bread-12 つぶあんとこしあん
「あら?早く行くことにしたんじゃなかった?」
いつも通りの時間に、いつも通り朝御飯を食べる私を見て母は首を傾げた。
「うん。元に戻したの」
本当は先に行って菊地さんを待ってたい。
彼が近付いてくる瞬間のドキドキを味わいたい。少し想像しただけでも胸のあたりがキュッと締め付けられて、高まる心臓の音を抑えられない。
でも。
だけど……
『ひとつだけ頼みがあるんだけどいいかな』
『はい!何でも!』
彼の願いは簡単なものだった。
『待たれるのが苦手なんだ』
『悪いんだけど』
『先に来て待ってるなんてしないで欲しい』
いくら私が待ちたいと望んでも、彼が嫌がることを出来る筈がない。それに……そう話す彼の表情はとても固くて、その瞬間がその日で一番シャッターを下ろされた時でもあった。
何も聞くな、と彼の目が訴えているような気もした。
「……まだまだ遠いなぁ」
「なんか言った?」
「何でもない」
力の出ない私はユラリユラリと立ち上がり食器を下げる。洗い桶の中にブクブク沈むお茶碗は私の気持ちを表しているようだった。
――昔、何かあったのかなぁ。
――私とそんなに会いたくないのかなぁ。
考えれば考えるほどに背中は丸まり、視線は床を捉えた。
パンっ!!!
突然、背中に響く平手打ちの振動。
一気に伸びた背筋と視界に入る母の顔。
「シャキッとしなさい!商売人は一に笑顔、二に笑顔、三・四・五もまた笑顔!」
「お母さん」
「どんな厄介なお客さんか知らないけど、その人に『ここのパンも、あなたの笑顔も好きになったわ!』って言わせてやる!それ位の気持ちで頑張りなさい!」
「うん」
ちょっと違ってるけど。
母からの言葉は元気をくれる。
不思議と伸びる背筋と上がる頭。
そうだ、クヨクヨするのはらしくない。
出来るサラリーマンだもん、待ち合わせに遅れたって思うのがただ単に嫌なだけかも。
残された時間は短いんだから、ブスっとした暗い顔より笑顔を見せよう。
いつだって私を見たら元気になる。
彼にそう思って欲しいじゃない。
「よし、今日も待ってろ!!」
思い切り腕を伸ばし、駅の方に向かって人差し指を指した私を見て『その調子!』と大きく頷いた母。
いつも通り清々しい朝の街、駅に着くまでの時間は短くて長い。
この角を曲がるとやっと見えるはず。
「菊地さん!おはようございます!」
車の窓を開けてそう声を上げると、小鳥たちは驚いて一斉に飛び立った。
肝心の彼は、ストレッチの手を止めて軽く頭を下げただけ。それでも、昨日と違うジャージ姿を見れただけで何だか嬉しいと思う私は幼稚だろうか。
「菊地さん!今日のも美味しいですよ」
用意した今日のパンは『あんぱん』だけれど大丈夫だろうか。
――甘いのは食べられる?
――雪さんのココアは好きなんだよね?
嫌いじゃなかったとして、つぶあんとこしあんの二種類ならどっちを選ぶだろう。
私は昔からつぶあんの方が好きなんだけど、彼は『つぶあんの皮が嫌だ』と、こしあん派の意見を言うかもしれない。
もし、そうだとしたら……ガッカリせずにつぶあんの魅力を語れるだろうか。
もし、彼が『俺もつぶあん派』と言ったら?
初めて見つけた共通点をどう調理出来るだろう。
初めての恋の相手は、初心者にはちょっと難しいタイプだと思い始めた。
でも……それでも。
あなたを知りたい。
もっともっと、もっとずっと、あなたを知りたいから。
時計の針が12を差すとカウントが始まる。
11日めの今日。
残り時間は今日も含めて300分。
時間にしてたった5時間、与えられた時間はあまりにも短い。
でも……それでも、私は……
『菊地さん!どっちが好きですか?』
心からの笑顔で楽しい朝をあなたに贈りたいの。
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