bread-3 ココア

『ささのベーカリーのパン、嫌いなんだ』


 あの日から私の頭の中は彼でいっぱいになった。

 うちのパンが嫌いだと言う人に初めて出会った。


「こんなに美味しいのに……」


 お弁当を忘れた私は、売り物の中からシナモンロールを選んで頬張る。

 平日の穏やかな午後なのに私の気持ちは曇っていた。


 パンが嫌いなのかな。

 ご飯が好きとか?


 でも、引っ掛かっていた。



『ささのベーカリーのパン、嫌いなんだ』



 パンが嫌い――じゃなくて、うちのパンが嫌いなんだよね。たぶん。


「髪の毛入ってた……とか?」


 そう思って、首を横に大きく振った。


「ない!ないない!」


 慌て者で、おっちょこちょいな私なら、それも分かるが、お祖父ちゃんもお父さんも仕事に対して本当に真面目で、そのへんのクレームは皆無と言っていいほどなかった。



 じゃあ……

 なんで……

 うちのパンが嫌いなのかな。


 気になって仕方なかった。



「いらっしゃい」


 夕方、私は、なんだか真っ直ぐ帰る気になれずANNAMOEの扉を開けた。

 カウンターキッチンの中から店主の雪さんが、いつものでいいの?と聞いた。

 私が注文するのは決まって、温かいココアだった。久しぶりに来たのに覚えていてくれる安心感。

 今日はそれがとても有り難かった。


「この前はクリームパンご馳走さまでした」


 そう、雪さんが丁寧に頭を下げたから、滝沢さんが買いに来てくれたことを思い出す。

 折角の嬉しい思い出が、後半のあれに追いやられて、ぼやけてしまっていたことに私は慌て、滝沢さんに申し訳なく思った。


 あっ、そうだ!


 雪さんに相談してみたらどうだろう。

 何故か瞬間的にそう思った。

 うちのパンを嫌いな人に、うちのパンを食べてもらう方法。

 そして、好きになってもらう方法。


 私は何から始めたらいいのか。


 この人なら親身になって考え、答えてくれるような気がした。



「あ、あの!雪さんっ!」



 ん?と、私の呼び掛けに反応する彼の声とほぼ同時に、店のドアベルがカランカランと鳴った。

 ちょっと待ってね。と雪さんは笑い、私にしたようにドアに向かい『いらっしゃい』と微笑んだ。



 私はカップに口をつけ、湯気の立つココアをゆっくり口に流し込む。

 今日も格別に美味しいこれは、私の体を優しく癒した。



「はい、ココア」



 そう言って、雪さんは今来たお客さんにもココアを出した。

 ――あぁ、このココアのファンがここにもいるのね。

 そう思って、何気なくそちらの方を見る。

 それは、自分と同じものを頼んだ人に対する、ただの興味だった。



「あっ!!」



 静かな店内に響く私の驚愕の声。


 左の座席に鞄を置いて腰掛けたスーツ姿のその人は、私を見るなり同じように、あっ!と声をあげた。



 そんな私たちを見て雪さんは一瞬驚いたが、すぐに微笑み、こう言った。



『彩ちゃん、菊地君と知り合いだったんだね』

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