Office-13 チャプター
その瞬間……ほんの一瞬だけれど、私は呼吸の仕方を忘れたと思う。
鍵を開ける手がうまく操れない。
靴を脱ぎ、灯りをつけて――次は何をするんだっけ。
『麻生の好きな奴が……俺ならいいなって……思っちゃったりしてるんだけど』
もう隣にいないのに耳に貼り付いたままの彼の声。
ヘッドフォンをしてるかと思うくらい、耳に、心臓に響く低い声。
『麻生の』
「……私の……好きな人が」
『俺なら』
「倉科さんが……俺ならいいって……」
『思ってる』
何度繰り返したかわからない。ちゃんと理解出来る筈なのに、ちゃんと理解出来ない。
でも、込み上げてくるこの嬉しさはきっと独りよがりじゃないはずで。
「倉科さんは……」
「倉科さんは……私が好き」
どうにかなったら困るから、いや、もう既にどうにかなってそうだったから今まで言葉にしなかったのに。
口から溢れた、たった一文にまたしても呼吸の仕方を忘れそうになる。
ソファーに座ってみたりキッチンに立ってみたり……何をしていても落ち着かない。
何度めかにソファーから立ち上がった時、まだコートを着たままだと気付き慌てて脱いだけれど、それをハンガーに掛けるまでだっていつもより何倍も時間がかかった。
両頬が熱い。
両手で頬を覆う仕草なんて生まれて初めてしたかもしれない。
倉科さんが……私を好き?
「じゃあ……」
両想い?
嬉しくて、嬉しくて嬉しくて堪らないのに今の気持ちを表現するに相応しい言葉がまるで見当たらない。
呼吸の仕方だけじゃなく語彙も忘れてしまったのかと、そう思うほどに言葉が見つからなかった。
「……ふぇ」
口を開いた途端こぼれ出す変な声。
熱い頬に流れる熱い涙。
……叶っ……た。
『麻生、その』
車の中の続きを思い出す。
一時停止、からの再生。
『倉科さん』
『麻生』
ゆっくり少しずつ確かめる。
一時停止、一時停止……再生。
『だから……その、良かったら……俺と』
ちゃんと冷静に、ちゃんと正確に思い出して……確認出来たら、また再生。
私は優秀な視聴モニターにでもなったかというくらいに、頭の中でその作業を繰り返した。
頭に浮かんだチャプター画面、選んだ場面はとうとうクライマックス。
『いつ一緒に行けますか?!』
『え?』
『ANNAMOE!いつ……』
『あ、あぁ。予定が合えばいつだって』
『倉科さんと行くまで……私、絶対行きません!』
『あ、うん。わかった』
『はい!!』
『……うん、じゃあ……また明日』
――――ん?
流れ始めるエンドソング。
……じゃなくて。
……あれ?
ちょっと待って。
私、これ……
――返事したことになってる?
慌てて巻き戻し、そしてまた再生。
「嘘。私……ちゃんと答えてない」
何度巻き戻しても、どこを選んでも、私が『ちゃんと返事をしたことになっていない』ということだけわかる。
最後に彼が見せた
「で、電話!!」
すぐに携帯に手を伸ばしたけれど、液晶に浮かんだ時刻は自分で思っていたよりも随分進んでしまっていたからリダイヤルを押すことは出来なかった。
明日……明日、必ず伝えよう。
「私の好きな人は……」
――ちゃんと言えるだろうか。
彼の目を見て『私の好きな人は倉科さんです』と。
「倉科さん」
名前を呟くだけであっという間に魔法にかかる。
『麻生』
名前を呼ばれただけで一気に体温があがる。
早く朝が来たらいい。
明日はきっと――いや、必ず。
今までで一番嬉しい日になる。
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