bread-2 困った出会い方

 今にもザーッと降りそうな嫌な雨雲。

 そんな日は、みんな前しか見ていない。

 足早に改札をくぐり抜けるたくさんの後ろ姿に声を張るが、私の声は宙に浮かんでは消えた。


「……売れないなぁ」


 こんなにすぐにピンチが訪れると思わなかった。


『大好きです!ここのパン!!』


 昨日、そう言ってくれた彼女を思い出す。


 なんだか力が湧いてくるようだった。


 ――よし!


 下を向いてちゃダメだ。

 商売人は、一に笑顔、二に笑顔!!


 そう思い顔を上げたその時、首に薄紫のスカーフを巻いて、優しい笑みを浮かべている人と目があった。


「わぁ!滝沢さん!!」


 昔からのお得意さんで、うちの祖父母とよく食べに行った洋食屋のお婆ちゃんだった。



「頑張ってる?」

「はいっ!!どうしたの?!」

「彩ちゃんがこっちにいるって言うから、買いにきたの」


 そう言って滝沢さんは『クリームパンまだある?』と笑った。


「もちろん!!何個!?」


 滝沢さんは指を折りながら、すぐに六個とはにかむ。久しぶりの嬉しい再会に、パンを紙袋に詰めながら鼻歌を歌ってしまいそう。

 最後に会ったのは……お祖父ちゃんのお葬式か、滝沢のお爺ちゃんのお葬式か……



 ――あれ?

 ――六個??



「ねぇ、お婆ちゃん、六個でいいの?五個じゃなくて?」


 失礼かとも思ったが、念のため確認してみると、滝沢さんは『まだボケてないわよ』と優しく睨み、


『ひとつはしゅうさんのお仏壇にあげるのよ』


 そう言って帰って行った。



「可愛いなぁ」



 お祖父ちゃんがいつも言っていた。

 滝沢さんのご夫婦は大恋愛だったって。


 私にもいつか訪れるだろうか。白馬に乗った王子様ならぬ、素敵な男性との恋が。

 自慢じゃないが、今まで恋をしたことがない私は、23になったというのに夢見がちだと友人によくからかわれた。



「いけないっ!仕事仕事!」



 すっかり仕事を忘れてしまっていたことに気付き、慌てて気持ちを切り替えた次の瞬間だった。



 ――周りのじめっとした空気が一瞬にして強い風に吹き飛ばされた――



 そんな感覚に陥った。



「それ、一つ下さい」



 私の前を通り過ぎ、隣の売店のおばちゃんからペットボトルのお茶を買った人。

 見上げるほど高い身長のその人は、左手に持った鞄から黒いお財布を出してお金を払う。



 ――ただそれだけ。

 ――たったそれだけだったのに。



 ごくごく当たり前の、なんなら毎朝目にするような光景だったのに。



 その僅か数秒の出来事が、まるでスロー再生でもされたかのように……何分にも何十分にも感じられた。



 彼はお茶を受け取ると、肘を軽く曲げ腕時計で時間を確認してから爪先を改札に向ける。その何気ない姿からもなぜか目が離せなかった。



「あ、あの!!」



 自分でも何故声をかけてしまったか分からない。何故だか分からないけれど、気付いた時には呼び止めてしまっていた。



「……え、俺?」



 戸惑いながら振り向く彼に私は続ける。



「お茶と一緒にパン!パンいかがですか!?」



 思わず出た言葉。咄嗟に繕った言葉。



 彼は、すぐにうちの売店をさっと見回すと『ささのベーカリー』の看板を見つけて表情を曇らせ言い放った。



 これがもし一目惚れだとしたならば、前途多難だというしかない。



『ささのベーカリーのパン、嫌いなんだ』



 彼はそれだけ言い残すと、あっという間に改札へと消えていった。

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