Office-6 クレーム

 今日は朝からいい日だった。

 占いも良くて、天気も良くて、課長にも褒められた。社食のおばちゃんにはサービスだとプリンも貰った。


 本当にいい日だったのに……


 それはちょうど、お昼休みを終えて事務所に戻った時だった。

 まだみんな仕事モードに戻っていない、お昼と午後の境目の、緩やかな時間。


 突然鳴った一本の電話。


 慌てて電話に駆け寄ろうとすると、先輩の奈津子さんが右手を軽く掲げて『出るよ』と言った。


 その瞬間まで、こんなことになるだなんてちっとも思っていなかった。


「麻生、東桜ホテルの吉田さんからなんだけど……」

「……私、にですか?」

「そう。担当の倉科くん宛じゃなくて、麻生宛に。なんか聞いてる?」


 首を傾げながら引き継いだその電話。


 それは、私にとって初めての『大きなミス』を伝えるものだった。


『明日、お客様にお配りするチョコレート、1000しか届いてないけど、残りは別配送ですか?』

「……べ、別?」


 グループ会社である東桜ホテルで明日行われる新作ウェディングドレス発表会。

 初めての開催を祝い、来場者には当社人気のチョコレートをプチギフトとして配ることになっていた。


 ――1000?


 ――別?


 慌ててマウスを動かすと、休憩していたパソコンがパッと目を覚ます。

 急いで管理表を開いたが、入力されていた数は1000だったから、すぐに間違いには気付けなかった。


「……あ、あの、3つずつラッピングパックされたものを1000個で間違いな――」

『え?!1000じゃなくて、2000!!』

「2000…………っあ!!」

『倉科さん宛に追加の伝言頼んだよね!?生産部には、バラだけど在庫押さえてもらったから、ギフト用にして一緒に入れてくれって!麻生さんに頼んだ記録も残ってるんだよ!まさか忘れてたの?!』

「……!!……すみませ」

『すいませんじゃなくて!明日の朝までに持って来てもらわなきゃ困るから!』


 受話器を持つ手が硬直していく。

 口許も一気にひきつり、

 頭の中も真っ白になっていった。


「すみません……すみません……」


 ただ、ひたすら謝ることしか出来ない私に、相手の怒りはどんどん増していく。

 それは手に取るようにわかったけれど、こんな風に『責任』を問われたことなんて今の今まで一度もない私は本当にどうしていいのか――謝る以外、何を言ったらいいのか、何をしたらいいのかさえ全くわからなかった。


「……あの、本当に……あの……」


 普通じゃない私の様子に、周りが気付き始めたことを肌で感じる。

 けれど、周りの視線を確認する勇気もなくて私はどんどん小さくなっていった。


「お電話変わりました。課長の佐田と申します」


 その後は戦場だった。


「生産部連絡して!押さえてあるっていう在庫、本当にあるか聞いてみて!」


 電話を切ったあと、奈津子さんの指揮の元、企画室は総動員での作業に変わった。


「確認を怠るからだ」


 さっきまで笑顔だった課長の顔も、一気に厳しいものに変わった。


「在庫押さえてあるそうです!」

「でもバラだからラッピングしないと!」

「納品分の仕上がり見本ある?!」

「誰か資材部から貰ってきて!」

「手、空いてるやつ、隣~!」


 辺りがどんどん慌ただしくなっても、私は立ち尽くすことしか出来なかった。

 ただオロオロするだけで情けなくて情けなくて仕方なかった。


 ――みんな私のせいだ。


『あいつ、左京、結婚したんだ。去年。ずっと付き合ってた彼女と』


 東桜ホテルからの電話を受けた日があの日だったこと。

 それを思い出して心底恥ずかしくなった。


「麻生!どうしたの?!やるよ!!」


 奈津子さんも、他の人も、みんな私を責めたりしなかった。


「大丈夫!みんなでやれば終わるでしょ!ラッピングして、リボン巻いて。ね?」

「課長の顔が怖いんすよ!」

「……あのなぁ。麻生!終わったら謝罪かねて持ってくぞ!」


 課長ですら、あの注意以上には責めたりしなかった。


 ……すみません。

 ……すみません。


 何度謝っても、情けなさと恥ずかしさはまるで消えない。周りの優しさに甘える資格なんてないとも思った。


「なんて顔してんの~ほら!倉科くんの顔に泥塗るわけにいかないでしょ?」


 ――倉科さん。


『麻生~これはこっち』

『麻生!間違ってる!』

『麻生、次これね』


 倉科さんはいつも隅から隅までチェックしてくれていたことを思い出す。

 些細なことも面倒がらずに教えてくれたことも思い出す。


「皆さん本当にすみません!!」


 頭を下げた時、思わず零れそうになった涙。


 それをぐっと堪えて私は顔を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る