school-7 複雑な恋心

 手を繋ぐのなんて久しぶりだったのに。


 その時の俺は、そんなのを忘れてしまうくらいに慌てて店を飛び出した。


「ちょっと!イチ!!痛いっ!」


 静かな夜道。

 彼女の強い声が俺をやっと立ち止まらせる。しかも、偶然か必然か、そこは幼稚園の真ん前だった。


 俺たちが初めて出会った幼稚園。

 俺が萌を見つけた幼稚園。

 俺が萌に恋をした幼稚園。

 それが……今は。

 あの人の、……橘の。

 担任の彼女の職場だった。



『あ、イチだよ!ウッチーのクラスの!』


 ――あ、もしかして!修一くん?!


『あのね、未央先生は光の担任の先生なんだけど、な、な、なんと!ウッチーの彼女なんだよ!驚いた?』

『ウッチーの弱味なんだよね~!結婚間近だしね~!』


 ――萌ちゃんったら、もぉ!恥ずかしいこと言わないの!


『照れてる~未央先生、可愛い~!』



 助けて。



 萌の心の声が聞こえた気がしたんだ。

 ……あの時みたいに。



「なに、イチ!どうしたの!?」


 幼稚園は真っ暗で、昼間の賑わいがまるでないからか、懐かしいとすら思えなかった。


「あ、わかった!もしかして幼稚園見に来たくなっちゃったわけ?お子さまだな~!」


 黙ったままの俺の肩を彼女がそうふざけて揺らした。



「……か」



 もう、我慢なんか出来なかった。


「……かよ」

「ん?」


 真っ直ぐに捉えた彼女は、少しだけ目を見開いていた。

 俺の好きな子。

 ずっと……ずっと好きな……


「バカかよ!!」

「なんで?」

「バカだろ!!」

「だからなんで!?」



 もう言葉を止められなかった。



「なにヘラヘラしてんだよ!笑いたくもないくせに!なに笑ってんだよ!!」


「……な、」


「お前、橘のこと好きなんだろーが!!なんで自分で自分のことえぐってんだよ!」


「す!好きじゃな……」

「自分のこと一番に考えろって!」

「……だから、違っ」


「お前のことくらい!見てりゃわかんだよ!」

「……」

「バカだ!お前は本当のバカだ!」



 何だよ、まじで。

 何だよ、俺。

 橘に彼女がいて良かったはずなんだ。

 結婚するならそれは尚更で。

 萌の恋が終われば、チャンスが増えるかもしれねぇじゃねーか。


 けど……


 だけど……


 自分の好きなやつが他のやつを見てる。


 そんな痛さはもうずっと前から経験済で、それがどんな傷より痛いかも経験済なんだよ。


 俺は……


 萌が痛いのは耐えられない。

 萌が辛いのは耐えられない。


 もうずっと。

 それはあの時からずっと――。



『何してるの?』

『絵本……探してるの』

『なんの?』

『……王子様とお姫様が……結婚したあとのお話がのってるやつ』

『ないの?』

『……ないの』



 助けて。


 あの時も彼女の心の声が聞こえた気がしてならなくて、子供心に守ってあげたいって思ったんだ。


 それが始まりだったのに。


 あの時、悲しそうに俯いた女の子が、今もまた目の前で俯いた。

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