Office-14 約束
「川瀬さんとこの奥さんとお子さん、同時に風邪引いちゃったみたいでね、急遽代わりに倉科くんが現地入りしたから」
出社してすぐ奈津子さんから知らされた彼の予定変更に私は心底ガッカリした。
今、私以上に倉科さんに会いたい人はいないって……それくらい自信があるのに。
「今日も明日もずっと向こうだから何かあったら携帯にって」
――そんなぁ。
就業時間中のどこかで彼に声をかけておいて、夜に時間を作ってもらおうと固めてきた計画が一気に崩れてく。
週末を挟んでしまったら――週が変わってしまったら、世界が変わって、空気や何もかもが変わって……昨日のことは蜃気楼のように消えてしまうんじゃないか。そんなことだって考えてしまう。
確認した腕時計。
朝礼までまだ少し時間があった。
「ちょっとだけ席外します」
携帯を手に企画室を飛び出し、廊下の端に置いてある背の高い観葉植物の陰に体を隠す。
履歴の一番上にある彼の名前。
昨夜何度も眺めたこの履歴を、こんなにすぐ押すことになると思わなかった。
移動中かもしれないし、もうすでに忙しいかもしれない。出ないかもしれない、けれど……それでも。
身体中に響く呼び出し音。
――お願い。ほんのちょっとでいいから。
握る手に力が入った。
『はい、倉科です』
「……あ!お、お疲れ様です!麻生です!」
『あぁ、おはよう』
朝一だからだろうか、それとも急な予定変更ですでに疲れているのだろうか。
「おはようございますっ!あの、すいません倉科さん、今ちょっとだけ話しても大丈夫ですか?!」
『うん、少しなら……どうした?何かあった?』
彼の声はほんの少しだけ籠っていて何だかいつもより大人しい。
ただ、その少し掠れた低い声は朝にしか聞けない特別な声のような気がしてならなくて、思わず携帯を耳に強く押しあてる。
「あ、あの、仕事の話じゃなくて申し訳ないんですけど……あの」
『うん』
「私、昨日ちゃんと答えてないと……あの、そう思いまして……だから!」
しどろもどろでも、ちゃんと彼には伝わったようで……電話の向こうから届いた声は一瞬にして甘くなった気がした。
『麻生、月曜日』
携帯を支える両手に力が入る。
叶うならば、今、全神経を耳に集中させたい。
『月曜の夜……会おっか』
花丸がつくくらいのいい返事をした私に、彼の微笑みが音になって届く。
『週末は時間取れそうになくてごめんな』
首をただ振っているだけでも――声にしなくても。
ちゃんと彼に伝わっている気がした。
『仕事頑張れよ』
電話の向こうで、彼が誰かに呼ばれる。
彼はその人に『今行きます』と答えたあと、私にその言葉を残して通話を終えた。
『では月曜日。いいお返事をお待ちしております』
電子音が響いても、すぐに携帯を下ろせない。
社内恋愛の予行練習みたいな……かしこまった最後のセリフに胸が騒ぐ。
動機が不純かもしれない。
けれどその日、凄まじい恋の力は周囲を驚かせるくらいに私を動かした。
***
「紗~良ちゃん」
「神田くん」
お昼を過ぎても力がみなぎっていた私は、右へ左へ上へ下へ……と会社の中を走り回っていた。
「何かご機嫌だね」
「……そ?……ふ、普通だよ」
廊下で鉢合わせた神田くんにそう言われ、咄嗟に唇を引き締め気持ちを落ち着かせる。
書類を片手に『途中まで一緒だ』と並んで歩き出した彼に、浮かれている理由がバレちゃいけないと思った。
「あのさ!実は母さんが新メニューの味見を紗良ちゃんにしてほしいらしくて!」
嬉しいことは続くらしい。
「本当?!おばさんのお料理美味しいから嬉しい!」
「良かった!!じゃあ急なんだけど……」
目的地に着いた彼は足を止める。
「今夜うち来る?」
「うん、行く!」
「じゃあ、またあとで」
一時はどうなることかと思ったけれど……運勢は一度いい方に矢印が向いたら、その方向にちゃんと進むみたいだ。
「どんな料理かな~」
『ANNAMOE』の次は『かんだ』かな、と私は心を踊らせた。
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