Office-18 一番欲しいもの
どのくらいそうしていただろう。
彼のスーツにつけてしまった涙の跡はもうすっかり消えていた。
ずっとこのままだっていい。
彼の胸に閉じ込められたまま固まってしまってもいいな、だなんて乙女チックなことも考えた。
体に直接響く彼の鼓動。
ずっとこうしていたい。
ずっと……ずうっと――
「あ!!!」
突然彼が大きな声を出したから、溶けていた背筋がピンと伸びた。
「ど、どうしたんですか?」
「店……予約してたの忘れてた」
私の肩に籠る声。
「お店?」
彼の胸に問いかける。
「うん。夜、一緒に食べに行こうと思って」
彼は私の両肩に手を移し、ゆっくり引き離す。感じていた温もりが逃げていくように思えて……急に寂しくなった。
「ちょっと電話してみる」
彼はそう言うとスーツの内ポケットから携帯を取り出し、液晶の明かりを頼りに企画室の電気を付ける。
二人の周りが明るくなったことを確認した彼は、私に軽く背中を向けてから電話をかけた。
眩しすぎる蛍光灯の光。
目の前に現れた事務棚やホワイトボード。
すぐ傍に感じていた彼の香りでさえ、あっという間に薄れてく。
それはまるで……魔法が解けるみたいだった。
「麻生、店大丈夫だって。飯行こっか?」
第三者と話したせいか電話を終えて振り向いた彼の様子も、すでにいつもの状態に戻っていて……実はもっと……もっと甘い時間を過ごしたいと思う本音を、私は隠さなきゃいけなくなった。
「ご予約頂いていた部屋より狭くなってしまったんですけど……」
彼が連れて行ってくれたのはとてもお洒落な和風ダイニングのお店で、等間隔に置かれた間接照明の暖かな橙色は、あの日、彼の車から眺めた街灯を思い出させてくれた。
店員さんの言うとおり、案内された個室は少し狭かったけれど、いわゆる『カップルシート』のこの空間は、さっき隠した本音をもう一度取り出しても許されるような雰囲気があった。
小さなテーブルの周りに、L字で置かれたソファー。その奥に私は滑り込む。
上着を脱いでから左斜め向かいに腰を下ろした彼。真似するように私も慌ててコートを脱いだ。
「かして?掛けてあげるから」
「あ、すいません……」
控えめなライティングとテーブルの中央に置かれたキャンドル。
肩がぶつかるほどの距離に倉科さんがいる。
私に向けられる表情はどのタイミングを切り取っても素敵すぎて……私の体温はみるみるうちに上がる。
……私は待っていたのに。
「ビールでいい?」
彼がメニューを取る時も、呼び出しボタンを押す時も……私は、手を握られるんじゃないかと身構えたのに。
乾杯をした時も、追加で何を頼もうか迷っている時も、彼の様子がいつもと同じだと気がついた。
「麻生は何がいい?」
メニューを私に向けた時、ふと触れた肩だって――
「好きなの頼んでいいよ?」
――簡単にまた離れてしまう。
切り替えられない私が幼いだけなのかもしれない。これが大人の関係なのかもしれない。だけど……
「何が好き?」
顔を上げると、黙る私を不思議そうに覗き込む彼と目があった。
針が一気に振り切れる。
「私……私は……」
「うん、串?それとも」
もう、限界だった。
メニューに向けて伸ばしていた右手。
その手でそのまま……彼の手をキュッと掴む。
「私が好きなのは……」
自分で思い出しても恥ずかしくなるくらい甘えた声を出した気がする。
「倉科さん……です」
思わず俯いてしまったけれど、決してふざけていた訳じゃない。
「……なにか頼むとしたら……それは……」
私が今願うのは、焼き鳥でもサラダでも唐揚げでもない。
私が今、一番欲しいもの。
それは――
「……倉科さんに……もっと……甘くなって欲しい……」
この店にくるまで手も繋げなかった。
誰かに見られるかもしれないから、そこはちゃんと理解してる。
でも、だけど。
少し触れただけで溢れた気持ち。
「……倉科さんだけ……いつものまんまで……嫌です」
魔法が解けただなんて思いたくない。
「私だけ……ドキドキが止まら……」
「麻生」
名前を呼ばれ顔をあげると、触れていない方の彼の指先が私の首と髪の間に滑り込んだ。
「倉……」
彼は瞼を落とし、首を傾ける。
指先に力が込められ、そっとひかれた顎。
――周りの音がその瞬間だけ消え去った。
私に重なる、彼の唇。
「……紗良」
初めてのキスのあと、ただ唇が離れただけの距離で呼ばれた下の名前。
「紗良」
最初は呟くように、次は囁くように。
鏡を見ていなくても自分がどんな顔をしているかわかる。恥ずかしさと嬉しさと、きっと欲張りな顔もしている。
再び触れ合う唇。
一度めよりも長くて甘いそのキスに、身体中が痺れた。
二度めのキスのあと彼は手の力を緩めると、私の頬をフニっと摘んで囁いた。
「そんなこと言われたら……帰せなくなるよ?」
熱っぽい眼差しと洩らした言葉に、私は蒸発してしまいそうだった。
そのあとの私は、冷たいビールをいくら流し込んでも体温を下げられなくなった。
グラスを置く度、箸を置く度、目が合う度……
私の指は彼にキュッと包まれる。
「……倉科さん、心臓が持ちません」
「無理」
意地悪に笑い、指を絡ませる。
「自分が言ったことの責任は取ろうな」
語尾に音符マークが付いているかのような軽やかな声で私を攻める。
「紗良が忘れても、俺はずっと覚えてるから」
そこまで言うと、彼は私の肩に手を添える。
そして――
「ご希望なら」
「もっと甘くも出来るけど?」
――と、額を私のおでこに合わせて微笑んだ。
あぁ、神様、仏様。
麻生紗良、もうこれ以上は望みません。
だから、お願いします。
『彼とずっと、ずーっと一緒にいられますように』
―END―
ただ、いつも、この街で。Office編 最終話
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