Office-9 残業と恋と。

 私は恋をした。


 恋をした――というより、落ちたと言った方がしっくりくるかもしれない。


 私は彼、倉科さんに落ちてしまった。


 自分のミスを庇ってもらって優しくされただけ。なんて単純なんだって思われるかもしれない。


 ――でも、


 毎朝、鏡の前に立つ時間が長くなった。

 髪の毛のハネひとつ気になるし、化粧品の新作もやたらと気になる。


 ――それに、


 倉科さんのことを目で追ってしまう。

 倉科さんの声の方に神経を集中させてしまう。


 予定を書き込むホワイトボード。

 今日の彼の予定は終日外出だった。

 いたらいたでドキドキしてしまって困るくせに、いないとわかると残念で堪らない。


「社内で片想いって難しいね」


 小銭入れに付けたあのキーホルダーに話しかけた。


 21時を越えた時計の針。

 シンと静まりかえるフロア。


 来週でいいと言われた仕事に手を付けて残業までしたのは、倉科さんが戻ってくるかもしれないと思ったから。

 もう少しだけ、もう少しだけ……

 そう思っているうちにこんな時間になってしまった。


「……直帰しちゃったのかなー」


 あたり一面曇ってしまいそうな深い溜め息を一つついたあと、思わず机に突っ伏した。



「こら、寝るな」



 何かで頭をポコっと叩かれ、私は慌てて頭を上げる。


 後ろを振り向くと、ファイルを持った倉科さんが立っていた。


「……く、倉科さん!」

「これ来週でいいって言ったろ」

「……あ、は、はいっ」

「まっ、頑張るのは良いことだけどな」


 彼は上着を椅子の背もたれにかけたあと、ビニール袋を片手にまた私に近付く。


「麻生も食う?」


 そう言って目の前に置かれたコンビニのビニール袋。

 中には、鮭と、おかか、梅、たらこのおにぎりが入っていた。


「まず腹ごしらえしない?それ、俺も手伝うから」


 そう言った彼は、『腹減った』とお腹をさすったあと、その右手で私の頭をポンと優しく叩いた。



「……お!お茶買ってきます!!」


 手にした小銭入れのキーホルダーが、私の代わりに嬉しそうに揺れる。

 自動販売機のボタンを押す指先までもドキドキしてる。


 倉科さんが好き。

 好き過ぎてどうしようもなくなっている。


 突然訪れたこの恋は、いつもの私がどんなだったかを忘れさせてしまうほど強力だ。


 相変わらず静かなフロア。

 反比例するように私の鼓動だけが煩く騒いだ。

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