泥梨の淵:第二夜




 沼の底のように重苦しく息苦しい眠りから楠城なんじょう 顕己あらきは覚醒する。


「う、く…………あ」


 全身に鎖が巻き付いているかのようだった。

 崩れ落ちるようにベッドから出る。


「ベッド…………? なんで…………」


 頭を振り、不明瞭な意識をはっきりさせようとする。

 昨晩の記憶が曖昧だ。今、何時──


「…………? 午後、八時? 丸一日経ってるのか?」


 時計の短針は8の数字を指し示し、窓からは街灯の灯りが差し込んでいる。


「昨日──昨晩…………何をしてたっ、け…………」


 嫌なことがあった。

 厭なことがあった。

 どんなこと?

 どんなこと?


「──Good eveningこんばんわ


 脳の奥に絡み付くような、粘っこい声色でその言葉は響き渡った。

 剥き出しのコンクリート打ちっぱなしな殺風景極まる部屋。

 電灯もない暗い部屋の中、彼女が確かに笑っているのが目に見えた。


「お前、は──あの」


「ん、あっっっっっひゃ♡ んだぁ♡ 凄い凄い、素敵素敵♡」


 紫苑色の髪を漂わせ、眼帯を着けた少女はゆっくりと歩み寄ってくる。


「いい夢見れたかなぁ? 顕己あらきクン。ぐーーーーーっすり眠ってたから起こさないであげたんだけどん♡」


「知らねえよ。夢なんか見てねぇ」


「或いは今が正に悪夢の真っ只中だったりしてねー♡ あっひゃっひゃっひゃっひゃひゃひゃひゃひゃ」


 眼帯少女は歪に哄笑しながら顕己あらきを眺める。

 面白そうに。

 興味深げに。


「昨晩の事は正直うろ覚えなんだが――」


「えーそんなぁー! あの情熱的な一夜を忘れたのぉー⁉ 酷いっ!」


「覚えてねえけどそれが出まかせだってことはわかるぞ…………」


「あーららご明察ー。その通り、オレちゃんはそんな安いウーマンじゃありましゅえーんっ」


 おちゃらけた態度で少女は顕己あらきへと歩み寄り、手を差し伸べた。


「ほら、いきましょ? 夜は永いよ。とってもね」






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「あっっっひゃーーーー♡ れっつパーリーピーポーーーー!!!!」


 視覚から脳が麻痺しそうなピンク色のライトに照らされながら。

 少女──【狩り手ハンター】はプールへとダイブした。


「………………」


 それを見る顕己あらきはなんとも言えぬ暗い表情でプールサイドに佇んでいた。


「ぶっ、はーーーーっ! 気ん持ちイイーーーーっ♡ ほぉーらぁ、顕己あらきもダイブダイブぅ♡」


「や、どうしてこうなった?」


「どうもこてもめんもないのーっ。暑いんだからそりゃ泳ぐでしょーよぅ」


 ここは東京のとあるホテルにあるプール。

 時刻は深夜に差し掛かろうとしている頃。

 ナイトプールとして開放されており、DJが空間を音楽で演出。LEDボールライトでピンク色に照らし出されるプールサイドではアルコール類を含むドリンクが振る舞われている。

 季節は七月初頭だったが、既に気温が25℃を上回る熱帯夜。涼を求めて泳ぎに来た客は数多くいた。


「水着も売ってて良かったねー。ノリで来ちゃったけど流石にサービスが行き届いてるや」


「買ったの俺だけどな。入場料含めて」


「はぁー? そりゃーそーでしょーよ女に金出させる気ぃ?」


「出させる気だったよ。お前が財布持ってりゃあな」


「あひゃひゃ、そいつぁざんねーーん」


 適当に泳いだ後、【狩り手ハンター】はプールサイドに上がってきた。

 露出の多めなブラジリアンビキニを着ており、スタイルの良さをあからさまに強調している。が、その上から薄手のシャツを一枚きており、そのシャツが身体に張り付いてこれでもかと言わんばかりに体のラインをくっきりと主張していた。


「濡れ透けは男の浪漫だもんねぇ~。めっちゃ視線キテるもんねぇ~そこら中から。単純で可愛いねぇ男共はまったく♡」


「お前のお陰で俺の中で女性に対する不信感が湧いてきてるよ」


「あっひゃっひゃっひゃっひゃ。そりゃまた愉快愉快。──でっさぁ」


 ニタァ、とした笑み。

 不穏不吉。


「昨晩も今もテキトーに遊び回ってるだけだけどさぁ。そろそろ人間らしくコミュニケーションといかない? 顕己あらき楠城なんじょう 顕己あらきクン」


「…………今更か?」


 そう返したものの、正直ありがたい申し出だった。これ以上ワケのわからないまま振り回されるのはゴメンだったから。

 いや、それは後付けだろう。

 単に。

 顕己あらきは、目前の少女の事が知りたかったのだ。


「けど、それならまず名乗れよ。まだ名前すら知らねえぞ俺は。お前は俺の名前知ってるのにな」


「名前ぇー? 名前、名前かぁー。うーん、一番それっぽいのは【狩り手ハンター】ってんだけどね」


「はぁ? なんだそれ。あ、いや、あれか。HNハンドルネームってヤツか。やっぱゲーマーなのか? お前」


「…………あっひゃ! HNハンドルネーム! なるほどなるへそ言い得てミョーだねぇ。勘が良いよ顕己あらきは。うんうん、まあ大体そんな感じ」


 言いながら【狩り手ハンター】を名乗った少女は顕己あらきの側へと雫滴る身体で座り込む。


「………………」


 居心地悪そうにする顕己だったが、露骨に距離をとるのもどうかと思ったのか少し身動ぎするだけだった。


「んでぇ。そんな勘の良い顕己あらきがさぁ、なーんでそうふしだらに夜更かしに浸ってんのかなぁーって。変に真面目ぶってんのにさぁ」


「…………理由なんて、あるかよ。遊びたいから遊び呆けてるだけだ」


「なら昼間に遊べばいーいじゃーん? 堂々と、気兼ねなくさぁ。なーんで夜更けに出てくるかなぁ? 悪いヤツに見つかっちゃうよー? あっひゃあっひゃ」


「…………それは」


「陽の出るうちは居場所がない、かなー? まあそんなトコだよねー、わかるわかる」


「わかってんじゃねーかよ! なんで訊いたんだ!」


 怒鳴る顕己あらきにも何処吹く風で、笑いながらに【狩り手ハンター】は続ける。


「だからぁー、居場所が無くなっちゃったその理由ー? 成り行きー? 的なのを訊かせてくれないかなーって言いたいワケよー」


 そう言う【狩り手ハンター】の顔に浮かぶ表情は、喜悦一色。

 どっからどうみても、面白がっていた。


「………………理由なんて、くだんねぇよ。聞いて面白いもんじゃねぇ」


「いやいや、んなことないってー。他人の人生ってのはいつだって面白おかしい代物さぁ。世に蔓延るノンフィクションだのエッセイだのドキュメンタリーだのを見ればわかるでしょ? 他人事な艱難辛苦ってのはそれはそれは愉快なもんだからねぇ」


「お前はこのセリフの流れで俺が話すと思うのか…………?」


「さぁ? で、話すの? 話さないの?」


 首をコトリと傾けつつ、真顔で【狩り手ハンター】は訊ねた。


「……………ほんっっっとーにしょうもねぇ話だからな」


 そう前置きして、顕己あらきは語りだした。


「…………俺ん家、親父がいねーんだよ。借金だけ残して死んだらしい。碌に顔も覚えてねぇけどな。そんでまぁクソ貧乏なワケだ」


「へー。ほー」


「んで、生活費だの学費だのを稼ぐために俺は毎日バイト三昧、妹もいるしな」


「はーん。んで嫌気さしてグレたと」


「いや、んなわかりやすくて具体的なもんじゃねえっつうかな…………」


 顕己あらきは語りながらに自分の境遇を見つめ返しているようだった。


「別に、働くのは良いんだよ。そうしなきゃやっていけねぇってんならそうするしかねぇワケだし、バイトやってるヤツなんかごまんといるし。けど、なんつうのかな…………日頃から仕事のストレスで当たり散らしてくる母親とか、家ん中で所在なさげにしてる妹とか、そして何よりそんな家族に碌に言葉もかけてやれねぇ自分とか…………とにかく、全部が息苦しくって、そんで逃げてきた。なんの解決にもならねぇなんてわかりきってるのにな」


「………………」


「先延ばしにしたって状況は悪くなるだけで、考え無しに逃げたってどうなるもんでもないって……………自明の理ってヤツなのにどうにも出来ない。本当に下らない。で、そんな自分に嫌気がさして、自己嫌悪しても何も変わらなくて、後はもう堂々巡り。ったく、自分で言ってて呆れてくるさ」


「………………」


 その話を、【狩り手ハンター】は穏やかに聞いていた。

 静かに、静かに。


「どうだ? つまんねぇ話だろ? もっと目も当てられないような悲惨な家庭とかだとまだ話の種になるんだろうけどな。ホント中途半端にどうしようねぇてっいうか、なぁ?」


「あひゃひゃ、そう卑下するもんでもないよぉ? 存外つまんなくもなかったって、マジで。…………んー、じゃあ、そうだねぇ」


 口では笑い声を上げても、表情は無色のままで【狩り手ハンター】は言う。


顕己あらきはさぁ、幸せってなんだと思うー?」


「あ? なんかいきなりメルヘンな話になったな。てか似合わねぇぞ。なんだその質問」


「失敬だねぇ! 真面目な話。顕己あらきにとって幸せって何? どうなったら自分で自分を幸せだと認められる?」


「幸せ…………って、言ってもなぁ。んなもん見当もつかないってのが正直なトコだよ」


「だろうねぇ。結局、大多数の人は目の前の一瞬一瞬を生きるのが全てで、先の大きな展望なんか見ちゃいない。見ても実感出来ないし、実際問題先の事なんてわかりゃしないんだからねー。出来る事からやってくしかないんだよねー」


「…………平凡な結論だけどな」


「そう! !!!! 結局それこそが幸せなんだよねー! 少なくともオレにとってはさぁ!」


 突如として【狩り手ハンター】は声を張り上げる。


「普通平凡退屈凡庸平均尋常通俗無難。それこそがオレにとっては目指す幸せなのよこれが!」


「…………はぁ?」


 心底から理解不能といった声を出す顕己あらき

 妥当な意見だろう。

 外見口調性格、その全てが平均からは逸脱したような少女のセリフだとは到底思えなかった。


「いや、顕己あらきの言いたいことはわかるよ? わかるよー? お前のどこら辺が普通なんだーつってね? けどねー、届かないからこそ憧れるっていうのもやっぱりあんのよ」


「はぁ…………」


「あのね、顕己あらき。オレがなんで普通が幸せって言ってるかわかる? その根拠、意図が」


「わかるわきゃねーだろ。よりによってお前みたいなのが言ってりゃ」


「んふー、そうだよねー。まあ聞きなって。あのね? 普通ってのはつまり、『悪くない』ってことなのよ」


「…………はあ。そりゃそうだ」


 顕己あらきは頷くしかなかった。


「かといって『良い』ワケでもない。それこそが幸福の証明なんだねーこれが。強いて言うなら『コスパが良い』っていうべきかな? ようは『生き易い』って意味さ。過剰に『良い』と逆に余計な摩擦が生まれちゃうから」


「摩擦って、何の?」


「そりゃもちろん環境──社会、いや、シンプルに人間関係っつった方がいいかなぁ? 人間が求めるものってのは突き詰めりゃソコにしかないから。周りのみんなとお手々繋いで仲良しこよし。群体としてでしか生きれない哺乳類の必然的帰結って感じ?」


 何処か諦観のようなものを窺わせながらに【狩り手ハンター】は続ける。


「幸福、かどうかはともかくとして人生の目標? 夢? とかって結局はそうでしょ? 結婚して家庭持つとか、一流企業で出世するとか、プロ野球選手でもトップシンガーでもアイドルでも警察官でも名探偵でもスーパーヒーローでも何でもさぁ。結局他人がいなけりゃ成り立たないっしょ? 殺人鬼になって人殺しまくりてーとかだったりしても、結局殺す相手が──自分以外の誰かが必要じゃん?」


「さ、殺人鬼って」


「極端な例だって。まあ要するに、結局人間ってのは誰でも、他者との繋がりの上でしか何も手にする事は出来ないってこと。…………四国のショタジジイはそんなこともわからないから負けたんだよねー」


「…………何の話?」


「んにゃ、こっちの話。とにもかくにも、さ。人間生きてく上では、自分以外の誰かが必要で、一人だけで幸せになんかなれっこなくて──だからこそ、普通の人が一番幸せって話」


「普通が、一番」


「一番。コスパが違うから。他人と仲良くする上ではさ。平均値や中央値からは逸脱しない方がいいに決まってんだよね。少なくとも『より多くの人達とより安定して親しくなる』為には」


「そうなのか?」


「そうなんだって。まあわかりやすく言うと────オレってほら、巨乳ボインでしょ」


「…………あぁ、うん」


 目を逸らしながらに相槌を打つ顕己あらき


「巨乳好きのヤツにはそりゃー結構かもしれないけど、小さいのが好きなヤツらかりゃすりゃ射程外じゃんね? 大きすぎず小さすぎずの方が幅広い人種から好いて貰えんじゃん?」


「あー…………そう、なの、か?」


「そうなの。ついでに言えば同性から顰蹙買ったりするしね。これも普通のサイズなら特に無いでしょ? 平凡なら、平穏に終われる」


「…………まあ、そうか」


「他にも肩凝ったりブラジャーの種類が少なかったりするから、やっぱり普通から外れてるからこそデメリット大きいのよこれが。まあ後者に関してはめんどくなって着けなくなった結果解決したけどもさ」


「普段着けてないんですかっっっっ!!!!????」


 顕己あらきは敬語で絶叫した。


「つーまーりー。人が生きていく上では、どうしたって結局は周りの人間関係と折り合いつけてかなきゃならない。そして関係性の中で上手くやっていくには普通でいるのが一番で──だからこそ、普通の人こそが幸福な人なんだよ」


 随分と回りくどい話になったが──ようやく【狩り手ハンター】は結論を言う。

 言いたかった事を。






楠城なんじょう 顕己あらきクン。君は平々凡々で尋常一様な退屈極まりない人間で、だからこそきっと誰よりも幸福に生きる資格がある。だからさっさとおうちに帰ってご家族に謝ってきなさい」






「……………………」


 その言葉の意味を数秒をかけて嚥下して。

 顕己あらきは問うた。


「あの」


「んん?」


「もしかしてお前……………俺に説教してんのか?」


「うん」


 【狩り手ハンター】は頷いた。

 真顔で。


「………………他人から叱られるのって、久々の体験だわ」


「ありがたく思え」


「…………フハッ。笑える。絶対キャラじゃねえだろお前」


「んにゃ、キャラ通りだよ。猫よりも気紛れな事に定評があるのがこのオレだからねー」


 特に感慨も無さそうに【狩り手ハンター】は応える。


「ま、今すぐにとは言わないけどさ。凡人がなんとなくで悪人ぶって夜遊びしてると火傷しちゃうよー? 手遅れにならないようにしなくっちゃ」


「…………そうだな。考えとくよ」


「おーし、言いたいこと言ったし、もうひと泳ぎしてこよっかなー」


 プールサイドから身を躍らせようとする眼帯少女。

 その背に、顕己あらきは質問を投げかけざるをえなくなった。


「なあ、【狩り手ハンター】」


「ん? 何?」


「普通が幸福だなんて言うクセに──お前自身が普通じゃないのは、何でなんだ? 俺に説教しときながら…………お前は、幸せにはなりたくないのか?」


「お節介な質問だねー。ま、お互い様って事で答えたげるけど…………んなワケ無いじゃん。オレは幸せになりたいよー? ただ…………その為には、色々と遠回りしなくちゃならなかったりもするの。最短距離を突っ切るには、ちょーっと運命に嫌われすぎちゃったから」


「なら──」


 顕己あらきは問う。

 目前の少女の心へと踏み込む為に。






「お前の幸福しあわせって、一体何なんだ?」














「──。普通でしょ?」




 隻眼の死神は、嗤いながらに真実を答えた。



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