bread-14 レシートの裏側
いつもと同じになるはずの朝が今日は少し違っていた。
「菊地さん、今日は走らなかったんですか?」
明らかにいつもと違うジーンズ姿。
「それとも、お休みなんですか?」
夏に向けてだいぶ気温が上がってきたのに、少し厚手のパーカーを羽織った彼は明らかにダルそうな顔をしている。
「あ、いや、休みは明後日……日曜だよ」
喋り方も、いつもに比べてハリがなかった。
もともとお喋りなタイプではないけれど、あまりに少ない口数は異常だった。
「もしかして!!」
私は彼の額へと手を伸ばす。
いつもより背中が丸まっていたから、普段は見上げる高さの額にも簡単に手が届いた。
少し静止したあと次は左の首筋へ同じように手を伸ばす。
「熱は……ない……かなぁ」
触った感じ、熱はない……と思う。
――というか、今までこうして誰かの体温を確かめた経験なんて私にはない。
咄嗟に母の真似をしてしまったけれど、家族以外の人―ましてや彼氏でもない男性に対して、それがどれほど大胆な行為なのかその時はまるで気が付いていなかった。
「……笹野さん」
だいぶ困り顔の彼は私の手のひらが張り付いた方とは別の方に目線を投げながら名前を呼んだ。
「あ!!すいません!!」
慌てて引き下げた手を後ろに隠す。
隠した途端、自分がしたことの重大さに気付いて体がカーーッと熱くなった。
「あ、いや、うん……大丈夫」
二人の間に訪れた微妙な空気を変えようとしたのか、彼は首を左右に伸ばし背中も伸ばす。
でも、ただのストレッチなのに今日はやっぱり無理しているような気がしてならない。
いつもよりも元気がないような気がしてならない。
私が声も上げずに見つめていたからだろうか。
「昨日、遅かったから寝坊しただけだよ」
「疲れが抜けなくなってきたのは年だからかな」
「アラサーだから」
ふわりと微笑んでから、いつになく饒舌にそう誤魔化す彼を見ていたら何故だか胸の奥がキュッと痺れた。
おかしいかもしれないけれど……物凄く彼に抱きつきたいと思った。
……ううん。抱きつきたいというより、そう、これは『抱き締めたい』だ。
ぎゅっと包んで、その髪を撫でて、背中をトントンとゆっくり擦りたい。
男の人を抱き締めた経験なんて一度もないし、今までこんな気持ちを男の人に抱いたこともなかった。
でも今、彼を癒してあげたいと思った。
「……あの、調子の悪い時は言って下さい。無理に朝のこの約束守らないで……ギリギリまで寝てて下さい」
「あ、うん。ありがとう」
そう言いながら背中の後ろで両手を強く組む。
そうでもしなければ本当に抱きついてしまいそうだったから。
「……そっか。笹野さんも来れない日があるかもしれないよね?」
「え?」
書くものある?と言った彼は、私が差し出したボールペンを使い、ポケットから探ったレシートの裏にサラサラと何かを書いた。
「これ、何かあったら」
そう手渡されたレシートの裏に書かれていたのは彼の連絡先だった。その仕草はまたしても営業マンそのもので期待させるような糊しろは一ヶ所も見当たらない。
でも。
「何かなきゃ、かけちゃだめですか?!」
そう言ってしまった私に彼はもう一度微笑み、
『笹野さんならいいよ』
――と言った。
エプロンの左ポケットに入れたレシート一枚。
指を差し込んでは何度も存在を確かめる。
携帯にだってすぐに登録した。
私の番号もすぐ彼に知らせた。
『あ、ごめん、じゃあそれ捨てといて?』
初めて見た彼の字はハネや払いがしっかりした男らしいものだった。
『捨てないで持っててもいいですか?!』
彼は呆れてるだろうか。
やっぱり厄介な女に捕まったと……
でも、それでも。
『コンビニ弁当ばっか食ってるって思わないでね』
走り去る彼はやはりこっちを振り返らない。
でも、それでも……少しだけ、二人の距離が近付いた気がした金曜日。
私は一日中ドキドキが止まらなかった。
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