bread-9 初恋は実らない?

 車の窓に打ち付ける雨音よりも私の鼓動の方が大きいかもしれない。


「き、菊地さん……」


 私は、彼の唇がゆっくり離れていくのをただただ見ていた。


「俺、こういう奴だからもう関わらない方がいいよ」


 私からそらすようにして、助手席の窓ガラスに目をやった彼がそう言った。


 固まったままの私でも、どういうことを意味してるかがわかる。


 ……キスされたのに、フラれた?


 生まれて初めてのキス。

 そして、瞬間的に訪れた……失恋。


「え?」


 それしか言葉が出ない私に、彼はまた続ける。


「ささのベーカリーのパンが美味しいのはちゃんとわかったよ。だから、もう大丈夫」



 君の気持ちまでいらないよ。


 そう言われた気がした。



 まだ雨は強いのに彼はドアに手をかける。

 その態度は、サヨナラを言っているようだった。


『じゃあ』とドアを開けて雨の中に飛び出して行った彼。


 一瞬吹き込む雨の匂い。

 閉まるドアの音。

 空いた助手席。


 雨の中を走る彼の後ろ姿は滲んでいてよく見えない。

 ただ、どんどん遠ざかるのはわかった。



 これで……終わり?

 胸の奥から何かが込み上げた。



「菊地さん!!!」



 気付いた時には、体が勝手に動いていた。



「菊地さん!!!」



 何度めかの呼びかけに、気付いて振り返る彼は驚いたように目を見開き、慌てて私のもとに戻る。


 強い雨に打たれ、ずぶ濡れになった私。


 そんな私をまるで包み込むかのように、彼は左腕を私の上に掲げた。


 菊地さんが嫌なやつだなんて嘘だ。

 こうして私を庇う彼が、計算されてるなんて思えない。

 それに……初めての恋が実らないなんて、そんなの嫌だ。

 初めて、人を好きになったのに。


 隣でパンを食べた時の笑顔は嘘じゃない。

 キスした唇は冷たくない。


 彼を信じたい。

 私のこの気持ちを信じたい。

 ただ、それだけだった。



「時間下さい!!」

「……え?」

「遊びでも、気まぐれでも、暇潰しでも!何でもいいから会ってください!」

「……」

「私、まだ菊地さんのこと何にも知りません!下の名前も、年も、何してる人かも、まだ何にも!」


 大量に降り注ぐ雨音に負けないように叫んだ。


 彼にどう思われてもいい。

 彼を知りたいって思う自分がここにいるから。


「菊地さんだって!私のこと何も知らないでしょう?!」


 溢れた涙は、雨のおかげで隠せるだろう。

 泣いて引き留めるのだけは嫌だった。



「さっきの!初めてだったんです!」



 私がそう言うと、彼はハッとした顔をして謝ろうとした。


 咄嗟に彼の口を手で塞ぐ。


 謝ってなんか欲しくなかった。

 私とのキスを後悔してほしくなかった。

 嫌な記憶にして欲しくなかった。



「謝らなくていいです!そのかわり――」



 私の次の言葉を聞いた彼は、戸惑ったような、悩んだような顔をした。

 やっぱり面倒な女だと思ったのかもしれない。


 でも、それでも構わないと思った。


 彼は、少ししてから諦めたように頷くと、私を車まで送った。

 運転席のドアを開けて乗り込む私。


「送ります、乗ってください!」


 そう言ったが、彼は運転席のドアの所に立ったまま首を横に振った。


「大丈夫。走って帰るよ」


 また、サヨナラを言われているんじゃないかと不安になった。

 やっぱりこのまま会えなくなるんじゃないかって。


 そんな私の心を読んだのか、車内に雨が入らないように隙間を体で塞ぎながら、彼は口を開く。


「……和浩かずひろ菊地きくち和浩かずひろ



 彼の、名前だった。


 驚く私にまた続ける。


「毎朝走ってるから、その時で良ければ」

「わ、私はここに7時に来ます!会ってもらえますか?!」


 慌てて答える私に、彼はようやく微かな笑顔を見せた。


「うん。じゃあ……また、明日」


 そして彼は走り去る。

 やがてその後ろ姿は見えなくなった。


『また、明日』


 不確かかもしれないけれど、彼がくれたこの約束と、大胆に放った私の告白。


 タオルで髪を拭きながら思い出す。

 濡れた体が寒さと恥ずかしさで震えた。



『うちのパンは30種類あるんです!だから……あと21個!』

『……』

『その……だから……キスしたこと謝るくらいなら、あと21回会ってください!私とのこと……それから決めてください!』



 どしゃ降りの雨の中。

 私の初めての恋が、始まった。

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