bread-18 アキラ
時間を巻き戻すように私は歩いた。
家まで帰るなら、別の道を行った方がいいことくらいちゃんと分かってる。
駅に戻ったって、さっき知ってしまったことが消えてなくなるわけ……ないのに。
『クリームパンの伝説……か』
目の前に座った彼はそう呟いた。
『うちのクリームパンを食べてから告白すると叶うって、ジンクスみたいなのが東高にあるんです。知りませんか?』
卒業アルバムの背表紙に書かれていた西暦は、私がその話を聞いた頃と近かったから……疑問系で聞いてはみたけれど、彼の答えはイエスだと確信があった。
彼は麦茶を一口飲む。
カランと音を立てた氷と、シンとした部屋。そんな中、彼の口がゆっくり開いた。
彼が話し始めた時、私の胸はドキドキしていた。クリームパンの伝説を彼が知っているとわかったから。私たちの距離がさらに縮まると思ったから。
――どんな些細なことも、いつも逃さぬように見てたのに――どうしてその時はちゃんと見ていなかったんだろう。
『晃は……』
『アキラ……くん?』
彼は一度だけ首を振った。
『晃……は、名前は男みたいだけど凄く美人で昔から人気があったんだ』
ヒロインの名前はアキラさんだった。
『彼女には中学の時から彼氏がいたんだけど……』
彼は、アキラさんのあまりに悲しい体験談を語りだす。
彼は丁寧に順を追って話してくれた。
彼女が、中学の時から付き合っていた人に浮気をされたこと。
しかも、彼女にとって初めて出来た女友達がその浮気相手だったこと。
『彼女は……そいつらがしてるとこも』
自分の好きな人が、他の人と……。
それを見たアキラさんはどんなに傷付いただろう。
私はかなり暗い顔をしていたと思う。
『傷付いた彼女を救ったのが……
『彼女が好きなそのパンを翔は毎朝買いに行ってたらしい』
『彼女が笑顔になることだけ……祈って』
渡せないパンに、彼女の幸せを願ったショウさん。
『高2の冬休みがあけた頃、二人が付き合い始めたって聞いた』
『俺らが3年になってからかな。後輩たちが……女の子たちがね、始めたんだ』
『憧れのカップルの真似を』
お祖父ちゃんの作ったパンが、アキラさんを癒したかもしれないこと、二人を結びつけたかもしれないこと。それを誇らしく思った。
『そうなんだ!なんだか嬉しいです!』
一度沈んだ気持ちが一気に浮上する。
その時に見た彼の表情はあまりにも穏やかだったから……。
だから少しも躊躇せず、踏み込んでしまったんだ。
彼の気持ちがどこにあるのかも知らないで。彼の後悔がどれ程のものかも知らないで。
『わかった!菊地さん、そのお二人と友達なんですね!』
彼の顔が一瞬で曇る。
放った言葉が失敗だったとすぐ気が付いた。
『……俺なんだ』
『浮気して、彼女を傷付けたのは……』
『……俺、なんだよ』
石畳の歩道に、私の足音が響く。
『すぐ気付いた。晃が翔に惹かれてること』
街灯の色が滲む。
『……でも晃は優しいから』
彼から
『……俺は自分の罪が帳消しになることばかり考えてたんだよ』
歪んだ、彼の顔。
『晃と元通りになれば……俺がしたことも許されるって』
『だからヨリを戻したいって言ったんだ』
喉の奥が苦しくなる。
『あの日、クリスマスイブの日……』
『陸上部のやつらに冷やかされたけど、約束の時間より15分も前に駅に行ったんだ』
中学生の時、オーナメントにこっそり名前を書いた思い出のツリー。
駅前の、そのツリーの下で待ち合わせをしたという二人。
『オーナメントが違うってすぐ気がついたんだけど、待ってる彼女を見つけて嬉しかった』
『来ないかもって思ってたから』
『やっぱり俺、晃が好きだって……その時わかった』
涙がボタボタと零れ落ちる。
声が出ないように口を固く結ぶ。
立ち止まってしまわないように、握った両手を強く振った。
『でも遅かった』
『晃は今にも泣き出しそうな顔してて』
俯く彼の切なげな声が頭に響く。
『俺、これからフラレるんだなってわかって……なかなか彼女の前に出て行けなかった』
――晃を忘れられない――
まるでそう言っているみたいだった。
彼はずっと、どんな気持ちでいたんだろう。どんな気持ちで、うちのパンを食べていたんだろう。
『ささのベーカリーのパン、嫌いなんだ』
あの日、彼が言った言葉を思い出す。
あの言葉の本当の意味は――
『晃のことが、好きなんだ』
――だったのかもしれない。
動かなくなった両足。
もう上げることの出来ない頭。
地面を濡らす、雨のような涙。
「彩ちゃん……?」
乾いたドアベルが鳴り、開いた扉からその人は突然現れた。
後ろから出てきた人たちも、心配そうに私を見ている。
『さっき、ANNAMOE覗いた時、晃の友達がいて焦ったよ』
私は、その人たちをよく知っていた。
お花屋のお姉ちゃんのお友達と、その彼氏の右京さん。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
生まれて初めて……
この街から消えてしまいたいと、そう思った。
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