alcohol-17 彼のプロポーズ
仕事を終えた帰り道。
空はまだほんのりと明るい。
何か特別良いことがあった訳でもないのに気持ちが弾むこの季節。
隣に並ぶ彼女も全く同じ気持ちのようで、空を仰ぐ横顔はとても楽しそうに緩んでいた。
「こんなに早く帰るの久々かも」
両腕を手前にグーっと伸ばして彼女は笑う。
「夏が始まると何となく忙しくなるもんね」
「うん」
未央と歩くANNAMOEまでの道。
すっかり夏に変わったこの街の空気。
頬を撫でる風に冷たさはもう混じっていない。夏本番はあまり得意ではないけれど、こうして夏に変わる瞬間は昔から大好きだった。
「……それにしても、萌ちゃん何だろ?話って」
内容は何かわからないけれど、萌ちゃんから話があると呼ばれた今日。
「コイバナかな♪」
未央の声と足が弾む。
幼稚園から店までの20分ほどの僅かな時間でも、女二人が揃えば話は盛り上がるもので『コイバナ』という単語が出た途端、話の主役が私にすり変わった。
「ね、ね、風間さんと順調?」
「うん」
ちゃんとすぐに頷いたのに、彼女はそれだけでは満足しないようで。
「毎日好き好き言い合ってるんでしょー」
――と、話を掘り下げようとした。
「あのねぇ」
「違うの?」
「私たちは大人の付き合いなの」
そこまで言うと、未央は『信じられない』というような顔をする。
「付き合い始めなんて、好きだ好きだのオンパレードじゃない?」
笑いながら首を振る私を見て、また彼女はつまらなそうにする。
「じゃあ、じゃあ!もっと詩的に伝えてくれるとか?」
「……詩的?」
頭だけ軽く
「雫さんの目次に僕の名前を刻みたい……とか!」
「ないない」
思わず吹き出した私。
「保さんはそんなこと言わないし、好きの大盤振る舞いもしないよ」
「えー、つまんない!」
「あぁ……でもね」
「でも?」
私を覗き込む彼女に話した、先日の出来事。
「この前ね、保さんが言ったの」
お蕎麦屋さんに行ったあの日。
注文した天ぷらソバとざるそばが届くまでの間、七分袖の私の手首を見て彼が言った。
『雫さん、いつも付けてますよね、それ』
『え?あぁ!外すのまた忘れてました』
私の手首には、何てことない黒のヘアゴムが一本。
「ほら、未央も付けてる」
「あー、確かに」
彼女は自分の手首を確認すると、笑いながら頷く。
『髪の毛結んでても付けてますよね』
『はい、予備なんです』
『やっぱり』
深い理由があるわけじゃないけれど、気がつけばいつも手首にもう一本のヘアゴムを付けている。いつの間にか出来た私の癖だった。
「二本の時もあるよね!よくぞ気がついた、風間さん!」
私たちのあるあるに笑いが止まらない彼女。
『髪のほどけた子に使ったり、袖が落ちてこないようにするために……ですよね、きっと』
彼は穏やかにそう話してから『素敵です』と目を細めた。
こんなにも細かいことに気付いてくれる彼。素敵なのは彼の方だと思った。
「……だからいいの、好きのオンパレードじゃなくても」
「そっか」
「うん。ちゃんと私を見てくれてるって事だから」
私を見てくれている。
理想に当てはめたり、他の誰かと比べたりせず、等身大の私を受け止めてくれている。
そんな彼と歩めることはとても幸せなことだと思ってる。
その気持ちを覆う暗い雲はない。
見上げただけで気分が上がるこの夏の空のように、私の心は澄んでいる。
「良かったね」
未央は私を肘で小突いたあと『いいなぁ』と微笑んだ。
「右京くんと……話進んでないの?」
「うん!まーだ、ぜーんぜん!」
明るく答えていても、一歩前に出た彼女がどんな顔をしているかわかるような気がする。
「右京くんには未央しかいないんだから!いきなりトントンと進むよ。きっと」
「ありがと♪」
私の言葉を聞いて、振り向きそう答えた彼女。寂しさが隠せない彼女の笑顔。
たった一言で、女の子は幸せになれるのに。
当事者じゃない私が何も出来ないことは充分わかっているけれど、もどかしい気持ちが生まれてくる。
彼女の彼に対してイライラする気持ちも生まれてくる。
「よし、今日も雪ちゃんに美味しいワイン開けてもらおう!」
そう彼女の背中に手を添えて、角を曲がった時だった。
お店の前に、一人立つ姿。
自然と二人の足が止まる。
太陽が、名残惜しそうに地平線へ消える。
誰にも注目されていなかった街灯が、やっと来た出番に輝きを増す。
「……右京?」
彼女の声に気付いた彼は、私たちに向かって歩き出す。
両腕を大きく振り、ずんずん近付くその顔はまるで怒っているようだった。
「右京……あれ?仕事は?」
上下ジャージ姿の彼。
「この時間……部活じゃないの?」
目の前に立った彼の表情はとても険しかったから、何か大変なことが起こると思った。
私だけじゃなく、彼女もそう思ったに違いない。
――その言葉を聞くまでは――
「未央!合コンなんてすんな!」
並んだ街灯がスポットライトに見えた。
「お前には!もしかしたら、俺以上のヤツが出来るかもしれないけど……」
ジャージだろうと、道の真ん中だろうと、心からの言葉は胸に響くんだと思った。
「俺には!お前以上のやつなんかいないから!」
言葉をなくしていた彼女が彼に一歩近付く。
「……だから」
店の窓から、萌ちゃんが覗いているのがわかって、目の前の二人はハメられたのだと気がついた。
「結婚しよう」
今、彼女がどんな顔をしているか私にはわかる。
……分かりすぎて、泣けてしまうほどに。
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