいつも通りの時間に駅前に立ったけれど彼女は来ないだろうと思った。


『……ごめんなさい』


 晃の話を聞いた彼女は、それだけ言って帰って行った。


 閉まる扉の音が背中に刺さる。

 静かになった部屋に、キッチンの蛇口から垂れた水滴の音が響く。


『……あ、弁当箱』


 こんな時ですら、弁当箱を返し忘れたことを考える…冷静な自分がいた。



「菊地さん!おはようございまーす!」

「今日はカツサンドですよ!男性に大人気なんです!」


 今まで、自分をコントロールするのはそう難しくなかったのに。


 いつも通りの時間にやってきて、いつも通りにパンの包みを差し出す彼女の笑顔を見た時、初めて冷静さが動揺に負けた。


「笹野さん、先週はごめんね」


 だけど、弁当箱を入れてきた紙袋を手渡しながら、すんなりそう言える自分だってまだ存在している。


「……立ち入ったこと聞いてしまってすみませんでした」


 彼女の瞳から輝きが消えたのがわかって、胸の辺りがざわついたけれど、それきり俺も彼女もあの日のことを口にしなかった。



 火曜日も、水曜日も……

 何事もなかったかのように日々は過ぎていく。


 本当は、どうしたら良かったんだろう。

 変な話をしてしまってごめん、あれは……と突き詰めていった方が良かったのだろうか。

 時間が経てば経つほど、冷静さは削がれていく。考えてもよく分からなくなっていった。


「もうすっかり夏ですね!」

「そうだね」


 彼女が明るく笑う度、あの話は彼女にとって然程大したことじゃなかったのかもしれないと思ったりした。


 居心地のいいこの温かな空気を、あの話を蒸し返してまで壊す必要があるのかとも思った。



 ――それくらい、俺はどうしようもない奴だったんだ。



 金曜の朝。

 駅前に向かう足がいつもの角で止まった。


 彼女がすでに駅前に立っているのが見えたからだった。

 それに、遠目からでもいつもと様子が違うのがわかった。


 今は夏なのに、辺りが急に雪景色に変わる。熱を纏うようになった朝陽の温度もまるで感じられない。


 駅前で俺を待つ彼女の横顔が、あの日の晃とダブって見えた。



「……駅の売店に弟が立つことになったんです」



 調理製菓専門学校を卒業し、店で父親の補助をしていた彼女の弟が来週から売店に立つという。


「父が、弟に『お前はお客さんが見えてない!駅に立ってみろ!』って怒っちゃって」



 ――そうなんだ。



 それしか言わなかった。

 ……それしか言えなかった。



「実は……うちのパン、本当は30種類なんかじゃないんです。売店に置いてあるのが30種類なだけで」


「私、途中から……全部……本当に全種類食べてもらおうって思ってたんです」


「菊地さんに言った期間、無視しようとしててごめんなさい」



 彼女は『最後だから』といくつものパンを詰め込んだ紙袋をくれた。

 それが、彼女からのサヨナラだとすぐに気が付いたのに――



「ありがとう、ごちそうさま」



 辛うじて残っていた冷静さを取り出して、そう答えた。


 彼女は駅構内へ消えていく。

 一度も振り向かずにまっすぐと前だけを見て。


 時計の長針が終了時刻の3を差しても、しばらく歩き出せなかった。

 ――12年前のクリスマス、晃を追いかけられなかったあの時の自分と同じように。



 今ここに雪はないのに。



 降り積もる雪を振り払えずに立ち尽くしたあの日。


 あの日知った冷たさが、足元に絡み付き……今の俺を動けなくした。

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